あらゆるイメージをひっくり返す「メガネ」が手に入る一冊―湯澤規子『焼き芋とドーナツ』
1.声なき「わたし」を見つけるメガネを授けよう
人は物事を見つめるときに何かしらの「メガネ」をかけている。自分がつちかってきた思考の型や、誰かが提唱した理論や思考の枠組みだったりする。
この本は自分に新たな「メガネ」を授けてくれる一冊である。
文章を通して自分が見たことのない角度で物事を見せられたときに湧き起こる感情。それこそ読書が引き起こすカタルシスだ。この興奮、快楽にハマると読書から抜け出せなくなる。
近代史を考える上で「女性」をどうとらえて論じるかは様々な切り口が存在する。男性社会で虐げられており、そのカウンターとして一部の女性がいわゆる活動家として立ち上がる。そういった見方は典型例だし、なんとなくイメージしたことがあるのではないだろうか。
しかし本書では、そういった典型例からは埋もれた女性の主体性を明らかにする。一部の活動家と違い「声を失った完全な弱者」と思われていた人たちがどのような形で声を持って「わたし」の人生を生きていたのかを明らかにしている。
特に着目しているのは日本とアメリカの産業革命期における工場労働者である。彼女たちの労働でもなく家事でもない、あるいはその2つにまたがるあいまいな「日常茶飯」の世界を取り上げて彼女たちの歩みを読み解いていく。
2.「対岸」を見つける、「対岸」から届ける
湯澤さんは、今まで生きてきた多くの人が無意識かつ当たり前に抱えている価値観に照らせば「取るに足らないもの」を拾い上げる作業をこの本で丹念に行っている。
そして彼女はそれらを含む女性の歴史を「対岸」だと表現している。関心を寄せてこなかった「向こう側」という意味だ。
人間は誰しも「対岸」を持っている。自分を「こちら側」として、向こう側の人々を「他者」として関心の対象や自分たちの世界から排除することもある。
さらに湯澤さんは女性同士の中にも「対岸」があることを指摘する。結婚や子供の有無、仕事の有無や職種、階層の違い、地域や世代の違いなど、同じくくりだと思っていてもそれぞれ「対岸」を持っている。
僕はサッカーが大好きで、日本や海外問わずいわばサポーターという立場でよく楽しんでいる。
もしかするとサポーターという生き物は、サッカーの世界の中で「対岸」になりうるのではないか。
たとえばJリーグが作られて30年が経ち、様々な記録や証言が蓄積されている。その証言の多くは選手などのクラブ関係者、Jリーグやサッカー協会など組織の関係者から成り立っている。サポーターの証言があるとすれば発言力があったり、組織をつくりあげた人たちによるものだろう。彼らの証言をもとにJリーグの正史は後世に語り継がれる。
そこには市井のサポーターの営みが刻まれることはない。同じリーグ最下位でもあの年とこの年では感じ方が違うかもしれない。でも記録の上では同じ最下位であり、そこに温度やニュアンスが介在することはない。
女性の歴史については湯澤さんのように丹念に掘り起こす人が存在した。でもサッカー、ましてやJリーグはもっと狭い分野だ。後世になって一生懸命に「対岸」の歴史を発掘しようとする人が現れるのだろうか。
僕を含めたサポーターは自らが「対岸」であるという意識の元、自らの歴史が後世に拾い上げられやすくなるように残していく作業を地道にやっていく必要がある。その作業は様々な方法があるだろうし強要できるものではない。でもこの感覚を共有できる人たちが少しずつでも増えるとうれしいことである。
3.わたしの信頼できる語り手
この『焼き芋とドーナツ』はノンフィクション作家の高野秀行さんがTwitterでおすすめしていたので手にとった。
僕には「この人がすすめる本は興味がなくても気にかけてみよう」と思う「信頼できる語り手」が3人ほどいる。高野さんはその一人だ。
高野さんの著書自体どれもおもしろいのでそちらも読んでみてほしい。ちなみに僕のおすすめは『謎の独立国家ソマリランド』である。