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「スクールアイドル」を見つめなおす~『スクールアイドルミュージカル』感想~

本稿では、「スクールアイドル」概念の根幹たる「一回性」を中心に『スクールアイドルミュージカル』(以下「本作」)をめぐって考えたこと・感想を綴る。

1. 「ミュージカル」である意味

正直、やられた、と思った。どうしてこんな単純なことに気が付かなかったんだ、とも思った。というのは、「ラブライブ!」シリーズ(以下シリーズ)通して描かれてきた主題が、演劇という表現形式に完璧にマッチしていることについてである。

舞台というのは、そこに身体性が付与されている(役者が、その場限りで動き、肉声で台詞を発して物語を紡ぐ)以上、「全く同じ」物語は生まれない。ミリ単位での役者の揺らぎ、客席まで含めた空気感、役者の口やスピーカーから発される音声は、脚本が同じだったとしても2度と一致しない。「舞台は生き物」という有名な文句は、それを端的に表現している。

とすれば、ミュージカルという表現形式は、「今・ここを生きる」という、スクールアイドル概念の根幹にある主題に最も適合的なのではないだろうか。何度でも全く同じ形で再生産できる「アニメ」という形式は、むしろそのような主題を後景化させてしまっていたのではないだろうか。

こうした意識を最も感じさせるのが以下のツイートである。

2019年以降、生配信のノウハウを蓄積させてきた「ラブライブ!」シリーズ。それでもなお有料生配信を行わないということは、そしてそれをポジティブに捉える文面と共に投稿するということは、明確に一回性を意識していることの表れだと考えられる。

2. 「一回性」を「若さ」に回収させない

「今・ここを生きよ」という主題は、「若さ」という価値に回収されやすい。特に「学生」でかつ「アイドル」である存在を主人公に据えるならなおさらである。「高校生という限られた時間の中で全力で輝く」という主題は、本来「今・ここでしかできないことをしよう」というメッセージだったはずが、いつの間にか「高校生である」ことに対して価値を見出すことになりかねない

しかし、本作はそれを拒否する。「今・ここを生きるべし」という主題が、高校生の少女たちに限られないことを訴えかけてくる。主人公の母たち、椿マドカと滝沢キョウカは、そうした存在として描かれていると考えられる。

一心不乱に「今・ここ」で自分がしたいことを楽しむ娘たち=ルリカとアンズに感化され、伝統という過去に、リーチの拡大という未来に、こだわることをやめる。「今・ここ」で自分がしたいことを楽しむ娘を、生徒たちを全力で応援するため、2人は手を取り合う。そこに、母たち自身が「今・ここ」を生きようとする姿勢を感じ取れはしないだろうか。

故に母たちもまた、メインキャストなのだ。登場時間が長いからだけではない。物語の筋を握っているからだけでもない。シリーズ過去作における親のような「そばで見守る」存在ではなく、「少女に導かれ、自らも彼女を追いかける」存在として、椿マドカと滝沢キョウカは描かれているのだ。だからこそ、一定程度不自然さが伴うにも関わらず、カーテンコール=文化祭のステージに彼女たちが登場することが正当化されるのである。

3. 一元的価値観の克服

本作が過去作と異なるもう一つの点は、「一元的価値観の克服」である。「一元的な価値」は、本作の序盤も序盤で強烈に描かれる。椿咲花女子高校における「週間テスト順位の掲示」と滝桜女学院の「センター争い」である。ここで注意したいのが、「勉強と同様、アイドルとしての実力も一元的な尺度である」ということだ。アイドルの中にも「実力」というものがあり、有名グループと埋もれているグループ、センターと非センターの間の注目度の差という形で如実にそれが表れる。それを如実に描いているのも本作の特徴であろう。

「ラブライブ」という大会は勝負の世界であり、遊びじゃない。厳しい現実を少女たちに突きつけるときもある。だからこそ、悩み、もがき、時にはぶつかりながら「勝ち」に向かって努力する姿が、この上なく美しく映る。それが長年シリーズが愛されてきた理由の一つであろう。しかし冷静になってみると、勝負の世界を描く以上一元的な評価は避けられない。そこには一定の暴力性が伴う

本作中に、パフォーマンスの拙さを糾弾する様子は2度だけ。そしてそのどちらも、すぐに棄却される。ストリートライブにおいては、「別にうまさなんて関係ないじゃん。それがスクールアイドルなんだから。私がやりたいんだから。」と開き直って見せる。文化祭においても「これが私たちのやりたいことだ」と開き直ってライブを始める。こうした姿は、「アイドル」に付きまとう一元的な尺度を拒否する姿と言えるであろう。

「スクールアイドル」の本質は、学生であることでもアイドルであることでもない。「今・ここでやりたいことを、今・ここでやりたいから、今・ここでやる」ことにある。とすれば、「アイドル」という実力至上主義にまぎれて本来の「スクールアイドル」性が希薄化していなかったか、そういった問いを舞台の上から投げかけられた気がした。

4. 第4の壁の処理

筆者は、レイヤーが違えられることに強い違和感を感じる。作品に関するメタ的な言及が登場人物から発されることに抵抗感を感じてしまう。一方で、作中の世界観を崩さずにメタ的な言及を行う場合、登場人物に言わせるしかないということも納得できるから難しい問題である。

同様の問題は、本作においてもあらわれる。本作における難点は、「ペンライトを出してよい」というメタ的な言及を、これまで透明化していた観客たちにしなければいけない一方で、彼女たちはまだ役としてステージに立っているし、スペシャルステージにおいても役のままで居続けなければならない

本作はその点を非常にうまく処理していた。暗転を挟んでレイヤーを一つ上げることで、「現実」と「作中世界」という関係から「作中世界」と「作中世界の中の文化祭のステージ」という観るー観られる関係を再構築するのだ。これにより、役を降りることなく、「観客に向けた言及」をすることを可能にしたのである。

5. ライブが良すぎる

観劇中、他にもいろいろなことを考えていたはずだった。関係性・キャラ表象・曲の歌詞とダンスの振りつけなどである。たくさんのことを考えていたはずだったが、すべて忘れてしまった、というより吹き飛ばされてしまった。「スペシャルステージ」と称されたミニライブに圧倒されたのである。素晴らしい歌、のびのびとした振りつけ、洗練されたパフォーマンス。これまでのこともこれからのことも忘れて、まさに「今・ここ」を生きていた

穂乃果がA-RIZEに魅せられたときの、千歌がμ'sに魅せられたときのときの、少女がアイドルを志した時の気持ちが、少しだけわかった気がした。

6. 終わりに

ここまで読んでいただいた読者の方々ならお分かりだろうが、大変素晴らしい作品だった。ストーリー全体の構成の良さに加え、あらすじからだけでは得ることのできない「観劇体験」も非常に充実したものであった。

既存の「ラブライブ!」シリーズの伝統を部分的に踏まえつつ、シリーズの根幹にある思想のようなものを今一度思い出させてくれる。「新たな『ラブライブ!』の形」であると、同時に「これまでの『ラブライブ!』を見つめなおす」作品でもある。既存の作品という「過去」にとらわれミュージカルという「新しい形」に懐疑的になっている人にこそ、ぜひ一度観てみてほしい。


(この記事について気になることや感想などあれば、ぜひ筆者(@nebou_June)にお聞かせください。)



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