つながりを結び直すと、道が拓かれる話
20代の頃の僕は、ずっと孤独だった。
感覚的には、鏡の球体に閉じ込められた感じで、見えるのは、見渡す限り、自分だけだった。
人一倍強い劣等感を隠すためにプライドで厚化粧し、会社でもプライベートでも、勝てる喧嘩しか挑まなかった。
そんなクズみたいな僕は、たまに、子供じみた暴発を繰り返していた。社会人にもなって、親に向かって「愛されてない!」と泣き叫んだり、上司に「環境保護をしたいので会社を辞めます!」と宣言したり。
当時の僕には、なぜ自分がそういう衝動的暴挙を繰り返すのかわからなかったが、今ならよくわかる。無意識に強引に押し込めた、
さみしい。わかってほしい。つながっていたい。
という不器用なまでに純粋な心が、悲鳴を上げていたのだ。そしてこれが、高校時代の集団無視に起因することも、今ならわかる。
詳細は割愛するが、当時、僕の所属していた高校(中高一貫の男子校)では、常に誰かを無視することで集団の規律が維持されており、その順番が僕にも回ってきたことがあった。
期間にして数週間で、客観的に見れば大した話ではないように思うことだが、当時の僕には耐えられない苦痛で、あまりに痛くて、苦しくて、心を塞いで塞いで塞ぎまくった結果、痛みとともに、心そのものまで消えてしまったのだ。
今思うと、心は実際に消えたのではなく、意識的にアクセスできない無意識の深淵に押し込められてしまったのである。
それから自分の心と再会するのに、15年の歳月が必要となったが、その話は別の機会に譲るとして、その間の15年間、僕はずっと、冒頭の孤独に苛まれていた。
きっと当時の僕は、こんな感じだった。
ほとんど何もつながってなくて、何も見えなくて、ただただ、孤独。
もし今の僕が当時の僕に出会ってアドバイスができるなら、僕は、
あなたと世界は、どうやってもつながってる
そして、世界はやさしい
だから、安心して、自分の信じる道をいこう
という言葉を贈り、そっと肩を抱くだろう。
そう、僕たちは、誰しも、世界の全てとつながっているのである。
僕は、自分の心と再会してからの15年(心と別れた時から数えると合計30年)の歳月をかけて、少しずつ、このつながりを作っていった。いや、つながりを再発見し、結び直していった、というのが適切な表現だろう。
そして、この結び直しをすればするほど、世界はやさしく、安心できる場所になっていった。それとともに、自分が世の中に対して何をなすべきかもクリアにわかるようになった。
今の僕は、恐らくこんな感じだろうと思う。
もちろんまだまだ未熟ではあるが、昔に比べていろんなつながりが見え、より必然的な選択ができるようになったと思う。
そしてこのつながりの話は、当時の僕を救うだけでなく、自己責任論が先鋭化しすぎた今の日本で生きづらさを感じている人、そしてVUCAな世の中で目的地の見えないまま偶然性の大海原に飛びまなければいけない企業のディレクションを担う人にとっても、前に進むヒントになるのではないかと思う。
下の目次に示すように、本稿では、つながりを、社会・歴史・気質・身体の4つの観点にわけて、それぞれ見ていこうと思う。
なお、これらの4つの観点は、國分功一郎の「中動態の世界」に記載された観点を援用した(「中動態の世界」については、後述する)。
上記は、身体・気質、感情・人生、歴史・社会によって人間の選択の全てが決まる、という趣旨である。このうち、感情・人生は(たぶん既につながっているため)つながりの結び直しが不要と判断し、本稿からは省いた。
自分の外界とのつながりを結び直す
まずは自分の外側の世界とのつながりについて述べる。こちらは自分の外で起きていることに関わる内容なので、恐らくすっと読めるのではないかと期待している。
社会とのつながりを結び直す
(ほぼ)全ての人間は社会に所属しているが、そこでの人間同士の関係性は、資本主義の浸透ともに、等価交換の関係性(=合理的な関係性)に収斂されつつある。
