「ともだち」はジャンルでくくることができない―千早茜『男ともだち』
1.人は欠けているから愛おしい
タイトルとあらすじにだまされないでほしい。29歳の神名葵は元々絵本作家だがイラストレーターとして生計を立てている。彼女には同棲中の年下彼氏と、年上の愛人がいる。そんなとき、大学の先輩で「男ともだち」のハセオと久しぶりに再会した。それを機に葵の人間関係や人生が動いていく……という話だ。
このあらすじに『男ともだち』というタイトル。ははーん、四角関係の話だな。そう早合点した人もいるだろう。1人の女と3人の男が繰り広げるドロドロの人間関係だ。だが待ってほしい。一見四角関係に見えるが想像のようなドロドロ感はまったくない。そこが主題ではまったくないからだ。男女の痴話ではなく、あくまで神名葵の生き方の物語である。
文庫版の解説で作家の村山由佳さんは冒頭から登場人物たちを一刀両断している。
まったくもって同意する。ここでいう屑というのは、主観で見た屑もあるが、世間から見た屑もある。葵も年上の愛人の真司もそれぞれ彼氏と妻がいながら逢瀬を重ねている。世間では常識を振りかざされて嫌な顔をされるだろう。その点は後腐れなく女遊びをするハセオも似たようなものだ。葵の彼氏である彰人は一見心優しき常識人っぽいが、人(ここでは葵)と向き合うことを避け続けた結果取り返しのつかないことをしてしまう。世間では浮気よりも許されるかもしれないが、読者からすれば屑だろう。登場人物が実際にいたら友達になりたいと僕には思えない。
でも愛おしい。この登場人物たちがたまらなく愛おしいのだ。屑というから語弊があるのだ。みんな自分には何かが欠けていると自覚している人たちばかりだ。ここでいう「何かが欠けている」とは人格的な問題もあれば、世間の常識から照らし合わせれば理解されないこともある。この世界で生きていくにはその欠けている部分と自分なりに折り合いをつけていかないと戦えないと分かっている人たちだ。
だから好きだ。僕も自分に欠けているところや社会の常識に馴染めない違和感が心の穴や傷になっている。欠けていることを自覚するのはつらい。でも自覚しないと生きていけない。自覚する必要もないし、自分が世間的には欠けてもないと思う人は、登場人物たちを見ていても何も感じないだろう。みんな欠けてるから好きになる。欠けてるから愛おしい。
2.もうひとりの理解者、「女ともだち」
本作は葵と周囲の人間との関係性が軸になる。「男ともだち」であるハセオとの関係性が葵の人生を動かすのは間違いないが、僕は大学の同期である辻田美穂との関係性も好きだ。ころころと笑うかわいい子。ちっとも仲良くなかったけど飲み会で泥酔したので一度家に泊めた子。苦手だった子。そして今は「旦那に嘘ばかりついてる」既婚者。美穂との偶然の出会いもまた葵の人生を変えていくのだ。
外見や大学時代から想像すると相容れないはずの葵と美穂。しかし再会を機に2人は共感、共鳴しあう。浮気や不倫を続けている境遇が共通する点もあったかもしれない。かつて気が合わないと思っていたはずの美穂が葵にとって大きな理解者になり、美穂にとっても葵が「他人に言えない気持ち」を言える相手になっていく。
そんな共鳴し合う関係性にも転機が訪れる。美穂が妊娠したのだ。喜ばしい出来事の反面、葵は美穂が変わっていっていることに気がつく。それは自分の価値観と遠く離れていく合図のようで苦しい。2人のシーンは反対方向へ歩く美穂を葵が眺めて終わりを告げる。僕は彼女たちが二度と交わることのない人生を歩むことを暗示しているようにも感じた。でも美穂が葵を見る目は妊娠しようとも変わっていない。
このやり取りもひょっとすると2人の最後の邂逅かと思うと切なさが増す。しかしこのシーンでの美穂の言葉の数々は葵にとって勇気の言葉になったはずだ。ハセオにも誰にもできない、美穂だからこそできた役目である。葵と美穂の関係性は、人生と人生が交差する瞬間に見せるダイヤモンドのような輝きだ。作者は『男ともだち』というタイトルながら「女ともだち」でも魅せてくれる。
3.「男ともだち」というメタファー
本作が発表されてからこの「男ともだち」という存在は議論になったそうだ。存在がファンタジーすぎる。女性に都合がよすぎる。「こんな男ともだちがいるわけない。ここまで親密なら一回や二回は手を出されているでしょう」と。これに「男女間の友情は成立しない」論者が参戦してきたらなお面倒くさい。作中で美穂は「男ともだち」の存在をこう話している。
妻も彼女も愛人もこの世に存在してない僕が共感するとはおこがましくて言えないのだが、異性の友達だから楽に話せる、傷は癒されやすいということは確かにある。男目線では男が男に対する見栄の張り方と、男が女に対する見栄の張り方は大きく違う。僕は前者の見栄の張り方がずっと苦手である。後者はそもそも見栄の張り方が分からないので常に丸腰だ。そうなると僕の場合、異性の友達の方が見栄を張らずに話せたりする。
この作品は「ともだち」と「友達」が使い分けられている。例えば葵は一貫してハセオを「男友達」ではなく「男ともだち」と言うし、美穂は場面によって「女友達」と「女ともだち」と表現が変えている。まるで、ひらがなの「ともだち」に深い信頼性や特別感を持たせているようだ。では「男ともだち」とはどんな存在か。ハセオの言葉にその答えがたくされている。
「男ともだち」には確かに「女性にとって男性だからこそ必要になる存在」と作中では描かれている。だが僕はこうも考える。「男ともだち」は、「自分にとってカテゴリでくくれないけど大事な存在」のメタファーなのではないだろうか。恋人とも違う。家族とも違う。友達とも違う。でも心から信頼できる大事な人。親友とくくるとちょっとしっくりこない。なぜか陳腐な関係に思えてしまう。そんな人だ。どんな性別だろうと僕にもあなたにも「男ともだち」は存在するかもしれないし、今まさに欲している存在かもしれない。
屑だけど愛おしくなる登場人物たち。胸を震わせ心を奮い立たせるを与える言葉の数々。本当に「信頼しあう関係」とはいったい。『男ともだち』は、まさにこれからも世界を生きていく勇気を与える本である。
【本と出会ったきっかけ】
「自分って『男友達』と扱われること多いな」と思っていたときに本屋で目にとまった。
【お知らせ】
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4.参考資料
◎年を重ねたからこそゆれる感情と価値観と違和感―千早茜『マリエ』
『男ともだち』の9年後に発表された作品。主人公の年齢は10歳ほど違うが物語に共通点が見られ、もう一つの『男ともだち』として読める。