悲しみで花が咲くものか side-A

第1話 はじめに


 小説を書こうとするとき、いつもきまって君のことばかり思い出すよ。
 どうしてかな。
 でも答えなんてとっくに解ってる。
 僕の中でくすぶり続けている感情。
 忘れようとしても忘れられないたくさんの思い。
 そんなたくさんの星のカケラが、この夜を終わらせてくれないからだ。


 人混みを歩くのが苦手で、通り行く人とすぐにぶつかりそうになる君。
 文句を言おうにも、いつも言葉を飲み込んでしまう君。
 でも何故か、僕だけには何でも言いたいことを言えてしまう君。
 最後、別れ行くときの人混みに消え行くはかなげな君の背中。


 あの頃の僕たちは何より不器用で、でも誰よりもお互いが大切で、どんな時よりも輝いて見える。
 僕の見送った君の背中、今もまだ僕の心に咲き続けてるよ。
 あの時そっと飲み込んだ言葉も。

 ずっと忘れようと頑張っていたけどダメだった。
 だから忘れないことに決めたよ。君の事を書くことに決めたんだ。
 僕がずっと困っていた君のどころ
 よいに輝きを放ち、あけけにそっと宵を待つまでの、いちばん星が帰る場所。

 不思議だね。こうして書きだしてみると、僕の気持ちも何だか落ち着いてきたよ。


第2話 いつもの展開


「私は別れませんから」

 子供みたいに泣き張らしながら、はるかは何度も繰り返す。
 ワガママが過ぎた遥に、僕が別れを切り出したのだ。
 いい加減にしろ。もう君には付いていけない。云々…。


「私は絶対に別れませんから!」


 もちろん僕だって本当に別れるつもりなんてない。少し意地悪な気持ちになっただけで、今では彼女を許す言葉を頭の中でひねり出している。


 遥はまるで、この世の終わりが来たみたいに嗚咽を繰り返す。
 結局僕は遥を引き寄せ、彼女の頭を撫でる。


「別れるなんて言って悪かった。もう二度と言わないから」


 そう。結局いつも謝るのは僕の方だ。
 でも別れを切り出すと泣くほど嫌がる遥を、僕は心の底から愛しく思っていた。


第3話 平行線


 学部もサークルも同じ。専攻もゼミも同じだった。
 大学入学時、同じ講堂で隣り合わせた初対面の遥と、サークルの新歓コンパでまた隣り合わせたとき、僕はこれは運命だと叫びたかった。
 でも本当に叫んだのは、遥の方だった。


「これって運命よね!」


 程無く我々は周知の間柄あいだがらとなり、背の高い僕と小柄な遥は、卒業するまでデコボコカップルと呼ばれていた。
 遥は就職先まで同じと考えていたようだが、さすがにそこまでは合わせる訳にはいかない。


「将来が掛かってるんだから、慎重に選ぶべきだ」


 僕は遥を説き伏せ、別の会社へ就職した。
 と言うのは僕の見栄みえ。本当言えば第一志望は同じ会社にし、僕は見事に落ちたといったところが正しい。
 結果としてこれで良かったのだ。


 会社帰りに遥と駅で待ち合わせ、一緒に帰る。
 幸い会社の最寄り駅も、路線も僕達は同じだった。遥の実家より、僕の部屋の方が駅四つ向こうだ。
 週に二回はこうして待ち合わせ、遥の実家のあるアパートで食事をする。何かの取り決めでもないけれど、いつの間にか習慣化した行事だった。
 アパートへ着く前に近くのスーパーでビールを買い、遥の母親が喜びそうなスナック菓子も買い込む。

 僕たちは片手で荷物を抱え、空いた方の手を繋ぎ、アパートへと向かう。
 部屋ではすでに順子じゅんこさん(遥の母親は僕に自分を名前で呼ばせた)が夕食の支度を終えたところだった。


「おじゃまします」


 僕はつい今しがた買ってきたビールとスナック菓子が入った買い物袋を順子さんに渡す。


「おっ、気が利くわね~。私の好きなものばかり、ビールも含めて」

 順子さんは嬉しそうに買い物袋を受け取り、我々は食卓につく。

しょう君仕事はどう?」

 食事の最中、順子さんに訊ねられてあいまいに答える。

「何というか、何とかって感じです」

「もう、何もわからないわよ、それじゃあ」

 遥が笑いながら僕と順子さんの会話を見ている。

 僕が就職したのは中堅の建設会社で、その頃の僕は本当に日々の業務に追われるばかりで、自分がどこに向かっているのかもわからない状態だった。

「資格取得も大変だって聞いたことあるわよ?」

「それはもう資格ばかりですよ。そっちの方は何とかなるんですが、現場業務が何をしてよいのやら」

「コワいおじさんばかりだもんね」

 遥が割って入り、順子さんも大笑いする。
 食後はビールを飲みながらのスナックタイム。これも恒例の行事だった。
 遥は楽しそうにスナック菓子を広げて言う。

「ご飯食べたっばっかりなのにね」

「別腹、別腹」

 順子さんが言い、我々は乾杯する。


 大学進学を機に一人暮らしをしている僕にはこんな風にして過ごす時間は格別だった。多少気を使うにせよ、実家にいるような気さえした。母子家庭の遥の家では男手がなく、時々頼まれる力仕事も僕には嬉しくて仕方がなかった。


 でもどんなことにも永遠なんてありえない。このあと僕は、そんな当たり前のことさえ学ばねばならないのだ。


第4話 必要とされること


 就職して二年が過ぎていた。
 その頃になると同期の仲間連中れんちゅうの中にも、表立って活躍しはじめるものもいたりした。


 僕はと言えば、周りにはそつ無く仕事をこなしているとは思われながらも、本当にこの仕事が自分には向いているのか、などという青臭いいにとり付かれていた。
 資格取得の勉強の日々。現場の人たちとの会話。それはそれで楽しくはあるのだけれど、何かしっくりとこない。
 毎日そんなことを考えていると、いつの間にか一日が終ってしまうという有様ありさまだった。


 その日は仕事終わりに木村さんと一緒になり、居酒屋に誘われた。
 木村さんは入社四年目の先輩で、グループは違ったけれど時々僕を気にかけてくれる人だった。


 居酒屋のカウンターで横並びに座り、木村さんは生ビールを注文する。
 通いなれた店らしく、カウンター内の大将と息の合った軽口かるくちでやり合ったりしていた。


「宮内は何飲む?」

 木村さんにそう促されてすぐに答える。

「僕も木村さんと同じものを」

「そういうところだ宮内。そんなに気を遣うな」

「いや、何というか、そういうものかと…」

 木村さんは豪快に笑い、軽く僕の背中を叩く。

「嫌いじゃないけどな、そういうの!」

 木村さんは今でこそ中堅建設会社の社員ではあるけれど、元々は大工見習いとして、中学を卒業してから5年間働いていたのだと前に聞いたことがある。
 現場での働きぶりを見た今の会社の部長が声をかけ、入社に至ったということだった。そんな経歴のせいか、職人気質で面倒見の良いところがあった。


「じゃあ、カンパイな!」

 運ばれてきた生ビールのジョッキを旨そうに口をつけ、木村さんはグビグビとジョッキ半分くらいを飲み干す。
 僕もそれに習い、同じように半分まで飲み干し、吐き出す息とともに木村さんに言う。


「でも、生ビールも好きなんです。だから気遣いとかそういうんじゃなくて…」
 木村さんはまた大笑いして、僕の背中を叩く。

「いいよ、宮内。俺がいた職人の世界じゃそれが当たり前だったよ。だけど最近じゃさぁ、なんか色々言われんじゃん? だからさ」

 木村さんはお品書きからいくつか見繕い、大将に若いの来たから何か腹の足しになるもの出してやってよ、と声をかける。カウンター内で大将はせわしなく動きながらそれに応える。

「馬鹿野郎、おめーだって若いだろ!」

 木村さんは豪快に笑い、また何故か僕の背中を叩く。僕も何だか可笑しくなって同じように笑う。

「宮内、悩んでんだろ? ここんところ浮かねぇ顔してるよ、つってもお前はずっとそんな感じだけどな」

「仕事は楽しいんですが、何かこの仕事が自分に合ってるのかなぁ、って」

「答えなんてねーよ、そんなの。
 俺だって今の仕事が向いてるかどうかなんて分かんねぇよ。前に話した通り、俺は元大工だよ。で、今は引き渡し後のアフターサービスという名のクレーム処理。大工の時には親方に叩かれ、今じゃ施主さんにこっぴどく叱られ、あっちもっこっちも何も変わらない。俺に向いてる仕事は叱られることか? 分かんねぇよ。どっちも楽しい。そして、どっちもやり甲斐があるんだな。必要とされたらさぁ、向いてるとか向いてないとかじゃねぇんだよ。だって宮内が向いてる仕事があったとしてだよ、その仕事が誰にも必要じゃなかった時の絶望感ってどうよ?」

「確かに…」

「悩むな、宮内。目の前の仕事がさぁ、どこに繋がってるか考えんだよ。その先でさぁ、誰かが喜んでくれてるって思えばそれがやるべき仕事なの。なぁ、宮内。お前の仕事の先の先の方で誰か喜んでるか?」

「そんなこと考えたこともなかったです。でも誰か喜んでくれていたら嬉しいです」

「喜んでもらうんだよ。そのための資格なり、現場仕事だろ? それにお前たちが喜んでもらう仕事してくんねぇと、ほら俺がまた施主さんに叱られるってこと。困るんだよ、頼んだぞ!」

 木村さんはまた僕の背中を叩き、残りのビールを飲み干してお替りを頼む。ちょうど大将が若者たちにと、僕と木村さんの前に特製だという唐揚げを差し出す。

「なぁ、そこのお兄さん。そうは言っても木村もな、転職したてはずいぶん悩んでたぜ。そんな頃だぜ、うちに通い出したのは。やっと酒が飲めるようになったころだな」

 すかさず木村さんが合の手を入れる。

「だから大将さぁ、違うっつーの。俺は親方に連れられてもっと前から来てんだよ!」

 木村さんは熱々の特製唐揚げに苦戦しながら身もだえを始めた。僕は可笑しくなって笑いながら言う。

「木村さんでも悩むんですね?」

「言ってくれるよ、宮内! 俺もそんなときがあったよ。会社ってなんか別の意味でルールあんじゃん? でも俺、宮内達みてぇに学無いじゃん? だから基本20秒くれぇしか悩めないのよ」

「20秒も悩めるんですか?」

「バカヤロウ、宮内! 最高40秒悩んだよ! 1分まで悩みてぇー!」

 それから僕と木村さんはしこたまビールを飲み、本当にたくさん笑った。


 木村さんは必要とされることが仕事だと言った。向いてるとか向いて無いとかじゃないと。
 確かにそうかもしれない。必要とされること。必要とされる仕事をすること。今の仕事の先の先の方で喜んでくれている人を想うこと。
 木村さんの教えはこの先の僕にとって、すごく大切な支えにもなるものだった。

第5話 違っていくこと


 お互いの就業時間をメッセージで確認しあい、いつもの駅の改札で待ち合わせた。
 約束の18時になっても遥は現れなかった。
 遥が時間に遅れるというのは今までなかったことだった。
 心配になってスマホを取り出し、メッセージしてみようと思ったところで、後ろから遥かに抱きつかれた。


「丞ちゃん!」

「なんだよ、びっくりしたよ。遅いからどうしたのかと思ったよ」

「なーんか全然びっくりしてないみたい。遅くなってごめんね」

 遥はそういうと僕の手を取って歩き始めた。ちょうど改札から吐き出されてくる人たちの流れに、僕も遥もうまく動く事ができなかった。とくに遥は人混みが苦手で、人の流れについていけずによくぶつかった。
 それでも僕たちは何とか改札の流れから脱出し、出口に向かうと、安堵した様子で遥が溜息をつく。


「ホント人混みって苦手」

「そろそろそれにも慣れないとね」

 僕たちは手をつないだまま駅を出た。そして駅のすぐ目の前の交差点に差し掛かった時だった。
 右往左往して何か困っているお婆さんを見つけた遥は僕の手からするりと離れ、すぐにお婆さんに駆け寄った。
 僕は唖然と遥の背中を見つめた。
 今までも遥が困った人に手を差し伸べたこととはあったが、こんなに素早く進み出ることはなかった。いつもならどうしようか? 手伝った方がいいかなぁ、などと散々迷ってから動き出すのが常だった。


 どうやらお婆さんは目的地への方向を見失っていたらしく、遥がその方向と道順を教えると、問題はすぐには解決したとのことだった。


「珍しいね、遥があんなにすぐに駆け寄るなんて。いつもなら散々悩んでから助けに行くのに」

「えへへ、この時を待っていたのよ」

「何それ?」

「私のおせっかいの先の先に、優しい世界が待っているのよ」

「分かるけど、解らないよ。なんだよ、それ?」

「丞ちゃんの今の受け答えの方が、何それよ!」

 僕たちはお互いに笑った。でも本当に分かるような、解らない話だ。それにしても、先の先のだなんて、ついこないだの木村さんの教えにも通じるものがある。よく解らないけれど僕はなんだか嬉しくなった。先の先の優しい世界。うん、すごくいい。


 訳もなく繋いだ手をぶらぶらと揺らしながら、僕達は歩いた。そのせいでまた遥は目の前から来る人にぶつかりそうになり、舌打ちをされる。それには遥はすぐに振り返り、文句を言いたげにはしたけれど、結局は呑み込んだ。いつものことだ。
 僕は遥に言う。

「ごめん。僕がぶらぶらさせたからだ」

「違うよ、あの人酔っ払ってた」

「まあまあまあ、僕たちが横並びなのがいけなかったのかも」


 いつものスーパーでビールを買い、スナックタイム用のスナック菓子については、今日は遥が選びたいとのことだったので、僕は快く任せることにした。



 遥の実家でいつものように食事をし、スナック菓子を食べながら順子さんも交えて楽しく会話した。いつも僕は終電の少し前には遥の家を出る。
 玄関先で次の休日は何処かに出かけようかと提案すると、遥かは嬉しそうにはしゃいでいた。


 それにしても夕方の遥の行動の速さには正直驚いた。酔っ払いとぶつかりそうになった一件でつい聞きそびれてしまったけれど、先の先の世界に遥をいざなうことになったきっかけはいったい何だったのか。大学入学から僕たちは何かにつけずっと一緒だった、でも本当に少しずつ《《何かが》》違ってきているのかもしれない。就職先しかり、その中で学ぶもの然り。
 違ってきて当たり前なのだけれど、その時の僕には、何故かその事で不安な気持ちにさいなまれていた。
 列車の窓に映る自分の顔は、もう学生の頃とは全く違って見えた気がした。


第6話 時計の針


 休日の天気予報は雨マークだったにもかかわらず、その日は晴天に恵まれていた。
 僕と遥とは、昨日までの雨露あまつゆが残る公園を手を繋いで歩いた。


 昨夜は寝る前の遥からの電話で、朝の8時に待ち合わせだと伝えられた。出かけるにしても少し早過ぎるのではないかと僕は抗議したが、嬉しそうな遥かに結局押し切られた。早く待ち合わせて、お散歩でもすれば良いのだと。そしてこうも続ける。早く逢いたいの! この言葉には弱い。というより、嬉しい。僕もだ。


 超ゴキゲンな遥が空を見上げて嬉しそうに言う。

「天気予報外れちゃったね」

「あくまで予報は予報だからね」

 僕は笑って答える。

「こういう時、天気予報士さんはどんな気持ちなんだろ? くそぉ、外れたか!!」

「それじゃまるでギャンブルみたいだし、天気《《予想》》になっちゃうよ」

 休日朝の公園は人もまばらで、すごく気持ちが良かった。
 つい半月ほど前までは花見客でにぎわっていた公園も少し落ち着きを取り戻し、植物たちは夏に向けての生命力を新緑の葉に誇示していた。
 散歩をしていても少し汗ばんでくる季節。風が心地良かった。しばらくすると自動販売機と東屋あずまやを見つけ、少し休むことにした。


 ペットボトルのお茶を買い、一本を二人で分ける。

「朝から散歩も良いね」

 東屋の柱を背にもたれ、僕は言った。

「本当、気持ちいい」

 右膝のあたりを何度もさすりながら遥が答えた。

「膝どうかした?」

「うん、なんだかちょっとね」

「痛いの?」

「うん、痛いのとはちょっと違うんだけど、変な違和感かな。でもたぶん大丈夫。歩き方が変だったのかも」

「それならいいんだけど。まあ時間はまだたっぷりあるし、もう少しここで休んでいこうか」

 僕たちはペットボトルのお茶を交互に分け合いながらしばらく大学時代の話をした。
 でもなぜか僕には遥のさする膝の事が気になって仕方がなかった。なぜだろう? だからこんな些細なやり取りを強く記憶に留めていたのだ。
 本当に後になってから解かったのは、遥の身体の異変は、すでにこの時には始まっていたということだった。もしもタイムマシンがあって、この日に戻ることができたなら。そんなことを僕は考えたことがる。でもタイムマシンがあったところで、この日では《《すでに》》遅い。それならいったいどこまで時計の針を戻せば良いのか。二人が出会った頃? それでも遅い。それなら生まれる前? 答えなんてなかった。
 どんなに考えたところで、僕と遥に必要なのはタイムマシンなどでは無いという冷たく固い現実だけだった。


 東屋で結局一時間くらい休んだ後、遥の希望で書店巡りをし、ランチの後は映画。映画の後はショッピングと、本当に目の回るような一日だった。

「ちょっと詰め込みすぎだよ」

 僕は遥に言った。

「だって最近こんな風に出かけることなかったじゃない?」

 確かにここの所まとまった時間を作って出かけるというのは少なかったかもしれない。資格の勉強に追われていたり、現場の仕事が休日にずれ込むこともよくあった。
 僕は時間を確認し、遥かを呼び止める。

「ちょっと待った、もうすぐ18時だよ。今日は朝の8時から《《つきあって》》んだよ!」

 疲れからか、少し苛立ちが言葉尻に出てしまっていた。遥にしてみても、明らかに面倒について歩く僕に、ずっと苛立っていたのかもしれない。

「つきあってる? 今日のお出かけは私がお願いしたんだっけ?」

「いや、そうじゃないけど」

「ちょっと待ってよ、自分はつきあってやってるって上から言うの、それっておかしくない?」

「そこは謝るよ」

「丞ちゃんのそういうトコロ嫌い。いつも自分がほどこしてあげてるみたいなトコロ」

「だから謝るよ」

「ねえ、謝るよって何? また上からだよね? 全然謝ってないじゃん」

「突っかかってくるなよ! いい加減にしろ!」

 語尾がかなり強くなってしまった。
 遥の目から涙がこぼれる。
 通り行く人たちの視線が痛い。
 遥は涙がこぼれるままに僕に怒るような、あわれむような眼でにらみつけ、嗚咽を必死にこらえながら訴える。

「丞ちゃん、いつもそうだよ。自分は上からで、してやってるみたいな態度」

「分かったから、みんな見てるから」

「丞ちゃん、いつもそうだよ。私の面倒を見てやってるみたいな態度する」

「分かったから、もう言わなくても」

「丞ちゃん、いつもそうだよ…」

「遥、いい加減にしてくれ! こんなところで!」

 遥の眼が大きく見開き、大粒の涙かこぼれる。

「はい、分かりました! こんなところからはいなくなります!」

 こらえ切れず、小さな嗚咽を漏らすと、僕に背を向けて遥は歩き始めた。
 いつものことだ。街中まちなかで喧嘩になってしまうと遥はさよならとばかりに僕から離れて行く。そしていつも僕に背を向けて、でもゆっくりと歩き出す。止めるなら今よ、とばかりにゆっくりゆっくり歩くのだ。
 少し疲れているせいで僕はその背中を引き止めない。というか、すぐに戻って来ることも知っている。いつもの事。遥かは必ず戻ってくる。
 もう見えなくなるくらいまで遠くに離れた遥の背中は、そこでくるりときびすを返し、さっきとは違い、倍の速度で僕の所まで肩をいからせながら戻って来る。

「どうして丞ちゃんは行かないでって言えないの? そういうトコロが嫌い!」

「遥、ごめんね」

 僕は素直に謝る。
 僕は遥の《《そういうトコロ》》が好きだった。愛しくてしかたがなかった。どんなに怒り狂ってしまっても、気が済んだらちゃんと戻って来る。どんなに悲しくても、背を向けたって、必ず踵を返して戻って来る。そう、《《必ず》》戻って来る。
 その時の僕は、遥は何があっても必ず自分の元に戻って来るのだと信じて疑わなかった。


第7話 流れゆくこと


 週明けの出社早々、先月現場を担当した施主さんからの電話で引き渡し物件に呼び出された。
 4階建てのペンシルビルで、1階入口の電動シャッターの開閉が上手くいかなくなったとのことだった。
 そのビルは僕にしては大きな案件だったため、上司の天野さんが同じく担当していたのだけど、その日天野さんは休暇をとっていて電話が繋がらなかった。
 ビルに到着後、僕は施主さんにとにかく謝罪し、ダメもとで木村さんに連絡を取ってみた。木村さんは各現場に飛び回っているため、当日の呼び出しは難しい。それでも社内人脈に乏しい僕には、こんな時に頼れるのは木村さんしかいなかったのだ。
 そして運の良い事に、その時木村さんはまだ会社に残っていて、すぐに駆け付けて来てくれたのだった。
 僕が施主さんの怒りを一身に受けている横で、木村さんは電気の制御盤を確認し、僕に向かって笑いかけた。それから僕の肩をポンポンと二回叩くと、脚立を使って点検口から天井裏に上半身だけ潜り込ませ、少しもがく様な仕草をした後、顔を出して僕に指示を出す。

「宮内、電源入れてみてくれないか」

 僕は制御盤の電源を入れる。カチッと短く歯車が噛み合う音がした。
 木村さんは点検口に蓋をして脚立を降りる。そして今度は施主さんに向かって笑顔で語りかける。

「申し訳ございません。リモコンでシャッター動かしてみてもらえませんか?」

 施主さんがいぶかしげに木村さんに頷いた後、リモコンのボタンを押すと、シャッターは軽快な音を立て、問題なく動いた。
 木村さんが施主さんに頭を下げる。

「大変申し訳ありませんでした。天井裏に当社の備品が残されていて、何かの拍子にシャッターに食い込んでしまっていました。今後はこのようなことが無いように社内で共有し、対策を徹底してまいります。また何か不備等ございましたら何なりとお気軽にお申し付けください」

 僕も木村さんに合わせて頭を下げる。
 木村さんは施主さんに言う。

「この土地、すごく良い場所にありますね。中心地にありながら、街道に出るのも、あそこの道に出ればすぐです。駅からも近いし、何よりこの辺りが昔の本当の中心地ですよね」

 施主さんは嬉しそうに木村さんに答える。

「そうなんです。角地で小さくありますけどね」

 それから施主さんは先祖代々の土地だということや、自分の先祖の話を嬉しそうに木村さんに語って聞かせた。木村さんが感心しながら相槌すると、施主さんは増々嬉しそうになっていった。
 しっかりと話に花を咲かせた木村さんは最後に丁寧に施主さんに頭を下げると、僕を引き連れて現場を後にした。


 木村さんはすぐ近くの駐車場に車を停めていた。
 別れ際、僕は木村さんに頭を下げる。

「本当に急ですみませんでした。助かりました」

 木村さんは懐から丸まった絶縁手袋を出した。

「これがモータに噛んじまってたんだよ。こんな忘れ物なんて、お前がちゃんと最後に点検しとけって話だ。大した案件じゃなくて良かった」

「この埋め合わせは必ず」

「できっこないこと言うんじゃねーよ。そんな事より、また困ったらいつでも呼んでくれ。それがお前の仕事でもあるんだよ」

 それが僕の仕事?
 忙しそうな木村さんを引き止め続けるのも悪い気がして、僕は頷く。木村さんは車に乗り込んで楽しそうに言う。

「さぁ早く社に戻れ。それと宮内、今日仕事がはけてから一杯どうだ?」

「大丈夫です! ぜひ」

「じゃあ、18時にこないだの居酒屋な」

 木村さんを見送り、ため息をつく。正直かなり落ち込んでいた。恐ろしく初歩的なミスだ。それに木村さんが来るまでろくな対応もできてはいなかった。もしも木村さんの到着が遅かったりしたら、施主さんを相当怒らせてしまっていただろう。
 次の現場に向かう道すがら、何度もため息が漏れた。



 『金時きんとき』と看板には書かれていた。
 前回は木村さんの後をついて入店したので、居酒屋の店名までは記憶してはいなかったのだ。
 待ち合わせの時間にはまだ少し早いとは思いながらも、僕は暖簾をくぐる。
 店内に入るとすぐに大将の威勢のいい声で迎えられる。
 カウンターでは木村さんがすでに席に着いていて、慌ただしく動き回る大将が木村さんの横を手で示した。
 僕は木村さんの横に座り、おしぼりを受け取る。

「遅くなりました」

 僕が謝ると木村さんが笑う。

「全然遅くねーよ、まだ6時前じゃん。宮内そこんところだな。そんなに気を遣ってばかりじゃ疲れるぞ」

 木村さんはそう言うと先に飲んでいたビールジョッキを飲み干して、お替りを頼む。
 木村さんが僕に訊ねる前に、僕はカウンターの中の大将に注文する。

「僕も同じものを」

 木村さんが嬉しそうに高らかと笑う。
 僕は木村さんに言う。

「お店の名前、金時っていうんですね」

「きんとき、じゃねーよ! かねとき、な!」

 ちょうどビールジョッキを持ってきた大将がそこに加わる。

「俺の名前なんだよ。かねとき。親父がつけたんだよ、タイムイズマネーだってよ。だけどよ、この年になってくると解るんだよな。確かに時は金なんだけど、でも金で時は買えねーじゃねえか、って。時間よ戻れー!」

 大将が語ってる間に、木村さんと僕とはジョッキを合わせて乾杯する。
 木村さんは一口飲むと爆笑する。

「だけど大将さ、時買うだけの金がねーじゃん!」

「バカヤロウ、木村。その通りだ!」

 木村さんが楽しげに笑い、またせわしなく動き始める大将に向かって前回と同じ特製の唐揚げをリクエストする。

「宮内、大将の言う通りだな。時は買えねーよな」

 木村さんがジョッキを眺めながらしみじみ言う。木村さんには6歳の息子さんがいると聞いたことがある。奥さんとは離婚をしていて、こうして飲みに出るときは木村さんのお母さんが息子さんを見てくれているのだという。

「俺な、嫁さん出てったじゃん。後悔するときあんだよ」

「木村さんでも?」

「バカヤロー、真面目な話だ。
 後悔するのはさ、息子観てるときな。俺んとこの息子はさ、お母さんに会いたいって言わねーんだよ。んなわけねーのに。だからそんな息子見てると、俺ってバカだなぁ、っていつも思うの。合わせてやりてーけど、どこにいるのやら。もし時間が買えたとしたらさ、もう少し嫁さんにも優しい言葉かけてさ、なんてよ。がらにもねーけど」

「奥さんに何したんですか?」

「何にもしてねーよ。何にもしてねーから、居なくなった」

「息子さんを残して?」

「たぶん俺が帰ってくる時間を見計らってたんだろうな。ついさっきまで居ましたって感じで、息子を残して消えちまった。その辺にでもいるのかと思ってたらいつまでたっても帰ってこない。そして今に至るよ」

 僕は何と答えてよいのか解らなかった。
 木村さんはジョッキを口に運び、続ける。

「育児も結構手伝ったりしてたんだけどな。でも今にして思えば、嫁さんにも言い分があったんだと思うよ。それを聞いてやれなかった。俺は何もしてなかったんだ。家事や育児ってのも本当は手伝うとかじゃねーんだな。つまり他人事じゃねーの。今だから分かるんだけどな、子供の事ってのは全部自分事なの。俺こんなだからさ、きっとあいつ自分が空っぽになっちまってパッて消えたくなったんじゃないかなってよ」

「木村さん、何かわかるような気がします。僕ももしかしたら似たようなところがあるかもしれません」

「そういえば宮内にも彼女いたんだったな」

「本当に昨日の話なんですけど、上から目線だって怒られました。同じ時間を過ごしてるのにしてやってるって、上からだって。他人事になってたなぁ、って今木村さんの話聞いてて思いました」

「何だろなぁ、宮内。男ってどうしてこうなのかねぇ」

 大将が特製の唐揚げを木村さんと僕の前に差し出しながら笑う。

「モテねー男が雁首揃がんくびそろえて湿気たツラしてんじゃねーの」

 木村さんが調子を取り戻す。

「じゃあ、大将はモテんのかよ!」


 時間を買いたい。
 もしも時を戻せたら優しい言葉をかけたい。
 人は過行く時の中で、何かしらの忘れ物をしているのかもしれない。
 それはもちろん僕も同じで、今後人それを強く思い知らされることになる。
 木村さんは奥さんが居なくなった後、今の会社に転職をした。息子さんの面倒をしっかり見られる環境が作れるようにと、当時の親方と今の会社の部長が話し合ってくれたのだと木村さんは言っていた。そのおかげで、朝と夕方は息子さんの食事を作ってあげられるのだと。木村さんは子供のことは全部自分事だとも言った。そうだ、もしも僕が遥の事を自分事にできていたらどうだったのだろう。
 でもその答えは見つからなかった。
 そして結局僕は過ぎゆく時の中の忘れ物を、そっと心の奥に仕舞い込む。


「宮内、唐揚げ冷めちまうぞ」

 木村さんは熱さに悶えながら僕に唐揚げを勧める。
 僕も一口かじりして悶絶する。
 木村さんが嬉しそうに僕を見る。

「旨いな」

「はい」

 僕は答えて、木村さんに礼を言う。

「木村さん、今朝は本当に助かりました。ありがとうございます」

「今朝はじゃねーよ。今朝も、だろが。あれも俺の仕事だ、気にするな」

「お施主さん、木村さんと話してるとき本当に嬉しそうにしてました」

「やっぱりな、土地って褒められると嬉しいんだよ。そこに自分たちの大本おおもとがあるって感じで。そういう意味ではさっきの話と根っこは同じでさ、その土地には経過した時間なりの価値みたいなものがあるんだよ。だからそれを褒められると嬉しんだな。それも含めて大切なものの上に俺たちがビルや家を建てさせて貰うの。お前には一時いっときの現場に見えるかもしれないけど、お施主さんにしてみたらご先祖様からずっと繋がってることなんだよ」

「木村さん、何か凄いですね」

「バカヤロー、今更か? 仕事ってさ、自分も自分の周りも喜んでる姿が一番じゃねーか? 俺は親方にも、部長にも、息子にも母親にも、ついでに逃げた嫁さんにもそう教えてもらったのよ」

 木村さんは生きていることが全部自分事なんだな、僕はそう感じた。それに木村さんは、時間が戻らないことも知っている。だから精一杯周りに喜んでもらうことを願っている。そう、時間は流れている。流れているのだから時間は決して元には戻らない。そんな当たり前のことにどうして抗ってしまうのか。時間は流れている。僕はもう一度、そう心に刻んだ。

第8話 優しい祈り


 その日も遥と退社時刻の確認を取り合い、18時に駅で待ち合わせた。
 駅は相変わらずの人混みで、遥は改札の流れから逆らうのにヘトヘトになっていた。
 僕たちは改札の流れの中で、お互いを確認し合い、駅の出口へ向かう。
 駅前の交差点で一息つき、僕は遥に提案する。

「今度から待ち合わせはこっちにしない?」

「うん、私もそう言いたかったところ」

 それからいつもの様に、途中でスーパーに立ち寄って、缶ビールとスナック菓子を買い、遥の自宅まで歩く。
 遥の歩くテンポがいつもより遅い気がして、僕は訊ねる。

「もしかして、まだ足が痛む?」

 遥は困った顔で頷く。

「うん、痛いというか、熱いというか、なんか変なんだよ。あれから」

「大丈夫かなぁ」

「いつも痛むって訳じゃないんだよね。おかしいなと思うと、すぐ直るし。実際本当に変だったのはさっき駅を出る辺りまでで、今はほとんど感じない」

「何だろう?」

 僕たちは少し歩速を緩め、ゆっくりと歩く。
 遥が嬉しそうに言う。

「なーんか、ゆっくり歩きも良いね。景色の見え方がちょっと違う」

「そうだね」

 僕は繋いだ手を、いつもよりもゆったりと大きく振り上げる。
 5月に入ってからは陽もすっかり長くなり、黄昏時でもまだ少しだけ明るさを残していた。
 遥も繋いだ手を振り上げて、ブーンと声に出す。
 おどけた調子の遥に、僕が笑いかける。
 夕やけの空に、ほんの少し白く薄雲が流れる。
 ゆっくりと夜がこっちに向かって来ている。
 僕も遥もまるで時間の流れを遅らせるみたいに、ゆっくりと歩く。


 遥の家では順子さんが、すっかり待ちくたびれていた。すでに夕飯の支度が出来て上がっていて、我々が到着すると順子さんがテレビを消して台所に向かう。

「少し遅かったんじゃない? こう見えてもタイミングを計りながら夕飯作ってるんですけど」

 遥が手伝いに台所へ駆け寄って、順子さんに言う。

「ちょっとゆっくり歩いてきたんだ。夕暮れの風が気持ち良くて」

 僕が口をはさむ。

「実は遥がここのところ足が痛むって。それで駅からゆっくり歩いてきたんです」

「大丈夫なの?」

 順子さんが遥を心配する。
 遥が順子さん特製のエビチリをテーブルに運びながら言う。

「歩き方がおかしいのか、ちょっと痛むんだけど、いつもすぐに治まるから」

「それならいいんだけど、お医者さんにも診てもらいなよ」

「うん、それもちょっと考えてる」

 それから我々は順子さんのエビチリに舌鼓を打ち、恒例のスナックタイムに入る。
 話題は遥の仕事の話に。
 どうやら遥は新商品のコピーを任されたようで、かなりのプレッシャーだとは言ってはいるが、やりがいも感じているようにも僕には見えた。
 僕は遥に正直に言った。

「すごいなぁ、僕なんて仕事で凡ミスばかりだよ」

「私だって同じ。なのにどうして今回の件で選任されたのか謎だよ」

「でも本当に凄いよ。もしこれが上手くいくともう一つ上のステージに行けそうだね」

 順子さんも嬉しそうに笑う。

「まあ、とにかく二人ともすごいぞ! 私は君たちの頃にはすでに子育てに奮闘中だった。そんな我が娘も、その彼氏もすごい!」

「お母さん、酔っ払ってるの? やめてよ」

 遥が順子さんに言う。
 でも確か順子さんは20歳で遥を出産し、僕たちの歳の頃にはすでに遥は4歳たった筈だ。
 遥の話では遥の父親は小学校に上がる前に亡くなっていて、数年間は原因不明の病に悩まされていたのだと聞く。
 それならちょうど我々のこの歳の頃、順子さんは育児と看病とで大変だったに違いない。
 順子さんの明るさは、そうした苦難を通り抜けた人間だけに与えられる強さなのかもしれない。
 遥の父親とはいったいどんな人だったのだろう。ふとそんなことを考えていると、遥が口火を切る。