等価交換の関係性においては、根源的な安心感を得ることはできない。なぜなら、「等価のモノ・コトを提供できる」という前提条件をクリアできなければ、この関係性を維持し続けることができないからである。
要は、「金の切れ目が縁の切れ目」の関係性である。
では、社会における「安心できる」つながりとは何か?それは、等価交換を超えた、「ポジティブで不合理的なつながり」のことである。
その中でも家族というのは典型的な「不合理的なつながり」であるが、それが「ポジティブ」か「ネガティブ」かは、十人十色である。
そして、僕にとっての家族は、残念ながら、「めっちゃネガティブ」な不合理的なつながりであった。だから、そのつながりを結び直すことは、僕にとって、正確には僕の無意識にとって、至上命題であった。以下、もう少し具体的に見ていく。
僕は高校時代に父と決裂して以降、まともに会話すらすることなく15年の月日を送っていた。僕にとって父は、「恐怖」と「嫌悪」以外の何者でもない存在であった。
30歳を過ぎてから、「ビジネスパフォーマンス向上」と銘打ったとあるセミナーに参加した際、司会者から不思議な問いが投げかけられた。
「一番嫌い・もしくは苦手な人を一人、頭に思い浮かべて下さい。その人はどんな人ですか?」
なんでビジネスのセミナーでこんな問い?と思いながらも、僕は真っ先に父を思い浮かべ「がんこ」「神経質」「人の気持ちがわからない」と頭の中で羅列した。
司会者は続けた。
司会「今想像して頂いたその方の特徴は、どこにあると思いますか?」
僕 (当然相手の中にだよ)
司会「その特徴は、(司会者自身のおでこを指さし)実はレッテルとしてあなたのここについてますよ」
司会「そのレッテル、ちょっと取ってみて下さい。その上で、その人の行動を、もう一度振り返ってみて下さい。その方、レッテルと真逆の行動をしてませんか?」
そんな馬鹿な、と思いながらも、Airレッテルをおでこから取り外す動作をしてから、昔を思い出してみる。そうしたら、いろんな父が、見えた。見えてきてしまった。
遊び疲れて居間で寝てしまった僕を子供部屋に運ぶ父。
子供時代、父にあげた全てのプレゼントをスクラップブックに丁寧に整理している父。
僕が子供の時、必ず早く帰宅して晩ごはんを一緒に食べていた父。
ああ、なんだ、オレ、愛されてるじゃん。
それに気付いた瞬間、涙が堰を切ったように溢れ出した。
そして父とのつながりを結び直すことができた。
それとともに、高校時代に失ってしまった「心」に再びアクセスすることができるようにもなった。
こうして、一番身近な社会である家族が、僕にとって、「めっちゃネガティブな不合理的なつながり」から、「めっちゃポジティブな不合理的なつながり」に変わった。この変化は、僕にとっては、天地がひっくり返るほど大きな「世界」の変化だった。
もしあなたが、自分にとってとっても身近な存在との「不合理なつながり」が「ネガティブ」に振れてしまっていると感じるなら、ぜひこの問いをやってみてもらいたい。とっても身近な人との結び直しほど、強力なものはない。
ところで、「世界は贈与でできている」という本をご存知だろうか?
この本で著者の近内は、人類が生きていく前提が「贈与」であると喝破する。また、その最もわかりやすい関係が、親子関係であると述べる。
そして親子に限らず、贈与の受取人はその贈与を「使命」として受け取るとも述べている。
贈与でできている世界において、贈与を受けると、それが「使命」として受取人の未来のベクトルを定めることになるということだ。
わかりやすくさっきの僕の例で言えば、僕は、両親からの無償の愛を受け取った(と認識できた)ことで、自分の子供に対して無償の愛を提供する「使命」を得たのである。
そしてこれはもちろん、両親との関係だけでなく、自分を取り巻く社会のどの側面との関係においても考えることができる。小さな贈与で小さな使命も生まれる。以下、卑近な例を挙げてみる。
