印象に残っている100分の10冊(前編)
高校生の頃から付けている読書記録が100冊になったので、その中でも特に印象深かった本を紹介いたします。
前編の今回はその中の5冊です。
①アヒルと鴨のコインロッカー/伊坂幸太郎
高校生の時にタイトルに惹かれて購入した伊坂幸太郎先生の本。
主人公椎名と、ペットショップの店員である琴美の2人の視点が交互に繰り返されながら進む、いわゆるカットバックという手法で話は進みます。
伊坂幸太郎先生は僕がこの100冊の中で作者別で見た時に最も読んだ作家さんなのですが、結局この本に魅了されたのが全ての始まりでした。
何気なしに読み始めたが最後、全ての要素が余すことなく生かされながら奇妙な終着点へ向かっていくさまは、まさに「伊坂ワールド」。自分も作家になって分かることなのですが、物語の要素全てを無駄にしない、というのは心掛けていても難しい。でも、この本は本当に一つも無駄がありません。全てのページ、全ての文字に意味があるのです。
僕はあまり同じ本を2回読むことはないのですが「え、これって……」となることがあまりに多くて、この本は2回読みました。
あの時の読書体験は一生忘れることはないと思います。
ところで皆さんはアヒルと鴨の違いって分かりますか?
実はアヒルと鴨って色合いは全然違うんですけど、生物学的には同じで、外国から来た鳥か日本にいる鳥かの違いというだけなんです。だから英語の「Duck」はアヒルと鴨の両方の意味があるのです。
②しあわせのパン/三島由紀子
僕は学生の時に恋愛小説ばかりを読んでいたのですが、その中で自分が憧れたのは、この小説に出てくるりえさんと水縞くん。厳密に言うとこの本は恋愛小説ではないかもしれないのですが、カフェへ来るお客さんたちを迎え入れる2人の雰囲気、言葉、所作の一つ、全てがとても印象的で、物語全体がなんとも言えない優しさに包まれています。
作者の三島由紀子さんは映画監督として特に有名な方ですが、初めて執筆された小説がこの「しあわせのパン」。作品を通して漂うどこか柔らかい雰囲気は、まさに2人の経営するカフェと、そこで出てくるパンのようで、優しく穏やかな気持ちに、そして誰かの「マー二」になりたくなる。
この本には「月とマー二」という絵本が出てくるのですが、その絵本もとても素敵です。
③ダイナー/平山夢明
この作品を一言で表すのなら「衝撃」です。
一般的に人はグロの前では食欲が減退するものだと思いますが、この作品はその美味しそうな表紙に違わず数々の料理が出てきます。どれもすごく美味しそう。なのに、出てくるのはいつも血生臭い瞬間ばかり。めちゃくちゃ人が死んだり、死にそうになったすぐ後で。これだけでも少し常人離れしている設定なのですが、そこにいきなり死にそうになる主人公、しかも名前は「大馬鹿な子」ことオオバカナコ。ちょっと待ってくれ。なんだこれは?今まで恋愛小説ばかり読んでいた僕は思わず息を吞みました。しかも「キャンティーン」に来る客はみんな殺し屋なのです。オオバカナコは何度も死にかけます。そして巧みな文章表現で描かれるそういった瞬間の度に、読み手は緊張せざるを得ません。あの緊張は読書とかそういう易しい体験を超越していると言っても過言ではないような気がします。
著者の平山夢明先生の知識量も半端じゃない。料理についてもそうなのですが、作中に出てくる拷問や殺害方法など、これらの非日常的な知識量にただただ圧倒され続けながらの怒涛の展開に、ページをめくる手は止めさせてもらえないのです。
グロ耐性のある人にはぜひ一度読んで欲しい傑作です。
④冷蔵庫を壊す/狗飼恭子
僕が一番好きな恋愛小説です。
「冷蔵庫を壊す」という印象的なタイトル通り、「初恋」という誰の人生にとっても印象的な出来事を、繊細かつ鮮やかに描く狗飼先生の筆致は読んでいてただただ見惚れるばかりです。僕はこの作品ですっかり狗飼先生のファンになり、本屋で「狗飼恭子」という文字を見つけては買うということを繰り返していました。
僕が恋愛小説を好きな理由に「人の心情的な描写が多いから」というものがあります。僕らはみんな毎日色んなことを思って考えて生きているわけですが、恋愛は特に行動に直結し易い感情だと思います。そしてその行動は時に愚かでカッコ悪いのですが、僕はそんなところに人間の愛くるしさのようなものを感じます。また、名前のついていないたくさんの感情に名前がついて行く瞬間は本当に心地よいもので、恋愛小説はそういった瞬間が多いような気がするのです。
小説は「悲しかった」などの感情をそのまま書いてしまうと感想文になってしまうため、その時の行動を描写する必要があると何かで見たことがあります。恋愛小説は人の感情を描くものですが、確かに「彼女を好きになった」とは書いていません。だけど人を好きになった時、世界が色づいていく様子はおそらく十人十色で、そういった人それぞれの心情的な描写は見ていて楽しいものです。国語の問題で「感情を答えなさい」という問題が存在するのは、もしかしたらこういうことだったりするのかもしれませんね。
この作品は、一人きりの夜にリビングで読んで欲しい作品です。
⑤こころ/夏目漱石
教科書に出て来た「こころ」を読んだ時の僕の第一印象は「どういうこと?」でした。それもそのはず、教科書の「こころ」は全三部作のうちの三部、つまり最終盤の一番おいしいところだけを抜粋してあるのです。ですが、それが悪いことだとは思いません。なぜなら夏目漱石の文章や日本語の素晴らしさのような所謂国語的な教養を育むためには、確かに三部のあの場面、Kが自殺した衝撃を伝える部分があまりにも秀逸すぎるのです。
では、なぜそのようなことになったのか。教科書に載っている部分は起承転結の転と結の間くらいなので分からないことはないのですが、何かところどころ大事な要素が抜け落ちているように感じました。例えば先生が娘さんを好きになった理由とか。僕はその起承が知りたかった。
「こころ」が三部作であることは先述した通りですが、三部は全てが先生からの遺書となってます。ということは読み手がいるわけです。したがって一部と二部はこの読み手である「私」から見た先生の姿が描写されています。主観ではなく客観から見た先生の姿はどこか儚げで謎めいていて、「私」が先生に人間的に惹かれていくように、読者もこの先生という人物に惹かれていきます。つまり、教科書に載っていた部分は遺書の一部だったというわけですね。そのため、一部と二部を読むことによって先生の遺書の読み味が(当たり前だけど)、確実に教科書から変わってくるのです。僕はその時、すごく矮小だけどクラスで自分だけ真実を知っているような高揚感がありました。そしてそれと同時に、夏目漱石という人物のどこか淡々とした描写の中に内包されている黒々とした悍ましさのようなものを感じて「文章」というものの奥深さを感じました。
先生が苦しんでいるエゴイズムと罪の意識は、案外誰にでも心当たりのあるものかもしれません。ですが、そういった人間のありのままの醜さのようなテーマを克明に描いているさまは、読み終わった後の読者の心の奥に残って居座り続けると思います。
日本の文学史に残るべくして残っている最高傑作のひとつだと思います。
後編へ続きます。(執筆中)
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