「お母さん、お父さんはどんな感じで育児に参加してたの?」

 順子さんはしばらく考える。
 意識的に封印してきた記憶を紐解くような感じだった。
 遥の父親の話になったのは、これまでで初めての事だった。

「君のお父さんはね、何せ不器用なのよ。遥をお風呂に入れてってお願いしてもちっとも出来なくてね。壊れちゃうんじゃないかって怖がって。でも一度成功したらあとは毎日お風呂に入れてくれるのよ。おむつ替えもそう。はじめはバカみたいに怖がって近寄らないんだけど、一度成功すると嬉しそうにやり始める。でも君たちの年齢の頃は病気であまり身体が動かなくなって来てたから」

 順子さんは少し寂しそうに微笑んだ。遥が訊ねる。

「お父さんはそんな時どうしてた?」

「うん、泣いてた。横になりながらポロポロ涙を流してた。そして、祈ってた」

 僕には順子さんが、話しながら少しだけ涙ぐんでいるようにも見えた。
 でも遥は少し呆れたようにつぶやく。

「祈るって…」

「君のお父さんは、遥だけは無事に、健やかに育ちますようにって」

「何それ…、自分の回復を祈りなよ…」

「本当にそうなんだよね。君のお父さんは君の事ばかり…」

 僕は何と言ったらよいのか、口をはさむ余地がなかった。
 でも少しだけ遥のお父さんが見えた気がした。
 そして遥が困った人を放っておけない性分も、お父さんとしっかり繋がっている気がした。
 この家には遥と順子さんの二人だけしかいないのだけれど、お父さんの温かい祈りが、これまでの二人を平穏に過ごさせてくれているのだと思った。
 遥はお母さんから聞いた話として、こんなことも明かしてくれた。
 遥の父親は、遥が産まれるとすべての人に優しくなったのだと。困った人がいるとすぐに駆け寄ったのだと。そのことを不思議に思った順子さんが理由を尋ねると、このおせっかいの先の先に優しい世界が広がり、誰かが遥を助けてくれるのだと答えたと云う。お父さんの想い描いた世界で遥は健やかに育った。そして遥もまた優しい世界を思い描いている。父と娘の描く世界が、どんな世界よりも優しくあれ。
 その時の僕は心からそう祈っていたのだ。


第9話 現実


 午前は現場を回り、午後は社に戻って週末に期限の迫った見積もりの作成に追われていた。
 以前なら、PCに張り付きながらの作業はどちらかといえば苦手だったけれど、最近ではそこにも楽しさを見出していた。思い通りに数字が収まったりすると何とも言えず嬉しかった。それがまた施主さんの希望に添える時などは喜びも一入ひとしおなのだ。
 根詰めて集中した後ほっと一息つき、時計の針を見ると15時を過ぎた辺りだった。
 同じタイミングで、僕のスマホがメッセージを受信する。遥からだった。
 すぐに開いてメッセージを確認すると、膝の痛みについては別段異常はなかったとの旨を知らせるものだった。そういえば、朝のメールで整形外科を受診すると報告を受けたことを思い出した。
 すぐにメールを返信する。何事も無くて良かった。そう返事を返すと、どうでもよいメッセージがすぐに戻って来る。こっちは仕事中だというのに。
 しばらくやり合った後「今日の仕事帰りに顔を出すから何かない限りメッセージしないように」と書き添える。
 遥からの猛烈メッセージが収まったので、再びPCに向かう。
 少しずつではあるけれど、この仕事に愛着が湧いてきた、と改めて思う。
 木村さんの言うとおり、自分に向いているかどうかではなく、求められていること自体がやりがいに繋がる。求められることとは、自分が携わることで、その先の先の人が喜んでくれていることをイメージし続けることなのだと、おぼろげに思い始めていた。
 数字に集中し、PCのモニターを睨めつけていると、また遥からのメッセージが届く。「ビールとお菓子は先に買っておきます。返信不要!」と。
 返信不要のフレーズに、思わず吹き出してしまう。

 退社する前に遥にメッセージしてから電車に乗る。
 駅に到着したところでもう一度メッセージ。
 これはいつも僕と遥が順子さんの待つ家に帰るとき、遥がしている習慣だった。「お母さんが私たちの帰り時刻に夕食の支度を合わせてくれているから」というのが理由とのことだった。二人の家族はそんな風にして、つましく寄り添っている。僕はあの二人の親子関係もたまらなく好きなのだ。
 いつもは二人で歩く夕暮れの街並みを一人で歩く。これもまたいつもと違う景色だなと思う。
 スーパーに入りかけて遥からのメッセージを思い出す。そういえばビールもお菓子も買っておいてくれていたんだっけ。返信不要!って…。ひとちながら、遥の待つ家を目指した。


 インターホンを鳴らすとすぐに扉が開き、遥が顔を出した。
 あまりのスピードに驚いてしまう。しかもかなりのハイテンション。

「お疲れさま! さあ中に入った入った」

 部屋の中に通されたものの、僕の驚きはさらに続く。見事なハンバーグ定食がテーブルに並べられていた。僕は遥とテーブルとを交互に見比べながら訊ねる。

「これもしかして、遥が?」

 順子さんが吹き出して笑う。

「丞君の、お驚きよう!」

 遥が不貞腐ふてくされなが言う。

「私だってやれば出来るんだよ」

「そうみたいだね」

 僕が言うと、また順子さんが吹き出す。

 その日の食卓はいつになく盛り上がった。もちろんスナックタイムもその流れに乗った。遥の膝が別段何も異常が無くて皆一様みないちように安心していた。順子さんが少しだけ真面目になって言う。

「病気やケガってさ、やっぱり心配になっちゃうんだよね。どうしても。でも何でもないって言われると、何であんなに心配してたんだろうってなるよね」

 順子さんからしてみれば、遥の父親を病気で亡くしていることがあるから、気が気じゃなかったんだと思う。
 僕も順子さんに続く。

「でも本当に、何でもなくて良かった」

「レントゲンまで撮ったんだから」

「何でもないのが本当に一番!」順子さんが嬉しそうに言う。「めでたし、めでたし!」

 この時の順子さんの、安堵に満ちた笑顔を僕は今でも忘れられない。
 順子さんのはなつ笑顔は、本当は修羅場をやり遂げてきた人間の強さなんかではないのかもしれない。本当は繊細で、そのうえ脆く儚さの中の、小さな煌めきの様なものなのかも知れない。
 順子さんはこの時、心から安堵していたのだ。めでたし、めでたし、と。
 でも本当はめでたくなんてなかった。その事を、ここにいる全員がすぐに思い知らされることになる。そして順子さんのこの時の明るい笑顔とは対をなすように、その後僕は悲哀に満ちて回想することになるのだ。
 ちっともめでたくなんて無かった、と。


第10話 接着剤のような


 金曜日は見積もり説明に二件回り、あっという間に終業時刻になった。
 二件とも施主さんの反応が良く、説明も大かた頷いてもらえた。細かいところは当然まだまだ調整が必要なのだけれど、お互いの要望がしっかり擦り合わさっていることに手応えを感じていた。
 一旦社に戻り、調整部分のメモを見返しながら来週以降のスケジュールを確認していると、木村さんに肩を叩かれる。この展開を待っていた。

「宮内、金時どうだ?」

「良いですね」

 二つ返事で片づけを始める。
 木村さんはスマホを取り出して、自宅に電話を入れる。
 二人して作業着のまま金時へ向かう。


 開店間もない金時は嵐の前の静けさといった感じで、まだ客の入りもまばらだった。
 木村さんの後に従い、カウンターに二人で陣取ると、準備に忙しい大将が向こうから顔だけを向けて言う。

「おっ、珍しく早いね。それに二人して作業着かい?」

 木村さんが切り返す。

「今日は家には戻らず直行だよ」

「息子の飯はいいのか?」

「おふくろが世話してくれるんだってさ。たまには飲んで帰って来いって」

「泣けるじゃねーか。良いおふくろさんだよ」

「だけどよ、大将。飲んで帰ろってのに、誘っても誰も来ねーの」

 僕は驚いて木村さんに言う。

「木村さん、誰も来ないから僕ですか?」

「そーなんだよ。全部断られて最後に引っかかったのが宮内」

「ちょっと待ってくださいよ。僕、木村さんの誘い、待ち構えてたんですよ?」

 木村さんと大将が楽しそうに笑い、そのあと大将が言う。

「誘っても誰も来ない男と、誰からも誘われない男。良いコンビじゃねーか? で、何飲むんだ?」

 僕は木村さんより先に答える。

「誰からも誘われない男は生ビールです!」

 木村さんが吹き出したついでにおどけていつもの僕を真似る。

「僕も同じものを~」

 すぐに生ビールが運ばれて、乾杯をする。

「宮内、冗談だぞ。今日は宮内と飲みたくて朝から構えてたんだよ」

「電話でもメッセージでもしてくださいよ。僕、今日は会社中の誘いを断ってたんですよ、嘘ですけど」

「いいよ、宮内。俺との仲がずいんぶん力抜けてきたな」

 そう言うと、木村さんは大将に特製の唐揚げを注文する。大将がカウンターの奥の方から言う。

「木村、馬鹿の一つ覚えかよ」

 木村さんも返す。

「大将喜べよ、リピーターっていうんだよ」

 そんなやり取りをしていると、あっという間に店内は満席といった感じになった。大将が僕と木村さんの目の前に特製の唐揚げを提供しながら言う。

「こいつは何か気に入るとそればっかなんだよな。嬉しいけどな。あ、それとよ、お兄ちゃん」僕に向かって付け加える。「こいつな、ここに人連れてきたのはお兄ちゃんが初めてなんだぜ。で、また気に入るとそればっか!」

「大将、そういうのいらねえっつーの!」

 僕は木村さんに言う。

「木村さん、ツンデレですか?」

「宮内うるせーよ!調子に乗んな!」

 僕としてはかなり嬉しかった。アニキ的な存在に昔から憧れていたからだ。それに木村さんから吸収できることはたくさんあると、最近強く感じるようになっていた。
 僕は少しだけ真面目に、木村さん言いう。

「あれから少し木村さんが言うように、視点を変えて仕事するようになったんです。そしたらこの仕事が向いてるかとか向いて無いとか考えなくなってきました。与えられた仕事で、何と言うか、なるべく多くの人に喜んでもらえるような、ボタンみたいなところが押せると、自分も嬉しくなるような。上手く言えないんですけど、そのボタンみたいなのを押す回数を積み上げていけば良いんじゃないかって、最近。木村さんにその事聞いてもらいたかったんです」

「んなこた、分かんねーよ。でもな、宮内。そんな感じで良いんじゃねーか? そんな感じで良いんだよ。俺、息子いんだろ? でさ、息子に良かれって色々すんだよ。それこそ無償の愛よ。でもたいていのことはさ、突っ返されるし、上手く行ってるのかどうかも分からない。答えなんてないのよ。でも飽きもせず色々考えて、あーでもない、こーでもないって。で、最近思うのはさ、これで良いんじゃないかって。反応もその答えも欲しいよ? それも大事なんだけど、そう思うことさ。俺がやろうとしてることや思ってやってることが、何か接着剤みたいなのになってさ、息子の出すそれぞれの答えをくっつけてやれてれば大正解なんじゃないか?」

「接着剤ですか?」

「接着剤ってさ、つけすぎると逆に接着面が脆くなるんだよな。適量が大事なんだよ。その適量を失敗しながら探ってさ、しっかり引っ付けてれば正解よ。それは無償の愛なんだけど、つけすぎると無駄だし、脆くなる。足りなくても脆くなるし、引っ付きさえしねえ。仕事もなんか似たとこねーか?」

「はい…」とは答えはしたものの、まだまだ僕には難しかった。木村さんは僕と歳が二つしか違わないはずなのに、不思議なくらい達観していた。そして、僕にとって必要になる答えをいつも与えてくれていた。やろうとする事や、思うことが接着剤のようになる。
 これから先、この考え方は僕にとって大切な指針となる。この先の僕と遥を巡る物語にとって。


第11話 僕の祈り


  前回申し合せたとおり、その日の遥との待ち合わせは駅の出口だった。
 改札は相変わらずの人混みだったけれど、出口付近は人の流れもわずかに落ち着く。
 考えてみれば、どうしてもっと早くこうしなかったのだろう。そんなことを考えながら、水曜夕方の空を見上げる。
 まだ空は本来の蒼さを堅持している。夜のとばりは、きっと薄雲の上で今か今かと出番を待ち構えているに違いない。
 学生の頃は駅構内を抜けてから、よくこんな風に空を見上げてきたような気がする。有り余る時間を持て余していたせいかもしれない。改札での待ち合わせが習慣付いたのも、時間を持て余していたせいで、通勤ラッシュを避けられたからだ。それが社会人になってからも惰性として続いていた。遥は人混みで上手く歩けないのだから「慣れないと」なんて言葉ではなく、待ち合わせ場所を変えた方が合理的だったのだ。
 我ながら自分の鈍さには呆れるばかりだ。木村さんが言ってたみたいな接着剤には、まだまだ遠いのかもしれない。


 そんなことにつらつらと想いを巡らせていると、遥が勢い良く僕の腕を掴む。上手く改札を抜けて辿り着けたようだった。

「待ち合わせ、こっちで正解だね」

「改札は相変わらずだけど、流れに乗ればすぐに抜けられるし」

「何だか今日は電車の中が暑くて大変だった」

 遥の顔を覗き込むと、少し汗ばんでいた。
 ここの所、日中は急激に蒸しばむことも多くなった。
 今日もそれは同じで、電車の中に至っても、乗車率の高さにもよるけれど、車内温度が上がることも多かった。

「遥、少し汗が出てるみたい」

 遥は顔をしかめてハンドタオルを取り出し、慌てて汗を吸い取る。

「ちょっと、見ないでよね!」

 そんなやり取りに僕は笑って遥の手を取り、歩き始める。すぐに出足の悪さに違和感を覚えて、遥かに訊ねる。

「ねえ、遥。もしかしてまた膝がおかしい?」

「うんん、平気だよ」

 遥はすぐに答える。
 でもその後の歩調も、明らかにいつもとは違っていた。
 僕はこないだと同様に、少しゆっくりと歩くことにした。病院では異常がないと診断されたのだし、また歩き方がおかしくなっただけなのかもしれない。もしかしたら改札の流れに変な逆らい方をして、身体のバランスを崩したのかもしれない。
 それでも、遥の顔の汗もすこし気になった。確かに蒸しばむ陽気だとはいえ、汗が出るほどでもなかったはずだ。実際僕は汗一つかいていない。考えを巡らすほど、どちらかといえば不安の方が大きくなった。


 いつものスーパーに辿り着いた時も、僕はそのまま帰ることを提案した。ちょっと遥も体調が良くなさそうだし、一日くらいスナックタイムをしなくたって良いのではないかと提案した。
 それでも遥は少しムキになって訴える。

「お母さんだって楽しみにしてるし、私の楽しみでもあるんだから!」

 仕方なくいつもの様にスーパーに立ち寄り、手早く買い物を済ませる。遥が意固地になればなるほど、酷く不安にさいなまれた。早く遥を自宅に送り届け、休ませてやりたい。そんなふうに思い、帰路を急ぐ。


 玄関先で出迎えた順子さんに、僕はすぐに訴えた。

「順子さん、遥の様子が変なんです」

 遥がすかさず間を割る。

「大丈夫だよ。急なミーティングでちょっと疲れたのかも」

 順子さんが慌てて遥の額に手を当てる。

「熱出てるじゃない」

 僕と順子さんはすぐに遥を彼女のベッドに横たわらせてやる。遥は大丈夫だからとわずかな抵抗を見せながらも、ベッドにたどり着くとそのまますぐに眠ってしまった。
 順子さんはもう支度が出来ているからと食卓に僕を誘う。正直言うと全くというほど食欲がなかった。不躾ぶしつけとは思いながらも結局ほとんどの食事を残してしまうのだった。
 順子さんが不安そうに言う。

「どうしちゃったのかねぇ、遥は」

「駅で待ち合わせた時には、すでに顔に汗がにじんでいたんです」

 順子さんは苦しそうに唸りながら、頭の中に思い浮かんだ事をまるでかき消す様に、何度も首を振った。
 そんな顔をする順子さんを、僕は初めて見た。何か思い当たる事でもあるのだろうか。僕は思った。
 順子さんは思い出話をするときの様に、何度か難しそうに唸り、首を振る。僕は順子さんのそんな顔を見るにつけ、心苦しくなり、立ち上がろうとするも、結局のところ遥のベッドの横に座り込む。
 遥の顔からは、すでに汗が引いているようだった。
 本当に安らかに眠っている。美しい寝顔だと僕は思った。ここのところの遥の様子を見ていると本当に何か起きているのではないかと疑いたくなる。でもそう思うこと自体が、はるかに良からぬものを寄せ付けてしまうのではないかと、その都度自分の頭の物を、無理やりに断ち切るのだ。もしかしたら順子さんも同じ思いなのかもしれない。
 手こそ合わせはしないのだけれど、何事も無いようにと僕は唯々祈る気持ちだった。


 22時を前に順子さんに促されて、僕は遥の自宅を後にした。
 順子さんは「もう遅いし、あまり丞君に付き合わせても悪いから」と申し訳無さそうに言った。
 僕としては、かなり心残りではあったが、目が覚めたら遥に連絡させるからという順子さんの言葉に同意し、帰宅することにした。


 部屋に帰るとすぐに、遥からの着信があった。僕と順子さんの心配をよそに、遥の声は普段通りの溌剌はつらつとしたものだった。

「本当に大丈夫なの?」

 僕は何度も繰り返した。
 声の張りも良く、本当にいつも通りの遥の声色に、いささかキツネにつままれた気持だった。

「丞ちゃんの残したおかずもちゃんと平らげましたよ」

 そんな言葉に心から安堵し、電話を終えたのだった。


 でも今にして思えば、こんなに不自然な回復なんてありえなかった。
 そう、遥は回復なんてしていなかったのだ。
 一時的に症状が治まっただけのことだった。
 そしてこの後も、何度も遥の発熱と不自然な回復に僕は翻弄されることになる。僕にできることなんて何もなかったのだ。せめて、僕は遥のその日常を最後まで見届けていたかった。
 そう、最後まで…。


第12話 それぞれの時計の針


 水曜日の一件以来、僕は遥の身体が殊更ことさら心配になっていた。やはりどう考えても、遥の身体に何かが起こっているとしか思えなかった。


 土曜日は午後から2件ほど現場を回り、日曜日は資格の勉強に明け暮れた。
 夕食は近所の牛丼チェーン店で簡単に済ませ、その後遥に電話をする。
 休日はキャッチコピー案に専念したいと意気込んでいたわりには、僕からのコールには、まるで飛びついたんじゃないかというくらい早く出た。

「身体の調子はどう?」

 僕はまず遥に訊ねる。
 この問いかけには、幾分つまらなそうな返答をする遥だった。

「何度も言いますけど、私は元気ですから」

「でも水曜日の夜は本当に苦しそうだったし」

「そういう時は丞ちゃんにだってあるでしょ?」

「あるにはあるけど…」

「だから心配しなくても大丈夫!」

「病院には行くべきだよ。今度は内科」

 あれ以来こんな話ばかり繰り返していて、遥がうんざりしているのが声音で解る。それでも本当に心配なのだと僕はさらに繰り返す。

「本当にもうピンピンしてるから」

「それが本当なら心配ないんだけど」

 実際に遥の声は、電話の向こうで跳びはねてるんじゃないかってくらいに元気だ。

「声だってしっかりしてるでしょ?」

「確かにそうなんだけど…」

 電話を終えてからも、僕の中の妙な引っ掛かりが無くなることはなかった。確かに声はいつもの通りだし、受け答えもいつもと全く変わりがなかった。でもこの胸騒ぎは何なのだろう。水曜日の夕方の苦しそうな顔や、歩調や、荒くなった息遣い。ベッドに倒れこんだ後の急転直下の深い眠り。そしてやけに安らかな遥の寝顔。並べてみたって全部おかしいじゃないか。違和感しかないのではないか。それなのに次の瞬間何もなかったように遥はケロリとしているのだ。
 そんな僕の胸騒ぎは、的を外れてはいなかった。
 週が明けた火曜日、遥は倒れて救急車で運ばれたのだった。


 火曜日の朝は現場に直行だった。
 現場で職人さんたちと朝礼を行い、その後施主との進捗確認をする。
 その後次の現場に行こうかという時に、順子さんからの着信があった。こんな時間に順子さんから? 僕は慌ててスマホをタップし、耳に当てる。やはり良いニュースではなかった。


 順子さんは仕事中の電話を詫びると、簡潔に今起こったことを僕に伝える。
 出勤途中、会社近くで遥が気を失って倒れたのだと順子さんは言った。
 遥はその後救急車で総合病院に搬送され、今は救急外来のベッドで眠っているとのことだった。体温も心拍も正常で、目が覚めてから検査をする予定なのだと矢継ぎ早に順子さんは言った。
 順子さんも先ほど病院に到着したらしく、たった今遥の会社にも連絡を入れたのだと話してくれた。冷静ではあるようだが、順子さんのこんな静かな声色も今まで聞いたことがなかった。
 僕はすぐにそちらに向かいとの旨を順子さんに伝え、電話を切った。
 急いで今日この後を休み扱いにする段取りを済ませ、順子さんから教えてもらった総合病院に向かった。
 駅からタクシーに乗り、病院の玄関に乗りつけ、救急外来の廊下から中を窺う。
 ちょうど出てきた看護師の女性に事情を話すと、廊下のソファーに座って待っているようにと指示された。
 何となく座っているわけにもいかず、立ったままで待ち続けた。
 時々外来の中をのぞき込んだり、廊下の壁に凭れたりを繰り返す。
 一時間くらいそんな風に待ち続けていると、遥と順子さんが連れ立って外来から出てきた。
 僕はすぐに二人に駆け寄る。

「遥、もう大丈夫なの?」

 遥の代わりに順子さんが答える。

「丞君、ありがとう。まだ色々分からなくて…、これからMRIの検査を受けるために2階の検査室に移動するの」

「僕も付き添います。今日のスケジュールは組み直して、この後は休みにしてもらいました」

「丞ちゃん、大丈夫だから」

 遥が申し訳なさそうに言う。いつもの様に顔色は悪くなかった。でもこれでも安心していられないことは、これまでの遥を見ていて学んでいる。


 結局その日は、遥のすべての検査に付き添った。
 僕の横で遥は、救急搬送されたことがまるで嘘みたいに元気だった。
 MRIの検査の為、検査室に遥を見送った後、順子さんと廊下のソファーで並んで座る。
 遥を見送るところまでは笑顔だった順子さんが、疲れを見せた顔でため息をついた。何と声を掛けたものかと悩んでいると、順子さんが苦しそうに笑顔を作る。

「丞君、駆け付けてくれてありがとう。遥も嬉しかったと思う」

「いえ…、何か出来るわけじゃないですけど…」

「丞君がいるだけで、それだけで何だかね…心強く思う。ほら、うちは男手ないから。まだまだ細い柱だけど、私も寄り掛かっちゃってるのかも…」

「細い柱ですか…」

「ごめんね…」

 順子さんは視線を向かいのソファーに定めたまま、静かな細い声で謝った。その謝罪が今の会話を指しているのか、この状況を指しているのか僕には分らなかった。


 病院特有の重たい空気が漂っていた。しばらくの沈黙の後、順子さんが言う。終わったと思っていた、先ほどの会話の続きなのかもしれない。

「こんな風にしてると、昔を思い出しちゃうの…。遥のお父さんが病院に運ばれた時のこと…。うん、私の旦那さん…。彼の時もこんな風に向かいのソファーを見つめながら検査が終わるのを待ち続けてたっけ。遥は本当に静かな子でね、病院でも私の横で静かに座っていてくれた。子供ながらに我慢もしてたと思うの。私なんて彼が心配で途方に暮れてるのに、その横で遥も私に付き合って、静かに一緒に座って待っててくれた…」

 僕は何と言えば良いのか解らなかった。旦那さんを病で亡くし、娘の原因不明の病状を見つめる人に対し、何か言葉がかけられるほどの経験値は僕には無かった。
 遥は今どんな気持ちなんだろう。ふと僕はそんなことも思った。父親を病で亡くした遥は、今の原因不明の病状をどんな気持ちで見つめているのだろう。父の当時の病状を、母の見つめる先を、その時隣で見つめていた遥は今何を思うのだろう。今僕にできることは何か。かつての遥ほど幼くはなく、そしてその当時の順子さんと、今僕は同じ年代な筈なのだ。

「順子さん…」

 僕は順子さんに静かに言う。

「もし、僕に何かできることがあるのなら、何でも言って欲しいです。力仕事以外でも僕に何かできることがあれば、どんなことでもしたいです」

 我ながら不器用すぎる申し出だった。でも僕は本当に何か力になりたかったのだ。
 順子さんはやっと笑顔を取り戻した。順子さんの笑顔はやはり、儚さの中の煌めきなのだと、僕は改めて思った。

「ありがとう。丞君、ずっと遥のそばにいてあげて欲しい。これからもずっと…。それだけが、遥の母としての、私の願い…」


 その後も各科で検査は続き、最後に内科の医師からの話があった。
 内科の医師からの話を僕は聞くことができなかったが、その間にタクシーを呼び、医師との話しを終えた二人と駅へ向かった。
 タクシーを降りてから、皆空腹だったことを思い出し、駅近くのうどん屋に入った。
 遥はいつもの様に変わらぬ元気さを、僕に見せつけていた。
 あまりに元気にうどんを啜り上げるものだから、僕は遥を揶揄からかう。

「今朝気を失った人がすごい食べっぷりだね」

「言っときますけど、私は元気ですから」

 僕と遥のやり取りをいつも笑って見ているはずの順子さんは、笑ってはいなかった。困ったように僕たちを見つめ、無理やりに口角を上げるのだった。
 先ほどは内科の医師と何を話したのだろう。僕はその事を切り出そうか迷っていたが、結局切り出すことができなかった。一種異様な順子さんの、泣きださんばかりの笑顔が、僕をそうさせていたのだ。
 その時の僕は思っていた。人生の時計というものがあるのなら、僕たちは今何時を指しているのだろう。今同じ時間を共有していても12分割された文字盤の上で、それぞれの時計の針は、皆違った方向を指しているのだ。
 そしてまた僕は思う。なぜ今、こんなことを考えてしまうのだろう。遥につられて笑っている自分が、何だか滑稽にすら感じていた。病院の廊下で順子さんは願っていたのだ。僕にずっと娘のそばにいて欲しいのだと。もちろん僕だってそう願って止まない。僕たちの時計の針は、多少の誤差は認めるものの、ずっとずっと一緒に…。
 そう強く願って止まないのだから。


第13話 轍


 翌日の勤務中も、ふとした時に遥の事が気にかかった。
 本当に遥のここのところの様子は、おかしいと言う他なかった。路上で気を失って搬送されるなんて通常ではあり得ない事じゃないか。関節の痛みも、発熱も、何よりどうしてすぐに回復するのか。一つ一つの症状は日常的にあるのかもしれないけれど、あれほど苦しんでいるにもかかわらず、次の瞬間にはケロッとしていることが、僕にとっては何よりも不可解であり、恐怖すら感じるのだ。
 本当なら回復を喜ばなくてはならない筈なのに、苦痛と回復の速さに、僕は胸騒ぎばかり感じていたのだった。
 しかし、僕には強く心に思うこともある。どんな時だって、僕は遥のそばにいると云う事だ。大学一年の新歓コンパで遥は僕たちの出会いを運命だと言った。それから僕たちはずっと同じ時を過ごしてきたのだ。同じものを食べ、同じ時に笑い、同じ月日を重ねた。僕もあの瞬間、同じように運命と思った。僕たちの重なり合ったわだちは、この先だって同じ形を刻み続けるはずだ。
 あのコンパの時は、あれほど勢いだった遥が、実は人と話すことが苦手だと知った時、僕はどうしようもないくらいの愛しさを感じたことを今でも覚えている。


「これって運命よね!」

 遥は突然声を上げた。そのことがよほど恥ずかしかったらしく、遥はすぐに肩をすぼませるようにして背中を僕に向けた。遥の向こうに座る男と話すわけでもなく、しばらくじっと背を向けたままだった。
 やがて向こう側の男が遥の存在に気付いて話しかけても、遥は恥ずかしそうに押し黙ったまま、その男の言葉に相槌を繰り返すばかりだった。
 僕も慣れない環境だったから、目の前の料理を眺め、でも話す相手もいなくて、押し黙る。そして意を決して遥に話しかけたのだ。

「同じ学部だよね…」

 遥は恥ずかしそうにうつむいたままだった。

「講堂でも隣だったよね…」

 僕だって初対面の人間とすんなり話ができる程、器用でもないのだ。遥は俯きながらも、こくりと頷いた。

「僕は宮内丞です」

 我ながらおかしな自己紹介だった。遥は少しだけ間をおいて、絞り出すように小さな声で言った。

「あの…、寺下です。…寺下遥です」

 でも結局そのコンパの間、僕たちが交わした会話はそれだけだった。
 ただコンパが開らけ、2次会の誘いを断った僕が駅に向かって歩いている時、同じく駅に向かい、一人で僕の後ろを歩いていたのは遥だった。
 僕は遥の存在に気が付くとすぐに声をかけた。

「寺下さんもこっちですか?」

 遥は驚いたように立ち止まった。すぐに僕は駆け寄った。

「僕は駅に。同じ方向なら一緒に行きませんか?」

「あ、あの…。遥です。遥でお願いします…」

 どうやら遥と呼んで欲しいようだった。
 僕は少しだけ可笑しくて吹き出してしまい、そのあとすぐにそれを収め、遥に言う。

「じゃあ僕の事は丞で」

 遥は少し困った顔をして、うつむき加減で言う。

「丞ちゃん…が、いいです」

 そんな風にして僕たちは初めて一緒に電車に乗ることになる。
 ホームで待つ間、たどたどしく連絡先を交換し、遥の自宅より駅4つ向こうの僕が電車から先に降りる遥を見送った。
 一人になった電車の中で、僕はその日の出来事を思い起こしていた。
 遥の事は、可愛らしいけれど少し変わった子だと思っていた。コンパの席で遥を挟んでいた反対側の男も、小柄でかわいい顔をした遥に必死に話しかけていたようだった。遥は全くのところ彼には相槌すらするものの、相手にはしていなかったのだ。
 しばらくすると遥からのメッセージが届いた。

〈さっきはごめんなさい。私は初めての人と上手く話せません。男の子も苦手です。でも丞ちゃんが嫌じゃなかったら、また話しかけてください。今日はありがとうございました〉

 遥が僕と普通に会話ができるようになるには、まだ少し時間がかかったけれど、僕たちはそれから毎日のように同じ時間を過ごしてきた。おかげで遥はいまだに他の人には話し下手ではあるにもかかわらず、僕にはかなり言いたいことを言ってのけるまでになったのだ。

 その日最後の現場が終わり、帰社して手帳を広げた。
 それぞれの施主とのやり取りのメモを取り出し、項目ごとに資料に起こす。
 PCの時計に目をやるとすでに19時半を回っていた。少し根詰め過ぎかな。両手を広げて、身体を伸ばすと順子さんからの着信がある。慌ててスマホをタップすると、遥がまた病院に運ばれたとの知らせだった。急いで帰り支度をし、会社を出た。


第14話 はじめから決まっていること


 遥が搬送されたのは、昨日と同じ総合病院の救急外来だった。
 駅からタクシーを飛ばし、正面玄関はすでに閉まっていたので、救急外来口から院内に入る。
 外来の入り口で待っていた順子さんに促され、遥が寝かしつけられているベッドに辿り着く。用意されたパイプ椅子に順子さんと隣り合わせに座り、ベッドで眠る遥の安らかな寝顔を眺める。
 倒れた時に顔を擦りむいたらしく、頬骨辺りにガーゼが当てられていた。でもそれ以外には救急搬送された人間とは思えないほど、穏やかな寝顔だった。痛みや苦しみとは程遠いその寝顔を見つめていると、順子さんが口を開く。

「丞君、遥がこんな事になって心配でしょう…」

「それは…、もちろんです」

 順子さんの質問は、どこかこの身とは遠く離れた所から聞こえる様な感じだった。
 僕はそんな順子さんを、この場に引き寄せたくて呟くともなく訊ねる。

「どうしてこんなことに…。本当に原因は解らないんですか?」

 順子さんは答えなかった。
 遥の寝顔を一点に見つめ続けている。
 それからいったん両手で顔を覆い、その両手を口元に当てる。祈っている様にも見えた。

「丞君…」

 順子さんの呼び掛けに、僕は遥を見つめたまま答える。

「はい…」

「これからもずっと一緒にいてあげて欲しい…。遥、こんな風だけど…」

「順子さん」

 僕は少し強い調子で答える。

「もちろんです。僕はこれからだって遥とずっと一緒にいるつもりです。拒絶されない限り」

「丞君…、ありがとう…」

 順子さんは涙ぐんでいるようにも見えた。
 ここの所、順子さんの悲しい顔ばかり見ているような気がした。三人でテーブルを囲んで笑い合っていたスナックタイムが、ひどく遠くの出来事のように思える。ほんの二週間程度の間に、我々は予想だにしない場所まで流されてきてしまった気さえ思う。

 しばらくすると遥がゆっくりと目を開いた。少しだけ身体を動かそうとしたようだが、すぐに元の体勢に戻り、顔だけこちらに向け、我々に謝る。

「ごめんなさい…」

 順子さんがすぐに遥の頭を撫で、彼女に言う。

「誰が悪いこともないじゃない…」

 そのあとは誰も声を発しなかった。

 しばらくすると昨日担当した内科の医師が顔を出した。
 気を失った状況などを遥に質問している。
 気を失うというよりも足が先にもつれてしまったのだと遥は答える。
 医師はその他にも、遥の今日一日の出来事などをざっと質問していた。
 一通り聞き終わると、医師はこれから手続きをして、今晩は病室で様子を見るようにと我々に言う。
 順子さんはいくつかの書類に必要事項を記入し、パジャマなどを自宅に取り行くからと僕に告げる。

