連載小説『ネアンデルタールの朝』㉖(第一部第5章-5)
5、
夕食を食べ終わると民喜は早々に和室へ戻り、絵の制作の続きに取り掛かった。
定規を手に取り、色画用紙に水色の色鉛筆で水平線を引いていく。慎重に、ゆっくりと……。線を引き終わると、群青の中に空と海が出現した。
まずは、父のアルバムに収められた浜の写真を参考にしながら海を描いてゆく。夜明け前の、いまだ薄暗い海だ。白や水色の色鉛筆を使って、浜辺に打ち寄せる波も描いてゆく。
あの日、この海が荒れ狂い、ロウソク岩を飲み込んでいったのだ。しかしいまは、海はあくまで静かな波音を響かせている。
海を描き終える。今度は空だ。黒や藍色を加え、画用紙の色をさらに暗く落としてゆく。空はいまだ薄暗いが、しかし、水平線の上の部分が微かにオレンジ色に染まり始めている。黄色と橙色の色鉛筆を手に取り、水平線の上に色を重ねてゆく。
そうすると、ロウソク岩の背後次第に夜明け前の空が出現し始めた。いまだ太陽は昇っていないが、これから朝が来るのだという確かな予感に満ちた空が――。
描き終わると、民喜は絵を壁に立てかけ、少し離れたところから眺めてみた。自分が思い描いているイメージにかなり近づいているが、まだ何かが足りない気がする。
しばらく絵を見つめている内に、その足りない何かは、明けの明星であることに気がついた。
夜明け前の空に昇る、一点の星……。昨晩、民喜の目にはその星の瞬きはとても意味深いもののように感じられた。眠りに落ちてゆく中で、この星の存在を最後まで感じ取っていたことを思い起こす。以来、ずっとあの星は自分の心のどこかで瞬き続けていたような気がする……。
民喜は筆箱の中から修正ペンを探して取り出した。これで星を描こう、と思う。
画用紙にペン先を載せ、そっと力を込める。わずかに修正液がにじみ出たところで、素早くペンを離す。修正液が乾いたら、青の色鉛筆で丸く形を整えた。
そうすると夜明け前の空に一点、明けの明星が瞬き始めた。まるで現実に、そこに明けの明星が昇ったかのようだった。民喜の目に、やはりその瞬きは意味深く感じられた。
星を配置し終えたところで、ついに絵が完成したように感じた。絵を壁に立てかけて眺めてみる。そこには、昨晩自分が見たビジョンが正確に表現されていた。
突然のように、疲れを感じ始める。けれどもそれは、心地のよい疲れだった。達成感のようなものがジワジワと胸の内に込み上げてくる。
ふと思い立って、民喜は完成した絵の横に4年前に描いた「ネアンデルタールの朝」の絵を並べてみた。朝の光の中で微笑むネアンデルタール人の家族の絵を――。
高校1年生であった当時と当然、絵のタッチは変わっている。絵の雰囲気も、両者はまったく異なっている。しかし、この2枚には何らかの統一感があるように感じた。並んだ2枚の絵を見つめていると、混沌としていた自分の内面が少しずつ整えられてゆく心地になった。
そうか、ロウソク岩が指し示そうとしていたのは、この朝だったのかもしれない。
民喜は思った。
ネアンデルタールの朝だったのかもしれない――。
すると、眼前に一本の道が開けてゆく感覚が民喜を捉えた。まるで目の前の群青の海が二つに割れて、そこにまっすぐに一本の道が通されてゆくかのごとくに。そしてその道の先には、朝日が昇ろうとしていた。
この朝の光の中で待ってくれている存在。それが、ネアンデルタール人の家族であるのだと思った。まるで約束のようにして、彼らはその道の先に立ってくれている!
改めて「ネアンデルタールの朝」を見つめる。絵の中の三人は民喜の方をまっすぐに見つめ、静かに微笑んでいる。真ん中に立つネアンデルタール人の少女は、胸の上に両手を置いている。まるで何かを大切に守るようにして。
「・・・・・・善い」
眩い光に包まれる中、あの声が聴こえてくる。
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