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小説『ネアンデルタールの朝』⑥(第二部第2章-1)

第2章

1、
「じゃ、10分くらい休憩で」
パートリーダーの中田悠がにこやかな表情で言った。
民喜はペットボトルのお茶を一口飲み、床に座り込んだ。首を左右に軽く回してみるが、のどはこわばったままだ。
体が少しフラフラとする。無理に声を出しすぎて、軽く酸欠状態になっているのかもしれない。首と肩もひどく凝っているようだった。
窓の外を眺める。打ち付けるような激しい雨が降っている。
「民喜っち、大丈夫?」
中田悠が近づいて来た。
民喜は立ち上がり、
「うん。でも、ごめんね。全然ついていけなくて」
「大丈夫だよ、あと3週間ちょっとあるから」
と中田は微笑んだ。彼が大阪出身だということを聞いて以降、彼に話す度に何故かそのことを意識してしまう。
俺、秋の定演、無理かも……。
思わず口から出そうになった言葉を飲み込み、
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」
民喜は教室の外に出た。さほど尿意を催しているわけでもなかったが、いったんこの場から離れたい気分だった。
隣の教室からベースパートの練習が聴こえてくる。壁を震わすようにして響く重低音に圧迫感のようなものを感じつつ、民喜はトイレへと向かった。

鏡の前に立ち、自分の顔をジッと見つめる。我ながら、覇気がない表情をしている。顎を上げ、のどぼとけの下の筋肉をそっと手でなでてみる。
夏休みが明けてから、民喜は高音をうまく出すことができなくなっていた。それまでは歌えていた小節が歌えない。無理に歌おうとすればするほど、のどに力が入ってしまって歌い続けることが難しくなった。
しばらくのどをつまんだりさすったりしている内に、民喜は胸騒ぎのようなものを感じ始めた。のど元の筋肉がキュッとこわばってくる。胸騒ぎがする中で、民喜は甲状腺検査を受けたときのことを思い起こしていた。……

ヒヤリとする、ジェルの冷たい感触。ジェルが塗られたのど元を、超音波エコーの端子がヌルヌルと這い回っている。
診察台の上に横たわった自分は死体のようにジッと動かず、ただ天井を見つめている。医者が画面上に何を認めているのかよく分からぬまま……。
のどぼとけの下にあてられた検査器の先端がヌルッと場所を変える度、民喜は背筋に寒気を感じた。のど元がキュッと締め付けられるようにこわばってゆく。
自分がいま感じているのが恐れなのか、悲しみなのか、怒りなのか、分からない。そのよく分からぬ感情をまるごと、民喜は乾いた口に沁みだしてくる唾液と一緒に飲み込むほかなかった。いま経験していることは、民喜の理解の範疇を超えていた。
一体いま、何が起こっているんだろう……?
検査が終わっても、結果について医者からは何も告げられなかった。民喜もただ無言で小さく一礼をし、白いカーテンで囲われた即席のブースを出た。……

民喜が最初に県民健康調査の甲状腺検査を受けたのは高校3年のときだった。その日のことについて、これまで、民喜はほとんど思い出すことはなかった。忘れていたはずの出来事が、しかし忘れ得ぬ記憶として、自分ののど元にしこりのように残り続けていたことに気づく。
何なんだよ、一体……。
民喜はあくびをするように口を大きく開け、首を左右に軽く振って鏡の前を離れた。


*お読みいただきありがとうございます。

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