「丞君、もう少し遥かに付いていて欲しいんだけど」

 僕は心得たとばかりに頷く。

「もちろんです…」

 病院のベッドの準備ができるまでの間、遥は外来のベッドに横たわり、僕はまたパイプ椅子で遥の横に座る。
 遥が僕に謝る。

「丞ちゃん、ごめんね。本当に…」

「気にしないで、こんな事くらい。でも本当にびっくりしたよ」

「丞ちゃん、少し顔が疲れてるみたい…」

「まあ、仕事帰りだったしね」

「私の身体には何が起きてるんだろ?」

「僕もそれが心配で仕方ないよ。本当にどうしたんだろう、って」

 病室の準備ができたと看護師に伝えられ、移動を促される。遥は自分で歩けるというので、我々は一緒に看護師の後について行く。
 病室は六人使いの大部屋で、僕はすぐに順子さんに病室の番号を伝えるメッセージを送る。
 病室の説明を終えた看護師が去った後、遥はベッドに腰掛けたまま、その横の椅子に腰かける僕に訊ねる。
 パテーションカーテン越しに、隣の患者さんがイヤホンマイクでテレビを観ている陰影が静かに揺れている。

「丞ちゃん…、私このままだったらどうしよう…。もしこのまま治らない病気だったら…」

 僕は少し考えた後、遥に微笑む。さっき順子さんが僕に言ったことを反芻する。

「もしそうだとしても、ずっと遥のそばにいるよ…」

 嬉しかったのか遥は僕の手を握り、ベッドに座ったまま、その手をぶらぶらとさせる。
 僕は思わず吹き出す。

「なんだよそれ。遥ぜんぜん元気じゃん! 弱気なこと言うから真剣に答えたよ」

 そのあとすぐに順子さんが到着し、面会時間は過ぎているからとの看護師から指示もあり、僕だけがお払い箱になる。
 エレベーターホールまで遥と順子さんが見送ってくれた。
 一階のエントランスに到着し、ひっそりと静まり返ったロビーを抜け、受付横の電話でタクシーを呼んだ。
 タクシーを待つまでの間、ロビーの待合の椅子に座り、暗く高い天井を見上げる。
 こんなことは考えたくはなかったけれど、もしも遥の身体がこのままだったらどうするのかと自問する。
 答えなんてはじめから決まっているこの問いに、僕は悲しい気持ちになる。そう、答えなんてはじめから決まっているのに、どうしてこんなにやるせない気持ちになるのだろう。
 暗く高い天井は何も答えてはくれなかった。答えなんて、はじめから決まっているのだから。


第15話 不安な日


 翌日もいつもの様に出社し、いつもの様に部内朝礼に参加した。

 全く変わらない日常の始まりなのに、遥のことが気にかかり、気持ちのどこかが常にざわつきを帯びていた。
 朝礼の後に木村さんから声をかけられるも、僕はどこか上の空だった。

「宮内、聞いてるのか?」

「あ、はい…」

 以前上司の天野さんと担当したビルについての問い合わせが、木村さんの部署にあったようだった。そのことで木村さんからいくつか質問を受けていた。

「なあ、宮内どうした? 今週、っていうか最近。なんか変だぞ」

「すみません…、大丈夫です」

「悩みがあるんなら聞くぞ。今日あたりどうだ?」

 木村さんはいつもの調子で僕の背中を思い切り叩く。急に現実に帰ったような衝撃に、自分でもハッとする。

「ちょっと、痛いですよ木村さん」

 木村さんは豪快に笑う。

「だから宮内よ、今日どうだっての?」

「木村さん、今日はすみません!」

「何だよ、おい。せっかく話聞いてやろうってのに。これで俺はまた独りぼっちなのかよ」

「木村さん、本当に、今日だけはすみません」

 僕は手を合わせて頭を下げる。

「分かったよ。良いよ、宮内。そんな時もある。俺はこれから泣きながら仕事をするがお前は俺に構うな。絶対に構うなよ」

 木村さんは泣き芝居を交えながら、また僕の背中を叩き、豪快に笑って持ち場に去っていく。今日の終業後は遥の家に顔を出すことに決めていた。おそらく遥は午前中には退院し、その後自宅に戻るはずだ。
 さっきもスマホを確認したが、まだメッセージは届いていなかった。
 遥の病状や様子が解らないこと。それがこの胸のざわつきの正体であることは明らかだった。思い返せば、今までにこんな経験をしたことがなかったのだ。遥はいつも僕の前では元気だったし、病院に行くという話も今までに聞いたことがなかった。大学から僕たちはずっとそんな風に過ごしてきた。片時もその存在に影がかかったこともなかった。
 今僕が遥を想う時、何か判然としないもやのようなものがかげっていた。このざわつきを一刻も早く払拭ふっしょくしたい。つまりは、遥の屈託のない笑顔を今すぐにでもこの目に映したかった。
 本当に、ただそれだけだった。


 結局終業時間が過ぎても遥からのメッセージはなかった。
 会社のデスクに座り、今日現場を回った時のメモを掘り起こし、PCモニターを睨みつけ、タスクとして起こす。
 不意に外回りから戻った木村さんと目が合う。
 木村さんが僕の肩を叩く。

「宮内、まだ間に合うぞ!」

「木村さん、だから今日は本当にすみません」

「分かってるよ、宮内。最後にあがかせてくれよ。今日はお袋が見てくれるって言うからさ、これから一人で金時よ」

「また誘ってくださいよ、必ず」

 そんな会話を交わしていると、スマホが遥からのメッセージを伝える。
 木村さんが嬉しそうに破顔する。

「宮内、すぐにメッセージ返してやれよ」

 そう言うとご機嫌に自分のデスクで帰り支度をしている。
 遥からのメッセージを開くと、病状の報告、それに転院の知らせと病室番号を手短に伝えるものだった。
 どうやら遥は大学病院に転院し、二週間ほどの入院が必要らしかった。
 急いで僕も帰り支度をし、木村さんに頭を下げフロアを出る。
 駅でタクシーに乗り込み、行き先を告げる。
 大学病院に向かうタクシーの中でもう一度スマホを開き、遥からのメッセージを確認した。「遺伝性自己炎症疾患」というのが遥の病名のようだった。遺伝性という箇所がやけに気になる。前に順子さんから聞いた遥のお父さんの話を思い出していた。遥のお父さんも原因不明の発熱に悩まされたのだと、順子さんは言っていた。遥の発熱もそこに繋がっているのだろうか。遥のお父さんは繰り返す発熱の末に亡くなっているんじゃないのか。考えれば考えるほど不安でしかなかった。こんな時のタクシーでの移動はもどかしい。自分の運転ならもっと早く遥のもとに辿り着けるのに。
 僕は下を向き、祈る気持ちで両手を組み合わせる。面会時間に間に合うだろうか。


第16話 バランスを崩すトライアングル


 病院の入り口でタクシーを降り、ロビーを抜けて東病棟のエレベーターに乗る。
 6階のエントランスから該当の病室の前に辿り着き、ノックをする。
 どうぞ、と云うどこかのどかとも思える遥の声が聞こえ、扉を開けて入室する。
 広い一人部屋の窓際のベッドに遥は腰かけ、その横のパイプ椅子に順子さんが座っていた。
 僕の予想に反し、あまりにのどかな二人の顔を見比べる。二人ののどかな様子に驚く僕の声は、後から考えると、ひどく素っ頓狂なものだったかもしれない。

「大丈夫なんですか?」

 順子さんがすぐに答える。

「丞君、ありがとう。遥の病気もちょっとだけややこしいけど、でも全く治らないわけじゃないみたい。長いお付き合いにはなりそうだけど」

「丞ちゃん、私は元気だよ。きっと大丈夫!」

 遥も笑顔で言う。まるで狐にでもつままれているような気分だった。
 二人が説明するところによると、今回の入院は検査入院という意味合いが強いとのことだった。遥の病気は僕が思ったように父親からの遺伝ということだった。病気としては近年病名が付いたものらしく、難病ではあるものの、治癒した報告例も出てきているのだということだ。
 それと遥の場合、温度差によって症状が顕在化するのだという。それから、この病室は本来二人部屋なのだけれど、他に患者さんがいないことから一人で使えるのだと遥ははしゃいで言うのだった。

 二人の説明を受けながらも判然としない部分があった。
 遥も順子さんもまるで楽しそうに笑うのだ。僕一人が深刻な顔でいるわけにもいかず、というか、二人のペースに引っ張られるように、僕も冗談が言えるほどに気持ちが晴れ渡っている事に気がついた。
 何か少し前までの恒例行事だったスナックタイムのような雰囲気だ。こんな穏やかな気持ちになったのはどれくらいぶりだろうか。
 そうは言ってみても、最後のスナックタイムだって、ほんの少し前のことなのだ。
 遥と順子さん、そして僕と云うこのトライアングルは、何とも気持ちがほぐれるのだ。
 そんなのどかな気持ちに浸っていると、看護師が現れて面会時間はすでに終わっているのだと告げられる。

「明日も顔出すから」

 僕は二人に告げ、病室を後にする。1階のロビーでタクシーを呼び、椅子に掛けて待っていると、順子さんもエントランスの方から僕を追うようにして小走りに歩いてきた。

「丞君、一緒に帰らない?」

「同じ方向ですもんね」

 僕は言い、すぐに到着したタクシーに、順子さんと乗り込む。
 タクシーの中では僕も順子さんも特に何も話さなかった。お互いに何か話さなくては、そんな空気は漂っていた。
 僕は必死に何か切り出そうと何度も試みたが、何かを切り出すと溢れ出してしまいそうな、そんな危うい心持だった。
 結局、僕と順子さんは一言も話さず、駅でタクシーを降りた。乗車賃は僕が払うと言ったのだけれど、順子さんは聞かなかった。

「丞君、もう少し付き合ってくれない?」

 その代わり、順子さんはそう言うのだった。

「分かりました…」

 僕は答えた。

 僕と順子さんはそのまま駅の近くにあるカフェで向かい合った。
 僕も順子さんもアイスコーヒーを注文する。
 順子さんは、アイスコーヒーをストローから一口飲むと、切り出した。

「丞君、もう一度聞いてもいい?」

「はい」

「遥の病気のこと聞いたでしょ。あの子の病気、かなり長い付き合いになるってお医者様が…。私はあの子の父親の看病をして、あの病気の辛さはそれなりに解ってるつもり。
 昔は原因不明だったから、対処の仕方も分からなくて大変だったこともあるから、全部が全部昔と同じではないと思う。でも遥はきっと今まで通りって訳にはいかなくなると思うんだ…。
 それとこのことはちょっとセンシティブな問題で、私が今語って良いものなのか少し憚られるのだけど。
 遥の病は遺伝性であること。もちろん百パーセント遺伝する訳でもないらしいんだけど、つまり…」

 順子さんが言わんとすることは、僕にも解った。もし、遥と結婚して運よく子供が授かったとして、その子供のことも併せて順子さんは心配しているのだ。
 でも今の僕にいったいこの先の何が予測できるというのか。僕には今の遥のことしか考えられない。そして、遥が求めているのは、僕自身なのだと自負して憚らない。
 僕は順子さんに言った。

「順子さん、僕はこれからも遥と一緒にいます。さっき言ってたじゃないですか、治らない病気じゃないんだって」

 順子さんは何か言いかけたが、押し黙ってしまった。恐らくは他にもたくさん言いたいことがあったに違いない。何度も目をそらし、また何度も僕の眼を覗き込む視線が、それを物語っていた。
 結局、僕は一口もアイスコーヒーに手を付ける事ができなかった。我々のトライアングルは何かのバランスを失いかけている。そんな気さえした。現にこの僕と順子さんの会話は、先程の病室でのから騒ぎが虚構であった事を如実に証明している。
 順子さんも僕もそれ以上は、何も話さなかった。
 いや、話せなくなっていたのだった。


第17話 腕の中の未知


 遥が転院して初めての土曜日だった。
 病院の面会時間は午後一時からだったので、その時間から毎日面会時間が終わるまで、ずっと遥のそばいたいと僕は思っていた。
 それでも仕事で、どうしても休日を使って進めておきたい案件があり、午前中から職人さんと現場に入った。
 現場に入れば入ったで、更に手を付けたくなる問題も出てきて、結局お昼を食べるのを忘れて仕事に夢中になってしまう。
 元来僕は仕事が好きなようだ。そんなことさえ、思えるようになっていた。以前のようにこの仕事が向いているのかどうかなんて、もう全く考えることが無くなっていた。

「若いのに珍しいな」

 職人さんは僕に言った。
 職人さんはすでに退職していてもおかしくないような老齢だった。
 僕に言葉を投げかけると、首に巻いた手拭いで顔を拭き、再びコンクリートを練り始めた。
 僕は職人さんの投げかけに答える。

「珍しい…、ですか?」

「ああ、若いのに珍しい。こんな休みの日に平気で現場に付き合う」

「あはは。こんな時じゃないとできないこともありますから。それにキリがついてないと何となく休んでいても落ち着かなくて…」

「ケツのすわりが悪い、ってやつだ?」

 職人さんは嬉しそうに作業を続ける。
 僕と同じ年頃の外孫がいるらしく、自分の所にちっとも会いに来ないと愚痴をこぼす。

「そもそもが、俺が娘の育て方を間違ったってことだ」

 僕としては、こうして歳の離れた職人さんたちの話を聞くのも楽しかった。
 いつもの現場とは違い、休日の現場は何故か職人さんも優しかった。おそらくは休日出勤をするという気概が、職人さんたちの厳しい態度を軟化させているのかもしれない。僕にとっては、これも自分の仕事の流儀なのだと思っていた。

 すっかり仕事に打ち込み過ぎてしまい、気がつけば午後の一時を回ってしまっていた。
 急いで仕事を切り上げてコンビニでパンを買い、部屋に戻ってシャワーを浴びる。パンを齧りながら身支度を整え、病院を目指す。
 平日はいつも面会時間ギリギリになってしまうので、今日はしっかりと遥のそばに張り付くつもりだったのだ。


 病室をノックすると遥の返事がある。
 その声色で遥の気分がおおよそ計れる。
 今日は機嫌が良いようだ。
 でもドアを開けて僕を確認すると、途端に遥はすねた口調になった。

「お休みなのにちょっと遅くない?」

「午前中は現場に行かなくちゃいけなかったんだ。これでも急いだんだけど。順子さんはまだ?」

「朝来て色々してくれた。お昼からパートだって」

「そのスイカは?!」

 僕は驚いて訊ねる。
 小玉とはいえ、病室で丸々一個のスイカを見たのは初めてだった。誰かお見舞いにでも来てくれたのだろうか。それにしても豪快なお見舞いと言わざるを得ない。

「さっき会社の同期の子が来てくれて、お見舞いにって」

 僕は驚きとともに笑いも込み上げる。

「一玉はすごいね」

「今から食べない? でも包丁持ち込めないからどうしようかと思って」

 遥は言い、少し困った顔を見せる。

「任せてよ」

 僕は遥に言い、スイカを受け取って、病室に備え付けられている洗面台の角にスイカの腹を軽く打ち付ける。
 数か所そんな風にコツコツと打ち付け、きっかけを見つけて最後に強めに打ち付けるのだ。スイカはバリっと音をたてて見事に割れた。うろ覚えとはいえ、自分でも驚くほどうまく割れて嬉しかった。
 遥は驚いて駆け寄る。

「すごい!」

「真っ二つって訳にはいかないけどね。初めてやったよ。ずっと前に担当した施主さんがこうやって食べさせてくれたことがあったんだ。スプーンはある?」

 それから僕たちはスイカの汁がこぼれないように、二人で洗面台の前に並んでスイカに貪りついた。
 割って大きい方が僕。小さい方が遥。
 病室でスイカを割って食べるというのは、何とも奇妙な体験だった。少しだけ後ろめたくはあるけれど、遥とスイカを貪り食べるのは美味しくて、それに可笑しかった。

「良かったらアジシオもあるよ」

 遥が突然言う。用意が良いなと感心した。
 でも僕はスイカに塩はかけない。

「僕はスイカは塩派じゃないよ。なんでアジシオ?」

「同期の子は私に塩食べさせておけば良いって思ってるみたい」

「じゃあ遥は会社ではいつも腹たてて塩気を求めて彷徨ってるんだ?」

 遥かは腹を立てると、やたらと塩気を求めるのだ。

「ちょっと、それじゃ私が塩の妖怪みたいじゃない!」

 二人ともほぼ同じようにスイカを食べ終わり、手を洗って洗面台もきれいにする。
 遥はベッドに腰かけ、僕がパイプ椅子に腰掛けた。
 いつもは一脚しか使われてないパイプ椅子が二つ並んでいることに気が付く。お見舞いは二人来たのだろうか。

「二人来たの?」

「うん、聡子って子と、営業の望月さん」

 聡子という子の話は今まで聞いたことがあった。
 遥とは同期で、研修の時から気の合う仲だったという。
 おまけに配属も一緒になり、良く誘われては彼女が見つけたレストランで二人で食事をしていた。
 初めの頃は僕も誘われたりしたのだけれど、何を隠そう僕が採用されなかった会社の仲間なのだ。そんなこともあり、遠慮した。
 そのうち誘われることさえ無くなった。
 それにしても、営業の望月という名前は初めて聞いた名前だった。
 しかも男だという。部署が違うのに遥のお見舞いに来るということは、それなりに近しい間からということなのだろうか。
 僕がそのことについて言及すると、遥は答えるのだった。

「いつも聡子と食事に出かけてたでしょ? はじめは聡子がそこに連れてきたんだよ。で、面白いのは、望月さんはずっと私のことを気にかけてたんだって。でも前にショッピングモールで丞ちゃんと喧嘩して仲直りした場面をちょうど目撃したらしいの。
 それ見て諦めて、聡子を通して、会社仲間としてこれからは飲みましょうって。
 それで何度かご一緒したんだよ。すごく誠実な人で、話も上手なんだから」

 何と云うか、全く面白くない話だった。
 聡子ちゃんとの食事に男が加わっているなんて聞いたことがなかった。話し上手ってのも気に入らないし、遥の言う誠実な人という言葉が僕の中でやけに引っ掛かった。

「丞ちゃん聞いてる?」

 明らかに不機嫌になった僕に遥は呼び掛けていた。
 僕はすぐに答える。

「聞いてるよ。でも話し上手な男ってのはどうかな」

「なに怒ってるの?」

「別に怒ってないよ。遥が変な男と飲み歩いてるって聞いてちょっとね…」

「望月さんは変な男なんかじゃないよ」

 聞きたくない言葉だった。自分の心がざわつくのをを感じる。

「そうなんだ? それは良かったよ。遥が素敵な人たちに囲まれてるんで安心したよ」

 遥が悲しそうに僕を見つめていた。その目を見ると急速に自分の言動が恥ずかしく思えてきた。
 一体僕は何に嫉妬しているのか。
 仕事を急いで切り上げ、何のためにこの場所にいるんだ。遥が求めているのは、僕自身だと自負していたんじゃないのか。遥の悲しく縋るような瞳の前に、自分自身が哀れに思えた。こんなことで、この先遥に寄り添って行くことができるのだろうか。
 僕は二つの手を組み合わせ、自分の両ひざにそれを強くぶつける。自分の小ささが悔しかった。

「遥、ごめん…。その人に嫉妬して、くだらない怒りをぶつけてしまった。病気のこともあるから遥はただでさえ不安な筈なのに、変な嫉妬なんかして…ごめん」

 遥はベッドから立ち上がり、もう一つのパイプ椅子を僕の椅子の隣に並べて座る。
 それから僕の組み合わさった両手を覆うように自分の手を添え、身体を密着させる。

「ううん、私こそ、ごめんなさい。丞ちゃんにちゃんと説明できてなかった。
 でもこれだけは丞ちゃんにちゃんと伝えておきたいんだけど、どんなことがあっても私は丞ちゃんの一番になりたいって思ってる。だから丞ちゃんは自信持ってて良いんだからね…」

 一番になりたい。遥はそう言った。でもそれは僕だって同じだ。
 遥は僕の組み合った両手から自分の手を放し、スイカの染みに指をあてる。よく見ると僕のジーンズにはスイカの染みが滲んでいる。
 僕は笑って遥に言う。

「気を付けてたんだけどな…」

 そして今度は僕が彼女の両手を、自分の両手の中に優しく包み込む。

「遥、本当にごめん」

 もう一度謝り、遥の体に腕を回す。
 久しぶりに遥の体を、この腕の中に収めた。遥の小さな体からは優しい香りがした。懐かしくて愛しい香りだ。
 僕はその香りを感じながらじっと窓の外を見ていた。でもその視線とは裏腹に、僕の意識は別の場所にあった。
 僕達はこの先どうなるのだろう。
 遥を抱き寄せながら、何故か僕の心は不安の中にあった。
 こうして遥を抱きしめることができるのに、遥の身身体に起こってるいることは、僕にはまったく解らないのだから。


第18話 僕たちを隔てること


 平日は毎日のように、仕事終わりに遥の病室を訪れた。
 定時きっかりにすべての業務を終わらせたいところではあっても、中々上手く事は運ばない。
 だからいつも面会時間ギリギリになってしまうのだ。
 木村さんからの誘いは、二度ほど断っていた。木村さんにはちゃんと遥のことを説明しておきたいとは思いながらも、それも出来ていないのがもどかしかった。
 木村さんと鉢合わすタイミングは決まって、どちらかが急いでいる時だった。
 ある時は終業後、僕が急いで病室に向かっている時だった。
 木村と会社の入っているビルの玄関口で鉢合わせた。
 僕が出口を出るタイミングで、木村さんは帰社したところだった。

「木村さん、お疲れ様です。お先に失礼します」

 僕が頭を下げると、木村さんが僕の肩を叩く

「宮内、今日どうだ?」

「すみません、ちょっと急いで行かないといけなくて」

 木村さんは残念を顔に描いたように微笑む。

「宮内、つぎ断ったらご号泣するからな」

 またある時は、昼休憩で昼食に誘おうと木村さんのフロアに向かっている時だった。
 木村さんは急いでフロアから出て行こうとしていた。
 僕は木村さんを引き留める。

「木村さん、ランチどうですか? ちょっと話しておきたいこともあって…」

「宮内、ごめんな! 今すぐ現場急行だ! クレーム処理の辛いところだよ。また絶対誘ってくれよ!」

 こんなやり取りが二週間ほど続いていた。


 その日は珍しく、仕事を少し早めに切り上げることができた。
 急いで部屋に戻り、身支度を整えて遥の入院する病院へと向かった。

 いつものように東病棟のエレベーターから六階のエントランスへ。すっかり顔見知りになった受付の看護師さんに頭を下げ、病室の前に立つ。
 扉を二回ノック。ここまではいつもと同じだった。
 少し早めに顔を出すことが出来て、遥はきっと驚くに違いない。僕はそう思っていた。
 しかし遥の病室からは、返事がなかった。
 もしかしたら談話室にでも良いているのだろうか? でも室内からは人の気配はある。ノックに気づかなかったのだろうか?
 僕はもう一度ノックをして、ゆっくりと扉を開く。
 やはり遥は病室にいた。
 でも驚いたことにクローゼットを開けて、着替えの準備をしていた。
 僕は驚いて遥に訊ねる。

「ん? 出かけるところ?」

 遥は珍しく、怒りに任せ、取り乱して言う。

「今すぐこんなところからは出て行くんだよ!」

 遥の只ならぬ雰囲気に、僕は更に驚いた。
 すぐに病室に入り、扉を閉める。
 遥のそばに歩み寄り、その顔を窺う。
 上気した遥の目に、じわりと涙が浮かぶ。

「何があったんだよ…」

 そう言うと僕は遥の両肩を支えるようにして掴む。
 遥は僕の胸の中に飛び込み、縋りつようにして泣き叫んだ。
 一体何があったのだろう。いや、それは愚問と言わざるを得ない。何があったのかどころではなく、遥は自身では抱えられぬほどの有事の渦中にあるのだ。そう思うと胸が苦しかった。遥の小さな体に降り注いでいるものを、僕の力で抱きしめたいと強く思った。
 叫び、唸る遥を、僕は黙って包み込んでいた。何か言ってやろうにも言葉が見つからなかった。胸には、遥の涙が温もりを込めて滲んでいるのが分かった。
 しばらくそのままでいると、遥は少し身体を離し、腕の中から僕を見上げる。

「丞ちゃん…」

 僕は微笑んで返す。

「どうした…? 何かあった?」

 遥は泣き腫らしたままうんと頷き、事の顛末をゆっくり語り始めた。

 遥が語るには、遥が担当していた新商品のコピー担当を、突然外されたのだという。
 つい先ほど二人の上司が見舞いに訪れ、通告されたのことだ。確か商品名も決まったと遥から聞かされていた。
 遥ははじめこそ責務に押しつぶされそうになってはいたが、休日も使い、かなりのコピー案を練り上げていた事を僕は知っている。
 話を聞きながら、僕も悔しくて仕方がなかった。
 遥にやっと訪れた大きなチャンスだったのだ。
 病に臥せったとはいえ、これはそもそも検査入院なのだし、来週には退院することだって決まっているのだ。
 遥はその二人の上司に何も言えなかったのだと、悲しそうに言った。
 僕はそれを聞いてほんの少しだけ微笑ましくも思ってしまった。遥らしい。遥はいつも誰かに何かを言おうとすると、言葉を呑み込んでしまう。そして僕には言い過ぎるほど、言いたい事が言えてしまうのだった。
 とは言うものの、この理不尽な展開にはいささか納得いかない。
 僕は遥の話を一通り聞き終えると、沸き立つ怒りを言葉にぶつけてみる。

「僕も悔しいよ、来週には退院するって決まってるのに…。遥はここまで沢山の時間を捧げて取り組んできたっていうのに。
 何かぎゃふんと言わせてやりたい! 会社に乗り込んで《《オレ》》が一言掛け合ってくる!」

 自分でも可笑しくなるほど、たどたどしいセリフだった。
 遥はクスリと笑う。
 でもその小さな笑いに救われたのは僕の方だ。

「丞ちゃん、ありがとう。初めて丞ちゃんがオレって言った。でもぜんぜん似合ってないよ。会社に乗り込む気だって全然ないくせに」

 僕も吹き出す。
 遥が落ち着いてくれて安心した。

「こういうのって難しいね。だから現場で職人さん達にやり込まれちゃうのかな」

「丞ちゃん。私、ちゃんと冷静になってきた。確かにまだ悔しいけど…。でもきっとまたチャンスはある。コピーをたくさん考えるのは楽しかったし、また絶対に書かせてもらう。そのためにはまず病気にしっかり向き合わないとね…。
 うーん、それにしても悔しいよ、本当に!」

 本当にそうなのだろうか。僕は思った。
 遥は諦めたのだ。でもそれがこの病気との正しい向き合い方なのかどうか、僕には分からなかった。
 でも、だとしても、僕はそんな遥を抱きしめるつもりでいた。僕には諦めに見えることも、遥には何かを掴み取ることなのかもしれない。降りかかる病の中では、病の中にある人とそうでない人とは、見えない境界線で隔てられてしまっているのかもしれない。
 僕はその遥の病の中に飛び込んでしまいたかった。
 でもその思い込みこそが僕と遥を隔てているそのものとも思えた。
 陽は長く、まだあたりは暗闇に沈んではいなかった。
 黄昏行く病室で、僕は少しだけ悲しくなっていた。


第19話 僕なりのおせっかい


 午前中は、見積もりの作成に行き詰ってしまい、午後一に、購買部に赴く。
 購買部の受付には新入社員の佐々木さんが、何かの書類に目を通していた。
 彼女は男ばかりの購買部で、静かに淡々と業務をこなしていた。
 その姿はまるで堂に入っていて、新入社員とは思えないほどだ。
 しかしながら彼女の容姿については、社内でも時々話題にのぼるほど、人目を惹くものがあった。
 木村さんに言わせば、購買部に咲く可憐な花。或いはむさ苦しい砂漠のオアシスなどと嬉しそうに語っていたのだが、彼女の方は必死に話しかける木村さんを見事なまでに冷たくあしらっていた。
 確かにメーカーとの折衝も多く、強面こわもての購買部での安らぎであることは、僕も否定できなかった。

「あの、中川課長は在席ですか?」

 僕は佐々木さんに訊ねた。佐々木さんは書類から目を離し、僕を一瞥する。

「アポはありますか?」

 やはり応対一つとっても新入社員とは思えないくらいの落ち着きだった。僕は答えた。

「いや、それほどの用でもないので、もし在席中ならと思って」

 購買部のフロアを見渡すと、部長と立ち話をしてる中川さんを見つけた。
 中川さんは僕と目を合わせると、部長との話を切り上げて駆け寄ってきてくれた。
 僕は佐々木さんに小さく礼を述べ、中に進み出る。
 佐々木さんは、いえと小さく答え、また書類に目を戻した。

「宮内、どうした?」

 中川さんは嬉しそうに訊ねる。以前値下げ要求の強い施主の案件で相談に乗ってもらって以来、中川さんは僕に親しく接してくれるようになった。たまたま地元の中学校区が同じだったことも、僕を気に掛けてくれるきっかけの大きな要因だ。
 僕は手に持っていた図面と見積もりを中川さんに見せる。

「実は見積もりの価格で、値引要求されているわけではないんですけど、施主さんの想いに応えたくて…」

「おっ、そういうの良いじゃないか、宮内」

「で、ここの部分なんですが…」

 僕は図面の浴室の所を指さす。
 この物件は施主の要求で、2人用のサウナと外気浴デッキをしつらえることになっている。
 そうすると、どうしても価格が跳ね上がってしまうのだ。
 どちらかの規模を変えて応じるか、或いは両方の規模を小さくするというのが常だ。
 でも僕としてはサウナの規模も、外気浴デッキの規模も、二人用に維持したかった。
 それと云いうのも、施主さんには小さな息子さんがいて、将来はこの場所が二人のコミュニケーションエリアになるのではないかと、僕なりに想像していたからだった。
 中川さんは僕の話を聞きながら、腕を組んで唸り声をあげる。

「宮内、その気持ちはいい。でもそれはちとキツイぞ…。課長の俺でもちとキツイぞ…」

「やっぱり、ちょっと難しいですよね。他のエリアは奥さんの要求で確定してるんです。でも他のことは要求しないお父さんが、唯一要求したところなんですよ。ここ削るとお父さんの居場所も…」

「宮内、辛いぞ。お父さんの気持ち、お前も分かるよなぁ」

「はい、だからここはお父さんの将来も、お父さんの現在も削りたくないんです。中川さん…」

 中川さんはさらに唸り、腕組に力が入る。
 そして散々唸った挙句、何故か僕に何度も謝る。 

「すまん、宮内。すまん!」

 そう言うと、逃げるように自分のデスクに向かって行く。
 一連のやり取りを目の前で見ていた佐々木さんが、下を向きながらクスッと笑う。
 僕は佐々木さんに笑って返し、購買部を後にする。
 やっぱり駄目だった。でも何とかしたかった。ここの金額を抑えて、施主さんの未来を僕の手で輝かせてあげたかった。何かほかに良い方法がないだろうか。
 そんなことを考えながら自分のデスクに戻った。
 おせっかいの先の先は、僕にとっては困難が多いのだ。
 しかし最近は、施主さんたちの喜ぶ顔を想像して働く事が、本当に楽しくなっていた。


第20話 静かな夜


 翌週の水曜日は遥の退院の日だった。
 僕としては有休休暇を使い、遥の退院を手伝いたいのだと申し出ていた。
 しかし遥にも順子さんにも、それほどの大ごとではないからと、この申し出を断られてしまったのだ。
 結局当日は出勤し、でも定時に退勤した。
 ありがたい事に、夕方には遥の自宅に顔を出すことができた。
 いつものスーパーに立ち寄り、スナック菓子を購入する。ついうっかり缶ビールに手が伸びてしまい、慌てて元に戻す。遥は病み上がりなのだし、抗生物質を服用しているのだ。アルコールは当然良くない。久しぶりに病院の外で遥と会えることで、僕は浮足立っていた。唯々嬉しかったのだ。

 玄関先で明るく出迎える遥に、つい今しがた購入したスナック菓子の袋を手渡す。
 退院おめでとうと伝えると、袋の中身を覗き込んだ遥が、ビールが無いことに不満を口にする。

「なんだ、さっそく飲めると思ったのに」

 それには僕も順子さんも同時に遥を睨み、同時に言う。

「コラッ!」

 久しぶりの順子さんの手料理だった。
 やはりこうして遥の家でテーブルを囲む食卓が、僕は好きなのだと再認識した。
 穏やかに流れる時間は、いつでも僕の余計な力を脱ぎ捨てさせてくれるのだ。

 夕食後はお茶を手にして、お決まりのスナックタイムという流れに。

「何はともあれ」

 順子さんが言った。

「遥、退院おめでとう」

 僕たちは何故かマグカップで乾杯をする。

「お母さん、丞ちゃん、ありがとう」

 遥は順子さんや僕に向けて礼を言う。

 久しぶりのスナックタイムだったけれど、会話は弾まなかった。
 皆それぞれ唯々この時間を味わっているようにも見えた。
 会話はなくとも、三人とも笑顔だった。
 静かで穏やかな時間が流れていた。
 二人のうちのどちらかに目が合うと笑顔で応える。
 三人で何か会話を探してるようでもあるが、結局はお茶を飲んだり、スナックに手を伸ばしたり、含み笑いをしたりする。
 この心地よい空間を誰も壊さないようにしていた。
 すごく名残惜しかったけれど、思い切って僕は切り出す。

「そろそろ、おいとましなくちゃ」

「えー、まだ早いよ」

 遥が言った。

「遥はまだ病み上がりだし、無理はさせられないよ」

「明日から早速会社に行くんでしょ?」

 順子さんが言って、僕は驚く。

「今日退院してきて、明日もう出勤?!」

「本当に、びっくりでしょ?」

「だってかなり遅れをとっちゃったし、もう寝てられないもん」

 僕も順子さんも呆れた顔で遥を見る。
 不満げに玄関まで見送ってくれる遥かに、僕は言う。

「遥、とにかく無理はしないでね。もし電車がダメそうならタクシーに切り替えても良いと思うよ」

「うん、分かった。ありがとう」

 遥の自宅から遠ざかりながら、僕は夜空を見上げた。
 とてもきれいな月夜だった。
 まるで暗闇に丸い穴が開いているようにも見える。
 もう少し一緒にいたかったな。僕は独り言ちた。
 そして今後のことに思考は及んでいくのだった。
 まずは物理的にどうやって遥を支えて行こうか考えた。
 順子さんはきっと嫌がるだろうが、金銭的にも僕は遥を支えていきたかった。この事は、頃合いを見て申し出ることにすると決めていた。
 でも物理的に遥を支えていくことには、強く働く思考とはまた別の場所で、何か心は取り残されているんじゃないかとすごく不安になった。

