【ミリンダ王の問い】ひとが不平等である理由
尊者いわく、前世の業(行ない)が原因で、健康だったり病気がちだったり、お金持ちだったり貧乏だったり、容姿端麗だったりブサイクだったりするという。
ぐぬぬ…
私はあんまり腑に落ちないのであるが、自分が病気で不幸であることを前世の行ないのせいだという人は、たしかにいる。
まあ、どこまで本気にして言っているのかはわからんが。
さて、この問答に対する註を見ると、釈尊が説く「業」とナーガセーナがいう「業」とでは解釈が異なるようである。
「業」という言葉は仏教を学ぶ者にとっては基礎中の基礎であり、仏典や書籍を読めばあちらこちらにサラッと出てくる。
知っていて当然なのでスルーしてしまいがちだが、あらためて『佛教語大辞典』で調べてみた。
そこには複数の意味が挙げられているのだが、最後に著者による解説が付加されていた。
それが以下のとおりである。
本来の「業」とは単に「行為」を意味する言葉であり、前世の行ないのことではないのである。
そもそも釈尊は、当時の身分制度に対抗して平等を説いた。
いっぽうで、ナーガセーナ尊者は、前世の業によって現世の状況が異なるという。
そして、釈尊の言葉として次を挙げている。
ふむ。スッタニパータの「行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」のうちの「行為」(すなわち業)を、前世の行為と解釈して説明したのだろう。
本来そういう意味ではないのだが。
宿命説で解釈してしまうと、善い行ないをしようが悪い行ないをしようが、現世では関係ないことになってしまうのではないだろうか。
善い行ないをしても賤しいままだし、悪い行ないをしても尊いままなのだ。
これでは倫理が破壊されてしまう。
また、宿業によって今の状況が定められていて賤しい者が賤しいままであるのなら、出家して修行をしてもさとりを達成することはできないということになる。
宿業によって現世でさとりを得られると定まっている人しか阿羅漢にはなれないのである。
やっぱり、おかしい。
釈尊入滅後、その教えがさまざまに分析解釈されるものの矛盾が生じ、後付けでどうにかこうにか強引に「ほら、仏説のとおりでしょ!」ともっていくところに、私はモヤるのである。
でも、仏教が好きだ。
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