めんどくさがり屋のひとりごと②「溺水」

リハビリの為に今夜も独り言ちる。

私の「高山めぐみ」という名前、言わずもがなペンネームである。

由来は、声優の高山みなみさんと林原めぐみさんの名前をミックスしたものである。本名は、全く違う名前である。

何故その二人の名前を拝借したのかと言えば、私が敬愛する作品『名探偵コナン』のアニメにてその二人がメインキャラの江戸川コナンと灰原哀の声を務めており、「林原みなみ」よりは「高山めぐみ」の方が由来が判りにくく、このネットの人波に紛れても判らないような名前だったからである。

お蔭で人様には見つかりにくい状態にはなっているが、誹謗中傷がやって来るよりはましである。誰からも触れられない寂しさはあるけれど。
そんなことはどうでもいいので、話を元に戻す。

自分のペンネームをマンガに由来させることからも何と無く判るとは思うのだが、私はマンガが好きである。もっと言えば、本が好きである。文字が好きである。

主に小説やマンガをよく読むが、いわゆる「読書家」と呼ばれるとどうもしっくり来ない。それはどんな作品にも手を伸ばして広い知識を養っている人に対する言葉で、私のような読むジャンルがある程度決まっている人間には「本好き」という言葉が相応しいように思う。「読書家」は荷が重いのだ。

小説は文庫本だけでも700作品870冊、マンガは50作品600冊所有と言えば聞こえがいいが、1000冊以上読んでいる人に比べれば、そんなのは鼻で笑うような蔵書数である。

そんな私でも、心に残る作品にはいくつも出逢って来た。中には、あまりに世界観にのめり過ぎて日常生活に支障を来すような経験をもたらした作品もある。そんな時は、本の海に自分から飛び込んで上手く泳げることが出来ず、溺れかけのまま陸に上がってきてしまった状態になる。ふとした瞬間に作品の情景が脳裏によぎり、心が陰鬱になるのだ。

最近で言えば、マンガにはなるのだが、『ハコヅメ~交番女子の逆襲~』(泰三子 著/講談社)のスピンオフ(と言いながら、がっつり本編)の『別章 アンボックス』がそれに当たる。

本編の『ハコヅメ』の内容をかいつまんで言えば、とある街にある交番に勤務する二人の女性警察官を中心に、警察官の仕事をコメディタッチに描いた作品で、作者自身も元警察官の経歴を持つ。
現在、戸田恵梨香・永野芽郁主演にて連続ドラマが放映され、かなりの高評価を受けているアレである。

私も前から気になっていたものの手を出すまでには至らず、この時期になってドラマ放映前の予習として原作を読んだが、これがまた笑いどころが満載で、時に入り込むシリアスな事件との調和が心地好いので、一気にファンとなった。

そんなコメディがベースの作品ながら、「一切笑いどころが無くシリアスな展開が続く」ために、本編の内容ながらも作者の意向で「別章」と銘打たれたのが、件の「アンボックス」である。

主人公は本編の主役である川合麻依と藤聖子の同僚で生活安全課の女性警察官の黒田カナであり、彼女が関わった殺人・死体遺棄事件が物語の端緒となっている。

カナは本編では自分の身体的特徴を利用して潜入捜査をする「くノ一捜査官」として登場し、作品の中でもかなりの人気キャラである。
そんなカナが事件の捜査によって精神・肉体的に疲弊してゆく姿が描かれてゆくのだが、その過程があまりにも読む側の精神を削ってゆくのだ。

ネタバレになるといけないので詳しいことは避けるが、「それぞれの正義」「最悪の裏切り」「それは絆か鎖か」このワードさえ覚えていれば、この作品を読んだ時の色んな辛さがもっと判ることと思う。

私はこの作品を読んだ後に気分が落ち込み、また読んでそのやるせなさにまた気分が落ち込むというのを、その日何度も繰り返した。なので、即座に本棚にしまってその暗い気持ちを封印することくらいしかなす術が無かった。
その気分を全く拭い去ることが出来ぬまま、翌日仕事をしたが、幾度と作中のあるシーンが脳裏によぎり、自分までそのシーンに引きずられるのではないかと思ったくらいである。激務がその日あったこともあり、お蔭でその日はまるっきり気分が上昇することは無かった。
余談ではあるが、その日はその陰鬱さを中和させるために本編の掲載している『モーニング』を初めて買った。それくらい、何かに救いを求めたかったのだ。

作品の重たさもあるが、私自身が単純な脳細胞なのでこういうことにはどうも共鳴してしまうきらいがある。良くない性格である。どうせなら、高揚感を引きずって生きてゆきたいが、引き寄せるのはいつも倫理観を揺さぶられる感情である。お蔭で時に生きることが辛くなりかける。

ただ、こうして今も生きているのは、「面白い作品に出逢いたい」「好きな作品の終わりを見届けたい」「自分の人生に納得してない」からなので、満足が行くまで死ねねぇなぁ、と思う。

私はこれからも溺れ続けて死にかけて、それでもまた海に飛び込んで死にかけることだろう。それでも本を読むことを止めようだなんて微塵も思わない。

本は私を殺しかけるけれど、私を生かしてくれる延命装置でもある、いわば水みたいなものだ。
言うなれば、私は水を読んでいるのかもしれない。
そんな気持ちで、今日も私は海に沈んでゆく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?