小説「自分探しの旅に出かける自分のない人に捧げる鎮魂のポエムを歌わない」
よく見かける、自分のことをよくわからない人達。彼らは一様に個性を求める。自分に。ありもしない個性を。
個性とは「他者から見た違い」であると定義するなら、「自分で見つけるもの」ではなく、「他者に見つかるように、自分が作るもの」なのである。
故に、見つけようとする人達は当てのない、終わりなき旅に出かけることになる。徒労は無限だ。成果のない作業にコスパはない。そんな、自己を磨きもせずに、自分を探す頑張り屋さんな事故物件があの人達です。
と呟いた先がTwitterではなく、ここnoteだった今日は4月1日。
上記の文章は嘘であり、本音でもなく、ただ、無軌道に、無秩序に、無意味に言葉を書き連ねたゴミ以下の小説である。
小説とは「小さな説」と書いて「小説=つまらない話」であるからして、そもそもが生まれの始まりからして、つまらないものになるのは世の常、必定なのである。
そんな流産確定の、哀れな小説たちに捧ぐ鎮魂歌は存在しない。
日本国の法律では、女性の「性器」から一部露出で人としての権利、すなわち「人権」が発生するのであるからして、死産、流産した子供に人権などはない。つまり、生まれ損ねた駄文である「クソ以下の小説」に捧げる行為は不可能なのだ。
『作者の死』
これはロラン・バルトの用いた用語である「書かれたものは過去のものであるから、今はもうすでに適用できない死んだ理論である」と言う意味で、今回の主題とは直接的にも間接的にも関係がない。と断言する。
しかし、死んでいるのだ。人の目に触れられない作品は死んでいるといっていい。その成り立ちが流産だろうが死産だろうが、出産して誰の目にも止まらぬ放置をされていようが、人の目に触れられなかった作品は生きてはいないのだ。
まずは、自分を探すよりも自分を磨く、人に評価してもらえる自分になれるように専念していただきたく、貴様という便所にこびりついたクソカス以下の才能の枯渇した表現したがり屋さんに言おう。
と、私は読む価値のない小説を書いてきた馬鹿に説教をしようと思わなかった。
「時間は有限なんだよ。君と違って私は時給が0円じゃないの。わかる?」
と、強く念押しをした。これでも、まだ「読んでくれ」などと言うほどに、こやつも恥知らずではないだろう。と願いたい。が、やつは臭い口を開く。
「それでも守りたい世界があるんだ😭」
大気汚染による環境破壊がここに行われた。周囲一体にやつの臭気が充満する。貰いゲロの準備だ。「グリーンマイル」か「火垂るの墓」バリにゲロっちゃいそうな雰囲気。もっともこの2作品はもらい泣きだが。
「そんなあなたにいったいなにがわかるんですか😭」
本格的にきしょい。精神汚染の疑いまで考慮すべきだ。そして、処分をすべきだろう。SDGsなどどうだっていいが、今この瞬間に「きしょさと臭さ」で私と地球上の皆さんの人権が侵害されつつある。「健康に文化的に生きる権利」が侵されつつある。
「生存権はプログラム規定なんだ😭」
なんと、人権論を勉強しているとは…いよいよ本格的にきしょい。
私は今、宇宙開闢以来の危機を迎えている。いかようにしてこのピンチを切り抜けたらいいものか。賢明なる読者の諸君に知恵をお借りしたい。
ゴミの処分の方法を。