「英雄は長生きすべきでない」のか?―小笠原弘幸『ケマル・アタテュルク』
1.2023年10月29日、トルコ中がケマルに染まる
2023年10月29日、「国家の英雄」とはどんな存在なのかまざまざと見せつけられた。トルコの建国100周年記念日である。
僕はトルコのサッカーに興味があり、サッカークラブのアカウントを多くフォローしている。そのアカウントどれもが建国100周年を祝って「ケマル・アタテュルク」を顕彰する投稿一色になった。
ケマル・アタテュルク。彼こそ現在のトルコの地を外国から防衛し、トルコを建国した「建国の父」である。アタテュルクという名字も「父なるトルコ人」を意味し、議会から与えられたものだ。アタテュルク擁護法というケマルに対する批判を禁止した法律まで存在している。
日本には国民みんなが賛成するだろう「建国の父」がいない。だからこそ僕はどのクラブのアカウントもケマルへの感謝や顕彰を豪華に発信することにおどろいた。
果たしてケマル・アタテュルクとは何者か。『オスマン帝国』や『オスマン帝国英傑伝』といった良質な新書を執筆されている小笠原弘幸さんが彼の実像にせまっている。
2.地味キャラ軍人が英雄になるまで
ケマルの人生を追うと、いつも周回遅れな印象を受ける。オスマン帝国軍人ながら政治活動を志すもそれが仇となり希望の任地に配属されなかったり、政治活動においても目立つことが少ない傍流であった。
彼の軍人としての名誉を欲しいままにしているのが第一次世界大戦でのガリポリの戦いだ。イギリスがダーダネルス海峡を攻略するべく攻撃したガリポリ半島をケマルは指揮官として防衛することに成功した。現在は彼が英雄となる第一歩を踏んだ戦いだとされている。
しかし実はこの戦いで英雄視されたのはケマルではなかった。彼より上の立場であったエンヴェルとエサトだった。ちょこちょこ褒められはしたみたいだが、オスマン軍もオスマン政府もケマルを賞賛することはなかった。
このようにケマルは長らく日に当たらない人生を送っていた。のちに建国の父となる要素はひとつもない。むしろ父となる資格があるだろう人物は他にもいただろう。
ではなぜケマルが建国の父たりえたのか。一つには日が当たってなかっただけで能力は抜群にあったのだろう。さらにガリポリの戦いの功績がメディアによって再発見され「頼れる人物」として世論に浸透した。その上で起きたのがトルコ建国につながる諸外国との「国民闘争」だ。
彼は勝負師でもあった。ガリポリの戦いでの勝利もそうだが、最大の山場は国民闘争の終盤に発生したギリシャとのサカリヤ川の戦いだ。
政府が拠点に定めたアンカラまで50キロしか離れてないこの場所まで進軍してきたギリシャ軍をケマルは一軍を率いて撤退させることに成功する。
このときケマルは議会から総司令官に任命されていた。これは全権を掌握できる役職で、オスマン帝国では皇帝しかつくことがないものだ。
これだけ聞くとケマルが絶対的指導者に君臨してるように見える。だが内情は違う。このとき政府にはケマルと考えの異なる有力者も少なくなかった。ここでケマルがしくじれば総司令官として責任を取って退場してもらえばよい。そうすれば自分たちが実権を握れる。その可能性も見据えた任命であった。
だがケマルは成功する。その後も権力闘争は続くが外部(ギリシャ)と内部(ライバル)の双方からの挑戦に打ち勝ったケマルは、大統領にのぼりつめ絶対的な指導者になる。
3.永遠の英雄になるための幕引き
権力を盤石なものにしたケマルは1938年に57歳で亡くなる。
今年、彼の命日である11月7日にトルコ中のサッカークラブがケマルを顕彰する投稿をしていた。
ご丁寧に没年の1938年を193∞に変えている投稿もある。建国の父は永遠にありということだろう。わざわざ8を∞にしているのは日本の関ジャニ∞ぐらいだと思っていたがトルコにも存在するとは。
さて、ケマルはなぜ今日にいたるまで完全無欠の英雄であり続けるのか。もちろん成し得た業績がとてつもなく大きいのは間違いない。トルコ建国であり、未熟だった国を守ることだったわけだからだ。法律によってケマルの批判をすることが難しいことも英雄視を後押ししている。
ここで僕は別の側面を考えてみたい。1938年、ケマルはこの時点で死んだからこそ今日まで英雄たりえているのではないかと。
ケマルの死後、大統領となったイスメトの舵取りでトルコは第二次世界大戦を戦勝国として乗り切る。中立として参戦を引き延ばしながらタイミングを見定め、ぎりぎりのラインで参戦し勝者の切符を手に入れたのはイスメトの手腕なくしてあり得なかった。
ここで歴史で禁句となるifを提示したい。ケマルが後継として頭に置いていたのがイスメトじゃなかったとしたらどうだろうか。
晩年のケマルは、最高の右腕であるイスメトとの間に政策面など様々な理由ですきま風が吹いていた。確かにイスメトのケマルへの敬愛は決して薄れなかったため決定的な絶縁までは至っていない。
それでもイスメトは首相の座をケマルの勧告で降ろされた。ケマルに指名された後任のジェラル・バヤルは、イスメトと違いケマルと経済政策の方向性が一致している。
しかし首相交代後一年でケマルは亡くなり、後任の大統領にはイスメトが就任する。
仮にもしケマルがあと10年(1948年まで)生きていたら、ケマルからイスメトへのバトンは実現したのだろうか。ジェラルがケマルのバックアップを受けて後継への道を歩んでいた可能性もある。
ケマルが誰に肩入れするかをめぐった後継争いが繰り広げられたかもしれない。それがトルコの内部対立を招いたかもしれない。
あるいは権力を持ち続ける年老いたケマルがいわば老害のような振る舞いをしていたかもしれない。第二次世界大戦でのトルコの振る舞いはどうなっていただろうか。もちろん変わらない可能性もあるが。
中華人民共和国の建国の父である毛沢東。彼の英雄物語に最もケチをつけたであろう文化大革命は彼が71歳のときだ。
たとえば彼が朝鮮戦争で中国の脅威をアメリカなどに見せつけた時点でこの世を去っていたとしたら。反右派闘争による弾圧、大躍進政策の失敗、文化大革命での暴走が彼によって引き起こされることなかった。もっと絶対的かつ神格化された毛沢東で今もいられたかもしれない。
もちろんあくまでifだし、歴史は一人の生き死にだけでそう簡単に流れが変わらないだろう。
だが、英雄の物語は長編であればあるほど物語の成立を困難にさせていく。毛沢東は永遠の英雄になるには物語が長すぎた。
キューバのフィデル・カストロのような大長編を作り上げた英雄もいる。彼の場合、ちょうどいい長さの物語を持つチェ・ゲバラが絶対的英雄として神格化されているので、自身が他の英雄ほど英雄然して表にいなくてよかった側面はあるかもしれない。
もちろんケマル自身はあんなタイミングで倒れるのではなく、まだまだ成し遂げたいことがあったはずだ。だが不本意ながらも彼の一生は「永遠の英雄」で居続けるためにちょうどいい長さの物語だったのかもしれない。
小笠原さんの著書に関する書評はこちら。
◎『オスマン帝国』
◎『オスマン帝国英傑列伝』