僕はマラソンには縁のない人間だが、たまたまあたってしまった東京マラソンの10km部門を走ったことがある。それまで応援することもされることも特段なかった人生であったが、その時は、沿道の声援が、鳥肌が立つほど嬉しくて、走る原動力になった。よくアスリートたちが口にするこの言葉の意味を、全身で感じることができた。
翻って、今年の東京マラソンに会社のメンバーが出るというので応援に駆けつけることになった。そして僕は、自社のメンバーのみならず、目の前を走る何千というランナーに対して、全力で声援を送り続けた。実は僕は普段あまりそういうことをするタイプではないのだが、この時は、自分の内側から沸き立つ衝動に飲まれて、無自覚に、声を張り上げていた。
当時は気付かなかったが、今思うと、これは、昔贈与を受けた僕の「使命」だったのだ。贈与は、たとえ普段は無意識に沈んでいても、時がくれば自然と使命として芽を出すのである。
このようにして人は、社会とのつながりに気付き、結び直すことで、未来の自分のベクトルを定めたり、未来の行動の原動力を得ることができるのである。
歴史とのつながりを結び直す
「社会とのつながり」で述べた贈与・被贈与の関係性は、そのまま、歴史と自分とのつながりにも当てはめることができる。
前提として、近内は「贈与」を以下のように表現する。
つまり、「ある行為 - 合理性 = 贈与的冗長」ということである。そしてこの冗長には「思」や「信」というニュアンスが含まれるはずである。逆に、等価交換(=合理性)が成り立つ関係は贈与ではない、とも言える。
歴史を見ると、合理性を超えた贈与的行為は枚挙に暇がない。
ただ、これを考える上で大事なことは、歴史の「自分への影響」であろう。(原理的には存在しないのかもしれないが)自分に影響のないと思われる歴史をいくら紐解いても、それは「自分への贈与」には主観的につながらない。
以下、僕に影響する歴史を、いくつか見てみる。
僕の祖父が沖縄戦で捕虜になりながらも生き延びてくれた。
→ 「生きる」ことへの執着と、戦争の愚かさを教えてくれた。地元で1578年から続く「世田谷ボロ市」は、地元の大場家が代々守り続けてくれている。
→ この街を、誰にでも誇れる地元、と思えているのは彼らのお陰である。また「続けることにこだわる」ことの大切さも教えてくれた。日本を守るべく多くの志士が立ち上がり、維新を実現し、明治の躍進につなげた。
→ 彼らが礎を築いてくれたから、日本人であることを誇れる自分がいる。キング牧師の情熱は、非暴力主義を貫きながら、黒人差別が合法であったアメリカに、公民権法を制定させた。
→ 僕の中で、今も人類に根深く残る「差別」に対抗するエネルギーとなっている。
どの行為にも、単純な等価交換ではない、「思」や「信」という贈与的冗長がある。そしてこの歴史に気付き、贈与として受け取った僕たちは、「使命」として、たとえ直接的ではないにせよ、自分の未来のベクトルを定めていく。
余談だが、昨今、「リベラルアーツ」の重要性が声高に謳われている。それを否定するつもりはないが、僕は、「知識」としてのリベラルアーツには、あまり価値を感じない。
これは恩師の田坂広志先生の受け売りであるが、リベラルアーツを学ぶ意味は、切れば血が出るような生々しさから、自分に関わる何かを掴み取ることである。歴史においても同様である。
そういう意味で、コテンラジオは非常に生々しく歴史を捉え直しており、非常に意義深い番組だと考えている。
自分の内界とのつながりを結び直す
次に自分の内側とのつながりについて述べる。こちらは「精神世界」に関わる内容を含むので、人によっては読み進めるのに苦労する可能性をはらむ。軽い気持ちで、リラックスしながら読んでもらえるとありがたい。
気質とのつながりを結び直す
これまで見てきた「社会」「歴史」と同様に、「気質」についても、自分が人生でそれまで選んでこなかった「気質」に気付き、つながりを結び直すことで、世界はより安心な場所になり、しかも、未来の可能性が開けてくるといえる。
その前に、そもそも気質とは何か?
