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【ミリンダ王の問い】ひとが不平等である理由

「尊者ナーガセーナよ、いかなる理由によって、人々はすべて平等ではないのですか?」
        [ 中略 ]
「大王よ、それと同様に、〈宿〉業の異なることによって人々はすべて平等ではないのです。」

『ミリンダ王の問い1』(平凡社)   第1編 第3章 第3「人格の平等と不平等」


尊者いわく、前世の業(行ない)が原因で、健康だったり病気がちだったり、お金持ちだったり貧乏だったり、容姿端麗だったりブサイクだったりするという。

ぐぬぬ…

私はあんまり腑に落ちないのであるが、自分が病気で不幸であることを前世の行ないのせいだという人は、たしかにいる。
まあ、どこまで本気にして言っているのかはわからんが。

さて、この問答に対する註を見ると、釈尊が説く「業」とナーガセーナがいう「業」とでは解釈が異なるようである。

「業」という言葉は仏教を学ぶ者にとっては基礎中の基礎であり、仏典や書籍を読めばあちらこちらにサラッと出てくる。
知っていて当然なのでスルーしてしまいがちだが、あらためて『佛教語大辞典』で調べてみた。
そこには複数の意味が挙げられているのだが、最後に著者による解説が付加されていた。
それが以下のとおりである。

業の本来の意味は、単に行為をいうが、因果関係と結合して、前々から存続してはたらく一種の力とみなされた。つまり一つの行為は、必ず善悪・苦楽の果報をもたらすということで、ここに業による輪廻思想が生まれ、業が前世から来世にまで引きのばされて説かれるにいたる。身・口・意の三業や、不共業(個人業)、共業(社会的広がりをもつ業)など、種々の別が立てられた。インド一般の社会通念として、インド諸思想に大きな影響を与え、仏教にも採用された。本来は、未来に向かっての人間の努力を強調したものであるが、宿業(前世につくった業)説になると、それとは逆に一種の宿命説に陥ったきらいがある。

『佛教語大辞典』中村元著(東京書籍)より


本来の「業」とは単に「行為」を意味する言葉であり、前世の行ないのことではないのである。

そもそも釈尊は、当時の身分制度に対抗して平等を説いた。

生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。

『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳(岩波文庫) 第35頁


いっぽうで、ナーガセーナ尊者は、前世の業によって現世の状況が異なるという。
そして、釈尊の言葉として次を挙げている。

世尊はこのことをお説きになりました。
「バラモン学生よ、生けるものどもは、それぞれ各自の業を所有し、業を相続するものであり、業を母胎とし、業を親族とし、業をよりどころとしている。業は生けるものどもを、賤しいものと尊いものとに区別する」と。

『ミリンダ王の問い1』(平凡社)   第1編 第3章 第3「人格の平等と不平等」

ふむ。スッタニパータの「行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」のうちの「行為」(すなわち業)を、前世の行為と解釈して説明したのだろう。
本来そういう意味ではないのだが。

宿命説で解釈してしまうと、善い行ないをしようが悪い行ないをしようが、現世では関係ないことになってしまうのではないだろうか。
善い行ないをしても賤しいままだし、悪い行ないをしても尊いままなのだ。
これでは倫理が破壊されてしまう。

また、宿業によって今の状況が定められていて賤しい者が賤しいままであるのなら、出家して修行をしてもさとりを達成することはできないということになる。
宿業によって現世でさとりを得られると定まっている人しか阿羅漢にはなれないのである。

やっぱり、おかしい。

釈尊入滅後、その教えがさまざまに分析解釈されるものの矛盾が生じ、後付けでどうにかこうにか強引に「ほら、仏説のとおりでしょ!」ともっていくところに、私はモヤるのである。

でも、仏教が好きだ。




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