 静かな夜だった。
 僕の不安な心の叫びは、まるで夜空にぱっかり空いた穴に吸い込まれてしまうんじゃないかと、静かに怯えていた。


第21話 シンプルに考えること


 現場に向かう直前、購買部の中川課長から内線を受ける。
 すぐに購買部に来られるかとのことだった。
 これからすぐに伺いますと伝え、購買部のフロアへ。
 受付の佐々木さんに用件を伝えようとすると、それより先にどうぞと中へ通される。中川さんのデスクまで行くと、いつもよりさらに上機嫌な中川さんが手を上げる。

「宮内、良い知らせだ」

「もしかして…」

 思わず僕は言ってしまう。先日のサウナと外気浴デッキの案件の話に違いなかった。

「そうだ、例の案件部長に通した。で、OK貰った。な、宮内。俺のお陰だぞ」

「はい、中川さん」

「いやー、こればっかりは俺も無理だと思ったぞ。まあ、当然ちょっと条件も付いたけどな。でも悪い条件じゃないし、むしろ施主さんにとっては好条件だ」

 中川さんの話を聞きながら、僕は一刻も早く施主さんに見積もりを届けたい気持ちが溢れていた。この見積もりが通るのは奇跡に近い。
 僕は中川さんに何度も礼を繰り返した。
 中川さんも嬉しそうにふんぞり返る。地元の後輩の無茶ぶりに応えられたのは、中川さんにとっても嬉しかったに違いない。
 それと、これは後から解った事なのだけれど、この件に関しては受付の佐々木さんの尽力があったとのことだった。この案件を完全に諦めていた中川さんに、佐々木さんが繰り返しお願いしてくれたそうだ。
 そんな事とは知らず、この時の僕は軽く頭を下げて佐々木さんの前を通り、現場に向かったのだった。


 その日の終業後、久しぶりに木村さんと『金時』のカウンターに並んで、生ビールのジョッキを傾けた。
 木村さんは相変わらず大将特製の唐揚げの熱さに悶えながらも舌鼓を打っている。

「宮内さぁ、仕事楽しんでるらしいじゃん?」

「木村さん耳が早いですね。どこからそんな話仕入れるんですか?」

「購買部だよ」

 僕は笑って、木村さんに言う。

「木村さん、どうせまた受付でサボってたんでしょ?」

「宮内言ってくれるよ。俺は常に材料の新しい情報を仕入れてるんだよ」

「それにしては購買部の中より、受付での滞在時間が長くないですか?」

「それは、ほら。砂漠のオアシスで戦士のちょっとした休息な訳だよ…って、おい! なんで俺が宮内に言い訳してるんだっての!」

 木村さんは楽しそうに言うと、ジョッキを飲み干して、お替りを頼む。
 僕もそれに習い、すぐにお替りを頼み、木村さんに言う。

「実は木村さんにずっと話したいことがあったんです」

「前にもそんなこと言ってたな?」

 それから僕は遥のことを木村さんに話した。これまでのことや病気のこと。遥や順子さんへの想い。そんなことを手短に、でも強く語ったのだ。
 木村さんは静かに聞きながら頷いたり、目を閉じたりしながら耳を傾けてくれていた。

「木村さん、こないだまで急いで帰っていたのはその為なんです」

「そうか」

 木村さんは短く答えた。それからジョッキのビールを喉に通す。

「簡単なことは言えねーけど、大切にしないとな、そのこ」

「はい。でも自分に何ができるのかっていつも悩んでしまうんです」

「当たりめーだよ、そんなの。だって自分じゃないんだからさ。だけどさ、自分事なんだよ。いっぱい悩めばいいんだよ。
 でさ、とにかく悩んで、考えて、お前ができることをさ、押しつけがましくなくやってみたら良いんじゃないのかな。
 ずっと一緒にいたんだろ? そんなお前にしかできないこともある。でも考えれば考えるほど難しいな、こういうのは」

 木村さんにしては歯切れの悪い言い方だった。でもそれは遥のことを語った僕の気持ちの反映なのだと思っていた。
 実際遥の病気が分かってから、僕自身の気持ちにもやがかかっているのは確かだった。
 木村さんに遥のことを話したのは、木村さんからの誘いを断ってしまった言い訳というよりも、木村さんなら明確な答えを持っているのではないかと期待したところが大きかった。
 でもあらゆる明確な答えが、明確な問い掛けの上に成り立つように、やはり僕にはまだ確な問いかけが見つかってはいないのだった。
 そういう意味で、僕は遥の現状について本当の意味で寄り添えていないのかもしれない。

「なあ、宮内。考えるんだけど、考えすぎるな。答えってな、常にシンプルなんだよ。今までずっと一緒だったんだから、お前がその子を想ってパッと思いついたことが、あながち間違いじゃないと思うんだよ。きっとそれがその子にとって一番お前らしい答えなんじゃないか? 
 で、それがその子の嬉しいことだと俺は思う」

 カウンターの中をせわしなく動き回る大将を、僕はじっと眺めていた。
 木村さんの言う通りだった。自分事なんだけど、僕らしい想いがきっと遥は喜んでくれるんじゃないか。喜ばせる事なんかより、大切なのは僕らしくそこにいる事なのかも知れないと、自分なりに結論づけた。
 でも頭ではそうは思っていても、現実に実行するのは難しい。
 実際僕はまたこの先、遥をひどく困らせてしまうのだから。


第22話 中空を漂う問い


 遥は身体のこともあって、会社には在宅ワークを申し出た。
 申し出は無事に受理され、今では通勤することなく会社から振られた仕事に自宅で専念している。
 遥がずっとしたかった宣伝や企画の仕事からは遠ざかることになってしまったが、今は療養に専念した方が良いと僕も思っている。
 週2回ほどは、これまで通り遥の自宅に通っていた。ただ駅での待ち合わせや、そのあとの道中の楽しみが無いのは少し寂しい。僕は道中を辿りながら、同時に二人で歩いた記憶も反芻しながら歩くのだった。

 その日も会社帰りに遥の自宅へ向かう途中、一人スーパーに立ち寄る。お酒は諦めて、スナック菓子をいくつか見積もる。
 とはいえ、こうして一人買い物をするのも嫌いではなかった。遥はどんなお菓子を喜ぶだろうかとか、順子さんには何が良いのだろうかとか、そんなことを想像しながらの買い物は、それはそれで楽しいのだ。
 お酒の無いスナックタイムも、今では存分に楽しむことが出来るようになっていた。
 でも何故かお酒が無い事への不満は、ただのポーズとして、儀式的に執り行われ続けているのだ。
 遥の自宅に到着し、開口一番挨拶とスナック菓子の袋を仰々しく掲げる。
 出迎えた遥はそれを受け取り、ビールが無い事への不満を呪文のように口にする。
 僕と順子さんは火の舞でも始めるみたいに、遥にお決まりの鋭いまなざしを向ける。
 そんな風にして、三人が声に出して笑うのだ。

 食事を終えて、お待ちかねのスナックタイムだった。
 ここのところ板に付いてきたマグカップでの乾杯。
 そして僕は遥に言う。

「通勤時間から解放されるのは羨ましいな」

「丞ちゃんのお仕事ではそうはいかないもんね」

「少なくとも現場には行かないと」

「転職でもしてみる?」

「転職かぁ…」

 もちろんそんな気なんてなかった。
 木村さんが言うように、僕は今仕事を楽しんでいた。サウナと外気浴デッキの見積もり案件が希望通りにいったことは記憶に新しい。
 お施主さんとは、このまま抱き合うんじゃないかってくらいのハイタッチを交わした。条件としては5年後10年後のメンテナンスは、うちが引き受けるという約定だった。その条件も快諾してもらい、契約に結び付いた。
 お施主さんとその家族に喜ばれることが僕にとっては喜びだった。

「丞ちゃん、今の仕事好きでしょ?」

 遥が僕に訊ねる。

「そうなんだよね。なんかさぁ、特に住宅の仕事が良いんだよ。ご夫婦やご家族の希望を聞きながら、何とかそれを形にしていく感じ。引き渡しの時のご家族の笑顔は達成感を感じるんだ」

「じゃあきっと、将来丞ちゃんが建てる家ってすごいんだろうなぁ~」

 順子さんが割って入る。

「丞君、プレッシャーだね」

 僕は腕を組み、考え込む。

「自分が住む家ってなるとどうなんだろう? 想像もできないかも」

 そうだ自分が建てる家なんて想像したこともなかった。
 お施主さんの要求に応える事ばかりで、自分のことには思い至っていなかった。
 でも僕が建てるとしたらきっと遥の要求をたくさん聞き入れるのかもしれない。遥の身体に優しくて、順子さんも一緒に住めるような家だ。
 広いリビングには小さなバーカウンターと、子供も一緒にくつろいで、みんなで話が弾むような三角形のテーブルがあるのも面白いかもしれない。
 遥はそんな家をどう思ってくれるだろう。漠然とそんな想像を膨らませ、遥に訊ねる。

「遥はどんな家に住みたい?」

 遥は一点を見つめて何か考えていた。もしかしたらこんな家に住みたいと想像を膨らませているのかもしれない。

「遥?」

 僕は遥に呼びかける。

「ぼーっとしてどうかした?」

「ん? 私、ぼーっとしてた?」

「さっきから質問してるのに」

「ん? 何?」

 僕は期待を胸に、もう一度質問を繰り返す。遥はどんな家に住みたいのだろう。

「遥は将来どんな家に住みたい?」

「うん、特に無いかな。そういうの…」

 遥がそっけなく答えた。
 僕の待ち構えていた答えではないこと、それとそっけない返事に僕は驚いた。というか、戸惑ってしまった。

 そのあとの会話はそっちのけで、僕はずっと考えていた。
 遥はどうして、自分の考えを述べなかったのだろう。
 これまでの遥ならこんな会話なら身を乗り出して、我先に自分希望を話していたのに。
 僕は遥の横顔をそっと伺う。
 やはり何か物憂げに一点を見つめていた。どうして僕はこの時、遥を慮る言葉を返せなかったのだろう。
 物憂げに一点を見つめる遥に、僕がその時考えた家を語って聞かせなかったのだろう。
 順子さんは? この時順子さんは何を話していたのだろうか?
 このスナックタイムは優しさの中にあった。でも何だかここのところ少しずつ、僕の考え知ることのできない何かがズレ動き始めていた。
 もしかしたら僕の考えすぎなのかもしれないけれど、僕はそんな風に思っていたのだ。
 将来どんな家に住みたい? 僕はもう一度思った。
 でもその問いは、いったい誰に投げかけたのだろう。遥になのか。順子さんなのか。或いは僕自身になのか。
 この問いは行き場を無くし、このトライアングルの中空を、ずっと漂い続けていた。


第23話 昔と今と


 日曜日は朝から遥の自宅に顔を出した。
 珍しく全く何もない休日を作ることが出来たのだ。
 駅の近くで遥が好きそうなケーキを買い、トランプも持参していた。
 僕としては、遥ゆっくり一日過ごすことが出来る事が嬉しかった。


 玄関で出迎えた遥にケーキを渡し、台所にいる順子さんに挨拶する。

「順子さん、お邪魔します」

「丞君、珍しく今日は早いね」

「本当に珍しく、何もない日を作れたんです。今日は一日中お邪魔していくつもりです」

「私はこれからパートだから、ゆっくりしていって」

「ありがとうございます」

 順子さんが出かけた後、遥はハーブティを淹れながら、楽しそうに僕に訊ねる。

「ケーキはもう食べちゃう?」

「まだでしょ。ケーキは午後のおやつタイムだよ」

「何だか待ちきれない!」

「遥の好きそうなタルトを見繕ってきたから」

「あの箱ってルートゥ・フルーリのだよね!」

「さすが遥は目ざといね」

 僕たちはそれから、僕が持参したトランプでババ抜きを楽しんだ。
 トランプをするのは、本当に何年ぶりのことだろう。
 社会人になってからは一度もしていなかったと思う。
 何せ自分がトランプを持っていた事さえ、忘れてしまいそうなほどだったのだ。

 遥が懐かしそうにカードを眺める。

「これって大学の頃、旅行したときのだよね?」

「そうだったね」

 そうだ確か熱海に行った時、ホテルの売店で買ったんだった。
 遥がホテルの夜はトランプでしょ、と半ば強引に僕は買わされたのだ。
 実際、ホテルの部屋でトランプをはじめてみると、二人でかなり白熱したことを記憶している。
 そんな事もあって、このトランプはその後も僕たちの旅行には欠かせないものになっていた。あるときは北海道。またある時は高知へと、僕たちの旅には必ず随行してくれたトランプだ。


 遥は僕の持ち札の、最後の2枚のうちの1枚を慎重に選ぼうとしていた。
 遥の手札はあと一枚。
 スペードの3を引けば、手札を揃えて遥の勝ち。
 ジョーカーを引けば、次は僕が上がり札を選ぶ番だ。
 遥は見事ジョーカーを引き、悲鳴を上げる。

「ギャー! 引いちゃった!」

 あの時と一緒だ。
 僕たちはこんな単純なゲームに大喜びしていたのだ。
 今みたいに、遥はジョーカーを引くと悲鳴を上げる。
 もちろん僕だって、ジョーカーを引けば悲鳴を上げる。
 あの頃も僕たちは、飽きもせずにずっとこんな風に遊び続けていた。
 今こうして悲鳴を上げる遥の姿を見て、一体あの頃と何が違うのかと考える。
 こうして見ている限り、遥はあの頃と何ら変わることなく、元気な姿に見える。これが本当に病人なのかとさえ疑いたくなる。


 今度は僕が遥の手札を引く番だった。
 遥の2枚の手札から上がり札を引くのは、それほど難しくない。
 遥は自分の守りたい札を、じっと見つめる癖がある。
 遥が見つめる札は、いつもジョーカーではなく、引いては欲しくはない方のカードだ。


 遥は僕から見て左の手札をじっと見つめていた。
 大きな瞳と、緊張した面持ちで見据えているのだ。
 僕はわざと右側の手札を引く素振りを見せた。
 遥の口が悲鳴を上げそうに開きかける。
 しかしとっさに僕は、その手をもう片方の手札に向け、一気に引き抜く。悲鳴を上げるのは僕の方だった。遥にしてやられてしまった。
 遥が見つめていた手札はジョーカー方だったのだ。
 遥が喜びの歓声を上げる。

「やったー! 丞ちゃん引っ掛かった! もうあの頃の私じゃないんだから」

 そうだ、僕達はもうあの頃の僕達ではない。
 はしゃぐ遥を眺めながら、何故か妙に納得する。
 そして少しだけ寂しくも思う。
 遥はすぐに僕の手から上がり札を抜き取り、さらなる喜びを爆発させる。

「上がりー! 丞ちゃん、悔しい?」

「悔しーッ!」

 遥が無邪気に笑っている。
 こんな笑顔を見るのは久しぶりな気がした。
 これでいいじゃないか。僕は何となく行き場のない気持ちに折り合いをつける。
 僕たちはあの頃とは違う。
 そんなこと当たり前じゃないか。


 昼食には遥がパスタを作ってくれた。
 以前にも作った事があるらしく、どうしても僕に食べさせたかったのだという。
 遥は台所に立つと、手早く準備を始める。
 普段はどちらかというと不器用に見えるのだが、料理をするときの手際は、驚くほど素早い。この才能は順子さんから譲り受けたものかもしれない。パスタをゆでる音や、ニンニクを刻む音。見る見るうちに美味しそうな匂いが漂ってくる。
 ほんの僅かな間に、テーブルにはサラダにスープ、そしてペペロンチーノが並んだ。
 我々はさっそく手を合わせ、僕は真っ先にペペロンチーノに手を付ける。

「遥、美味しいよ!」

「えへへ。でしょ?」

 遥は嬉しそうに、にっこり微笑む。
 ニンニクの香りや唐辛子の辛味、塩加減も絶妙だった。
 僕は夢中でペペロンチーノを貪り、サラダやスープも味わう。そしてあっという間にすべての料理を平らげてしまった。

「本当においしかった」

 僕が言うと、まだ食べ終わっていない遥は、スープカップに手を添えながら微笑む。
 平和な昼だった。
 テーブルのそばの窓からは、真っ青な空が覗いていた。梅雨も明けた空は分厚い雲が時々流れ、夏そのものといえた。

「天気良いね」

 僕は言った。
 遥はそれに答えるともなく、食べ終えて手を合わせる。
 僕は呆けたように、また口にする。

「すっかり夏って感じだね、遥」

 遥はまたそれにも答えず、食べ終わった食器を重ね、台所へ運ぶ。
 そしてテーブルを拭きあげながら、僕に訊ねる。

「ペペロンチーノ美味しかった?」

「うん、すごくおいしかった」

「どれくらい?」

「そうだなぁ…、もうこれくらい!」

 僕は両手をいっぱいに広げて遥に見せる。
 でもそれだけでは表現できず、今度は上下に手を広げ、面積を広げる。
 遥が嬉しそうに笑う。

「ありがとう。作った甲斐があった」

「本当に遥の料理はおいしいよ、職業間違ったんじゃないかってくらい。料理職人になった方が良かったんじゃない?」

 次の瞬間、遥が叫んだ。
 それは悲鳴にも近かった。

「丞ちゃん」

 遥のテーブルを拭く手が止まる。
 彼女が弱々しく息を吐き出すのが分かった。
 遥は拭きあげていた手で雑巾を握りしめ、その手でテーブルを叩く。

「丞ちゃん…、私は違うよ。私がしたいのは宣伝の仕事だよ!」

 遥の目から大粒の涙が零れ落ちた。全くのところ、僕の頭はおめでたかった。無神経にも程がある。
 遥はこの現状を楽しんでいるわけではないのだ。
 遥はこの現状を必死に受け入れようとしているだけなのだ。
 僕はなんて無神経に言葉を発しているのだろう。

「遥、ごめん…。無神経過ぎた…」

「丞ちゃん…、丞ちゃん…」

 絞り出すように、遥が僕を呼んでいる。うなだれる僕にはどうしたらよいのかさえ思いつかない。
 僕はまた、無神経に遥を困らせてしまったのだ。
 木村さんは言った。お前がその子を想ってパッと思いついたことが、あながち間違いじゃないと思うんだよ、と。
 今僕は遥のことを《《想って》》いただろうか。
 僕はしっかりと遥の背景を、遥の自身を、《《想って》》いたのだろうか。
 さっきだって、むやみに外に出られない遥に、天気の話なんてするんじゃなかったんだ。

「丞ちゃん…」

 遥が言った。
 そして苦しく、悲しく、言葉をつないだ。

「丞ちゃん…、ごめんなさい。違うの…、謝らなくちゃいけないのは…、私の方なんだよ…」

 遥は雑巾を手放し、両手を組んでそれを額に押し付ける。

「丞ちゃん…、ごめんなさい…。私もこの感情をどうしたら良いか分からない。もうぐちゃぐちゃなんだよ。丞ちゃんに悪気が無いって解ってるのに。心が追い付かない。丞ちゃん優しいから色々気遣ってくれるんだけど、そんな優しい丞ちゃんにも苛立っちゃうんだよ。私最低なんだよ…」

 何と答えたらよいのか、僕には分からなかった。でも例えそうだとしても、至らないのは僕の方でしかなかった。僕は傷ついてる目の前の遥に、どう声をかけるべきなのか。
 遥がすすり上げ、僕を見つめた。まだ涙が流れていた。

「丞ちゃん…、今日はもうごめんなさい…」

 情けないことに僕は何も言えなかった。
 結局、遥の病状や現状を、僕は全く理解できていないようだった。
 悲しんでいる遥をこの場に残していくことが正しい事なのかまるで解らないまま、僕は遥の自宅を出た。
 少し歩き、振り返って遥の自宅の方を振り返ると、空は場違いなくらい青かった。
 駅に着く少し手前で、スマホに遥からのメールが届く。

「丞ちゃん、取り乱して本当にごめんなさい。せっかくのお休みだったのに。この病気を受け入れるためには、私にはもう少し時間が必要かもしれません。丞ちゃん、それまで私に時間を下さい。心だけでも必ず元気になります」

 僕はすぐに返信する。

「遥、僕の方こそ無神経でごめんなさい。少し寂しいですが、遥の思うようにすることが、今は一番大事なことのような気がします。僕の方こそ、遥を受け入れるために時間に使おうと思います。ただし待つのは少しだけです。その間に僕自身も今の遥を受け入れる成長を遂げるつもりです。時々メールは下さい」


 電車に乗った後も、しばらくスマホの画面を眺めていたけれど、遥からの返信はなかった。
 僕はこの期に及んでも、遥の家に残してきたタルトの事を、何故かぼんやり考えていたのだ。


第24話 いちばん星


 一週間経っても、遥からの連絡はなかった。
 僕の方からも二度メールを送信して待ってみたが、それにもやはり、遥は応えてはくれなかった。
 日曜の夕方に三度目のメールを送信しようと思い、スマホを取り出してはみたものの、結局そのメールを送ることは躊躇われた。なにを焦ったのか、僕のそのメールは、まるで感情の置き場がおかしくて、文面が整理できていなかった。

 ぽっかりと穴の開いた日曜の夕方をベッドに寝そべったまま天井を見上げて過ごした。
 遥は病室の天井をどんな気持ちで眺めていたのだろうか。そんなことをぼんやりと考えた。
 あの日、遥のペペロンチーノを食べながら僕はどんな会話をすることが良かったのだろうか、そんなことも考えた。
 でも答えなんて見つからない。
 何を話したところで、あの日はどの道、取り乱す遥かに帰結してしまうんじゃないかと思われて仕方が無かった。
 おそらく僕たちにとっては、通らなくては進めないトンネルのような場所だったのではないかとも思う。
 僕にとっても、また遥にとっても、つぎのステージに進むための時間が正に今、ここに与えられているのではないだろうか。
 僕にとって必要なパーツは、今悩み苦しんでいる遥と向き合うための、器のようなものを持つ力量だった。それは今すぐに出来上がるものでもないのかもしれないけれど、僕には今の遥を受け入れる決意は、この一週間で心に蓄えることが出来ていた。
 いや、情けない言い方をすれば、僕自身が今まで通り、遥を必要としていたのだ。
 だから、遥にも今まで通り僕を必要として欲しかった。
 そしてそれは、僕の等身大の切実な願いだったのだ。

 もう一度スマホを取り上げ、遥にメッセージを送ろうと試みるも、やはりしっくりとくる文面を書き出すことが出来なかった。
僕は結局ベッドから起き上がり、部屋を出て、夕暮れの街を歩いた。

 夕涼みにはもってこいの時間だった。
 もしかしたら、遥もこの時間帯なら外に出歩けられるかもしれない。そんなことを考えながら、僕は当てもなく街の中を歩き続けた。
 駅に差し掛かり、何となく電車に乗る。
 思った通り、自然と遥の自宅の最寄り駅で降りてしまう。
 それても意識的に遥の家の方向は避け、駅の南口に出る。
 駅を背にして歩き続けると、勾配のきつい坂道に差し掛かる。
 神社の手前の公園から遊歩道に出て、僕はいつの間にかこの丘の頂上を目指していた。

 思ったほどの急勾配ではなかったが、少しだけ息が上がった。
 頂上にもちょっとした公園があり、僕が到達したころには、日が暮れ始めるところだった。
 暮れなずみ、ぼんやりと街灯が輝き始める街並みを眼下に、息を整える。
 少しだけ自分の気持ちが整うのを感じる。
 こんなところに街を一望できる公園があることを、僕は初めて知った。
 ベンチに腰を下ろし、夜風を浴びる。
 青いフィルムをかぶせたみたいな夜景の中に、遥の住むアパートの部屋の灯を、小さく認める事ができた。
 遥は今何をしているだろう。
 あの小さな灯りの中で、遥は何を想っているのだろう。
 ベンチから立ち上がり、公園を後にする。
 振り返ると黄昏も過ぎた夜空に、確かな明星を見つけた。
 いちばん星。僕はひとり呟く。

 そういえば学生時代、遥と大喧嘩をしたことがあった。
 サークルの仲間たちと長野でキャンプをした時のことだ。
 キャンプと云えばカレーでしょ、という流れになり、それぞれにくじ引きで係を決めることになった。
 カレー係、ご飯係、食材調達係、火起こし係。ざっとこんな役割分担だったと思う。
 運の悪いことに、僕と遥は別々の係になった。
 遥は火起こし係で僕はカレー係だった。
 各係がワイワイしながら仕事を進めていた。
 調達係が買ってきた食材を、僕と一年後輩の亜紀とで調理していた。
 すべての具材を鍋に入れ、火起こし係が組み立てたコンロに置いた。
 火力が少し弱く感じたので、亜紀とうちわで仰いだ。
 額に汗がにじんできたので軍手で拭うと、僕の顔には黒くススが付着してしまった。何故か亜紀の顔にも同じように黒くススが滲んでいて、仲間たちが僕と亜紀の顔を見て爆笑していた。
 仲間の誰かが言った。

「この際、二人付き合っちゃえば? お似合いじゃない?」

 否定したかったが亜紀を傷つけてしまうことを恐れ、僕は皆に向かって曖昧に笑って返した。
 あとで知ったことだが、そんなやり取りを遥は遠くで見ていたのだった。
 しばらくしても遥は戻ってこなかった。
 道に迷ったのではないかと、皆で手分けして探すことにした。
 どこを探しても見つからず、捜索願を出そうかとの話も出た。
 僕はもう一度入念に少し離れた辺りを捜索した。
 そして日が沈み始めたころ、沢の辺りで遥の名を叫ぶと、そこに返す言葉があった。
 すぐに駆け付けた。
 そこには、不安そうな僕を見つめる遥がいのだった。
 でも遥は直ぐに、先ほどの亜紀とのことで、僕を責め立ててきた。遥がこんなところまで歩いてきたのは、それが原因だったのだ。
 僕は皆に迷惑をかけた遥に、強く怒りをぶつけた。こんな子供じみた事をして、どれだけ皆を振り回しているのか。
 それでも引かない遥を、僕はその場に取り残した。勝手にすればいい、と。
 遥は思った通り、僕を追いかけて来た。
 そして後ろから僕にしがみ付き、背中越しに必死に謝罪してきた。私は丞ちゃんの一番になりたいのだと、鼻を啜るほど泣いたのだった。
 薄暗い木々の間から見上げる空には、ひと際輝く一番星が見えたことを僕は今も覚えている。
 それは今日のような綺麗な明星だった。

 もと来た道を下って行き、駅の南口に。
 散々迷ったが、遥の自宅ではなく、自分の部屋にとぼとぼと一人戻った。
 またベッドに横になり、スマホを取り出す。
 遥へのメッセージを思いついたからだった。

「たった今、夕涼みもかねて散歩をしてきました。まだこの季節なら、早朝や夕暮れ時の散歩は気持ち良いかもです」

 スマホの画面をしばらく睨みつけていた。やはり遥からの返事ははやり無かった。


第25話 胸のうちにあること


 仕事の方は順調に進んでいた。
 迷いの中にいた頃とは、不思議なくらい施主さんたちや会社の人たちの反応は違っていた。
 仕事を通して、自分の型みたいなものが出来上がってきたことも、大きな要因と言えた。
 いったん自分の型が出来てくると、職人さんたちとの関係性が上手くいというのは、新鮮な驚きだった。
 どっちつかずの相手とは、仕事ができないといったところかもしれない。そういう意味で仕事に対する覚悟の様なものが、僕の中には生まれていたのかもしれなかった。

 ひどく日差しの照り付ける日だった。
 その日は、一日中現場を駆けずり回っていた。
 お盆休みを控えて、どの現場も追い込みに入っていた。
 じりじりと照り付ける日差しの中では、職人さんたちの健康管理も、僕の大切な仕事の一つでもあった。
 施主さんからの飲み物の差し入れがあり、職人さんたちと囲んで休憩をとっていた。
 スマホの着信がけたたましく鳴り響いたのは、ちょうどそんなタイミングだった。いつだって不思議に思う。よからぬ知らせというのは、いつもと同じ着信音なのに、なぜか違って聞こえることだ。

 胸騒ぎの中、スマホの画面を睨みつけると、順子さんからの着信だった。遥がまた病院に運ばれたのだという。恥ずかしいことに、僕はあれから少しずつ遥へのメッセージを送らなくなってしまっていた。遥からの返信が一向になかったことで、もしかしたら迷惑になっているのではないか、そんな思いからだった。

「すぐに向かいます」

 取り乱す順子さんに僕は伝えた。
 遥が運ばれたのは以前検査入院をした大学病院との事だった。

 すぐに現場の段取りをつけ、会社に連絡をする。
 上司の天野さんに事情を説明すると、心得たとばかりに、他の現場のことも引き受けてくれた。
 天野さんは事務的な性格もあって取っ付きにくい所があったが、一旦信頼関係を構築すると、余計な詮索を挟まず仕事を引き継ぐような、そんなスマートさを持ち合わせた人だった。
 天野さんとは工程表も共有していたので、作業服だった僕はすぐに部屋で着替えて病院へと向かった。

 大学病院の玄関から入り、救急外来の廊下へ向かう。前に何度か来ていたせいで、少しだけ勝手には通じていた。
 外来の廊下には、少し疲れた顔の順子さんがソファーを使わず、じっとしゃがみ込んでいた。
 僕の姿を認めると、縋るように立ち上がる。

「丞君ごめんね、呼び出しちゃって」

「いえ、僕の方は大丈夫です。遥は?」

「今処置を受けてるところ。部屋で急に動けなくなって、私のパート先に連絡が入ったの。めまいがひどいって言って、少し痙攣をおこしてたからすぐに救急車を呼んで…」

 そう順子さんが話しているうちに、担当の医師が現れた。
 医師は難しそうに息を吐きだすと、順子さんに告げる。状態としては貧血だったようで、これも自己炎症疾患に見られる症状の一つなのだという。ただ数値に於いては気になる箇所があるとのことで、もう少し詳しく調べたいとのことだった。

「もう意識は確りしています」

 医師はそう言うと僕の方も見た。

「今日はまた一泊してもらいますが、検査の結果次第では、また二週間ほど入院していただくかもしれません」

 順子さんは唯々従うしかないと云ったような、頷き方をした。
 そしてそのすぐ後に、看護師さんに付き添われて遥がやってきた。
 遥は僕の姿を見ると一瞬嬉しそうに眼を見開いたものの、そんな自分を収めるように気まずく顔を伏せ、僕に呼び掛ける。

「丞ちゃん…」

 僕はうんとだけ、頷いた。
 もう何年も逢っていなかったような気持で、何と言ったら良いのか分からなかったのだ。
 それから我々は、そのまま看護師さんに促されて検査室の方へ移った。
 遥の検査の間、僕と順子さんは検査室のあるロビーのソファーで並びあっていた。
 僕も順子さんもしばらく無言のまま、時を費やしていた。
この状況で、順子さんにどんな言葉をかけたらよいのか分からなかった。
 順子さんも順子さんで、押し黙ったまま一点に視点を定め、何か考えているようだった。
 ややあって、口火を切ったのは順子さんの方だった。

「丞君、聞いてもいい?」

「はい…」

 順子さんの声に少しだけ怒りに近いものが滲んでいるのが分かった。

「どうして遥としばらく会ってなかったの?」

 予想通りの質問だった。かと言って明確な答えを僕は持ち合わせてはいなかった。

「ごめんなさい、順子さん…」

 僕が答えに窮すると、順子さんは我に返ったように、滲ませた怒りを収める。

「丞君、こめん。責めるつもりじゃなかったの。ただ、ここのところ遥の様子もおかしかったし、あの子に質問しても何も教えてくれなくて…。昔から変なところで強情だから…」

 少し迷ったが、僕はあの時の一件を順子さんに話すことにした。戸惑い、疲れてしまっている順子さんを何もわからない場所に置いてけぼりにすることが最善だとは、僕には思えなかったからだ。
 出来るだけ事実を事実のままに、当日のことを順子さんに語った。トランプで遊び、ペペロンチーノを食べ、不用意な一言で僕が遥を傷つけてしまった日の話だ。
 そして、最後に僕は順子さんにも詫びた。ここはやはり僕自身にとっても、無神経さを自覚するところだったからだ。
 静かにゆっくりと頷き、順子さんも僕に詫びる。

「うん、でも丞君は何も悪くないよ。いま遥はこの病気が自分でも抱えきれなくなってるから…。ごめんね」

 それでも何か苦いものが僕の中にはあった。
 たとえ遥がそうであったとしても、僕は遥へのメッセージを途絶えてしまうべきではなかったのだ。もしかしたら、もう僕自身が遥を重荷に感じてしまっているのではないか。病気の遥から目を逸らそうと考えているのではないか。そんな後ろめたさがあった。

「毎度のことなんだけど、また丞君にお願いできないかなぁ。これから入院の準備にいったん家に戻りたいんだけど」

「もちろん、行って来てください。僕がここに残ります。病室など分かり次第連絡します」

 順子さんはやっと少しだけ笑顔を見せてくれた。
 そうだ本来の順子さんは笑顔の良く似合う人だった。

「丞君、なんだか前よりしっかりしてきたね。しっかり社会人みたい」

 僕は少し照れながら笑い返す。おかげで気持ちがほぐれる思いがした。
 そしてもう一度、心の中に不思議に漲るものを感じた。
 単純かもしれないけれど、僕たちに必要なものはそういうものなのかも知れなかった。
 僕は順子さんの背中を見送った後、再びロビーのソファーに座り、遥の検査が終わるのを待った。
 先ほど久しぶりに遥と対面した時の、遥の一瞬見せた嬉しそうな顔。その瞳を見た瞬間の自分自身の胸の内。いや、その喜びを遥自身が納めてしまった時の僕の中の戸惑い。そうした感情を反芻しながら、僕はロビーの壁をじっと見つめていた。
 自分の中にある遠慮が、もしかしたら遥を傷つけてしまっているのではないか。そんな答えが霞の内から見えたような気がした。
 そうだあの日、僕は遥に謝るべきではなかった。卑屈に閉じこもる遥とやり合うべきだったのかもしれない。声を枯らすほどに遥と言い合えば良かったのだ。僕は遥を守っているようで、はれ物に触るように、実際には遠ざけていたのかもしれないのだ。
 その答えに辿りついたのと同じ頃、看護師さんに付き添われて遥がロビーにやってきた。
 すぐに僕から目を逸らす遥かに、順子さんが入院の準備にいったん家に帰ったことを伝える。
 看護師さんは僕と遥を促し、病室へ案内してくれた。
 病室は前回と同じ東病棟六階の同じ部屋だった。そしてこれも前回同様、二人部屋を一人で使えるとのことだ。病室の説明は前回と同じということで省かれた。夕方にもう一度医師から結果と今後について説明があるので、それまでは安静にしていてくださいと付け加えられる。

 静かな病室に二人で残されて、どうしたら良いものか、しばらく僕も遥も立ち尽くしていた。

「ベッドに横になったら。貧血なんだし」

 僕は言った。

 遥は頷くも、何か言いたげに立ち尽くしたままだった。
 僕は意を決し、遥と向き合った。

「遥、あの日のことなんだ。さっきやっと答えが出た。あの日は遥と喧嘩すればよかった。卑屈になるなよって、ちゃんと言ってやるべきだった。遥は何だって出来るんだよ。だって、あの日僕はババ抜きに負けたんだよ。遥にしてやられたんだよ。そんな遥にできないことってあるのかよって!」

「丞ちゃん…」

 遥は懐かしそうに僕の眼を覗き込んだ後、俯いた。
 それから僕のシャツの裾をぎゅっと握りしめ、そのまま腕を回し、胸に飛び込んできた。

「丞ちゃん…、ごめんなさい。たくさん悩ませちゃったよね。丞ちゃんは何も悪くない。本当に何も悪くないんだよ。私もあれからいっぱい考えた。丞ちゃんからのメールに返事が出来なかったけど、私なりにいっぱい考えた…」

 それから遥はしがみ付く腕に力を込めた。シャツ越しに胸の辺りが遥の涙で温かくなっているのが分かった。改めて遥の身体の小ささと、その体温に胸が締め付けられる。
 僕はその身体に腕を回し、優しく力を込める。
 遥は嗚咽し、切なく繰り返す。

「丞ちゃん…、いちばんになりたいよ…。丞ちゃんのいちばんになりたいよ…」

 僕は自分の涙を隠すように、遥の頭上にそっと鼻先を忍ばせる。遥の懐かしい香りが愛しくて仕方が無かった。
 多分先程の僕の答えは見当違いだ。そう僕は思い直していた。
 もしかしたら答えを探そうとしたこと自体、大きく的から外れていたのかもしれない。
 今胸の内にある温もりのほかに、正解なんて見つけられなかった。


第26話 記憶


 遥の病状は、結局のところ快方に向かうどころか、悪化してしまっているようだった。
 また二週間の入院が決まったのだけれど、今回は検査入院ではなく、治療のための入院で、パルス療法を施されるということだった。
 パルス療法とは、少し強めのステロイドを数日投与し、その後数日間は無投与といった風に、間隔をあけて繰り返すことで副作用も抑え、炎症にも強く作用するのだという。
 ただし身体への負担もある事と、経過推移を診ていくということで、入院という運びになったとの事だった。
 遥はこの機会に会社へも辞表を提出したのだと、僕に話してくれた。病気と向き合う覚悟が出来た時から、遥かはそう決めていたようだ。
 僕としては口をはさむ余地もなかった。
 遥の決断を尊重し、寄り添うことが僕自身の覚悟だった。

 遥とのギクシャクした関係は、意外とあっさり解消することが出来た。
 お互い顔を合わせれば、何とかなるもなのだ。
 僕たちが重ねてきたこれまでの長い時間は、言葉では表せない《《間》》というものを醸成してきているのかも知れない。少なくともその時の僕はそう考えていた。


 その日も夕方近くに、遥へメッセージした。
 見舞いに行けそうな日は、こうしてメッセージを送るのが常だった。とは言ってもいつも面会時間ギリギリで、慌ただしく駆けつけるのだった。
 病室の前で呼吸を整え、ノックをする。
 何故か病室からは笑いながら返事を返す遥かの声が聞こえてくる。
 誰かいるのかと訝しく扉を開けると、病室にいたのは遥一人だった。

「誰もいないのに笑ってた?」

「ぼーっと昔のこと想い出してたら、笑ちゃってたみたい」

「何それ、今日の調子はどう?」

 僕はそう言って、ベッドの横の折りたたみ椅子を広げて腰掛ける。

「薬のせいで身体が重たいから、一日中病室に籠ってた」

 ベッドに腰かける遥と向き合うようにして、僕は彼女の顔を覗き込む。

「一人笑いもクスリのせい?」

「ちょっと、変な薬みたいに言わないでよ」

 遥がコロコロと笑うと僕は安心する。
 遥が突然、僕に訊ねる。

「丞ちゃん、私と初めて会った日のこと覚えてる?」

「なんだよ、急に。もちろん覚えてるよ」

「じゃあ、いつ?」

「えーっと、入学式の講堂で」

 遥は納得いかないとばかりに僕を見る。
 僕は更に頭を中を引っ掻き回し、答えを探す。
 それから記憶をたどるように続ける。

「その後、学部の教室でまた会って、サークルの新歓でも会って…、初めて話した」

「それでは半分だけ正解!」

「半分だけ?」

 僕は驚く。半分だけって?