「一般的な感情傾向」をもう少しわかりやすく言うと「だいたいこんな感じの性格」ということだろう。「だいたい明るい」とか、「だいたい神経質」とか。
以下、気質については、最近若者の間で流行りのMBTIを用いて論じてみたい。
MBTIは、気質を表す心理検査(診断ではない)であり、僕はMBTIの「認定ユーザー」、すなわち個人に対してフィードバックができる公式の資格をもっている。
MBTIは人を16のタイプに分類するが、実は分類することそのものは「出発点」でしかなく、MBTIの存在意義は、自分がもともと志向していない機能(直感とか感情とか)に気付き、後天的に開発していくことを支援すること、である。
(MBTIのベースはユング心理学であるが、ユングはこの過程を「個性化(自己実現)」と呼んだ。)
実はMBTIのタイプを見ると、自分が信用している(≒ 無意識的に使いやすい)機能の順番がわかる。認定ユーザーであれば、MBTIの各タイプの4つのアルファベットを見た瞬間に、機能の優先順位が想起できる(はず)。
僕のタイプはENFPで、ENFPの人が信用している機能の順番は以下になる。
主機能 - 外向直感(eN)
補助機能 - 内向感情(iF)
第三機能 - 思考(T)
劣等機能 - 内向感覚(iS)
機能は年齢とともに徐々に開発されていく。たとえば主機能については幼少期から使い始め、小学生くらいで明確に現れると言われている。逆に劣等機能は、恐らく自覚的に意識しない限りは開発されない(=無意識領域から出てこない)。
僕の場合、劣等機能である「内向感覚*1」は全く開発されてこなかった。人間(少なくとも僕)の怖いところは、劣等機能を認識できないだけでなく、それを「重要ではない機能」と捉えてしまいがちなことである。
*1 内向感覚: 自分の内界(身体の内側)で、五感や事実を基づいて情報を集める機能
そして、「内向感覚」を主機能とする妻、そして部下との数え切れない対立が起きた。当然である。彼女らにとって「内向感覚」は「最も信用している機能」であり、それをないがしろにされることは、人格否定にも近しいのである。
たとえば以下のような小競り合いが頻発していた。
妻「(借りようとしていた部屋に入るなり)この部屋ちょっとカビ臭いからイヤ。」
僕「は?全然わからないけど。てか、そんなくだらないことにこだわってたら、ベトナム*2じゃ生きていけないよ。」
妻「は?」
*2 僕は2006-2013と、ベトナム関連の仕事をしていた。当時のベトナムでは、日本に比べると、あちこちで変な臭いがしていた。
当時の僕は、相手の主機能を「くだらない」と断じる愚かさに気付いてはいなかった。
その後、僕は幸いにしてMBTIを学ぶ機会を得たために、劣等機能を認識できるようになった上に、それをどう開発していくかの方法も手に入れることができた。
そして、妻が僕にとって「内向感覚の師匠(マスター)」となり、いろいろな学びを提供してくれた。今では、「内向感覚」は僕にとってなくてはならない機能の一つになっている。
このようにして、これまで自分が選んでこなかった「気質」に気付き、開発することで、今まで無意識だった世界の景色を見ることができるようになる。すなわち、より直感的にも、感覚的にも、感情を通しても、思考を通しても世界を見ることができるようになるため、世界とのつながりに気付きやすくなるし、結び直しもしやすくなる。
しかも、相手と共通理解を築ける領域が増えるので、世界は、より安心できる場所になる。そして何より、新しい機能の開発は、そのまま能力開発でもあるため、ものごとを前に進める力(=実現力)を向上させてくれる。
ちなみに、ユング心理学では、自分が選んでこなかった気質を「生きてこれなかった自分」として、「シャドウ(影)」と呼ぶ。そして、そういう自分に気付き、受け入れて意識下に統合していくことを「シャドウの引き戻し」という。
(もちろん、実際にシャドウの対象となるものはMBTIの機能に限定されず、抑圧してしまったあらゆる気質や感情である。)
「開発」というと、ともすると無から有にするイメージにも見えるが、ユング心理学においては、「気質」も「社会」「歴史」とのつながり同様、「もともとあるもの」であり、気付き、結び直す対象なのである。
身体とのつながりを結び直す
これまで見てきた「社会」「歴史」「気質」同様、この「身体」についても、その存在に気付き、つながりを結び直すことで、世界はより安心な場所になる。
ただ、これまで見てきた3つの観点と比べて、「身体」は話しにくい。個人的にはいくらでも話せるテーマではあるものの、どうしても精神的な話にならざるを得ない。できる限り、体感値がなくても理解できるようにするが、その点は予めご了承頂きたい。
さて、あなたにとって、身体とはどんな存在か?
恐らく多くの人にとって、身体は「自分の所有物」という感覚ではないだろうか。少なくとも僕はそう感じていた。
だがその感覚は、10日間山奥に缶詰で読み書き会話厳禁の瞑想セッション(いわゆる、マインドフルネス瞑想)に参加して以降、全く違ったものに変わった。
今の僕にとって身体とは、「仲間」である。さしずめ、「ネギシ・アンド・カンパニー」といった感じである。なぜか?
