いつだってコロコロコミックが愛読書だった
今更ですが、あけましておめでとうございます。
2024年は仕事・プライベート・副業(ポケモン)が忙しくなりそうだが、今年もぬるっと書き連ねていこうと思う所存です。
新年一発目ということもあり、今回は私の同級生の話をしようと思う。
自分は父が転勤族だったため、幼少期〜少年期は転校を繰り返していた。
ただ小学校高学年になると父の本社勤務が決まり、晴れて私の転校生生活も幕を閉じたのだ。
そんな転校生生活の終焉を迎えた学校で出会ったのがK君だ。
K君の評判は「とにかくゲームが強い」の一言だった。
勉強もスポーツもできないけど、ポケモン・スマブラ・カードゲームetc…とにかく何をやらせても無敵と言わしめていた。「ゲームが強い」は大きな個性かつ唯一無二と言っても等しかった。
その「強さ」というのも子供らしいというべきか、ポケモンだったら伝説のポケモンでフルアタ(攻撃の技のみの構成のこと)でゴリ押しするスタイルだったり、カードゲームはお小遣いを全てかけて作ったデッキの「パワー」で捩じ伏せるようなスタイルだった。子供の時はそれでもよかったかもしれない。
ただ高学年に上がり徐々に思春期の階段を登り始めるころ、K君の致命的な短所のせいで彼の二つ名はたちまち消えてしまうことになってしまった。
この頃になってくると、ゲームをするにしても「頭を使って」プレイすることが増えてくる。ただ高火力で殴るだけでなく、いかにデバフをかけて無力化させて自分の有利な立ち回りにするみたいな作戦を立てたりするのだ。
ただこのK君、致命的なレベルで「頭を使った」プレイが全くできないのだ。そのせいか、二重三重に罠を仕掛けると面白いくらいにハマってくれる最高のカモになってしまったのだ。
称号が消えてしまえば、ただの「ゲームやってる人」に成り下がり、彼はどん底に落ちていってしまった。
そして思春期になるにつれて、みんなの興味関心の対象がどんどんと変わっていってしまう。例えばテレビなんかは、小さい頃はアニメとかが多いかもしれないが、それがドラマだったりバラエティなんかに置き換わっていったりしていく。
だけど、K君にはドラマは難しすぎるようだったらしい。ストーリーを理解するのに。だからクラスでドラマの話題になれば、彼は蚊帳の外になっていた。いや、意図的に彼は「透明」になっていたのかもしれない。
なんなら、彼は漫画を読むことすら難しかったのかもしれない。
バトル漫画の必殺技は知ってるけど、肝心のストーリーも理解できていたのか怪しかった。推理系もトリックや犯人の動機を含む心理描写はてんで理解できていなかった。スポーツ系の漫画もそうだ。ルールがわからないから。
彼が理解できるレベルの漫画はコロコロコミックが限界だった。
ちょうど私が小学校高学年〜中学生の間が「お笑いブーム」だったのもあり、『エンタの神様』や『爆笑レッドカーペット』もクラスの話題の一つだった。
「あの芸人のギャグ面白かったよな〜」
「今のツッコミ、昨日のやつでしょ!」
そんな感じの話が飛び交う中、K君が面白いと言うものが「コロコロコミックの擬人化」と形容したくなるような、幼児・子供にウケの良いものだった。そういった芸風も需要は大いにあるが、やっぱりクラスの人たちの反応は良くない。そして彼に話題は振られなくなっていった。
中学生になってくると、部活動に加入する人も多くなる。
部活になってくると、先輩・後輩といった上下関係が突然現れ、戸惑った人もいるだろう。一部のネット民たちはこうした上下関係とかも全て悪と断罪し蛇蝎の如く忌み嫌うが、こうした事にも順応していき、人は成長していく。
一方のK君はというと、部活には入らなかった。
いつも真っ先に帰宅し、帰宅部のエースと化していた。
一体何をしているのか一瞬気になったが、それよりも自分のことで必死だったので気に留めなくなっていった。
テスト期間に入り部活動がお休みになると、K君の実態を目の当たりにしてしまった。
彼は小学校低学年の子どもたちの輪の中に入り、ゲームをしたりコロコロコミックを読んで談笑していたのだ。
肉体的には成長期を迎えるかもしれないが、彼はおそらく連んでる子どもたちの年齢である小学校低学年で、成長が止まってしまったのだ。
それは彼の字などを見ても明らかだった。
小さい子供というのは筆圧が弱かったりするので、どうしても薄い字になってしまったりする(だから2Bとかの鉛筆を推奨された)。ましてや字もかろうじて読めるような形を保っており、まだまだ綺麗に書けないのはザラだ。
だがK君は違った。
彼の書く字は、あの時ー小学校低学年ーで止まったままだった。
いや、むしろ退行していたのかもしれない。
そんな感じだったので、多くの先生・同級生そして私もだが、「やる気がない。覇気がない。」と感じ取り、接することをやめてしまったのだ。
助けるべき弱者は、みんなから助けたいと思われないというのはよく言ったものだ。
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弱者男性、境界知能、グレーゾーン…
こうした言葉たちを最近耳にする。今だったらK君は「そういった子」として配慮されていたのだろうか。
答えは否だろう。
別の言葉があったとしても救われない。
なぜなら本来はそうした人たちを形容するために生み出された言葉たちは、自分たちが嫌いな人間を侮蔑するためのスラングへとネット民たちに変換されていってしまうからだ。
1月1日に発生した石川・能登半島地震で被災地へと向かった山本太郎氏に対して、経済学者の池田信夫氏のツイートだった。
もちろん山本太郎氏の行った、安易な被災地へのボランティア活動というのは現地を混乱させる危険があるので、批判される事象だろう。
だからといって、自分と相反する思想・考えを持つ人たちを侮蔑する言葉として「境界知能」という言葉を使うのは、どう考えてもおかしい。
本来の意味と大きくかけ離れた形で言葉が使われ始めると、やがて言葉狩りへと発展していく。
私自身、言葉狩りやポリコレなどには否定的な立場だが、だからと言って本来の意味と大きくかけ離れた形で言葉を使い相手を侮蔑・差別することには大反対だ。
こうしたパワーワードを何でも相手を侮蔑・差別するための言葉へと変換していく、こうした露悪的なネットの風習は変わらない。ただ関わらないことで自分が染まらないようにすることは可能だ。
思い当たる節があるひとは気をつけてほしいが、どうせ届かないだろう。
諦念の二文字で始まった1月だったが、2024年は仕事・プライベートで「毎日が全盛期」を合言葉に全力を出していきたい。