「そう半分」

「どういうこと? 勿体つけずに教えてよ」

「本当はね。もっとずっと前に、私たちは出会ってるんです。大学に入るずっと前」

 大学に入る前?
 さらに混乱してしまった。
 いぶかしく答えを待つ僕に、遥が続ける。

「本当は予備校の模擬試験で初めて会ってるんだよ」

「えっ?」

「高校三年生の春に、模擬試験でこの近くの予備校に来たことあるでしょ? その時、席が隣り合わせているんです。ほら、消しゴムの」

「えーっ! あの時の消しゴムの?!」

 突然僕の頭の中で記憶が繋がる。
 消しゴム事件は覚えている。
 いや、というか僕の中ではそっと心の奥にしまっていたほろ苦い大切な記憶だった。


 高校三年の春、この街の予備校で、僕は模擬試験を受けた。
 わざわざ県を跨いでこの街の予備校へ来たのは、同じくこの街の大学を志望していた友達の発案だった。
 予備校への模擬試験の申し込みも受け付けられ、前日にはホテルに宿泊するという気の入れようだった。
 当日は受験番号の振られた席で行われた。
 友達は少し離れた席になり、同じ長机の隣の席には小柄な女の子が座っていた。
 正直言えば、男子校の僕には、女性は不慣れだった。
 少し離れていても隣というだけで、心穏やかではいられなかった。
 それに隣の女の子は、横目にちらっと見る限りで、も大人しそうではあるが、顔立ちが整っていることはすぐに分かるくらいだった。
 試験開始のまでの間、参考書に目を通して臨戦態勢に入っていた。
 しかし隣の女の子はソワソワと落ち着きがない。
 すぐに消しゴムを忘れたのだと分かった。
 僕は自分の持ってきた消しゴムに定規で少し傷をつけ、半分にちぎり、隣の女の子に渡す。
 何と言ったら良いのかも分からなかったので、ぶっきらぼうになってしまったのだった。

 何とか無事に試験が終わり、僕は忙しく机の上を片付けていた。
 電車の時間も迫っていて、急がなくてはいけなかったのだ。
 筆記用具をリュックにしまっていると、隣の女の子が半分の消しゴムを掌に載せて礼を言い、丁寧に頭を下げる。
 僕は舞い上がってしまい、またぶっきらぼうに彼女の手のひらから消しゴムを受け取り、立ち去った。
 慌てて友達の元へ駆け寄ったのは、恥ずかしさを隠すためだった。

 顔こそしっかり確認はできなかったが、丁寧に頭を下げるしぐさや、大人しく柔らかな雰囲気は、女性に免疫のない僕の心をつかむには十分だったはずだ。
 もう二度と会うこともないのだろうと、ずっと心の奥に大切に仕舞い込んでいた記憶だ。


「そうだよ、ずっと黙ってたけど」

 遥は今まで僕が気付いて無かったことが不服とばかりに続ける。

「多分覚えてないだろうから、今まで言わなかった。あの時の丞ちゃんぶっきらぼうだったし、覚えてないって言われたら傷つくじゃない。そんな事もあって新歓コンパのときは思わず運命って叫んじゃったんだよ」

 なるほど、このエピソードが、新歓コンパの時の遥の「これって運命よね!」のセリフに繋がるわけか。
 でもそれは僕も同じだった。
 もしあの高校生の時に、遥の顔をしっかりと記憶する勇気があったなら、あのセリフは僕が先に叫んだかもしれなかった。
 僕は遥に言う。

「消しゴムの事はよく覚えてるよ。でも正直顔までは…。だって恥ずかしくてさ、女の子に免疫もないし。顔もちゃんと見られなかったよ、あの時」

「なんだ…。やっぱり覚えてなかったんだ…私のこと」

「でも何となく、可愛らしい子だったってことは…。だって、だから恥ずかしくて…」

「本当?」

 僕は恥ずかしくて曖昧に頷く。

「でもどうして、今頃そんな話? そんなのあの新歓コンパで言ってくれたら良かったのに」

「それこそ私だって男の子苦手だし、連絡先交換するのだってすごい事なんだから」

 確かに、あの時は二人とも異性が苦手だった。
 コンパの後、二次会には参加せず、偶然駅に向かう道すがら話をし、たどたどしく自己紹介して連絡先を交換したんだった。
 それにしてもあの消しゴム事件の女の子が遥だったことには驚いた。
 僕たちはすでに高校三年生の春に出会っていたのだ。
 もしも遥がその事を話してくれなかったら、この記憶はずっと一方通行だったに違いない。間違いなくこの遥の告白が、僕たちの記憶に深い色合いを加えてくれたのだ。

 面会時間があっという間に終わってしまい、看護師さんに急かされて、僕は病室を後にした。
 病棟のエレベーターを降りてロビーに差し掛かったところで、順子さんと鉢合わせた。

「丞君、今日も来てくれたんだね。遥、喜んだでしょ?」

「ええ、まあ。でも面会時間の終了のゴングを看護師さんに鳴らされてしまいました。順子さん、これからですか?」

「そう。ちょっと遅くなっちゃったんだけど、着替えだけ届けに。遥の様子はどうだった?」

「僕が行った時は薬のせいか少しぼーっとしてました。でもとっておきの思い出を掘り起こされて、かなり盛り上がりました。そこで試合終了のゴングです」

「丞君ありがとう、いつも。ああ見えても結構この治療は堪えてるみたい。だから丞君が少しでも顔を見せてくれると気が紛れるみたいなんだ」

「いえ、僕にできる事なんて…」

 順子さんはとびっきりの笑顔で僕の肩を叩く。

「てれるなよ、若者! 頼りにしてるんだから」

「あの、順子さん…」

 僕は言う。
 これはずっと僕が考えてきたことだった。
 そしていつどのタイミングで申し出たら良いのか悩んでいたことだ。

「ずっとお願いしたかったことがあるんです」

 順子さんは笑顔のまま首をかしげる。
 僕は思い切って申し出る。

「遥の入院費のことなんですが、僕に少しだけでも…」

「丞君!」

 順子さんの声がロビーに響き渡り、周りの人たちの視線が集まるのが分かる。
 順子さんの顔はみるみる紅潮し、今までに見たこともないような強い形相になる。

「いい、丞君! それ以上は言わないで。《《私たち》》が丞君に求めてることはそんな事じゃない。私のことも馬鹿にしないで欲しい。私たちはこれまでだって二人で何とかしてきたの。お金の話なんて、お願いだから私たちにしないで欲しい。お願いだから、丞君…」

 あまりの剣幕に、僕は言葉を失ってしまった。
 もちろん馬鹿にしたつもりなんてない。
 僕にとって何ができるのかを、真剣に考えた末の提案だった。
 順子さんは一呼吸おいて、心を静めるように続ける。

「ねえ、丞君…。お金のことは、本当に大丈夫なの。遥は難病指定も受けてるし、保険にも入ってるから。でも、ありがとう丞君。気持ちだけ、本当にその優しい気持ちだけありがたく頂くね」

「順子さん…」

「突然大きな声出して驚かせちゃったね。私たち親子って、お金にすごく苦労してきちゃったから。二人でいつもお金の心配しながら生きて来ちゃったから。だからお金のことだけは、二人で何とかしたいんだよ。本当に。私たちのお金の問題を、誰かに背負わせる事だけはまっぴらなの。丞君をここまで付き合わせておいて、ムシが良く聞こえるかもしれないけど…」

 順子さんの言っていることはよく解かった。でも僕の中に何か冷たい風が吹きすさんだことも事実だ。まだまだ僕にはこの二人の間に入ることが出来ない隙間があったのだ。順子さんは今《《私たち》》といった。そこには僕が含まれていなかった。ついさっき病室で語り合った時、僕と遥の記憶は繋がったのだ。
 しかし遥の記憶の背景には、順子さんと生き抜くことに必死な日常が、強く刻まれていたのだ。
 あの頃の遥の大人しく、柔らかく、丁寧なしぐさには、僕の知りえない壮絶な生活が、その背景にあったのだ。
 お互いに異性が苦手だったのだとさっき僕は考えた。でもその異性が苦手という背景も、僕のそれとはまるで違ったもののように思えた。

 順子さんはその後も、僕に優しい言葉を掛けてくれていた。
 でも僕の頭の中は、上手くその言葉を吸収するだけの余地が残されていなかった。
 遥と順子さんに対する、僕の見当違いな提案は、結局僕の心の中で行き場を無くし、じっと小さくなっていつまでもうずくまっていた。


第27話 心の置き場


 ロビーでの順子さんとの一件以来、僕の心の中には小さなわだかまりが残っていた。
 帰りの電車でも、途中で立ち寄ったコンビニでも、部屋に辿り着くまでの詳細な記憶は、まるで無かった。電車に乗り、コンビニに寄った。ただそれだけだった。
 自分の心の中でうずくまった提案を、一旦元の場所に戻そうと試みても、蟠りはそれをすんなり運ばせてはくれなかったのだ。
 でも考えてみれば、ここのところの遥の態度も、順子さんのあの時の拒絶も、何か本質的なところでは繋がっているように思えてならなかった。
 どうして遥は、僕たちの記憶に正しいスタートラインを引こうとしたのだろう。深く考える事でもないのかもしれないけれど、何故かその事も僕の中では違和感を覚え始めていた。
 考えてみればこの数カ月、僕たちは恐ろしく不安定な場所で、必死にバランスをとろうとしているようにも思えた。


 土曜日も昼すぎまで現場に入り、夕方前には遥の病室に顔を出すことが出来た。
 ステロイドの無投与期間の遥は、病気なんて信じられないくらいに元気だった。
 そんな時は、僕が病室をノックすると、明るく出迎えてくれるのだった。

「調子はどう?」

「どうもこうもないくらい元気」

 いつもの様に遥はベッドに腰かけ、僕は折り畳みの椅子を広げて座る。
 ふと見ると、ベッドの上にはノートが置かれていた。

「ノート?」

「うん、コピーを書いてたノート」

「コピーの練習?」

「これは、宝物なんだよ」

 遥は嬉しそうに言う。

「そうなんだ」

 僕は微笑んで返す。

 遥はノートを抱きしめて、もう一度嬉しそうな笑顔を向ける。

「実はこれはね、新商品のコピー案件から降ろされたときに、聡子に渡したノートなんだ。私は参考にって聡子に渡したんだけど、聡子はこの中からいくつか選んで、プロジェクトチームに提出してくれたんだって」

「聡子ちゃんやるね~」

「うん、そうなの。そしたら採用されたんだよ。それも私の名義で」

「すごいじゃん、遥!」

「だから嬉しくて嬉しくて。だってあんなに苦労したんだもん」

「遥の夢かなっちゃったね。そうか~、だから宝物」

「それに聡子も望月さんも宝物だよ。あ、そういえば丞ちゃん!」

「ん? なに?」

「前に散々嫉妬してたけど」

「え…? 嫉妬?」

「聡子と望月さん、付き合い始めたんだって」

「そうなんだ…。いや、別に嫉妬なんかしてないけど…」

 正直何と言ったら良いのか分からなかった。
 でも何だかよしよしといった感じだった。

 窓の外を眺めると、夕暮れの訪れもずいぶん早くなったように思えた。

「丞ちゃん…」

 遥が少しかしこまった形で言った。

「どうした?」

「お母さんから聞いたけど、入院費の話…」

「ああ、あれならもう良いんだ。何か出しゃばりすぎちゃった。僕としては覚悟を見せたつもりだったんだけど…、本当恥ずかしいよ」

 覚悟という言葉が、発した自分の口許から、違和感が張り付いたみたいになった。

「違うの、丞ちゃん」

 遥が言った。

「ありがとう…。丞ちゃんが色々考えてくれてて嬉しかった。それにお母さんのことも、ごめんなさい…」

「いや、大丈夫。本当」

 この件に関しては、僕としても落としどころを見つけることが出来なかった。正直今でも必要とされれば、大金は無理にしても、すぐにでも手配したい心積もりに嘘はなかった。
 でも、と僕は思う。
 もしかしたら、僕は何か大きな勘違いをしているのかもしれない。僕は遥を支える自分自身や、或いは遥に訪れた現状や、ひいては覚悟さえもお金に換算しようとしたのではないか。順子さんはその方向に進み行く僕を、必死に引き留めてくれたのではないか。
 でも答えなんて僕には分からなかった。
 やはり何だかバランスを失った地盤の上で、転がる球体を中腰で追いかけているような、そんな心持だった。


 その日の夜、久しぶりに木村さんを誘い出すことにした。
 何だか無性に木村さんに話を聞いてほしかった。
 僕の方から電話でお願いすると、木村さんは二つ返事で応じてくれた。ただし、息子さんの食事と風呂を済ませてからとのことだった。それと日曜日で金時は休みだともつけ加えられた。

 木村さんから指定されたのは会社近くのチェーン店の居酒屋だった。
 僕と木村さんとは、駅前で合流し、入店した。
 テーブル席で、向かい合わすと木村さんが笑う。

「変な感じだな、向かい合うのは」

「初めてですね」

 僕は笑って答える。
 そこで店員が注文を聞きに来る。
 木村さんは即答する。

「俺は生ビールのジョッキな」

「あ、僕も同じものを」

 僕が答えると、木村さんがまた笑う。

「宮内、そこはまた同じかよ!」

 僕も木村さんもすでに食事は済ませていたので、軽く摘まめるものをいくつか頼んだ。
 すぐに運ばれてきたジョッキを合わせ、一口目を喉に流し込む。

「突然誘ってしまって、すみません。息子さんのことは大丈夫ですか?」

「今更言うなって、おふくろが喜んで引き受けてくれたよ。お前を慕ってくれる後輩なんて、めったにいないからいってやりな、って」

「木村さんのお母さん、すごく良く分かってらっしゃいますね」

「バカヤロー、宮内! 本当のこと言われると腹が立つんだよ!」

 木村さんは豪快に笑う。
 そして出されたお通しの枝豆を青虫みたいにむしゃむしゃと貪りつく。

「で、宮内。話があるんだろ?」

「はい…」

 僕は恐る恐る話す。
 遥の現状と、順子さんとのやり取り。
 木村さんには珍しく、生ビールに口をつけることなく、頷いたり難しそうに唸ったりしながら、真剣に聞き入っていた。

「今、そんな感じなんです」

 僕は一連の状況を話し終え、ジョッキのビールを軽く口に含む。
 木村さんは少しだけ僕の眼を覗き込み、口を開く。

「俺には分かるなぁ…、そのお母さんの気持ち…」

 それからジョッキに口につけ、木村さんはビールを一気に飲み干す。
 呼び鈴で店員を呼び、生ビールを僕の分も注文する。
 僕は急いで、まだジョッキに残るビールを飲み干した。

「俺も息子と二人で生きてるじゃん? 
 まあ、うちはおふくろが時々見てくれるから、そのお母さんほどではないけどな。
 でもよく分かんだよ。やっぱ親が子を思う時って、結局金と飯なんだよ。
お腹減ってないかなぁ~、服の丈は大丈夫かな~、やれ勉強道具だ、おもちゃだなんだって、金に繋がっていくんだけどさ。
 それにこれは俺の場合、俺の責任なんだけど、片親じゃん?
 そうするとその辺りは、余計に気になるんだよ。
 そのお母さんは病気で旦那さん亡くしてるだろ?
 だから余計に娘には不憫な思いさせないように必死に働いて、お金の苦労だけは、ってやってきたんだよ。
 それは本人の誇りでもあるはずだよ。
 最後の砦なんだ。
 子育てしてきた証なんだ。
 だから宮内の申し出に過剰に反応しちまったんじゃないかな。
 そういうの、俺は分かる。
 でもな、宮内。
 お前の申し出に腹を立てたんじゃないんだよ。
 自分に足りない部分が見えてしまったように思えて、そのお母さん自身が恥ずかしくもあったんじゃないかな。
 本当は、涙が出るほど嬉しかったはずだよ。宮内の事、心から頼れる人間に見えたはずなんだ。
 でも、今は少し待ってやんないか?
 お母さんのことも、その子のことも。
 もう少し見ててやんなよ。
 もう少しお母さんでいさせてやんないか?
 それからだって良い筈だよ。
 あまりその関係に今、分け入っちゃうとありがたくてさ、申し訳なくてさ、苦しめちゃうかもしれないから。もう少し待ってやんなよ。
 宮内はほんの少しだけ身を引いた場所から、いざって時は、って大きく構えてやんなよ、な」

 木村さんの話を聞きながら、僕は涙がこぼれていた。
 何と云うか、自分の焦りが露呈してしまって恥ずかしくもあった。
 僕はあの親子をずっとそばで見ていたはずなのに、肝心なところを外してしまっていた。
 そしてあの親子関係の心地良ささえも、すっかり忘れていたことに気づかされた。

「泣け、宮内。それでいい。俺だってこんな状況じゃなかったら、分からなかったことだ。その子もお母さんも素敵じゃねぇか、な」

 木村さんの声も少し上ずっていた。
 僕はすすり上げて言う。

「木村さん…、泣いてるんっすか…?」

「バカヤロー、宮内。俺は泣かねえけど、時々目から何か出るんだよ。
 良いじゃねーか、なぁ宮内。お前、良いじゃねーか、なぁ…」

 金時じゃなくて良かった。その時だけはそう思った。

 それから二人で泣きながら、終電までビールを飲んだ。
 僕にしてみれば、順子さんとのことの、心の置き場が定まった感じがした。
 焦らずあの二人を支えていこう。そう思っていた。
 僕はその夜、木村さんに何度も何度も礼を言った。


第28話 回復と新しいステージ


 遥の入院期間は、結局当初予定していたよりも、一週間ほど伸びた。
 とは言っても病状がひどくなったわけではなかった。むしろ驚くほど数値は回復していて、担当医からも難病であるがゆえに、回復事例としてもう少し検査や経過を見たいとの申し出によるもだった。
 僕も順子さんも飛び上がってしまうんじゃないかってくらい喜んだ。
 しかし遥だけは、少しむくれた顔だった。
 遥にしてみれば、どうやら一刻も早く退院したいのだというところだったらしい。
 最後の一週間は見舞いに顔を出す僕にとっても、心晴れ渡る日々だった。
 病院の特性上、羽目を外すわけにはいかないのだけれど、これまでの遥の苦痛がその身体から消え去ったのだと思うと、毎回明るい気持ちで病院に顔を出すことができた。
 今にして思えば、遥の病がそんなに都合よく事が運ぶような代物しろものではない事くらい分かる。もちろん自然治癒をした症例はあるにはある。でも、それも奇跡を信じたいがための、僕のご都合主義が、僕一人を舞い上がらせていたのだ。
 遥も順子さんも、この入院生活が終わるころには、僕とは全く違ったステージに立っていたのだ。
 その事も、このあと僕は嫌というほど思い知らされる。
 しかしそれも二人の優しさ故の帰結であることも、僕は学ぶに至るのだった。


 遥が退院する月曜日は、僕は有休を取得した。
 会社を休んでまでと遠慮する二人に交じって、半ば強引に退院作業を手伝ったのだ。
 とはいえ、日ごろから順子さんがこまめに荷物を運び出していたため、荷物という荷物は着替えくらいなものだった。
 退院手続きをする二人をロビーで待ち、タクシーを呼んで二人を乗せる。
 すぐに外出とはいかないので、そのまま遥の自宅まで急ぐ。
 タクシーを降りて遥の実家に上がり込むと、すでに室内はエアコンが利いていて、ちょうど良い温度に保たれていた。
 そのことに言及すると順子さんは言う。

「回復したからって、すぐ元通りって訳じゃないから」

 気持ちが昂る僕に、まるで釘でも刺すかのようだった。

「そうですよね」

 僕は笑顔で答えた。
 何と云うか、本当に久しぶりの遥の家だった。ペペロンチーノの一件以来だ。
 久しぶり過ぎて所在なさげに立ち尽くす僕に、遥が言う。

「丞ちゃん、どうぞ座って」

 順子さんが声にして笑う。この感じも久しぶりだ。

「お昼は簡単なもので良い?」

 順子さんが僕と遥に訊ねる。
 僕が頷くと、遥が言う。

「お母さんの料理久しぶり」

 僕も遥を追いかける。

「僕も楽しみです」

「わお! そんな風に言われると力入っちゃうよ!」

 順子さんが言うと、我々は声にして笑い合った。
 早速台所で手際よく料理に取り掛かる順子さんの背中を遥と二人で眺める。この当たり前の光景がどれほど貴重な一コマなのか。そんな事を、それぞれ感じ入っていたかもしれない。
 僕が何か言葉を探していると、遥が言う。

「丞ちゃん、私仕事はじめようと思うの」

「え? もう就職?」

「就職ってそんな大それた感じじゃないよ。身体のこともあるし。
 だからほら、よくある登録制で仕事受けるようなサイトに、アカウント作ろうと思うんだ。コピーライティングとか他のライティング作業とかで」

「いいね! それなら自宅に居てもできそうだしね」

「うん、プロジェクトで受けちゃうと途中で何かあったら大変だけど、単発で受ければできそうだから」

 おそらく、遥がこんなに急いで身の振り方を示したのは、僕のせいだ。僕が順子さんに入院費について口を挟んから、遥は自分自身で立てるのだということを、僕に伝えたかったのかもしれない。
 その後も遥と今後の展望について話していると、順子さんがテーブルに昼食を運んで来てくれた。野菜たっぷりの冷やし中華だった。
 運びながら順子さんが言う。

「二人とも本当に簡単なものでゴメンね」

「いえ、簡単だなんて。すごいです!」

 僕は答える。
 それから三人で手を合わせ、さっそく食べ始める。
 冷やし中華といえど冷たくは無く、常温に仕上げてあった。
 食べ始めてすぐに順子さんの遥に対する気遣いが感じられた。
 あまり体を冷やし過ぎないように、でもキュウリやトマトや焼き色をつけたナスのスライスは、少しでも自然に涼が取れるような、順子さんなりの工夫だった。
 僕も遥も夢中で食べていた。
 何か言葉にしようとすると、感情が溢れ出して来てしまいそうだった。
 横目で遥かを伺うと、少しばかり涙ぐんでいた。
 順子さんの愛情が痛いほどよくわかるのだ。
 順子さんも順子さんで、目の前で食べている娘の姿に目を細めていた。

 その日は結局、夕食までお呼ばれしてしまったのたった。
 久しぶりのスナックタイムのスナックは、夕方スーパーまで僕が走ったものだった。
 順子さんがお茶を入れ、久しぶりにたくさん話して、たくさん笑った。
 話題はもっぱら奇跡の回復を見せた遥の身体と、今後の仕事についてだった。
 遥はコピーライティングの仕事に希望を見出していた。どれほどの稼ぎになるかは分からないけど、一応テンダーラッシュの実績もあるから、期待はしているのだという。
 テンダーラッシュの販売開始は年明けなので、本格的に仕事が入るとすればそれ以降になるだろう。
 でもそのタイムラグも、遥にはちょうど良い。
 しっかり体調を整えて臨むことだ出来るからだ。

 あまり長居しても遥を疲れさせてしまうので、夜の8時過ぎに、僕は二人に帰ると告げた。とは言ってもお昼からすっかり長居をしていた為、僕の申し出は二人に笑われてしまった。

「しっかり長居してるじゃない」

 遥が言った。

「二食プラス、スナックも食べるほどね」

 順子さんが付け加えた。
 遥が駅まで送ると言ったが、入院明けだから、ひとまず今日は大丈夫だと僕は断った。
 玄関先で見送る遥に、僕は何度も振り返った。
 姿が見えなくなるまで、遥は手を振ってくれていた。
 電車に乗り、そして電車を降りる。
 駅から遠ざかるほどに、星がキラキラと輝いてるのが分かった。
 ゆっくりと、本来あるべき日常が動き出しているような気がした。
 星々の煌めきが僕たちを静かに見守っていた。


第29話 順調と不安


 次の二週間も、遥の容態は安定していた。
 遥は時々外出もしていたようで、近所の公園の植物の様子や、スーパーの特売情報なども、自慢気に僕に語ってくれた。
 僕は以前同様、週に二回は会社帰りに遥の実家に立ち寄り、日曜の午後も、遥の実家で過ごした。
 遥がくどいくらいに僕に示すように、本当に遥の身体は順調に回復に向かっているようだった。
 日曜日の夜、駅まで見送ると言って聞かなかった遥は、何度もはしゃぎながら走る姿を僕に見せた。

「ねえ、丞ちゃん。ほらこんなに走ったりも出来るんだよ」

「でもまだ無理はしない方が良いと思うんだけど」

「全然無理じゃないよ。だってこんなに走っても、どこも痛くない」

「分かったから。遥が元気なのはよく分かったから」

 遥は納得したように僕と歩調を合わせ、呼吸を整える。少し無理をし過ぎではないのかと、僕は心配になる。
 遥は胸に手を置いたまま、僕に言う。

「久しぶりだね。この道を二人で歩くの」

「そうだね。つい最近まで当たり前に二人で歩いてた道だけど、ほんの少しのあいだ歩けなくなっただけで寂しかった」

「当たり前に歩いてた?」

 遥は少し眉根を歪めて僕の顔を覗き込む。

「私はずっと必死だったんだよ。だって丞ちゃん歩くの早いから、ついて行くのにいつも必死」

「あっ、ごめん! ついつい自分のペースで」

 僕は歩調を緩め、遥の顔を窺う。
 遥が可笑しそうに笑う。

「おかげさまで歩くの早くなったから、大丈夫」

「足の短い遥さんに無理させました」

「こら!」

 遥が笑って僕の背中を叩く。
 コロコロと笑う遥を見ていると、本当に病気なんて吹き飛んでしまったんじゃないかと思うくらいだった。
 夜風が心地良く、秋の気配が漂っていた。
 遥が少しだけ歩調を早め、僕に言う。

「来週また検査があるんだけど、その結果が良かったらデートしない?」

 僕は少し考えて答える。

「少しくらい調子が良いからって、大丈夫かなぁ」

「大丈夫だよ。ちゃんとお医者さんにも確認するし」

「医者が良いって言うならいいけど…」

「ねえ、丞ちゃん!」

 遥がもどかしそうに僕を睨む。

「久しぶりのデートの提案なんだから少しは喜んだら?」

 僕は諦めてワザとらしく喜んでみせる。

「わーい! デートだー! 楽しみー!」

「丞ちゃんのそういうところ、本当にキライ! ノリが悪いって言うか、かたぶつって言うか」

 遥はすたすたと僕を置いて早歩きに進む。
 僕だって本当は喜んでいるのだ。
 でも遥のことが心配で仕方が無かった。
 もしも神さまが存在するなら、僕のこの身と引き換えに、遥の病を治してほしい。ただただ、そう心から願って止まなかった。
 神さま…。心の中で繰り返した。


 翌日の月曜日は朝一でミーティングがあった。
 少し大きめの新築住宅の物件で、各部門の意見交換が主な目的だった。
 ミーティングが開けて僕が自分のフロアに戻ろうとすると、購買部の中川課長に呼び止められた。

「宮内、最近購買に顔出さないじゃないか」

「あれ、そうでしたっけ? また近いうちに無理なお願いに伺うかもです」

「サウナの物件、その後はどうだ?」

「順調にいけば来月着工です。あの案件は僕としても楽しみなんです。もちろん中川さんのご尽力、感謝してます」

「いやいや、良いんだそれは」

 中川課長は鼻高に頷く。
 中川課長とそんなやり取りをしていると、木村さんが突然現れて、あいだを割る。

「中川課長、お疲れ様です!」

「おお木村、今日は購買部に来ないかと思ったらこっちか?」

「違いますよ、課長。今から購買部っす!」

 中川課長が僕に耳打ちする。

「本当、ここんところ木村に憑りつかれちゃってるんだよ、購買部は」

 僕は中川課長に小声で返す。

「木村さんが憑りついてるのは購買部じゃなくて佐々木さんですよ」

 中川課長が分かってるじゃないかと嬉しそうに頷く。

「おい、宮内何か言ったか?」

 木村さんが僕に肩をぶつける。
 今度は僕が木村さんにやり返すと、呆れた課長が止めに入る。

「小学生か、お前たち。さあ、持ち場に戻れ」

 中川課長がハエの子を散らすように両手で我々を払う。
 木村さんが中川課長の両肩をもって押し出す。

「俺はこれから購買部っス! じゃあな、宮内」

 嵐のような人だ。中川課長の肩を押しながら歩く木村さんの後ろ姿を眺めた。

 仕事の方は日々問題無く進んでいた。
 社内で創設されたいくつかの賞を受賞したり、夏前に受験していた資格にも合格していた。
 遥のことと云い、仕事のことと云い、すべてが順調に動き出していた。
 自分のデスクに戻ってすぐに、木村さんからメッセージが届いた。

「宮内今晩どうだ?」

「もちろんです、どこまでも!」

「19時に金時な」

 スマホをポケットに仕舞い、足取りも軽く、現場に向かうのだった。



 金時は相変わらずの盛況ぶりだった。
 今回は僕の方が早く到着したので、先に生ビールを注文して、木村さんを待つことにした。
 カウンターで大将といくつか会話を交わし、ジョッキを半分ほど飲み干したところで、木村さんが到着した。
 木村さんはカウンターに座るなり、僕に言う。

「宮内やるじゃねーか! 俺より先に飲み始めるなんて」

「あ、すみません! ついつい雰囲気的に先にやっちゃいました」

「バカヤロー! いいよそれで。俺ん時はな」

 大将が木村さんに言う。

「木村、こいつは見どころあるよな!」

「大将、何でもいいよ。生ビール!」

 それから僕と木村さんは、ジョッキを合わせ乾杯をする。
 木村さんがジョッキを旨そうに傾け、二三度喉を鳴らすと、すぐにビールは僕と同じくらいの量に追いついてしまった。
 木村さんは満足げに息を吐き、いくつかの料理を注文し、お決まりの大将特製の唐揚げを付け加える。
 僕はつい先日、相談に乗ってもらった所でもあるので、遥とのその後のいきさつも木村さんに報告する。

「そうか。まあ、良い感じじゃねーか?」

 木村さんは言った。

「あとは今度の検査結果が良好なら、僕としても手放しで喜べるところです」

「宮内は慎重だね。それにその娘も早速仕事探しってのも真面目だよ。宮内が金の心配してるのもちゃんと解ってんだな」

「そうみたいです…」

 僕は答えた後、ジョッキを飲み干した。
 すぐに木下さんがそれに追いついて、二杯目を注文する。
 ジョッキが届くと、すぐに我々は半分ほど同時に飲み干す。
 呆れた顔で、大将が割って入る。