それは、僕らの身体は、僕らの意識とはほぼ無関係に活動していることに気付いてしまったからである。これについて、まずは合理的に記載してみる。
人間の細胞 37兆個
骨格筋細胞 数十億〜数百億個(#自分の意志で動かせる主な細胞。多めに見て1,000億個。)
脳細胞 860億個(#ニューロンのみ。多めに見て1,000億個。)
脳細胞は意志で動かせるわけではないが、意志を産む場所という意味で含めるとすると、人間が意志で動かせる細胞の割合は、
(1,000億 + 1,000億) ÷ 37兆 = 0.54%
つまり、ほぼゼロである。
さて、次に、不合理的に書く。
瞑想をすると、身体中のあらゆる部位と一つ一つ、コミュニケーションを取るようになる。毎日繰り返すことで、身体中のさまざまな部位(たとえば脳天とか、脇腹とか、くるぶしとか。もっと修行を積むと、全ての内蔵ともコミュニケーションできるらしい)とコミュニケーションが取れるようになる。
そして、毎日瞑想しながら思うことは「みんな、僕の意志とは全く関係なく、ひたむきに生きてくれている」という感覚である。これはすなわち、
僕は、毎日、毎時、毎秒、究極的な贈与を受けている。
ということだ。もちろん、「(細胞それぞれが)働かないと身体全体が死んでしまうからやってるんでしょ?」と言えなくはないが、そんな打算的なことを考えて動いている細胞はいない。
何より、身体とコミュニケーションすればするほど、「感謝」が沸き立つのである。これは理屈ではなく、少なくとも僕にとっての「主観的真実」である。
そしてこの「ネギシ・アンド・カンパニー」という感覚は、僕に究極的な安心をもたらしてくれた。僕は、僕という存在だけでも、たっぷりと、仲間に支えられている、と思えるからである。
そしてもう1点、この身体との結び直しには絶大な効果がある。完全に精神世界に入るので詳説は控えるが、身体との結び付きが強くなればなるほど(=左脳との会話をやめればやめるほど)、エゴが消え、無意識との非言語コミュニケーションが活発になり、自分が抱える課題や選択に対して、いつのまにか、「より大きな視野で」「自動的に」 答えが得られるようになるのである。
よくアーティストや学者が「降りてきた」「勝手に筆が動いた」的な表現をする、あれである。ただ、あれについては、やっぱりあれなので、この辺にしておく。
このようにして人は、身体とのつながりに気付き、結び直すことで、究極的な安心を得ることができるのである。
(この延長上に、世界全体とつながっているワンネスの感覚があるが、これもまた別の機会に譲る。)
つながりを結び直す意味
これまで、社会、歴史、気質、身体の4つの観点から、つながりを結び直す意味と方法を見てきた。
この4つの観点でつながりに気付き、結び直すことができるとどんなことが起きるか、改めてここにまとめておきたい。
取り巻く世界が感謝で溢れる
自分の道が見えてくる
世界が平和になる
以下、それぞれ見ていく。なお、ここまでは一つ一つ具体的に見てきたが、ここからはあえて抽象度が高いまま進めさせてもらう。
1. 取り巻く世界が感謝で溢れる
時空を超えて自分の外界と内界とのつながりに気付き、しかもそれが「贈与」でつながっていることがわかると、否応なしに感謝が溢れ出す。
感謝の効能については今更持ち出すまでもないが、感謝で溢れている人はより健康で、より成果を残せる。しかも類は友を呼ぶので、その人を取り巻く世界は、感謝で溢れることになる。この領域においては研究結果も大量にあるが、以下、2つほど共有しておく。
2. 自分の道が見えてくる
これまで、社会や歴史との贈与的なつながりに気付き、結び直すことで使命という未来の選択が浮かび上がることを述べてきた。
実は結び直しには、それ以上の効果がある。結び直す量が増せば増すほど、使命だけに限らない「必然的な選択肢」を選ぶ精度が上がるのである。
これについては、本稿の冒頭で少し触れた國分功一郎の「中動態の世界」に触れながら言及していく。
同書は能動態とも受動態とも異なる態である「中動態」についての研究であるが、それに密接に関連する内容として「自由意志」についてもかなりの紙面を割いている。ここではあえて「中動態」については言及せず、「自由意志」に関わる部分のみに言及する。
