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苦しまないところに置いておく(カウンセリング記録)
カウンセリングを終えて外に出ると、もう日は落ちて景色はほぼシルエットだった。決められた時間を過ごしたあと、その日はなんだか気持ちが重かった。カウンセリングで感情が揺らぎ、その時間が終わってもなかなか元に戻れないことはめずらしいことではないけれど、だからといって慣れて平気になるものでもない。何度も通った道を歩く。途中でいつもと違う曲がり角で曲がってみる。それでも帰れる、という自信がほしかったのかもしれない。
つらそうな人がそばにいると、一緒になってつらくなってしまう。小学生のとき、いじめに遭っている子がいた。彼女はそこまで仲のいい友達というわけではなかったけれど、仲間外れにされている様子を傍からみると、わたしはなぜだか一緒になって涙が出た。なぜつらいのかわからないまま。泣いているわたしのその様子をみて、担任の先生は「ウオズミさんは友達思いのやさしい子ですね」と日記帳か何かにコメントしてきた。褒めているようなニュアンスに違和感があった。わたしはただつらくて泣いているだけなのに。
他人との感情の境界が曖昧になるからだ、とおとなになって気づいた。他人の大きな感情の揺れがそのまま波紋になり、わたしのこころを揺らす。ゴムのように伸び縮みする自他の境界はそのまま薄くなり、それはひとつのお皿に一緒に落としたふたつの生卵のようにぴたりとくっつく。小さな刺激が加わると、白身と黄身が混ざるようにやがて境界は崩れてしまう。崩れたあとにふたたび境界を形成することは困難だ。わたしは混乱して、胸の内に広がっている感情が自分のものか他人のものかわからなくなる。となりの黄身がこちらの白身の隙間に入り込む。
その日、わたしのカウンセラーからはしんどそうな気配が伝わってきたのだった。とはいえ、特別にしんどいアピールをされたわけではないから、わたしが過剰に顔色をうかがっていただけかもしれない。他人の顔色をうかがうことはわたしにとって100%短所と言い切りたくないけれど、手放しで長所ですとも言えないと思う。
カウンセリングというある種の密室空間で、目の前にいる相手のつらそうな気配はわたしの気持ちを揺らした。揺らされた時点でもうわたしはわたしの場所にはいない。相手がつらそうなのはどうしてだろう? 気になるけれど聞いていいのかな、いや、立ち入ったことをこちらから聞くのはよくないよな、そういう関係性ではないし。そうか、どんなにカウンセラーがつらそうにしていても、わたしには何もできないのか。何もできないところにいるのか、わたしは。ああ、なんという無力感。いつだってそうなんだよ、わたしは。わたしは、誰かのために何かができる、なんて人間ではない。そもそも自分のことすらままならないのに、いわんや他人をや。
振り返れば、こうやってあまり健康でないループをぐるぐると巡るわたしがいた。ゆっくりと蟻地獄に落ちていく。穴の底にはウスバカゲロウの牙。
無力感かあ。帰る道々、わたしは思う。困っているひとがいて、わたしが実際的に何か手助けができる場合も、あるにはあるだろう。誰かが病気で動けないとき、家事をしたり食事を持って行ったりするとか、仕事の休みを代わってあげるとか。でも、つらそうなひとを目の前にして、自分には何もできないことのほうが圧倒的に多い。きっと。問題はそのひとの中でしか解決できないことのほうが多いのだ。自分が相手の助けになるかどうかは、相手にゆだねられているかもしれない。
無力感に苛まれているとき、その時点で問題の原因はすり替わっているのかもしれない。相手がつらそうだからなのではなく、わたしが何もできないから。わたしが何もできないのは、何も特別にわたしが劣っているからではなく(もちろん、そのような場合もあるだろうが)、「わたしにはどうしようもできないことなのだ」という判断ができていないから、なのかもしれない。
無力感とはこわいものだ。目の前の相手に対して感じる無力感は、そこから勝手にタイムトリップして、かつてわたしひとりではどうしようもできなかったトラウマ的な出来事を思い起こさせる。傷の残った出来事を思い出すと、芋づる式にわたしは自分の無力さを自覚させられる。無力感はわたしを過去(や、場合によっては未来)と現在をランダムに行ったり来たりさせる。そのコントロールを失う感覚は、ますます無力感を増幅させる。何に感情を揺さぶられているのかわからなくなる。目の前にいるひとになのか、わたしの過去の傷になのか、見分けがつかなくなる。すでにそもそもの何かから遠ざかっている、という鈍い感覚だけが確かに胸の内にある。
でも、少なくとも今回は、こうやって書いて整理して気づいた。文章にするまで少し時間はかかったけれど。これはいったん、いましっくりくるわたしの気持ち。
そういうわけで、わたしの課題は、目の前につらそうなひとがいてもわたしにはどうしようもないことである、ということを自覚すること。もちろん、手助けができるときはできることをおこなう。でも自分にできることには限りがあるから、そこも見極める。できることがあってもできないときもあることを知っておく。「どうにかしたい」という気持ちは、でも掛け値なしに大事な気持ちでもあると思うから、苦しまないところに置いておく。