「落ち着けよ、ご両人。ビールといえども雑に飲むんじゃねーよ」

 僕も木村さんもジョッキから手を放さずに笑う。
 それからしばらくの間、大将の「酒って物は」的な講釈を延々と聞かされ、僕も木村さんもジョッキを重ねた。
 いつの間にか、時計は22時を回っていた。
 会計を済ませ、金時を出て駅に向かう。途中、木村さんがふと口にする。

「宮内、うまく行くことを怖がるなよ。良いじゃねーか。少なくともお前の彼女は、うまく行ってることを必死にお前に伝えてるぞ。
 その流れに乗ってやるのも優しさだ。
 お前がこの現状を必死に掻き回してみたって、じゃあその先の現実ってなんなんだよ。
 焦るな。疑うな。
 でっかく構えて乗ってやりな」

「はい」

 僕は同意した。そうだ、焦るな。疑うな。自分の不安を軸に現状を掻き回したって仕方がないじゃないか。僕には誠実に遥と向き合うしかない。遥と正面に向き合う現実の他に、何を望むというのか。
 秋を含んだ夜風が心地よかった。
 何があるにせよ、収まる場所で最善を尽くす。それしか無いじゃないか。


第30話 いつもの調子で


 日曜日は、遥と久しぶりのデートだった。
 木曜日の夜、遥の実家に顔を出したとき、重大発表だと遥自身から告げられたのだ。

 遥は少し勿体つけるような素振りを見せた。
 その時はスナックタイムの最中で、順子さんが煎れてくれたお茶を啜りながら、皆でチョコレートを齧っていた。

 遥は立ち上がり、マイクを持つように右手を握りしめて口元にあてる。

「じゃーん! ご来席中の皆様に重大発表がございます!」

 僕は何事かと驚いて、遥に注目する。
 遥は僕と順子さんを笑顔で交互に見つめてから頷いて、続ける。

「私、寺下遥。これまで訳の分からない病気、遺伝性自己炎症疾患に悩まされ続けてまいりました。ここまで丞ちゃんやお母さんにたくさんのご迷惑をおかけして参りましたが、この度、無事、完治いたしました!」

 遥も、順子さんも拍手して喜びを表している。
 僕は一瞬何事かと、まるで狐につままれたような気持で呆然とし、でも二人につられて少し遅れて拍手する。すごいじゃないか! 心の中で喝采する。信じられない! 遥が完治した! いや、信じられないなんておかしい! これこそ待ち望んだ結果だったんじゃないか。
 僕はすぐには声が出ず、順子さんを見やる。
 順子さんは手を叩きながら目頭を熱くし、僕に向かって何度も頷く。すごい。奇跡だ。
 僕は立ち上がり、力強く拍手する。

「遥、すごい! おめでとう! すごいよ!」

「ありがとう、丞ちゃん。それに、お母さん。たくさん心配かけちゃったし、二人には本当に支えてもらった。本当に、本当に、ありがとう」

 遥も涙ぐみ、順子さんと一緒に泣き崩れてしまう。
 我々はその後もお互いを労い、喜びに耽ったのだった。

 その夜も僕を駅まで見送る遥が、僕に訊ねる。

「丞ちゃん、約束は覚えてますか?」

「もちろん、ちゃんと覚えてるよ」

「じゃあ日曜日だね」

「うん。ちゃんとその日は仕事も段取りして、一日中空けておくよ」

 遥は、その後また僕を置き去りにするように、駅までの道のりを我先にと早足に歩く。
 僕も歩調を早め、遥の背中を追いかけた。

 改札で僕を見送る遥が手を振る。

「丞ちゃん、本当に今までありがとう」

 今までありがとうだなんて、改めて言われると可笑しな感じがした。

「良いよ、そんなの」

 僕は手を振り、ホームへと急いだ。
 飛び上がってしまうんじゃないかと言うほど、僕の足取りは軽かった。もちろん、日曜のデートが待ち遠しくて仕方なかったのだった。



 来たる日曜日は、久しぶりのデートだったので、僕には珍しく服装に手間取ってしまった。新しいシャツを着ていこうか、或いはいつも通りの着慣れたシャツにしようか。
 でも結局いつも通りの物を選んだ。何となくだけれど、その方が良いようにも思えたからだ。

 待ち合わせは駅の出口を僕は指定したのだけれど、遥はどうしても改札が良いのだとせがんだ。
 もちろん僕としてもそっちの方が慣れているから問題は無かった。日曜日の朝だし、人の流れに巻き込まれる心配もない。
 電車を降りて、まだ人も疎らな改札に向かうと、改札の出口で遥が手を振った。
 いったん改札を出た後、遥を迎えてまた改札に入る。
 学生時代はいつもこんな風に待ち合わせた。
 本当は改札の中で僕が待って遥が改札を入れば良いのだけれど、お出かけのスタートらしくするための、ある種儀式のようなものだった。
 遥が嬉しそうに言う。

「これがしたかったんだよ」

「なるほどね。だから改札で待ち合わせ?」

「そうだよ。でも何だか久しぶり。電車だって本当に久しぶり」

「怖くない?」

「大丈夫! だって私は完治した女だから!」

 改札の儀式も、二人で電車に乗るのも、本当に久しぶりだった。
 僕たちはまず港に向かった。それは遥からのリクエストだった。
 僕は言われるままに同意する。

 駅からヨットハーバーまでは少しばかり歩く必要があった。
 病み上がりではあるし、僕としては遥の事が心配になった。しかし遥は歩きたいのだと言った。どうしても、と言って聞かなかったのだ。
 遥を気遣いながらヨットハーバーを目指し、二人で歩く。
 遥は僕の真横で、まるで歩調を合わせるみたいに並ぶ。
 僕がすぐに、遥を気遣ってに歩調を緩めると、不満を口にする。

「いつもの調子で歩いて」

「いや、でもまた言うでしょ? ついて行くのが必死って」

「言ったでしょ? おかげさまで歩くのが速くなりました、って」

「でも病み上がりだし…」

「ねぇ、丞ちゃん! 普通にデートさせて。お願いだから。無理なら無理ってちゃんと言うから」

 遥の剣幕に押される形で、ため息とともに僕は同意する。
 それならということで、僕はいつも通りの調子で歩く。
 遥は僕の歩調に合わせ、にっこり微笑む。
 余裕を示したいのか、さらに歩調に合わせてリズムまでとる。

「ズンズンズンズン…」

 海風が強くなるころ、ヨットの帆先が見えてくる。
 視界が開けて、ヨットハーバー越しに海が見える。
 遥が歓声を上げる。

「うみぃ~!」

「海だ~!」

 僕も思わず声に出す。
 防波護岸にリズムよく打ち寄せる波の音が気持ち良かった。
 遥は手を広げ、胸いっぱいに海の空気を吸い込む。
 それから突然ヨットハーバーから離れた所にある、小さな砂浜の方へと走りだす。
 僕は慌てて遥を追いかける。
 波打ち際でしゃがみ込んだ遥が言う。

「どこかに夏はとり残されてないかなぁ~」

「もう九月も半ばだしね」

 僕が答えると、遥は反論する。

「分かってるよ、そんなの。だから探してるの。丞ちゃんも探して!」

 そうか、遥が港に向かった理由はこういうことだったのか。
 僕も浜辺でしゃがみ込み、波打ち際を眺める。
 アサリのような二枚貝を見つけて遥に見せる。

「違う…」

 遥が素っ気なく答える。
 僕はまた自分なりの夏を探してみる。

 我々はしばらくそんな作業に夢中で没頭した。
 遥も何か貝らしきものを拾い上げては海に戻している。
 少し大きめの波が打ち寄せてきて、僕も遥も声を上げながらその波を必死で回避する。
 波のさらった後に何か桃色の破片を見つけて、僕は拾い上げた。
 綺麗な桃色をした、小さな二枚貝の殻だった。
 少し砂がついていたので、波と格闘しながらその二枚貝の殻を海水で洗い流した。これは後から解った事なのだけれど、カバザクラガイという貝殻の一枚だった。
 僕は遥にその貝殻を渡す。

「遥、この貝殻はどう?」

 遥は目を見開いて、貝殻を受け取る。

「わあー、可愛い。キレイ」

「どう? とり残された夏?」

 遥は、満足そうに桃色の貝殻を波間に透かし見て答える。

「色がちょっと春っぽい気もするけど、素敵。ありがとう丞ちゃん」

 大切そうにカバザクラガイの貝殻をティッシュにくるみ、遥はそれをバッグにしまう。
 それから「次」とだけ僕に告げ、駅の方へ歩き出す。
 この気持ち良いほどの方向転換。これが遥とのデートだ。本来の調子が戻ってきたぞ。今日は確り振り回されよう。
 僕は先を行く遥を追いかける。
 そしてまたいつもの調子で、遥と並んで歩く。


第31話 僕が解っていなかったこと


 次に向かったのは繁華街の商業施設だった。
 学生時代は、よく二人で宛もなく、ただふらついた場所だった。
 ちょうど各店舗が開店時間を迎え、人の流れも増えはじめていた。
 遥は雑貨屋を回ったり、服屋を回ったりしながら楽しそうにしていた。
 実のところ僕としては、先ほどの海の様に屋外はもちろんのこと、屋内の空調についても気になって仕方が無かった。
 完治したとは言っても、あまり無理を重ねると再発するのではないのかと、内心ひやひやしていた。
 遥は気になった秋物の長袖シャツを僕の身体にあてがい、困った顔で言う。

「そうなんだよなぁ。このがら良いよなぁって思っても、丞ちゃんって腕が長いから断念しなくちゃなんだよ」

「あはは。バランスのわるい体形で申し訳ない」

 僕が笑って答えると、遥は増々楽しそうに笑う。

「たとえば無理に着てもらっても、腕だけがチンチクリン」

「チンチクリンなんて、久しぶりに聞いた気がするよ」

 遥が楽しそうに繰り返す。

「チンチクリン。チンチクリン」


 休日のお昼前で、人の流れもどんどん増えてきていたので、少し早いとも思ったけれど、我々はレストラン街のイタリアンに入った。
学生時代はお金が無かったせいで、中々入ることが出来なかったレストランだった。

「丞ちゃん、本当にここで大丈夫?」

 案内されたテーブルに着いた後、心配そうに遥が訊ねる。

「たぶん、大丈夫。そのためにこの一か月は昼飯抜きで頑張ってきたんだ」

「嘘だよ、そんなの!」

 僕たちは笑い合い、メニューを広げてのぞき込む。
 どのメニューも高価なものばかりだった。
 遥が心配するのも無理もない。
 でも久しぶりのデートだし、僕としては精いっぱい奮発するつもりでいた。

 散々迷いはしたが、僕は手長エビのクリームパスタとグラスビールをオーダーした。
 エビもクリームパスタも僕の好物だった。
 遥も何故か僕に習い、同じものを頼む。

「僕に合わせることないのに」

「うん、いいの。今日は手長エビとクリームな気分だから。それにしても丞ちゃん、エビとクリームの組み合わせなんてたまらないでしょ?」

「クリームに食材の色が溶け込んでるのが最高なんだよ。そのうえエビだよ。興奮してきた」

 遥は嬉しそうに微笑み、我々は先に運ばれてきたビールで乾杯する。

「遥、完治おめでとう。でもまだまだ気は抜かないように」

「丞ちゃん、ありがとう。でもこんな時に一言多いのは無粋ってもんですよ」

 僕はグラスビールを一息に半分ほど飲み干し、遥は一口だけで喉を潤す。
 どうせ無粋と言われるだろうから、遥がお酒を飲むことについては黙っていた。
 もし遥が飲み過ぎたら止めようとは思っていたけれど、結局遥は最初の一口しかグラスには口をつけなかった。

 手長エビのクリームパスタは、想像以上に美味しかった。フィットチーネパスタの上に、手長エビが姿のまま鎮座していた。クリームソースはエビの風味が詰まった濃厚な味わいで、僕も遥もはしゃいでそれを食べる。
 遥は、時々僕のナイフ裁きをまねてはふざけて見せた。
 手長エビの身は、剥いて食べた方が良いものなのかも神妙に二人で議論し、結局我々はすべて平らげてしまった。
 最後にスプーンに持ち替えて、クリームソースを味わい尽くし、紙ナプキンで口元を拭う僕の姿を、遥が嬉しそうに見つめる。

「満足でしたか、丞ちゃん」

「それはもう。こんな風にまたデートできたことも満足だよ」

「丞ちゃん。まだデートは終わりではありませんよ」

「もちろん、覚悟は出来ております。前みたいに途中で弱音を吐かない所存で参りましたから」

 我々は手を合わせてごちそうさまと声に出し、僕は会計伝票をもってレジに向かう。
 去り際、テーブルの上に遥の飲み残したグラスビールが目に入る。
 一口飲んだだけのグラスは、もの言いたげに黄色の液体を輝かせていた。
 でもどうして、このとき遥が一口しかビールを飲まなかったのか。その理由が解るのはずっとあと。何年も先になってからのことだ。

 食後は専門店で買ったコーヒーを手に、ベンチで少し休むことにした。
 遥はカップの蓋を外して膝の上に置くと、コーヒーを両手で包み込むように持って、少しずつ啜る。
 僕も遥も、コーヒーのトラベラーリッドが苦手で、いつも外して飲むのが習慣だった。
 遥はまた神妙な表情でコーヒーを一口を啜る。
 僕は遥のそんな仕草を横から眺め、思わず笑いが込み上げる。

「丞ちゃん、何笑ってるの」

「遥ってさ、飲み物に口をつけるときに必ず大袈裟に口をすぼませるよね?」

「えー?! じゃあ皆はどんな風に飲むの? 丞ちゃんやってみてよ」

 僕はカップを口につけ、飲んでみせる。

「ほら! 丞ちゃんだって窄ませてる!」

「いやいや、少しは窄ませるよ。だけど遥はちょっと違うんだよ。まず自分の口角をカップのへりにぴったり着けて、それからぐっと唇を窄ませるんだよ」

「見ててよ」

 遥は自分の動作を確認するように、ゆっくりとカップに口をつける。僕が言うように口角にぴったりとカップをつけ、ぎゅっと窄ませる。
 僕がまた吹き出すと、遥が頬を膨らます。

「そんなにおかしい? なのにどうして今まで黙ってたの?」

 僕は笑いながら謝り、気にしなくても大丈夫だと付け加える。僕は遥のこの特徴的な飲み方が大好きだった。だからこの飲み方を直されるのは困るのだ。
 僕は遥かに言う。

「今までだれかに指摘されたことは無いだろ? だから大丈夫だよ、そのままで」

 僕だけが気が付いている遥の癖。
 思わず指摘してしまった事を少し悔やんだ。
 すぐに話題を変えて立ち上がる。

「さて遥さん、次は何処いずこへ?」

 遥は、少し考えるしぐさをしてから答える。

「やっぱり本屋さんかな」

 我々はコーヒーを飲み干すと、カップを屑かごに捨て、書店のあるフロアを目指す。
 遥はぴったりと僕の横につき、そっと僕の手を握る。
 少し恥ずかしくはあったけれど、僕も握り返す。
 こんな風に手を握って歩くのは、何だか久しぶりな気がした。

 書店では業界誌のコーナーへ向かって行きそうになり、思い直して小説の棚へ向かう。今日くらいは仕事のことは頭から外さなくては。
 遥は自分の好きな作家の棚を見つけて、本の背表紙をじっと眺めている。
 僕も久しぶりに小説をと思い、いくつか手に取ってパラパラとページを捲る。
 いつの間にかその中の一つを真剣に読みふけってしまい、遥が横にぴったりと貼り付いていることに驚く。

「びっくりしたよ! いつから横にいたの?」

「ずっとさっきから。その小説は面白そう?」

「うん、つい引き込まれちゃったよ」

 遥が僕の手に取っている小説の表紙を覗き込んで、タイトルを読む。 

「ロスト・アーモンド…? なにそれ」

「何かタイトルから気になってページを捲ってみたんだけど、SFなんだよ。アーモンドチョコレートから消えたアーモンドを探す物語」

 熱く語る僕とは逆に、そっけなく遥は答える。

「変なの」

「うん、確かに変かもしれない」

 僕がその本を棚に戻すと、遥はまたその本を取り上げる。
 それから僕がしていたようにページを捲り、何故か顎に人差し指と親指を当てる。まるで一昔前の探偵みたいだ。
 僕は遥に訊ねる。

「どうしたの?」

「私、読んでみようかな、この本」

「じゃあ、僕がプレゼントするよ」

 僕はその本を持ってレジまで行き、ラッピングしてもらい、会計する。
 遥は嬉しそうに本を受け取る。

「でも本当はね、丞ちゃんが書いた小説が読みたい。もう書かないの?」

 実のところ学生の頃は文学青年を気どって、いくつか小説を執筆しては、遥に読んでもらったりしていた。
 いつの間にか書かなくなり、就職してからは書いていた自分のことさえ忘れてしまっていた。

「そういえば、昔は遥に読んでもらってたね。もう書いていた事さえ、すっかり忘れてた」

「また書いてよ、丞ちゃん小説」

「そうだなぁ、資格の勉強が一通り済んだら書いてみようかな」

「きっと書いてよね。なにがなんでも必ず読むから」

「なにがなんでも?」

「絶対に、ってことだよ」

 遥は少しだけ慌てて答えた。

 いつになく遥が僕の真横にぴったり貼り付いてくるデートだった。
 そして飲み残したビールグラスや、今までなら絶対に興味を持たない本のタイトルや、なにがなんでもというセリフ。歪なものたちに囲まれながらも、僕は不思議なくらい遥との時間を楽しんでいた。
 この時の歪なアイテムや、ぴったりと真横に張り付く遥が、ずっと僕のしぐさを真似ていたこと。
 この日一日を通して、彼女が僕を見つめ続けていたことや、思い出すように僕の身体の特徴を確かめていたこと。それに自分自身ですら忘れてしまっていた、小説を書いていたことを思い出させてくれたこと。
 すべてがたった一つの答えに帰結していたのだと、今に至れば僕にだって解る。
 でもその時の僕は、この段階に至っても、まだ何一つ解ってはいなかったのだ。


第32話 失うこと


 書店を出た後、遥はまた僕の手を取って歩き出した。
 相変わらず遥は僕の歩調に合わせて真横で歩いてはいたものの、顔色が少しすぐれないようにも、僕は感じていた。
 僕は遥には気づかれない程度に、少しずつ歩速を弱める事にした。あまりにも急激に歩速を弱めれば、遥はまた文句を言いかねない。

「次はどこに向かおうか?」

 僕は遥に訊ねてみる。
 でも遥は少し困った風に顔を歪める。
 なぜだかは分からないけれど、繋いだ手の温もりだけが、妙に現実的に僕には思えて仕方がなかった。
 遥が突然、歩みを止めた。
 僕も慌てて立ち止まる。
 速度を落としていたせいで、ほとんど同時に立ち止まることが出来た。
 遥の顔を窺うと、表情が笑っている風でも、怒ってもいる風でもなく、ただ前だけに視点を定めていた。

「どうかした?」

 僕は訊ねてみた。
 遥は前に視点を前に定めたまま、答えた。

「どうしようか?」

 まるで迷子にでもなったみたいな、困った言い方だった。
 すっかり買い物客で溢れかえる人混みの中で、我々はぽつんと立ち止まってしまっていた。
 僕は遥の手を引いて、買い物客の流れから外に抜け出そうとした。

「遥、こっちへ行こう」

 でも遥はその場から動こうとはしなかった。
 手を引く僕を、無表情のままで見つめる。
 それから眉間にわずかな皺を寄せ、すがるような表情に変わってゆく。

「違うよ、丞ちゃん…」

 僕には遥の言っている事の意味が、分からなかった。
 もう一度、僕は遥かに言う。

「遥、ここでは邪魔になってしまうから、こっちに行こう」

「違うよ、丞ちゃん…」

 遥はまた繰り返した。僕はすっかり困ってしまった。
 少し強めに遥の手を引こうとすると、遥はそれを拒絶し、僕たちの手は滑るようにして離れる。
 向き合う形になっても、遥は僕を見つめていた。

「丞ちゃん、そっちじゃない。もう終わりだよ…」

 僕にはまだ事態が呑み込めず、遥に聞き返す。

「何を? 今日はもう帰るってこと?」

「丞ちゃん、私たちはもうこれでお別れだよ…」

 遥は微笑んだ。
 先ほどまでとは違い、瞳は正気を帯び、優しく僕に笑いかけたのだ。

「ねえ、遥。何の話? ちょっと言ってる意味が分からないんだけど」

 正直言えば、僕にはすでに遥の言わんとする事が解っていた。
 あまりに唐突な、元来、人とのやり取りが苦手な遥らしい切り出し方ではあったけれど。
 遥のそんな訴えが分かったのは、ここまでの間ずっと遥と共に過ごしてきた、僕だからなのかもしれない。

「丞ちゃん…」

 遥が微笑んだまま僕の名前を呼ぶ。その声は、嫌いな人間に向けられたものではない。
 優しくて、まるで僕の為だけに耳元にそっと置く様な、静かな響きだった。
 この雑踏の中でさえ、しっかりと僕の耳には遥の声を掴み取るとが出来た。
 僕は遥に言う。僕も彼女の耳元に届けるみたいに。

「遥…、まだ終わりじゃないよ」

 僕たちは今やっと元の場所に戻る事が出来たんじゃなかったか。病を克服し、二人で新たにスタートするためのデートに来たんじゃなかったか。今日一日にしろ、何事もなく、ただ幸せに時を分かち合ったはずじゃないか。
 遥は微笑みを絶やさず、でも少しだけ困った顔を見せる。
 僕は言葉を繋げる。落ち着いていたはずの心の底のおりが、掻きむしられたように舞い上がるのが分かる。

「遥、僕たちは病も乗り越えて、今ここにいるんじゃないか。これからじゃないか。
 もしかしたらまだ少しは大変なのかもしれないけど、僕たちならこれからだって上手くやっていけるじゃないか」

「丞ちゃん、それは違うよ。違うんだよ」

 困った顔の、微笑んだ顔の、遥の瞳の奥が静かに揺れる。
 でも遥は泣いてはいなかった。
 いつだってすぐ涙を見せるはずの遥の瞳は、わずかに揺れ動くだけで、涙を見せてはいなかった。

「丞ちゃん私ね、神様にお願いしたんだよ。私の大切なものと引き換えに、この病気を治してください、って」

「遥、何言ってるんだよ?」

「そうしたらね、ちゃんと神様は治してくれた。もう一度こんな風にデートができるくらい元気にしてくれたんだよ」

「遥、いい加減にしてくれよ。何が神様だよ」

「私の大切なものって丞ちゃんのことだよ…」

「遥、気は確かか? 自分が何言ってるか分かってるのか?」

「私は病気を治したいがために、丞ちゃんと引き換えにっ、てお願いしたんだよ…。自分の病気を治したいがために、神様に丞ちゃんをあげちゃった…」

 遥が目に涙をためて、今にも泣き出しそうな顔で僕を見つめていた。
 僕は遥に食い下がる。

「そんな話し誰が信じるかよ。おかしいよ、そんなの。馬鹿げてる」

「丞ちゃん、私は神さまに丞ちゃんを売ったんだよ…」

「いい加減にしろよ!」

「丞ちゃん…、丞ちゃん…」

 遥が縋りつくように繰り返した。
 僕は、もう何と言えば良いのか分からなくなっていた。こんなの馬鹿げた作り話だ。
 でも遥の目は真剣そのものだった。

「丞ちゃん、今までありがとう。本当だよ…」

 眉間いっぱいに皺を寄せ、今にも泣き出しそうに遥の顔が崩れる。まるでそれを隠すみたいに遥は振り返り、僕に背を向ける。
 いつも喧嘩をした時のように、そのまま僕から遠ざかるように歩き出す。
 これまでならプイっと振り返り、どんどん去り行くはずの遥の背中は、重たそうに踏みしめ、名残りを惜しむように、ゆっくりと歩みを進めている。
 なすすべもなく、黙ったままの僕は、遥の背中を見つめる。
 先ほどの遥の真剣な眼差しは、今まで見たこともないほどの気迫さえ感じたからだった。
 でも、と僕は思った。
 きっと遥はまた戻って来てくれるはずだ。
 遥は見えなくなるかならないかの辺りで、きっときびすを返すに決まっているのだ。
 遥は必ず戻って来るに決まっている。
 僕は少しずつ遠ざかる遥の背中に、待ってくれ! っとつい叫びそうになる。
 それでもその言葉はすぐに吞み込み、心の中の叫びに代える。何度も何度も踵を返す遥を夢想し、待ち、そして、さあ戻って来るんだよと心の中で繰り返す。
 それでも結局、遥の背中は人混みの中に音もなく消えて行ってしまった。
 遥は一度も振り向かなかった。
 僕はただその場に立ち尽くしていただけだった。
 いったい僕は、どうしてこの場所にいるのだろう。
 今までのことや、今日一日さえも、まるで夢だったんじゃないかと思えるほど、記憶は現実味を失ってしまっていた。遥は戻ってこなかったのだ。
 僕の真横にぴたりと貼り付いていた筈の遥は、そこにはもういなかった。


 どれだけその場にいたのだろうか。
 僕は電車に乗ったのだろうか。
 それとも、ずっと歩いたのだろうか。
 その後の記憶がまるでなかった。
 不思議な思念は唯々遥が振り向かなかったことを、頭の中でずっと繰り返していた。
 これまで何度言い争っても、遥は必ず振り向き、僕の元に戻ってきたのだ。
 僕の見送った遥の背中は、深く刻まれた記憶のようでいて、まるで夢の一場面に過ぎないように、儚くもあった。
 気が付くと真っ暗に明かりを消した部屋の中で、僕はベッドに横たわっていた。
 スマホを取り出して遥に連絡を取ろうと試みるも、涙に耐え、僕に別れと感謝を伝える遥の顔が頭をもたげ、スマホをタップするその指の動きを、そこにとどめていた。
 どうしたらよいのか何も分からなかった。
 別れの瞬間を思い返すも、今に絶望するも、出会った頃の僕たちを想うも、いったい僕がどこにいるのかが分からなかった。
 そのうち悲しいのか、悲しくないのかさえも分からないくらいになり、間断なく降り注ぐ喪失感に、打ちひしがれていた。
 カーテン越しに朝陽が射しこむことで、朝が来たのだと分かるに至った。
 結局一睡もせずに、出社の支度をはじめる。
 いや、もしかしたら、深い眠りから朝陽とともに目覚めたのかもしれない。
 すべてが夢であれば良いと、心から願った。


第33話 失くした1/2


 やはり何度も、僕は遥と連絡を取ろうと考えた。
 電話が無理だとしても、メッセージを残すことだってできる。
 スマホを取り出して遥のリストを呼び出し、タップする。たったそれだけの動作なのに、僕にはそれが出来なかった。あの時の遥の真剣な眼差しや、あまりにも分かりやすかった別れの理由。何より、最後まで振り向きもせず見送った遥の背中の残像が、すべての行動を僕に戸惑わせた。
 遥はどんな覚悟で別れを切り出したのだろう。
 どうしてこれからというタイミングで別れを選んだのだろう。
 僕の落ち度は、いったい何だったのだろう。
 そんな事ばかり考えては、眠れぬ夜を過ごすのだった。
 幸い仕事は忙しく、昼の間は、失意に暮れる時間すら与えてはくれなかった。
 施主さんたちからの評判も良く、少しずつではあるけれど、大きな現場も一人で任される機会がもらえるようになっていた。
 その分責任も重くなり、昼間は各現場を日参し、夕方帰社すると資料作成に追われていた。
 木村さんはそんな風に忙しく走り回る僕を、よく気に掛けてくれていた。
 現場に走り去ろうとする僕を捕まえては、無駄話をけしかけてくる。

「木村さん、僕ちょっと急ぎなんです」

 僕はそんな風に、木村さんをやり過ごそうとした。
 でも本当は木村さんには、遥とのこともしっかりと話さなくてはと思っていた。
 それでも、僕自身にすら定まらない心持では、上手く伝えることができない。そんな理由で木村さんを避けている自分もいたのだ。
 木村さんは、笑って僕を送り出してくれた。

「宮内、あまり詰めて仕事はするな。心には余白を持てよ。仕事は私生活の逃げ場じゃないぞ、って昔オレが先輩に言われたことあったっけか?」

 木村さんはいつも図星をついてくる。それでいて優しくもあった。
 もう少しまとまったら話します。そう心では思いながらも、つい強がって答えるのが常だった。

「僕は仕事に目覚めましたから」


 退社時間はとっくに過ぎたというのに、いつまでもデスクに残って仕事を《《探した》》。
 何もない時間が、僕にとって最も恐ろしい事だった。
 もうこれまでの様に遥の実家に立ち寄ったり、帰ってから遥とのメッセージで夜中を迎えたり、そんな風に過ごすことはできないのだ。
 今までは当たり前だった取り留めのない時間が、どれほど輝いていたのかを思い知らされた。
 夜の8時を回ると.守衛さんに事務所を追い出される。
 それからは当てもなく駅前をふらつく。
 一人で入ることが出来る店も見つからず、結局は電車に乗り、最寄り駅で下車し、アパート近くのコンビニに立ち寄る。
 コンビニで夕飯を物色するのにも.少し勇気がいる。
 遥が好きだったスイーツや、塩気のあるスナック菓子や、遥が気に入りそうな新商品を見つけるにつけ、つい手が伸びてしまうのだ。
 これをはるかに買って行ったら喜んでもらえるだろうか。
 もう失っているはずの彼女に、思いは勝手に走り出してしまう。そして決まって、そのあと落ち込む自分と対峙しなくてはいけなかった。

 自宅での夕食もまた、僕を孤独へと誘う。
 会話の溢れる食事。
 食後のスナックタイム。
 冗談に笑い転げる遥と順子さん。
 そんなものはどこにもないのだという事実だけが、一人の食卓は教えてくれた。
 決まって寝るまでの時間は読書をするのだけど、大好きだった小説はいつの間にか開かなくなり、眠くなるまで、逃げるように資格取得のテキストを開いて集中するのが日課だった。
 遥を失うだけで、世界はまるで色を失ったように思えた。
 そしてどれほどこれまでの生活を、遥が彩ってくれていたのかが身に沁みて解るのだった。
 遥は今何をしているのだろう。
 彼女は今何を考えているのだろう。
 眠りに落ちる時、あるいは浅い眠りの中、僕はいつもそんなことばかり考えていた。

 ある夜一人の夕食を終えた後、僕はスマホを取り出し、遥のリストを呼び出した。
 リストの遥という文字を見るだけで、すでに懐かしい気がした。
 あれから二週間がたとうとしていた。
 もうこれ以上何を悩む必要があるというのか。
 簡単なことじゃないか。遥に連絡すればいいだけだ。
 彼女の声を聴き、彼女と話し、自分の想いを伝えるのだ。
 僕は意を決し、遥のリストをタップする。
 接続音のあと、呼出し音も無く、すぐに繋がった。
 しかしスマホのスピーカーからは、このナンバーはすでに使われていないのだと、アナウンスが流れてきた。
 事態を飲み込む時間はもう必要なかった。
 まるで僕は、本当の孤独に落とされてしまったような、そんな気さえした。
 間違えるはずもないのに、再び遥のリストを呼び出し、タップする。
 そう、間違えるはずなんてないのだ。
 スピーカーは再びナンバーの主が存在しないことを、同じ声色で教えてくれていた。
 喪失感を振り払おうと、僕は必死だった。
 すぐに順子さんのリストを呼び出すも、タップするその指はすんでのところで僕を思いとどまらせた。
 考えてみれば、遥はこのナンバーを捨てたのだ。
 遥は、僕との関係を必死に断ち切ったんじゃないか。
 この僕に、今できることなんて何もないじゃないか。
 スマホをテーブルに置き、膝を抱える。
 遥と別れて初めて涙が流れた。


第34話 覚悟と理由


 仕事に打ち込む毎日というのは、時の過ぎ去る速度を早めるんじゃないかとよく思う。
 相変わらず遥のいない日常は僕を落ち込ませていたし、遥の好きそうなものをつい追ってしまったり、心の中ではいつの間にか遥と会話をしていたりと、本当にどうしようもないくらい、僕は未練を募らせていた。
 つまり木村さんの指摘の通り、未練ばかりの私生活から逃れる様に、仕事に打ち込んでいたのだ。

 季節はあっと言う間に師走に突入していた。
 ひどく冷え込む日を迎えると、遥は寒くしてはいないかと気に掛かったりする。
 病気が完治したとは言え、体温が下がると免疫力も下がるのだと、何かで読んだ事がある。
 僕がこんな心配をしているなんて知ったら、きっと彼女は大きなおせっかいだと言うだろう。
 でも僕の中には、遥と遥のお父さんから引き継いだ、おせっかいの先の先の優しい世界を望む魂が宿っているのだ。
 もしかしたら、こんな想いでさえもすなわち未練なのかもしれない。

 現場にいるときからぐっと冷え込んでいた寒さも、夕方からは更に冷え込みを増していた。
 その日は部内の忘年会で、一次会でしたたかに酔いしれた後は、二次会へ。
 そのあとは木村さんと二人で三次会と称し、会社近くの小さな居酒屋の暖簾を、千鳥足でくぐった。
 もう二人ともビールにしろ、焼酎にしろ、日本酒にしろ、たらふく飲んで酔いどれてしまっていた。
 カウンターに通されて並んで座り、さて何を飲もうかと迷っていると、木村さんがショーケースで良く冷やされた吟醸酒を指さす。

「宮内、あれなんてどうだ?」

「こんなに寒いのに、ですか?」

「バカヤロー、年末だからかまやしないよ」

「木村さん何ですかその理屈。意味分からないですよ。それに日本の年末は寒いって話です」

「良いんだよ、年末だから。今日は俺の酒に付き合ってくれ、ってことよ」

「良いですけど、ちょっと高そうな酒ですよ」

「だから良いんだよ、年末だから」

 僕はわかりましたと頷いて、カウンターの向こうの大将に、そのお酒を下さいと注文する。
 大将は小気味よく承知すると、ガラスの徳利に吟醸酒を二合分たっぷり入れて、同じくガラスの盃と一緒に僕と木村さんの前に置く。
 すかさず木村さんはホワイトボードを眺めて、エイヒレを注文する。
 僕が木村さんの盃を満たすと、木村さんが僕の盃に酒を満たす。
 二人で乾杯し、一口目を流し込む。
 さすがに高い酒だけあって、流れるように喉元を通り過ぎる。喉越しが本当に心地良い。
 またすぐに二人で盃を満たす。
 炙ったエイヒレが届くと、木村さんは嬉しそうに口に放り込む。

