人生が生放送なモスクワ放送の日本人―青島顕『MOCT』
かつてソ連から日本語でラジオ番組が流れていた。モスクワ放送だ。そこに勤務する日本人たちは何を夢見てモスクワへたどり着き、何を感じ、どんな生き様を刻んだのか。時代に翻弄されているからこそ前を向いて歩こう。そう思える一冊だ。
1.それは架け橋か?プロパガンダか?
MOCTと書いて「モスト」と読む。ロシア語で橋や架け橋の意味だ。かつてソ連(現・ロシア)のモスクワから日本語のラジオ放送が日本に届いていた。モスクワ放送である。
そこで働く人々には当然日本人もいた。東西冷戦の時代、モスクワで働く日本人はなぜそこにたどり着いたのか。それぞれの生き様や、モスクワ放送の実像を追った一冊だ。
あの頃モスクワに行ってソ連の放送局を手伝おうなんて人は、ソ連や共産主義のシンパに決まっている。そう思うだろうか。
しかし実際はそんな単純な話ではない。ソ連共産党員だった者や捕虜になったときに社会主義にシンパシーを感じてやって来た者もいる。中には情報が少なく報じられない国だからこそ興味があるといった、今でも通じるような理屈でロシア語を勉強して渡った者でいた。
西野肇さんはその中でも異色の存在だ。どんな動機であれロシア語を専門に勉強してきた人が採用されることがほとんどだったが、彼だけはまったく縁がない状態で採用された。
モスクワ行きを決めた理由も、誰もが行けないからこそ、人とは違う何かができるのではという気持ちだ。
実際に彼は誰にもできないことをやってのける。ソ連では御法度のはずのビートルズの曲を放送で流したのだ。しかもおとがめなし。
他にもあえて日本語を練習中のロシア人をアナウンサーに起用することで「本当に遠いモスクワから放送している」と日本のリスナーに実感してもらうなど、お堅いモスクワ放送のイメージを変えることに貢献した。
そう、一定以上の世代に話を聞けばモスクワ放送を聴いていた人がきっといるはずだ。
もちろんソ連の公式見解をそのまま伝える機能を持つモスクワ放送が本当の意味で報道機関だったのかという指摘からは逃れられないだろう。しかし、中立なメディアなぞ果たして存在するのかという問いもあってしかるべきである。
モスクワ放送も公式見解と一緒に、あえて何も関係のないモスクワの街の様子を伝えることで、今の状況が平穏か混乱しているかを暗に伝えるといった試みをしたアナウンサーもいたそうだ。
本書の出版後に亡くなられた元職員の日向寺康雄さんは、次のように述べている。これを人間の声を捉えるか、プロパガンダへの弁明と捉えるか。みなさんはどうだろうか。僕は人間の声だと思っている。
2.日本人職員たちのおそロシアな謎
とはいえ本書にはモスクワ放送にまつわるミステリアスな部分が所々にじみ出ている。
西野さんがビートルズの曲を流したご機嫌な様子で日本からの反響や激励の手紙の束を持ってきたスタッフが岡田敬介さんだ。
彼は日本から届く郵便を管理する係だった。写真を見ても柔らかい雰囲気のある好々爺である。そう思っていた。
しかし読み進めると「郵便を管理する係」というのが実は肝だったことが明らかになる。
彼は日本から届く郵便をすべて開封する権限を持っていたのだ。赤旗などの日本の新聞もすべて検閲し、時には彼によって一部を切り抜かれた状態で職員の元に回ってきた。
なぜそんなことができたのか。それは彼がソ連におけるエリート指導層である共産党員だったのだ。
日本人で党員になるのは本当に難しかったであろうに彼は異国の地で党員に登りつめた。放送局では日本人と一緒ではなく、ロシア人幹部と同じ部屋で仕事することが許された人物。それが岡田さんだ。
「日本人職員の監視役だった」と元日本人職員たちは口をそろえて言っている。
彼がどういう経緯でソ連に行き、どうやって共産党員になったか。数少ない彼の証言にも矛盾や疑問があり真実は闇に眠っている。
このようにミステリアスな経歴を持つ職員が在籍していたのもモスクワ放送を知る興味深さだ。
かつて東京にミール・ロシア語研究所という有名なロシア語研究所があった。創設者である東一夫さんは、兵士として樺太にいた際にソ連に越境した人だ。
しかし奇妙なことがある。「東一夫」は本名ではないのだ。本名は「清水長一」という。ソ連では名前を変えて生きることはあり得る話だったので東一夫と名乗るのは不思議ではないが、どうやって日本に戻って清水から東に改姓できたのか。
また、ソ連で露日辞典を編纂し、日本で著名な語学教室開くほどの語学力でありながら、同時期にモスクワ放送に勤務していたとされる人たちの証言には東さんの名前が一つも出てこない。これもミステリーだ。
3.人生は全部生放送だ
本書に出てくる人たちは、どんな動機や思想が根っこにあろうとみんな時代や国際関係に翻弄されながらも己の人生をまっとうした。
僕が大好きな本に三浦英之『五色の虹』がある。満洲国にあった建国大学の学生たちのその後の生き様を追った傑作ノンフィクションだ。『MOCT』にはそれと同じにおいを感じる。
どちらの本もいったい何が僕に刺さるのだろう。それは彼らの生き様だ。時代の荒波にのまれながら懸命に生きる姿からはたくましさ、「どうにか生きていける」という精神、「何が起こるかわからない」というある種の達観を感じ取れる。
そして何よりどんな状況でも前を向いて歩き続けようという勇気だ。自分は『MOCT』や『五色の虹』の人々のような荒波にのまれているわけでもない。でも辛いことやみじめなことはたくさんある。その人生とどう向き合い一歩一歩歩いていくか。その勇気をこの二冊は教えてくれる。
番外編としてラジオとロシアに深い縁を持つ一人の歌手が登場する。2009年に乳がんで亡くなった川村カオリさんだ。
日本人の父とロシア人の母の元で生まれ、ロシア語が堪能だった彼女は、自身のオールナイトニッポン(2部)でモスクワから生放送を行ったり、ロシア語で会話する時間を設けたりもしていた。
本書は日露関係の本であり、人々の生き様の本であり、そしてラジオの本だ。
オールナイトニッポンの最終回、彼女はラジオと人生にまつわる素敵な言葉を残している。ラジオが終わり、それぞれの人生が終わっても、その言葉が古びることはない。
【本と出会ったきっかけ】
開高健ノンフィクション賞での紹介を読んで一目惚れ。三浦英之『五色の虹』に通ずるものがありそう。
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