簡単に言うと、実は人間はあらゆることを自分の意志で決定しているように「感じている」だけであって、実際は、過去のあらゆるつながりの中で、必然性に基づいて選択しているだけである、ということである。
そして、外界・内界とのつながりに気付き、結び直せば直すほど、必然性を見通せる純度が上がり、一見偶然性・偶発性に溢れたように見える世界であっても、「必然的な選択」ができるようになるのである。
水が低きに流れるかのように、必然的に、いわゆる「コネクティング・ドット」を認識できるようになるのである。「ああ、あの経験はこのためだったのか」と。
(コネクティング・ドットを知らない人は、ぜひ以下のスティーブ・ジョブズの動画を見てほしい。4:35あたり。今回改めて見たが、やはりこの動画は人類必見である。)
特にこれからは人工知能が客観的・論理的な整理を網羅的にしてくれる中で、人間がなすべきはこの「選択の必然性」の精度を上げることであり、そのためにこの結び直しが効果を発揮するのである。
昨今、「リベラルアーツ」や「マインドフルネス」の重要性が声高に謳われている本当の理由も、ここにある。
3. 世界が平和になる
上記で、外界・内界とのつながりが増えれば増えるほど、選択の必然性の精度が上がる、と述べた。逆に言うと、他の選択肢を選ぶ余地がなくなっていく、ということでもある。実は、それによって、世界は平和になる。どういうことか?
選択の必然性の精度が上がると、実は「自己責任論」の根拠がなくなる。なぜなら、責任を問うためには「意志」が必要であり、「必然である」ことは「意志の不在」を意味するからである。
実は先ほど引用した「リンゴ」の例には、続きがある。
つまり、本来は「過去のあらゆるつながりの中で必然性に基づいて選択しているだけ」にも関わらず、「責任」を問うために、強引に過去のつながりを切り裂き、「意志」という概念をねじ込んでいるのである。
もちろん、社会秩序維持のために「責任」明確化の意義は否定しないが、「選択の必然性」が明確になればなるほど、「責任」のもととなる「意志」は存在しえず、極論、誰しもが同じ行動を取りかねないということを、社会全体で受け入れるべきだと考える。
そしてこの考え方は、実は新しいものでもなんでもないのである。國分は、古代ギリシアにはそもそも「意志」を意味する言葉すらなかったと論じる。
また、現在も日本仏教の最大宗派である浄土真宗を開いた親鸞聖人はこう述べる。
意訳すると、「境遇が悪けりゃ私だって強盗や殺人をしてしまうかもしれない」「私とあなたの違いは『たまたま』の境遇の違いでしかない」といった感じであり、「自己責任論」を真っ向から否定しているのである。
そしてこれが共通認識になった世の中は、きっと今よりもっと、寛容なはずである。なぜなら、なんでもかんでも「自己責任」ではなく、もっと背景に焦点があたり、「ああ、だったらしょうがない」が増えるはずだからである。
そしてこの寛容さは、この「選択の必然性」の文脈からだけでなく、既述の「取り巻く世界が感謝で溢れる」文脈からももたらされるはずである。その理由は言わずもがなであろう。
そして世界平和は、この「寛容の精神」を土台として初めて、もたらされるものである。
おわりに
20代の頃の僕は、ずっと孤独だった。
人一倍強い劣等感を隠すためにプライドで厚化粧し、会社でもプライベートでも、勝てる喧嘩しか挑まなかった。
翻って、今の僕は、自分も周りも笑顔で溢れている。劣等感はほぼない(やっぱりまだ少しはある汗)。劣等感を隠すためのプライドもない。喧嘩は好まないが、勝ち負けは考えずに思ったことを言う。それでギクシャクすることもあるが、後腐れはない。
思えば僕はずっと、つながりを結び直す旅をしている。そしてこれはきっと死ぬまで続く旅なのだと思う。そして最近思うことは、恐らく全ての人が、歩みの速度は違えど、実は同じ旅路を歩んでいるということ。
だから、もし昔の僕のように、孤独に苛まれている人がいるなら、改めて、僕はこの言葉を贈る。
あなたと世界は、どうやってもつながってる
そして、世界はやさしい
だから、安心して、自分の信じる道をいこう
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