「こうして二人こっきりで飲むのも久しぶりだな」

 木村さんが言って、何故か僕の背中を叩く。

「本当ですね。お互い師走はバタバタでしたもんね」

「バカヤロー。確かにそうだが、お前は特に突っ走ってたよ。何だか知らねぇけど」

 僕は自嘲気味に笑う。
 まだ遥とのことは、木村さんに話せてはいなかった。

「木村さんには、仕事を私生活の逃げ場にするなって言われましたけど、そのままでした。実は秋口に彼女にフラれてしまいました」

 それから僕は、木村さんにこれまでの経緯いきさつを話した。
 パルス療法がうまく行って退院したこと。その後の経過で完治が認められたこと。久しぶりにデートをしたこと。しかしそのデートの終わりに、別れを切り出されたこと。彼女が自分の健康と引き換えに、僕を神さまに捧げたという話。僕には未練があって、その後連絡しようと試みるも、電話番号はすでに変わっていたこと。それでも彼女のお母さんに連絡は取れるけど、僕にはそれが出来なかったこと。
 いつもの様に、木村さんは時々頷いたりもしたりしながら、黙って話を聞いてくれた。
 すべて話し終わり、僕が吟醸酒を飲み干すと、木村さんはさっとその盃を満たしてくれた。

「木村さん、僕には解らないことだらけなんです。いまだにどうして別れなくてはならなかったのか、答えが出せないんです」

 木村さんは盃の酒を舐めるようにして飲み、一点を見つめていた。
 何か深く考えているようにも見えた。
 しばらくそんな風にしてから、木村さんは頷いて口を開く。

「宮内、俺の経験だけ話させてくれな。
 俺の嫁さん逃げたときな、やっぱり理由なんて解らなかったよ。
 俺としては幸せそのものでさ、何が起きたんだかちっとも見当もつかなかった。前に宮内に色々理由を言ったけど、それだって本人から聞いたわけじゃないんだよ。俺が想像しただけ。
 つまりよ、俺が自分を納得させるためにさ、自分で作った理由なのよ。
 たださ、俺の中に一つだけ引っ掛かったことがあるんだ。俺が家に戻る寸前まで、ついさっきまで居たみたいな温もりがまだ家に残ってたってこと。それから当面、息子が困らないような支度がしっかりしてあった事なんだよ。
 連絡する方法なんてあったよ、すぐに。探す事だって出来た。でもしなかったんだ。周到に準備して、息子が少しでも困らないように、直前まで息子のそばにいたんだ。何か覚悟すら感じたよ。同時に、俺が息子のそばでこの温もりを絶やさない、俺自身にとって本当に大切なものを渡され、突き付けられたような感じがしたんだよ。
 変な言い方だけどな、そこから俺、生きてる気がするんだよ。仕事でも、なんでも。
 今のお前の話聞いてて、俺はそんなこと思い出した。宮内の話聞いてて、別れる理由なんて見つからないし、嫌いな相手にする行動じゃないよな、デートも。それなのに番号変えるって、相当な覚悟だろ?
 本当はさ、神様に身を捧げたのは彼女の方かも知れないぞ…」

 木村さんの言葉が、核心をついたような気がした。
 でもその時の僕には気がしただけで、何が核心なのかさえ、分からないでいた。そ
 の答えを理解できるのは、もっとずっと先の話になる。
 木村さんは僕の背中を叩き、優しく笑いかける。

「宮内、話してくれてありがとうな。これから先さぁ、もしかしたらその彼女は戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。でも今はお前なりに理由を探してみろよ。それがお前を成長させてくれるはずだろ? それがさ、トンチンカンな答えでも良い。ただし人のせいにはするな。自分に足りなかったものを探すんだよ。それしかできないしな、宮内」

「木村さん、本当にありがとうございます。少しだけ見えた気がします」

「少しだけかよ!」

「年末なんで、少しだけ…」

「バカヤロー宮内! 意味分かんねーし、それは俺のセリフだってーの!」

 遥が僕の元からいなくなった理由。
 まずは事実を受け入れるところから始めなくてはいけないようだった。
 悲しいけれど、遥は僕のもとを去ったのだ。
 そんな風に考えてみると、理由なんていくらでもあるような気がした。
 そもそも僕は完璧なんかじゃない。
 木村さんが言うように、僕を成長させてくれるものを探さなくてはいけない。
 遥の覚悟を、解らないなりにも受け止めなくてはいけないのだ。


第35話 一筋の光


 結局二年のあいだ、僕は暗闇の中にいた。
 遥との別れを受け入れることが、ずっとできずにいたのだ。
 どこにいても必ず思考は遥に結びついていた。
 相変わらずコンビニでは、遥の好きなお菓子を探してしまうし、寺下という姓や、遥という名に遭遇するだけで胸が高鳴った。
 同じ背丈の女性に声を掛けそうになった事だって、何度もあったほどだ。
 受け入れるという根本的な意味でさえ、僕にはちっとも分らなかった。
 受け入れるということが、忘れる事では無いのだと自分に言い聞かせた。
 それでも遥が望んだことが、もしも忘却という答えだったとしたなら、僕はいったいどうすれば良いのか。時にそんな恐怖に襲われることもあった。
 自分の中にある未練が、こんなにも大きいのだと自分でも驚くほどだった。
 色彩を欠いた世界で、僕は惨めで仕方が無かった。
 早くこの暗闇から立ち直らなくてはと、いつもどこかで願っていた。

 一人の時間が多くなるにつけ、小説の執筆も始めた。
 前に遥がもう一度僕の小説を読みたいのだと言ってくれたことも、励みになっていた。
 僕は遥とのこれまでの事を小説として描くことに執着した。
 でも何度試みようとも、僕には遥との出来事をうまく描くことが出来なかった。
 答えは明確だった。遥との日々を、遥との別れを、僕にはまだ受け入れることが出来ていなかったからだ。
 遥との日々を物語に昇華させるのには、僕の想いはまだまだ未熟でしかなかったのだ。
 それでも書くことは、僕の中にある《《ぽっかりと空いた何か》》を、確かに埋める行為にはなっていたようだ。
 その当時、僕はひとつ短編を完成させている。
 遥とは関係のない物語ではあるけれど、感情を言語化していく過程で、僕は静かに癒されていた。
 色彩を欠いた世界の中で、複雑に絡まった感情を必死に解きほぐすように、僕は僕を見つめていた。
 その中で紐解かれた、か細く輝く一筋の糸を、僕は必死に掴み取ろうとしていたのだ。
 それでも結局僕は、もう一度自分自身を取り戻すために、ただただ願うことしかできなかった。
 そして、そんな風に藻掻きもがき苦しむ中で、唐突にその願いは叶うことになる。
 それからまた三年後、僕は詩織と結婚することになるのだ。
 詩織とは、購買部の佐々木詩織のことだ。


 僕と詩織を結びつけたのは、木村さんだった。
 その頃の木村さんは、公共事業を取り扱う部署へと移動になり、同時に課長にも昇進していた。
 三十歳手前での異例の抜擢だった。
 そして同じタイミングで、僕も木村課長付きの課長補佐という大役を仰せつかったのだ。
 これは後になって人伝ひとづてに知ることになるのだけれど、課長への抜擢を、木村さんは当初固辞していたらしい。公共事業を仕事とし、役職を考えると、息子さんとの時間を作れなくなることが辞退の理由だったのだ。役員としてはどうしても木村さんを抜擢したかったらしく、双方何度も協議したとのことだ。
 最終的には補佐役として僕を下につけることで、木村さんは移動と昇進を承諾したとのことだった。
 おかげで僕の仕事量は、恐ろしく増大した。
 つまり木村さんにとって、社内で最も使いやすい手駒とされたのだ。
 それでも当時の僕としては、そんな仕事量が逆にありがたくあったのも事実だったのだ。
 そんなこんなで、木村課長からは、仕事に於いてもプライベートに於いても、よくお呼びが掛かる様になった。公共事業には何かとルールも多かったので、僕としても、いつも木村さんを質問攻めにしていた。
 それに遥とのこれまでの経緯も木村さんにはたくさん聞いてもらったし、木村さんの息子さんの話もたくさん聞かせてもらったりした。
 そんな小さな社外ミーティングの戦場は、決まっていつも「金時」だった。
 仕事に厳しい木村課長との言い合いは、時に金時の大将すら口出しをはばかられるほどの熱のこもりようだった。
 とは言ってもほとんどの場合、いつもの調子で軽口をお互い言い合いながら、公私入り乱れてのやり取りだった。
 仕事に埋没する日々も、今にして思えば僕の土台を作る大切な日々だったのかも知れない。


 その日の終業後も、木村課長から金時に呼び出しがかかった。
 役所や現場から上がって来る様々な案件を整理し、翌日に木村さんへ上げるための資料作成を済ませ、僕は急いで金時へと向かった。
 暖簾をくぐると、カウンターには木村さんの姿はなく、先に座ろうかと椅子を引くと、大将が首を振る。

「今日はあっちだってよ、課長様が」

 大将が座敷の方に顔を向けて僕を促す。

「珍しい。座敷ですか?」

 個室の小上がりの戸を開き、訝しく入室すると、そこには木村さんと詩織が、座敷のテーブルで向かい合っていた。

「お疲れ様です…」と、いつもの様に言いかけて、僕は驚く。

「佐々木さん?!」

 木村さんがわざとらしい威厳いげんを作り、僕を詩織の横に促し、言う。

「今日は購買の佐々木君を交えて、入札のための新戦略について話そうとだね」

 そこで詩織が木村さんの話を遮る。

「そんな話じゃなかったですよね、木村さん。それに私にはそんな権限も見解もありません。ただの受付です」

「あ…、そだったっけ? まあ、とりあえず酒でも頼もうか…」

 今や社内でも飛ぶ鳥を落とす勢いの木村課長も、佐々木詩織の前では、なぜかタジタジだった。
 僕はよく状況が呑み込めないまま、それぞれの酒を注文し、適当につまみも見繕った。
 乾杯をして酒が回ってからも、著しくパワーバランスを失った我々は、結局社内での情報交換みたいな形で話を進めていた。
 散々酔いしれた後、木村さんは息子のノートを買わなくちゃいけなかった、と訳の分からない口上をたてて退室した。
 我々はしばらく惰性で席に座ってはいたけれど、僕としてもどうしたものかと考えて、今日の所は帰りましょうかと詩織に提案した。
 駅まで彼女を送ってゆく道すがら、少し後ろを歩いていた詩織が僕を呼び止める。

「あの、宮内さん。今度連絡差し上げてもよろしいでしょうか?」

「もちろんですよ。内線で宮内宛にいつでも連絡ください」

「いえ、そうではないです。個人的に…」

「あ、そうですよね。その方が便利ですもんね」

 僕と詩織は、その場ですぐに連絡先を交換した。

「宮内さん、今度またお誘いしても構いませんか?」

「あ、もちろんです。お酒が飲みたいときはいつでも。仕事以外、僕はたいてい暇にしてますから」

 またと云う言葉がいくらか引っ掛かってはいたけれど、僕は詩織の提案を好意的に感じていた。
 後から解ったのは、そもそもこの日の一席は木村さんが詩織を誘い、詩織が宮内さんがいるのならと快諾してもうけた席だったのだ。
 そしてこれも後に詩織から聞かされたのだけれど、木村さんはいつまでも一人を決め込み、仕事に埋没する僕をずっと心配していたらしい。キューピットよろしくセッティングしたは良いが、金時での、どうにもぎこちない進行役は、本当に居た堪れなかったのだと、詩織はその時の事を楽しそうに後に回想したのだった。


第36話 僕という世界の中心に


 結婚を機に、僕は転勤することが決まった。
 少し離れた街の事業所で、再び住宅を担当する部署の、課長代理というポジションだった。
 詩織はそのまま本社の購買部にとどまる。
 これは社の慣例で、社内結婚をした場合、男の方が違う支社なり事業所なりへ放り出されることになっていた。
 それでも新婚ということもあり、そんなに遠くへ飛ばされることは無い。
 当初は僕の住んでいた部屋で、そのまま新婚生活を送る予定でいたのだけれど、転勤した街に新居を構えることになった。
 それは詩織からの提案で、どうせ仕事に張り付くはずの僕を見越して、なるべく通勤時間をかけない方が良いのではないかとの配慮からだった。
 詩織自身は定時で帰ってこられるから通勤でも構わないのだと、断固として譲らないのだった。
 木村さんは、僕に転勤拒否をしろなどと無茶苦茶なことを言い出していたが、結局我々を結びつけたのは木村さんなのだと言うと、しぶしぶ諦めたようだった。
 あるときは金時のカウンターで寂しそうに言うのだった。

「宮内いなくなったらどうなるよ…」

「大丈夫ですよ。息子さんももう中学生になるんだし。もうお父さんいなくても大丈夫ですから、残業しまくりましょうよ」

「いいなぁ、宮内。また住宅で。俺も住宅が良いよ。施主さんの喜びをダイレクトに受け取れるんだぜ…。公共事業なんて、誰が喜んでるのか分からなくなるときあるよ…」

「何をらしくないこと言ってるんですか。その仕事の先の先では、たくさんの人たちが喜んでるんでしょ?」

「これで息子が大学にでも行って、一人暮らし始めたらさ。会社は今度は俺を飛ばしまくるんだぜ?」

「まあ、そうでしょうね。今まで息子さんの事も見てくれてたんですから、飛ばされまくりましょうよ。ビュウンビュンと。きっと住宅に戻れますよ」

「宮内、お前変わったよ…。ずいぶん強くなった」

「木村さんのお陰ですよ!」

 僕は木村さんの背中を叩く。
 カウンターの奥で話を聞いていた大将が、破顔して笑う。


 引っ越しは、詩織と二人で一日あれば十分なほど、僕の部屋には物が無かった。
 大学に入学してから十年近く住み続けた部屋だ。十年使い続けたベッドは、処分することに決めていた。
 他にも古くなった棚や小型の冷蔵庫も、後日業者が引き取りに来る手筈になっている。
 積み荷作業が終わり、詩織が車に戻った後、僕はがらんどうになった部屋を眺めていた。
 何も無くなった部屋で、これまでの時間の経過を想い、感じてた。
 本当に色々あった部屋だったのだ。
 ふと思い立ち、ベッドの枕元に備え付けられている小さな引き出しを開けてみる。
 そこには桃色の小さな貝殻が置き去りにされていた。
 遥と別れたあの日、海岸で拾った貝殻だった。
 遥に一つを渡した後、僕はこっそりもう一つ拾い上げて、ポケットに仕舞い込んだのだった。
 しばらくの間、眠りにつく前に、この貝殻を眺めてはあれこれと考えていたことを思い出した。
 いつの間にかそんな習慣も無くなってしまい、枕元の引き出しに置き去りにしたままだった。
 散々迷いはしたが、でもやはり僕はその貝殻をこのまま置き去りにすることが出来なかった。
 そっとポケットに中に仕舞い込み、急いで部屋を出た。


 新しい職場では課長代理ということもあり、これまでとはまた別の意味で忙しい毎日が始まった。
 事業所からほど近い場所に部屋を借りたこともあり、通勤時間が掛からない分、朝なり夜なり仕事に打ち込むことが出来た。詩織の明察通りといった感じだった。
 木村さんは事あるごとに、何故か詩織を通して僕を誘いかけてきた。
 詩織が言うには、金時で会議がしたいとの事らしいが、詩織はその申し出をピシャリと断っているのだという。宮内は住宅部ですから、と。
 誘いたいのなら直接僕に連絡を寄こせば良いものを、詩織を通そうとする気遣いが、何とも木村さんらしかった。
 しばらくは、僕の方も新しい環境でそれどころではなかったけれど、落ち着いたら息子さんも一緒に新居に招待するのも良いと、詩織には伝えていた。
 その時は目いっぱいのご馳走を用意するのだと、詩織は楽しそうに言う。でもそのあとで、もちろん息子さんのためにね、と付け加える。


 それからまた二年後、僕と詩織には娘のあおいが誕生した。
 深く澄んだ空の様に、広い心をたたえた人になって欲しいとの願いを込めた。

 娘の誕生は僕の価値観を大きく変えるほどの出来事だった。
 仕事はこれまで通り走り回るのだけれど、住宅の打ち合わせでは、何かしら提案の中に娘の存在が無意識に介入してしまうことが多くなった。
 特に子供が生まれての新居購入には、思わず力が入ってしまうのだった。
 碧は歩けるようになると、仕事から帰宅する僕に駆け寄って来てくれる。
 そのせいで、碧が起きている時間に帰宅するのが僕の楽しみにもなっていた。
 食事をし、碧を風呂に入れ、一緒に床に入る。昔の木村さんがそうであったように、僕という世界を回す中心には、無邪気に笑う碧の存在があった。


第37話 微かな澱


 自分の成長とは比べものにならないくらい、娘の成長が早いことは、本当に驚くばかりだった。
 うっかりしている間に碧も三歳になり、そういう僕自身も、三十四になっていた。
 木村さんは転勤どころか、公共事業部の若き部長に昇進し、僕は代理という肩書が外れ、事業所の課長職にやっと落ち着いたところだった。
 相変わらず住宅の仕事は楽しかったし、やり甲斐に満ちていた。
 今後その家族なり夫婦なりの人生計画に携わることが出来るのは、責任の重さと共に、喜びを分かち合う仲間に加えてもらえたような感じさえした。
 その家で育まれるドラマを想像しただけで、仕事への満足感も増すばかりだった。
 当たり前の事なのだけれど、もうこの仕事が自分に向いているのかなんて過去に迷ったことさえ忘れていた。

 帰宅し、碧からの熱烈歓迎を受け、抱き寄せる。
 碧を膝に抱えたまま夕食を摂り、一日の出来事を家族で共有する。
 とは言いながらも、いつも話題は、本日の碧の様子ばかりだった。
 夕食後、詩織が新しくお茶を淹れながら、碧とじゃれ合う僕に言う。

「そろそろ七五三の事も考えないといけないんだけど」

「どうしようか?」

 僕は答える。

「帯祝いやお食い初めやった同じところで良いよね」
「そうだね。あそこくらいだね」

 自宅からは少し離れてはいたけれど、安産祈願からの一連の行事ごとはいつも本社近くの神社で済ませていた。
 有名なやしろなので、土日はいつも参拝客で溢れていた。

「準備は詩織に任せてもいい?」

「任せるって言うとカッコいいけど、私に丸投げってことでしょ?」

 詩織は少しだけ不機嫌に返し、僕は笑ってごまかす。
 碧も僕のマネをして、にっこり笑うのだった。

 天気予報では午前中から雨が降るとのことだったが、七五三当日は朝から見事に晴れ渡っていた。
 気持ちの良いほど外れてくれた天気予報に、僕も詩織も安堵した。
 ただでさえ落ち着きのない碧のことだ、足元がぬかるむ中を借り物の着物で過ごすのは、我々としても気持ちが落ち着かない。
 僕も詩織も、空に向かってお礼を述べたいくらいだった。
 それにしても、碧の着付けには一苦労だった。
 着慣れない着物を嫌がる碧に、僕と詩織はご機嫌取りに終始したのだった。
 そのお陰で、詩織渾身の変顔は、碧の機嫌を回復させる為の強烈な決め技であることも判明した。


 何とか参拝と写真館での記念撮影を終え、碧の着物を返却する。
 着慣れない着物から解放された碧の元気は、まさに最高潮だ。
 できればその笑顔を写真館で見せて欲しかった。

 本社の駐車場に車を停めさせてもらい、近くのレストランで昼食を摂る。
 碧の元気はとどまることを知らず、昼食後はそのまま近所の公園まで足を延ばした。
 公園で走り出す碧の背中に笑顔を見せながら、詩織がほっとしたように言う。

「天気が何とか持ってくれて良かったね」

「本当に助かった。でも雨じゃなくたって、着物を汚さないかひやひやしたよ」

 僕は答えて、空を見上げる。
 いくらか雲の量は増えてはいるものの、晴れ間の方が多かった。
 詩織も空を見上げて楽しそうに言う。

「天気予報士さんは、今頃悔しがってるのかもね」

「それじゃまるで…」

 天気《《予想》》士と言いかけて、僕はおかしな気持ちにさいなまれた。
 何か心の底に溜まっていた重たいおりが微かに舞い上がったような気がした。
 僕が言いかけた言葉を拾い上げて、詩織が訊ねる。

「それじゃまるで?」

「いや、何でもない」

 僕は碧の背中を追いかけて走り出す。
 追いつかれまいと逃げ回る碧を捕まえて抱え込み、そのまま肩車する。
 肩車されると、碧は僕の髪の毛を掴み、そのあと嬉しそうに手を上げる。
 碧は本当に元気で快活な女の子だ。
 しばらくは碧を肩に乗せたまま、僕もはしゃいでいた。
 東屋を見つけて、少し休むことにした。
 詩織が持参した水筒からコップにお茶を分け、碧の口元に運ぶ。
 碧は美味しそうにそれを飲みながら、足をぶらつかせる。
 そこで初めて、先ほどのおかしな気持ちの正体に、僕は思い至った。
 そうだ、この公園はむかし遥と訪れた公園だった。
 遥が初めて膝の違和感を訴えた公園だ。
 あの時遥は、この東屋で、僕に膝の違和感を訴えたのだ。
 いま彼女はどうしているだろうか。
 ふとそんな事を想った。
 考えてみれば、もうあれから十年が経ってしまっていた。
 今僕はこうして詩織という伴侶と出会い、碧という宝物を授かった。
 遥も同じようにしているのだろうか。
 彼女は重い病気と闘い、克服した強い人間なのだ。きっと素敵な伴侶に出会い、幸せに暮らしている事だろう。
 いや、そうでなくてはならない。
 そうでなくては、二年も失恋に苦しめられた僕自身にしても立つ瀬がないではないか。
 自嘲気味に視点を定めていると、詩織が訊ねる。

「どうしたの? にやけて」

「別ににやけてなんてないよ」

 碧の飲み干したコップを受け取り、詩織に渡す。
 そのまま、また碧を抱えて、肩に乗せる。
 歓喜する碧の声が誇らしい。
 そうだ、僕も遥も、違う道を歩いている。
 お互いが求めあったものに、今お互い出会えているのだ。
 碧が僕の頭を抱えるようにして、僕の頬に小さな手を当てる。
 この世界で最も尊い温もりを、僕は感じていた。


第38話 予感


 翌週は立て続けに3件の地鎮祭に立ち会い、同じく立て続けに3件の突発事項が重なった。
 水曜は部下が担当して先月引き渡した物件でのクレームが発生し、同行して対応に追われた。
 ようやく木曜日を迎えるころには、いつになく疲労がたまってしまっていた。
 それでも朝から本社での打ち合わせのため、朝一で直行する。
 顔見知りの何人かと挨拶を交わし、会議室へ向かうためにフロアを横切ったところで、やはり木村さんと鉢合わす。
 木村さんは僕を確認すると、上機嫌で片手をあげて向かって来る。

「宮内! こっちに来るなら一言連絡入れろよな」

「木村部長、今日は部長とは関係ない案件でございますので」

「つれないよな、宮内は。で、明日あたりどうだ? 久しぶりに金時会議」

「良いですね。でも」

「でも、なんだよ?」

「これは僕の勘なんですけど、今週は何だかずっとバタついてしまってるんで、明日の金曜もこの流れなんじゃないかって。今、まさに目の前で憂いにぶつかっている最中ですし」

「バカヤロー、宮内。お前にしてはキレが悪いぞ」

 僕と木村さんは笑い合い、僕は承諾する。

「分かりました、木村さん。詩織にはしっかり了解を得ておきます。ただ本当に何かあるかもしれないので、その時は気持ちよくお断りさせていただきます」

「宮内、何でもいいや。楽しみにしてるぞ」

 木村さんはそう言い残すと、別の会議室に小走りに向かって行った。
 冗談を言いながらも、僕には実際何かが起こりそうな予感がしていた。
 自分では説明のつかない不思議な感情をくすぶりながら、急いで会議室に向かう。
 そしてその予感は、その日のうちに見事的中することになるのだ。僕にとって、予想だにしないかたちで。


 打合せ後は、顔見知りの何人かと、本社近くの定食屋のランチへとなだれ込んだ。
 同期入社のメンバーもいたので、近況報告と昔話に花が咲く。
 その後は急いで現場へ向かい、少し難しい案件をこなしていると、部下からの連絡が入る。
 昨日のクレーム案件について、再度問い合わせが入ったとのことだった。夕方に先方に向かうので同行して貰いたいと、部下からの申し出だった。
 やはり、今週はただでは済まない流れらしい。
 部下には快く返答し、電話を切って溜息をつく。
 夕方までには、大方の段取りを終えなくてはならない。
 午後6時前に現場近くで部下と落ち合い、簡単に用件を聞き、内容をすり合わせる。
 部下には、あまり会社や上司である自分の顔色なんて考える必要はないと伝える。
 大切なのはお施主さんの想いを受け止め、真摯にそのポイントに近づけて行くことだと。
 その為に上司や会社をうまく使って欲しい。
 自分が仕事をしたことで、その先の先の人が幸せになることが、最終的に会社の利益になると信じるのだと。それでも出来ない事は出来ないけどな。
 そう伝えると、部下の表情もいくらか明るくなった。

 結局、再度クレームという程でもなかった。
 昨日の件の念押しで昼に問い合わせたらしいのだけれど、部下の自信の無い対応に、再度説明が欲しいという事が、今回の要諦ようていだった。
 僕はその場で、メモした要点を署名入りで施主さんに渡し、期日について確認をすると、意外なほど早くお開きになった。
 帰りの道すがら、何度も頭を下げる部下に言う。

「気にするな、これも上司の仕事だ」

 つくづく思う。僕の部下への返答は、まるで過去に木村さんから言われてきたことそのものじゃないか。
 木村さんを追いかけるあまり、発する言葉まで真似てしまったのではないか。
 でも部下は部下で、当時の僕なんかよりずっと真面目だし出来が良かった。
 先ほども僕のやり取りを見ては、すぐにメモを取っていた。
 僕は少し後ろを歩く部下に言う。

「メモを取るのは感心だが、書いて終わるな。しっかり頭に叩き込め」

 口にして、自嘲する。
 これくらいが、せめてもの自分の中の木村さんへの反抗だった。
 部下はまた手帳を取り出してメモをする。

「そういうところだぞ?」

 言って、また自嘲する。

 夜風が無性に心地よかった。本当に大したトラブルでなくて良かった。
 明日は木村さんとの久しぶりの金時会議だ。
 また大いに木村節を語ってもらい、馬鹿話もしたい。
 そんな事を考えていると、上着の中でスマホがけたたましく鳴りだす。
 ディスプレイに表示された名前を見て、驚くと同時に思わず通話タップしてしまう。
 順子さんからのものだった。
 声を聞いた途端、不思議な感覚に全身が震える。

「丞君…?」

 すぐに答えることが出来なかった。
 確かに順子さんの声なのだけれど、記憶に遠すぎて、違うようにも聞こえる。
 それよりも、すぐに通話タップしてしまった自分の行動にも驚いていた。

「丞君…?」

 順子さんはもう一度こちらに呼びかけた。

「はい…」

 答えたは良いが、そのあとは言葉が出なかった。
 アンバランスな空気が流れる。
 僕を巡る世界が通話口に集中するように、静寂に包まれていた。
 気が付くと、部下が不思議そうに僕を見ていた。
 すぐに部下に背を向けて、順子さんに言う。

「どうかしましたか?」

「丞君…、話しときたいことがある…」

 部下をここで追い払うわけにもいかず、僕は手短に用件を聞く。
 明日の夜7時に、本社近くのカフェで我々は落ち合うことになった。

 電話を終えた後、早足に事業所へ戻り、部下と今日の一件についてもう一度すり合わせをした。
 でも正直言えば、僕の心は全く違う場所にあった。
 先ほどの順子さんからの電話のせいだ。
 順子さんの話とはいったい何なのか、そればかりが気になって仕方がなかった。
 それにこの十年もの間、順子さんの番号を消し忘れていた自分の失念にも驚きを通り越し、呆れていた。
 確かに仕事関係の連絡先もあるため、アドレス帳の整理はしていない。それにしても…。
 そこで改めて頭の中を整理してみた。
 遥は僕との関係を断つために、電話番号を変えたのではなかったか。では順子さんはどうして僕の番号を残していたのか。そしてどうして、今こなのタイミングで僕に連絡をよこしてきたのか。
 様々な可能性を頭に描き、何度もかき消した。
 結局のところ、この十年という歳月が、すべての事柄を解らなくしていた。
 部下が帰った後も、僕はずっと自分のデスクでぼんやりと時を過ごした。
 一つだけ確かなのは、今週ずっと僕の中で訳もなくくすぶっていた予感は、きっとこの事だったのではないかということだけだった。


 自宅に戻ったのは22時を過ぎた頃だった。
 当然碧は床に就いていて、詩織がキッチンのテーブルで、本を読みながら僕の帰りを待っていた。
 ただいまと声をかける僕を見て、詩織が言う。

「何かあった? 疲れた顔してるけど」

「うん、今日も色々あったにはあった」

「大丈夫?」

「こんな時間になってしまった。碧はもう寝てるね」

「パパの事待ってるって聞かなかったけど、ついさっき力尽きたところ。久しぶりだね、こんな時間まで」

「ごめん…」

「いいよ、そんなの。もともと仕事ばかりの人が、碧が生まれてから早く帰って来てくれてただけだし。その為に事業所から近い場所に住んだんだから」

「明日も少し遅くなるかもしれない」

「木村さんでしょ? 今日連絡があった。金曜の夜はお宅の旦那を預る、だって、大袈裟に」

 そうだった。明日は木村さんとの金時会議のはずだった。
 気が動転してしまい、順子さんと約束をしてしまった。

「いや、実は別件が入ってしまったんだ」

 言って苦いものが込み上げる。
 場合によっては、詩織にもしっかりと話さなくてはいけないのかもしれない。
 でも今急いで事を荒立てる必要はないと考えていた。
 順子さんの話が何事も無ければ、それはそれで良いのだ。
 詩織は台所に立ち、夕飯の支度をはじめながら背中越しに言う。

「そうなの? 木村さんすごく楽しそうだったけど」

「朝一で連絡入れなくちゃいけないな…」

 夕食を食べている時も、風呂に入って床に就く時も、詩織は僕の顔を確かめるようにのぞき込んでいた。
 心配させてしまっている。
 そう思いはしても、言い知れようのないこの感情の始末を、僕自身、持て余していた。
 考えても仕方のないことだ。
 そう何度も自分に言い聞かせるも、結局その夜は浅い眠りと覚醒を何度も繰り返すばかりだった。


第39話 手紙


 翌朝一番に木村さんに断りの連絡を入れる。
 案の定木村さんは大袈裟に残念がった。

「今日の今日だぞ、宮内。これがどんなひどい仕打ちか分かるか?」

 木村さんは何度もそう繰り返した。

「木村さん、本当にすみません。必ず近いうちに僕の方から誘います」

「宮内はいつもそう言って、ちっとも誘わないよ」

「絶対です。今回ばかりは必ずします!」

「信じてもいいのか?」

「お願いです。信じて下さい!」

 何とか木村さんをなだめて電話を終えると、事業所の何人かが笑っているのが分かった。
 電話口の相手が、本社公共事業部の部長様であることは、皆大方察しがついているようだった。
 ため息をついて、デスクに着く。
 メールチェックを手早く終え、スケジュールに落とし込んだ後、現場に向かう。
 今日一日、何事もない事を願うばかりだった。


 午後に一旦帰社し、それから夕方までに事務所での仕事を終える。
 少し早くはあったけれど、電車で順子さんとの待ち合わせに向う事にした。
 待ち合わせは、本社近くに古くからあるカフェだった。
 金曜の夜といえども僕以外に、他の客は見当たらない。
 静かに話すには良い場所だった。
 それでも本社近くということもあり、顔見知りがいないかと気が気ではなかった。
 特段、木村さんにこのカフェにいることが分かったら、何を言われるか分からない。
 それだけに、窓際の席は選べなかった。
 最も奥まったテーブル席に座り、コーヒーを頼む。
 順子さんを待つまでの間、コーヒーを啜りながらこの十年の歳月に想いを馳せる。
 とりわけ遥と別れた後の最初の二年間は、暗闇の中を生き抜いた思いだった。
 著しく色彩を欠いた世界で藻掻きながら、別れの理由や、遥の幸せを僕なりに祈ることしかできなかった。
 同じ背丈の女性に思わず声をかけてしまったことも、遥の家の最寄り駅に、何も考えず降り立ってしまったこともあった。
 そんな時はすぐに次の電車に乗り換え、或いはその場を急ぎ足に立ち去り、祈るような気持でやり過ごしたのだった。
 やがて詩織という伴侶を得、僕は再び光のもとを歩み始めた。
 順子さんはいったい、今の僕に何を伝えたいというのだろう。
 もしかしたら、今日この場に僕がいる事は、大きな間違いなのかも知れなかった。
 十年も前の恋人の母親と、この期に及んで待ち合わすなんて、どう考えたって可笑しいじゃないか。
 改めて、そんな思いに至る。
 すっかり冷めてしまったコーヒーカップをソーサーの上に戻し、立ち上がった。
 やはり帰ることにしよう。
 そして順子さんの連絡先も消去し、ブロックすれば良い。もう十年も前の話なのだから。
 伝票に手をかけ、レジに向かう。
 同じタイミングで店の扉が開き、順子さんが静かに入店する。
 十年前より小さく、どこか疲れてしまっているようにさえ見える。
 でもその姿は間違えようもなく、順子さんだった。
 順子さんは僕の姿を認めると、小さく会釈して僕の目の前に静かに歩みを進める。
 もう僕には逃げる事すら出来なかった。

「丞君…?」

 順子さんは電話口と同じ声だった。

「はい。ご無沙汰しております」

 返事をして僕は頭を下げる。
 それからお互いの姿を確認するように無言の時間が過ぎ去る。
 ややあって、順子さんは少し困ったように微笑む。

「丞君、見違えちゃったね…」

 テーブルに向き合って座り、順子さんは紅茶を、僕は二杯目のコーヒーを頼んだ。
 十年前は溌溂はつらつとしていた順子さんの目元に、小皺が薄っすら浮かぶ。
 当たり前のことだけれど、過ぎ去った歳月の長さを今更ながら想う。
 順子さんが僕に話があるのだという以上、それは遥のことに違いない。
 僕は順子さんが話し出すのを、息を呑んで見守った。

「丞君、仕事に変わりない?」

「はい、ずっとあの会社で働いています。今は隣り街の事業所に配属されて、相変わらずそこで住宅をやっています」

「ずいぶん顔つきも確りしてるし、出世してるんじゃない?」

「出世っと云うか、年相応という感じです」

 そう答えてから、僕は思い切って遥の事を尋ねる。

「あの…、遥さんは、お変わりないですか?」

 不思議ながあった。
 雫が滴り落ち、静かに跳ね上がるような小さな間だった。
 順子さんの表情に、張り付いたような笑みが浮かんだ。
 その不自然な微笑みに、僕の方がたじろぐ。
 順子さんのその笑顔は、過去の記憶をいくら探っても見たことがない無機質なものだった。
 余計なことを訊ねてしまったのだと、前言を撤回し、僕は慌てて話題を変える。

「変な事聞いちゃいました。ちょっと気になっただけで、元気にやっていてくれるなら大丈夫です。順子さんもお変わりないようで、安心しました」

 言って、自分の場違いな自分の声音こわねに苛立つ。
 順子さんの張り付いたような微笑みが、にわかに崩れ落ちる。
 順子さんは声もなく、涙を流しているのだった。
 口角に力を込めて感情を押し殺すように、順子さんは恐ろしい言葉を口にする。

「丞君…、遥ね…、死んじゃったんだ…」

 耳の奥で、頭の中で、心の深い深い所で、何か《《大きな音》》がした。
 僕はおそらく声を発したはずだ。
 でも何と言ったのか、それは自分さえも解らなかった。
 言葉なのか、うめきなのか、あるいはさけびだったのか。
 息を呑み、やっとの思いで僕は順子さんに訊ねる。

「順子さん、何言ってるんですか…?」

 順子さんはすすり上げ、苦しそうに続ける。

「丞君と別れたあとね、半年くらいしてあの子、内臓の方でも炎症を繰り返すようになってしまって、多臓器不全たった…。二十五の時…」

 先ほど全身を駆け巡った《《大きな音》》の正体が、今はっきりと解った。
 それは僕の心の深い場所からふつふつと湧き上がる、言い表す事も出来ない程の怒りだったのだ。

「何言ってるんですか…? 順子さん、遥は完治したんですよね…?」

 順子さんは涙交じりに何度も頷く。
 まるで嫌な過去でも振り払うみたいな、そんな頷き方だった。

「丞君…、ごめんね…」

 苦し気に涙を飲み込み、順子さんが謝罪する。
 言葉にならない心の震えが痛いほどこの胸に伝わる。
 でもこの僕の中で湧き上がる怒りは、どうしたら良いのか。
 僕の口をつく強い言葉が、すぐに力を失う。

「遥は完治したって…、順子さんも…、だからあの日デートをしても良いって…、だからあの時の別れも…」

 気持ちの置き所が、もう解らなくなっていた。
 遥が別れを切り出したあの日の光景と、いま目の前で知らされた現実とのギャップに、僕は混乱してしまっていた。
 怒りの矛先をどこにぶつけたら良いのか、行き場のない感情が僕自身を責め立てていた。
 そして結局のところ弱々しく、疑問しか見つからない。

「どうして…」

 順子さんは何度も頭を下げながら啜り上げ、遥のその後を話し始めた。
 あの日、最後のデートで僕に別れを告げる事については、順子さんは事前に承知していたのだという。
 長くなることが予想される闘病生活に、これ以上僕を付き合わせてはいけないのだと、遥がついた嘘なのだということだった。
 しかしあれから遥の病状はどんどん良くなり、散歩で遠出をすることも出来るようになっていたのだと順子さんは言った。
 そんな矢先、遥の容態は著しく悪化し、痛みが全身に広がるようになる。
 その後は動けない日が多くなって行き、痛みに悶える闘病生活が始まったのだと、順子さんは弱々しく言った。
 遥はベッドの上でいつも小さな貝殻を眺めて過ごしていたのだそうだ。
 見兼ねた順子さんは、僕に連絡を取ることを幾度となく遥に提案したのだとも。
 それでも遥の意思は固く、断固として僕に連絡をすることを拒んだ。

「丞ちゃんは本当に優しい人だから、もう一度でも頼っちゃったら、死ぬまで離れなくなっちゃうよ。それよりも丞ちゃんのこれからの幸せを祈った方が、私にとってもすごく幸せなことだよ。丞ちゃんならきっと素敵な人と一緒になるんじゃないかな。私は、自分がそんな未来を想像できることが誇りなんだよ。私はいちばん星みたいに、そんな未来を見守るんだ。おせっかいだけどね」

 何ということだろうか。僕が遥との別れに悩んでいる時、つらさに何かを求めている時、色彩を欠いた世界などと被害者ぶっている時、遥は僕の幸せを祈っていたというのだ。
 遥自身の身体だって病魔に侵され、内臓からも痛みに苦しんでいる時なのに。
 言葉にならなかった。
 どう飲み込んで良いのかさえ解らないほどの大きな思いが、僕の眼前に横たわった。
 いちばん星だと遥は言った。
 そうだ、かつてあの迷子になったキャンプ場で、遥は一番になりたいのだと僕の胸の中で泣いた。
 僕の頼りない小さな胸の中で泣きじゃくって言った言葉を、遥は最後まで貫いてくれていたのだ。
 たった二年じゃないか。
 僕が苦しんだのなんて、たった二年だ。
 それになんて僕の世界はちっぽけなんだろう…。
 唯々至らない自分が悔しかった。
 もしも僕自身が頼もしく大きな人間だったなら、あるいは遥は僕をちゃんと頼ってくれたのだろうか。
 以前、木村さんは僕にこんな事を言った。
 神様に身を捧げたのは彼女の方かも知れないぞ、と。
 その通りだった。
 遥は自分の治癒への願いと引き換えに僕を捧げたんじゃない。僕の幸せを願い、神に自らを捧げたのだ。
 こんなちっぽけで頼りない僕の為に自ら身を引き、幸せを祈り続けてくれたのだ。
 もしかしたらこの十年間、僕は遥の祈りを下敷きに、のうのうと生きて来てしまったのではないか。
 やりきれない思いに打ちのめされていた。
 本当にどうしたら良いのかさえ分からなかった。
 狼狽うろたえる自分を落ち着かせようと、コーヒーカップを手に取るも、その重みに耐えきれず、すぐにソーサーの上に戻す。
 そして思い切って僕は順子さんに訊ねる。
 それがあまりに稚拙な質問だと云うことは分っていた。

「順子さん…、どうして、今になって僕にこの事ことを…」

 順子さんは唯々頭を下げる。

「ごめんなさい…。遥には最後まで口止めされてたんだけど…。私の事は絶対に丞ちゃんに知らせないでって…、本当に最後まで…。
 丞君、日曜日…、七五三だったでしょ? 綺麗な奥様と、とっても可愛らしい娘さんと…。見ちゃったんだ…、すぐそこの神社の前で…」

 何と答えたら良いものか、僕は言葉にできず順子さんを見つめる。

「すごく幸せそうだった…。着物を嫌がる娘さんを丞君が追いかけて、そんな二人を奥様が優しく見守って…。まるで絵に描いたみたい…。
 そんな姿をずっと見てたらね…、遥もそうだったのかなぁ…、って。もし遥が生きてたらこんな風だったのかなぁ…って。
 ちゃんと自分の人生を歩いている丞君には本当に申し訳ないって思ったんだけど…。でも、居てもたってもいられなくなっちゃって…。遥は生きていたんだよ、遥はこの世にいたんだよ、って…。遥は過去じゃないんだよ、って…。どうしても伝えなくちゃって…」

 順子さんはもう泣いてはいなかった。
 それでも順子さんの心の震えは、僕の目の前の空気を震わせ、確かに僕の心を悲しく震わせていた。

「丞君、本当にごめんなさい…。許されないよね、こんな事…。でも、私どうしようもなくて…、だから私のこと恨んでも良いから…」

 これが本当に金曜日の夜なのかと思うほど、静かな夜だった。
 街の喧騒とは程遠いこの店の中で、時間は止まってしまっているのかとさえ思えた。
 順子さんはこの十年という歳月を、悲しみに耐え、押しつぶされそうになりながら生きていたのだと思う。
 夫を亡くし、また同じやまいで娘を亡くしたのだ。
 おひさまみたいに明るい人だった。
 僕の知っている順子さんは、夫を亡くした苦しみを力に、必死に、努めて明るく、娘を育て上げた人だった。
 僕には順子さんを責める事なんて出来ない。
 でも僕の中に渦巻くこの感情は、いったいどう消化したら良いと云うのだろう。
 順子さんが自分のバッグに手をかけ、その中から二つ折りにした一枚の紙を取り出し、僕の前に差し出す。
 受け取って開いてみると、それは古いレポート用紙に書かれた、遥からの手紙だった。

『初めて手紙を書きます。電子メールでもスマホのメッセージでもなく紙の手紙。
 この手紙はしょうちゃんには届きません。書き終えたら丸めて捨てます。
 誰にも届かない手紙です。だから思い切り本音を書きます。

 丞ちゃん、私は今仕事の合間にこの手紙を書いています。
 丞ちゃんとお別れして半年がたとうとしています。
 本当は別れたくなかった。できることならずっと一緒にいたかった。
 丞ちゃんと一緒にこの病気を乗り越えて、結婚して子供を産んで、時々喧嘩もしながら歳を取って、最後は一緒に天国に行く。
 順番はまず丞ちゃんを看取ってすぐに、私の心臓が止まる。一瞬遅れるけどすぐに追いついて、手をつないで天国に行く。それが私の夢だった。
 でもね、丞ちゃん。私の病気はそんなに甘くは無かったみたい。今の医学では対処する方法が無いらしく、遺伝性の私の病気は子供を産むことについても、色々考えなくてはいけないみたい。私にはそのことが最もつらい事でした。丞ちゃんとこのまま手をつないでいたら丞ちゃんをどんどん消耗させてしまう。そんな風にしてまで一緒にいて《《私たち》》は幸せなのかってたくさん悩みました。
 どうやらこの病気の克服には、たくさんの時間が掛かりそうです。その間に丞ちゃんも私も歳を取ってしまって、丞ちゃんの大切な時間を奪ってしまうんじゃないかって。

 大好きな丞ちゃん、私は一人でこの病気と闘います。そう決めました。
 前に丞ちゃんに言ったとおり、私は今でも丞ちゃんの一番になりたい。
 この病気に少しでも早く打ち勝っていつか丞ちゃんに会いに行きます。
 もしその時丞ちゃんに誰も良い人がいなくて、ちょっとくたびれたおじさんになっていても、いえ、私がちょっとしわのあるおばさんになっていても優しく抱きしめてください。
 今もまだ丞ちゃんが好き。今すぐ会いたい。別れたいなんて全部嘘だよ。
 ずっと丞ちゃんの一番でいたい。
 でも決めたから。私はここから丞ちゃんを想いながら頑張ります。
 そばにはいられないけど、一番星みたいに輝きながら頑張るんです!
 怖いけど、すごく怖いけど、丞ちゃんいないのはすごくつらいけど…。

 丞ちゃん、今まで本当にありがとう。
 私は丞ちゃんと出会えて、本当に本当に本当に幸せでした』

 手紙を読み終えても、すぐにはその手紙を閉じることが出来なかった。
 懐かしい、遥が書いた文字だった。
 目の前で語りかけて来そうなほど、遥の口調そのものを書き綴った文面だ。
 気を許してしまえば、すぐに僕の全てを引っ張っていきそうなほどの懐かしさに、胸が締め付けられ、苦しくなる。
 順子さんはもう一度バッグに手をかけ、今度は透明な内袋を僕の前に差し出す。
 透明な内袋の中に桃色の小さな貝殻が、大切に仕舞われていた。あの日、浜辺で僕が拾った貝殻だった。
 順子さんは言った。

「この貝…、カバザクラガイって言うんだって…。あんまり遥が大切にしてたもんだから、私、調べてみたんだ…」

 順子さんの顔色が少しだけ曇り、今にも泣き出しそうになる。

「そしたらね…、この貝、このあたりの浜辺なら、どこにでもある貝なんだって…」

 まるで自嘲するみたいに、順子さんは口角を歪める。
 僕の中にある何かがもう一度熱く燃え上がった。自分でも驚くくらい、大きな声で否定する。

「順子さん、この貝はどこにでもある貝なんかじゃありません。この貝は、この世にたった一つしかない、かけがえの無い貝なんです」

 順子さんは零れ落ちた涙をぬぐい、何度も何度も頷いた。

「ありがとう…。丞君、本当にありがとう…」



 別れ際、順子さんから遥の残した手紙を、僕に形見として受け取って欲しいのだと懇願された。
 散々迷いはしたが、僕はその申し出を固辞した。
 それならせめてカバザクラガイをと、順子さんは僕の手のひらに無理に預ける。
 結局僕は、順子さんの必死の形相に気圧けおされカバザクラガイを受け取ってしまったのだった。

 カフェを後にし、隠れるように本社に背を向ける。
 駅に向かいながら、金曜夜の賑やかな街並みに馴染めない自分に気づく。
 ネオンは陽気にぎらつき、酔い客たちはお互いに凭れかかり闊歩していた。
 怒鳴る人も、笑う人も、先を急ぐ人たちも、みんな生きていた。
 まるで街中が生命に満ち溢れているのに、そこに遥はいなかった。
 この世界から遥だけが失われた、そんな気さえした。
 ガードに凭れかかり、呼吸を整える。
 今この場で叫んでしまいたい衝動に駆られた。
 でも同時に、そんな事さえできない自分自身に、自虐の笑みをもらす。
 あの日の消えゆく遥の後ろ姿が目に浮かび、ひとりうずくまる。
 ポケットの中のカバザクラガイを握りしめ、むせび泣く。


第40話 心を抱くもの


 朝目覚めた後もずっと、身体を起こす事ができなかった。
 しばらくの間、現実感の無い中空に視点を定めていた。
 休日とはいっても、普段と変わりなく起床するのが常ではあったが、時計の針はすでに9時を回っている。
 リビングからは、僕を起こしたくて寝室に飛び込もうとうずうずしている碧を、優しく咎める詩織の声が聞こえる。
 そんな声を遠くに、僕の心と身体は、何かバランスでも失ってしまったかのような気がしていた。
 昨夜、順子さんと別れた後は、訳もなく夜の街を徘徊した。
 突然自分の中の軸を失った僕は、帰るべき道が解らなくなってしまっていたのだ。
 今自分の置かれた状況が、本当に正しいのか判然としない頭で悩み。或いは失ったはずの過去から、無理に妄想の糸を引きずり出してしまったり、幻影の海に埋没してみたり、とにかく僕自身の置き場を見失ってしまっていた。
 それでも、その感覚はこの朝を迎えた後も、ちっとも変わらなかった。
 先ほどから中空を眺めては、本当に《《ここ》》が自分の居場所なのかとさえ考えている。
 帰宅後いつもと様子の違う僕を気遣い、詩織は僕に何も問い掛けたりはしなかった。
 おそらく彼女は心配しているはずだ。でも悲しいことに、この精神状態を説明することが出来なかった。
 加えて詩織に気遣えるほど、僕の心に余裕が無かったのが、正直なところだ。
 いつもの様にキッチンのテーブルで読書をして、詩織は僕の帰りを待っていた。

「おかえりなさい」

「うん…」

 生返事を返す僕に、詩織は本から顔をあげ、しばらく様子を窺っていた。
 上手くコミュニケーションを取れないまま、僕は浴室に向かい、シャワーを浴びる。
 温かいのか冷たいのかさえ分からず、シャワーを頭から浴び、打ち付ける水に意識を向けていた。
 シャワーの水滴は頭を打ち付け、耳から首元を通り、胸元に到達すると、あとは一筋の流れとなり、排水溝を目指してどこかに向けて急いでいる。
 願わくは、その流れとともに、僕も何処かへ流れ出て行ってしまいたかった。
 この十年間、いったい自分は何をしていたのか。そんな自問が、ずっと僕を責め立てていた。
 身体を拭き、詩織といくつか言葉を交わし、布団に潜り込んだ。
 冴えているのか、眠っているかさえもはっきりとしない微睡まどろみの中で、長い夜が静かに終わり行くのを横目に見ていた。


 時計の針が10時を回り、さすがの碧も待ちくたびれたように、猪突猛進の勢いで僕ベッドに飛び込んできた。
 おかしな事に、飛び込んできた碧の重みだけが、妙に現実感に溢れていた。
 勢いに上半身を起こし、掛け布団にくるまれた碧がひょっこりと笑顔をのぞかせると、自然に笑みがこぼれた。
 碧のその笑顔は、確かに僕の沈んだ心を掬い上げてくれているに違いなかった。

「朝だよ」

 碧がはじけるように笑う。

「朝だね、ちょっと寝すぎちゃった」

 碧を抱え、キッチンの椅子に腰かける。
 詩織は笑顔でコーヒーを淹れ、僕の目の前に差し出す。

「朝ごはんどうする?」

「うん、寝坊しちゃったし、お昼と一緒で良いかな」

 午後からは買い物に出かける約束だったので、コーヒーを一口すすった後は手早く身支度を整え、再び碧を膝にのせて残りのコーヒーを味わう。
 この平和な休日に埋没する自分と、はたからそれを冷たく見つめる自分が混在し、座りの悪い心持だった。
 膝の上ではしゃぐ碧に笑顔で返しながら、もう一人の自分がそれを否定するのだ。
 お願いだから、そう自身に言い聞かせ、でもふとした瞬間に眉間にしわが寄せてしまう。
 詩織が心配そうに僕を見つめているのが分かる。


 結局そんな風に休日は終わり、日常に至る。
 そしてまた僕は、現実から逃れる様な仕事の打ち込み方に終始するのだ。
 毎晩遅くに帰宅し、風呂に入り、食事をし、詩織と少しだけ会話をして、床に就く。
 考え、塞ぎ込んでしまう自分が、唯々怖かった。
 詩織の笑顔も、碧の笑顔も、受け入れながら同時に否定してしまう自分が混在し続けていた。
 果ては、幸せを感じることに罪悪感さえ抱いてしまう有様だった。
 とにかくそんな自分から逃れるように、仕事に執着してしまっていた。



 アンバランスな日々がひと月ほど過ぎさり、慌ただしく年末年始をやり過ごす。
 気がつけば、一月も半ばを過ぎていた。
 忸怩じくじたる思いに苛まれながら、その日も夕方から事業所のデスクに噛り付く。
 このひと月ばかりの間、平日のほとんどは碧と顔を合わせていなかった。
 詩織ともろくに会話ができていない。
 父として、或いは夫として、本当に情けない気持ちで一杯だった。
 椅子の背もたれに身体を預け、ため息を繰り返す。
 何とかしなくてはいけない。
 頭では分かっていても、いったいどうしたら良いのか、と悩み続けていた。
 遥はもういないのだ。
 十年前の話なのだ。
 何度そう言い聞かせても、遥が祈り、願ってくれた想いを、この頭の中から消し去ることが出来なかった。
 それならいったいどうしたら良いのか。
 思考は堂々巡りを繰り返す。
 頭を抱え、打ち消すようにPCのモニターを睨みつける。頭がどうにかなりそうだった。
 誰にも悪意なんてない。
 そう、そのことが何よりも僕を苦しめた。
 いっその事、誰かのせいにしてしまえば楽になれるのかもしれない。
 でもそれならいったい誰のせいにすれば良いのだろう。誰のせいでもないじゃないか。
 何度目かのため息をつき、拳を握る。
 モニターの時刻を確認すると、すでに二十三時を回っていた。
 PCの電源を切り、帰り支度をする。
 今日ばかりは、詩織が眠っていてくれていることを願った。
 心も身体も、疲れ切っていた。
 誰とも話さず、静かに眠りに就きたかった。
 僕はいつまで、この底なしの暗闇に潜むつもりなのだろう。
 これではいつか、誰かを傷つけてしまう。僕にとって、掛け替えのない人たちを。
 事業所の戸締りをして、守衛にその鍵を渡す。
 いつもより遅い退社に、守衛がお疲れさまです、と僕を労う。ありがたいが、でも僕は今必要な仕事をしているわけではない。
 自嘲して、礼を言う。
 さすがに今日は退社が遅すぎたのかもしれない。
 事業所のビルを離れると、すぐに街灯りが途絶える。
 冷え込みの厳しい季節だ。
 夜風は凛とし、頭上の暗闇は深くなる。こんな時はもう少し歩くのも悪くない。
 本来自宅はすぐ近くなのだけれど、回り道を決め込み、夜道の孤独を楽しんだ。
 歩いている内に、いくらか心も落ち着いてくるのが分かる。
 しかし自宅の前まで辿り着いて、また罪悪感に苛まれる。
 自宅の部屋の窓からは、静かに明かりが漏れていた。
 詩織はやはり、起きて僕を待ってくれているのだ。
 自宅のカギを取り出し、静かに開錠する。
 玄関を開けて靴を脱ぎ、リビングに向かう。
 同時に小さな足音が駆け寄ってくるのが分かった。
 リビングの扉を幼い力で押し開け、満面の笑みをたたえた碧が、僕に向かって駆け寄ってきた。
 思わず膝をつき、僕は碧を抱きしめる。
 こんな時間になってまで、碧は僕を待っていたというのか。
 夜道の冷え込みとは裏腹に、碧の魂の何と暖かい事だろう。
 急速に癒されゆく自分と、申し訳なく思い、情けない自分に行き当たる。
 しかしそれにもまして、新たに湧き上がる感情が僕自身を包み込むのが分かる。
 今この手に抱きしめる体温の何と尊い事か。
 そうだこの小さな命は決して間違ってはいない。
 否定なんて出来るわけないじゃないか。
 気が付くと涙が溢れそうになる自分がそこにはいた。
 縋りつくように、僕は碧を強く抱きしめていた。
 じっとして動かなくなる僕に、碧は少し戸惑っていた。
 身体をゆっくりと放し、碧に語り掛ける。

「ありがとう。こんな時間まで待っていてくれて、ありがとう…」

 碧はにこりと笑い、誇らしげに振り返る。碧の後ろでは詩織が優しく僕と碧を見つめている。

「今日はパパを待ってるって聞かなかったのよ」

 詩織は少し困った様に言う。それから僕と碧をリビングに促す。
 僕は急いでシャワーを浴び、着替えてキッチンのテーブルに着く。
 僕の膝の上で興奮気味に話す碧に返事をしながら、遅い夕食を摂る。
 そうだ、誰も間違ってはいないのだ。
 正直言えば、まだこの段階においても僕には《《その》》答えは見つかってはいなかった。
 ただ何となくではあるけれど、一筋の光のようなものがほんの一瞬見えたような気がした。
 いや、大きな魂が、優しく僕を抱きしめてくれたような、そんな気がしていたのだ。


第41話 今を生きる


 碧を寝かしつけた後、キッチンのテーブルに着き、再び詩織と向かい合わせた。
 時計の針はもうとっくに日付をまたぎ、深夜1時を回っている。
 僕が座るとすぐに詩織は立ち上がり、新しくお茶を淹れる。
 僕は詩織からカップを受け取り、つい今しがた寝かしつけた碧の様子を伝える。

「碧、眠たかったんだね。布団に入って頭を撫でたらすぐに寝入ったよ」

「私がどれだけ寝かしつけようとしても、パパを待つんだって聞かなかったから。今日ばかりは私が根負け。相当眠たかったと思う」

「ここしばらく僕の帰りが遅かったからね。碧なりに思う所があったのかも。詩織にもたくさん心配させたんじゃないかと思う」

「あなたは元来仕事人間でしょ?」

「いや、そうじゃないんだ。詩織にはちゃんと話さなくちゃいけない…」

 詩織も椅子に座り、カップを両手に包む。
 静かな夜だった。
 冷蔵庫のサーモスタットが控えめに唸った。

「ここひと月の間、僕の様子がおかしかったのは詩織も気が付いていたと思う」

 詩織が僕の目を覗き込むようにして頷く。

「実はひと月ほど前、昔付き合っていた人のお母さんに会って話をしたんだ…」

 それから僕はその時の話と、遥との経緯を詩織に丁寧に話した。
 あまり感情に踏み入らないように、慎重に、事実だけを伝えた。
 遥の病気と、僕との別れについても。
 詩織は静かに耳を傾け、時折まっすぐに僕の目を見ていた。
 すべて話し終え、僕はお茶を啜り、小さく息を吐く。
 詩織は静かに何度か頷き、最後に大きく頷くと、僕に礼を述べる。

「ちゃんと話してくれてありがとう」

 頼もしいほど詩織に動揺がないことに、僕はいささか驚いていた。
 詩織は続ける。

「私が初めてあなたを好きだと思った時、あなたはその人とお付き合いしていました」

 詩織が何を言っているのか、僕が理解するのにしばらく時間が掛かってしまった。
 でも詩織の言っている意味が分かると、僕は驚きを隠せなかった。そんな話し初めて聞いた。
 驚く僕に、詩織が懐かしそうに自嘲する。

「入社して一年目の頃、あなたは熱心に購買に通って、課長に見積額の値下げ交渉してたでしょ? こんなに熱心にお客様のために働く人って素敵だな~、って。
 同じ頃、木村さんもよく顔出してたから、あなたについて色々聞き出してた。木村さんは面倒見が良いから相談に乗ってもらってた。
 それで、あなたに素敵な彼女さんがいる事も聞き出した。しかも、あなたが仕事やお施主さんに熱心なのは、どうやらその彼女さんが影響してるらしいってことも。もう諦めるしかなかった。私の短くて、切ない片思い」

 何と言えば良いのか分からなかった。
 その頃の詩織といえば一年目から落ち着いていて、感情を表に出さず、いつも的確に取次業務もこなしているイメージだった。
 まさかそんな頃から好意を持っていてくれていたなどと思いもよらなかった。
 それに木村さんが購買に日参しているのは、てっきり詩織を口説いているものとばかり思っていた。
 その辺り口を割らないのは、いかにも木村さんらしかった。

「あなたがその人といつ別れたのかは知らなかったけど、ある日木村さんから言われたの。宮内が失恋してどうしようもないんだよ。あいつは仕事はそこそこ出来るんだけど、プライベートは全く冴えない。一席設けるから、俺も含めて今度どうだ、って。宮内さんが本当に来るならって私が了承して、あの日の席が設けられたの」

 詩織が真似る木村さんの口調はよく似ていて、思わず吹き出しそうになった。
 考えてみれば、詩織や木村さんにも、ずっとこうして支えられている。
 自分はいったい何なのだろうと、口元を歪める。結局僕はいつも助けられてばかりだ。
 詩織が真っ直ぐ僕を見据え、強く言う。

「その彼女さんのこと、忘れなくても良いよ」

 僕は詩織の顔を覗う。
 詩織のまっすぐな瞳が余すことなく僕を捉えていた。

「私があなたを好きになった時、そのあなたの中にはその彼女さんがいたんでしょ? これはもうどうしようもないのよ。悔しいけどね。本当に悔しいけど。
 その人との中で、あなたが獲得した精神に、私は強く惹かれた。
 でもそれって、みんなそうやって成長してるんじゃないの? 誰かから影響を受けて、その経験を糧に成長してきてるんだと思う。
 悔しいけど、私はその彼女さんを否定できません。ちょっと上から言わせていただけるのなら、よくぞこんな情けない丞という男を成長させてくれました。ありがとう!」

 詩織は泣いていた。
 それでも強く続ける。
 でもその声は、次第に涙を含んでいった。

「その彼女さんが祈りを捧げてくれたあなたを、私は好きになりました。その彼女さんがいたからでしょ…。悔しいけど…。
 だからその人の事、忘れないであげて欲しい…。その彼女さんの気持ち、何だか少しだけなら分かるから…。悔しいけど…」

 僕は詩織に頭を下げる。

「ごめん。結局僕はまた詩織に背負わせてしまっている」

「勘違いしないで…。
 私にだってそういう人がいて、今ここにいるんだから…。その人のおかげで、今のあなたの気持ちを受け止める努力ができてるんだから…」

 そうだ、詩織にだって過去がある。
 僕はテーブル越しに詩織の手を取り、でも何と返せば良いのか分からず、涙ぐむ彼女に頷いて見せる。
 詩織がその手を握り返し、言う。

「嘘だよ、そんなの…!
 今までのあなたから学んだの。おせっかいの先の先。その人を忘れないでって言うのは、私のおせっかいだよ。解ったか、丞!」

 ひとつはっきりした事がある。
 今を生きる僕にとって、目の前にいる詩織が掛け替えのない存在だということだ。
 複雑な感情を抱えながら、彼女もその一瞬一瞬を彼女なりの信じるものに祈りを捧げている。
 そしてそれは、僕にとっても愛おしくて仕方がないものだ。
 僕は今、その祈りをあたたかく包む光にならなくてはいけない。
 そして同時に、この瞬間僕は詩織からたくさんの事を学んでいる。
 何より、僕たちは望む望まないとに関わらず、今を生きているのだ。


第42話 悲しみで花が咲くものか


 その日は、終業後真っ先に木村さんに電話を掛けた。
 事業所内にはまだたくさんのスタッフが帰り支度をしているところだった。
 電話越しに木村さんは大袈裟に驚いて見せる。

「宮内から電話なんて珍しいな」

 僕は少し照れながら言う。

「木村さん、今週の金曜辺り一杯どうですか?」

「おーっ! 宮内どうした? 何かあったのか?」

「何かないとダメですか?」

「いや、そうじゃない。良いよ、宮内。それで良い」

 木村さんは嬉しそうに何度も言った。
 電話越しに笑いながら頷く木村さんの姿が見えたような気がした。

 木村さんとの電話を終えると一呼吸置いて、今度は詩織に電話を掛ける。
 開口一番、詩織は夕飯の準備中なのだと、忙しそうに言う。
 僕は詩織に伝える。

「今日ほんの少し遅れるから、夕飯は先に食べていて欲しい」

「そうなの? 良かった、夕飯いらないって言われなくて。それくらいならメッセージでも良かったのに」

「うん、でも何となくさ。あと、碧に伝えて欲しいんだけど、今日はパパとお風呂に入ろうって」

 詩織はそんなことは電話で伝えなくてもと言わんばかりに、クスリと頷き、了解する。
 帰り支度を済ませ、自宅とは真逆方向、駅へと向かう。
 駅から電車に乗り、いくつかの駅をやり過ごし、本社の最寄駅を過ぎるころには、車内は帰宅ラッシュのビークになる。
 僕はそのまま、本社の最寄りもやり過ごし、二駅先の懐かしいホームに降り立つ。
 そのまま人の流れに乗り、人混みの改札に吐き出される。
 構内の張り紙は変わっていても、柱も進行看板も昔のままだった。流れに逆らわず、駅前の交差点に辿り着く。
 そこではしばらく立ち止まり、夕暮れの街並みを眺める。
 少しだけ心の時計を巻戻すと、人混みで疲れた遥がふぅー、と溜息をついて笑顔を回復させる姿を見たような気がした。
 迷った挙句、僕は遥の自宅の方向からは背を向けて歩く。
 そして駅のガードを抜けて南口に。
 十年前とは見違えるくらい、南口の風景は変わってしまっていた。
 周辺には飲食街が形成されつつあり、以前と比べると、明らかに人の出入りも激しくなっているみたいだった。
 更に南口に背を向け、勾配のきつい坂を上る。
 神社の手前の公園をやり過ごし、遊歩道へ。
 暗がりの増す遊歩道から頂上に至るころには、もうすっかり陽は沈み、夜の帳が下りていた。
 僕は呼吸を整え、頂上の公園から街を眺めてみる。
 まるで星々の瞬きようなネオンの光たちを見下ろし、その夜景に感動し、息を呑む。
 おもむろに、ポケットの中から内袋に入ったカバザクラガイを取り出し、掌に乗せる。
 あの日、順子さんから渡された時から、どうしたら良いのかと、毎日ポケットの中に仕舞い続けていたものだった。
 そして今度はハンカチを取り出し、中に包んでいたもう一つのカバザクラガイも取り出した。
 遥かとの最後の日、浜辺で拾ってこっそり持ち帰り、未だにどうしたものかと大切に仕舞っておいたものだった。
 二つのカバザクラガイを掌に乗せ、併せてみる。
 驚いたことに、カバザクラガイの二枚はぴったりと合わさった。
 この二枚の貝殻は、元は一つの貝だっのだ。
 こんな事があるのだろうか。
 この二枚の貝殻はあの海岸で二つに分かれ、別々に拾われ、十年の時を経て、今ここでぴったりとまた一つに合わさったのだ。
 二枚の貝殻を握りしめ、僕はこみ上げる想いをそっと飲み込んだ。
 そして植込みの躑躅つつじの前でしゃがみ込み、根本の土を少しだけ掘り返す。
 それからそこに、二枚のカバザクラガイを手向たむけ、土に埋める。
 立ち上がり、手に着いた土を払う。
 見上げると、星々みたいな街灯まちあかりの上で、それを優しく見守る様に一番星が輝いていた。
 僕は両手を広げ、風を感じてみる。
 そんな風にしてみると、まるで街灯かりを、この手にいだく様な、そんな心持ちになる。
 遥、ありがとう。
 君の祈りはまだここまで届いてるよ。
 君が祈り、想い描いてくれた道を僕は歩いている。
 君のお父さんが祈り、君が祈り継いだ想いだ。
 遥の事、忘れない事に決めた。
 ほら、今一番星を見たって、遥の事を思い出した。
 忘れないって決めた方が、何だか気持ちが安らかでいられるみたい。
 もしも気持ちの置き所って物があるのなら、そこが僕にとっての遥の居場所なんだね。
 でもね、遥。今日ばかりは言わせて欲しいんだ。
 これは別れのセリフではなくて、僕の中の折り目のようなものなんだ。
 これを言わない事には、どうも上手く前に進めない気がする。
 だから今日はこの場所に来た。
 ここなら君に届くような、そんな気がしたから。

 広げた腕を閉じ、僕は一番星を見上げる。
 少し恥ずかしいけれど、僕は空に向かって呟く。

「遥、ありがとう…」

 言い終え、僕は公園に背を向ける。
 そしてもと来た道をゆっくり歩き始める。
 僕は僕の道を歩かなくてはいけない。
 家では今、詩織と碧が僕を待っている。
 帰ったら碧と一緒に風呂に入るのだ。
 これから碧と湯船に浸かり、彼女に何を伝えよう。
 いや、これから毎日、ずっと、僕は碧に何を伝え、繋いだゆくだろう。
 成長した碧は、いつかきっとこんな風に言うかもしれない。
 パパうるさいよ、と。
 でも、それでもいい。
 僕は伝え、ずっと示し続けていくのだ。
 僕のおせっかいが、この世界を優しく包むまで。
 おせっかいの先の先で、碧を巡る世界が優しくありますように、と。


〈完〉

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根峯しゅうじ|kindle小説家
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