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みんなで読もう、ドラゴンラージャ #アドベントカレンダー 〜2日目〜

必要な時にもたらされる小さな幸運を。

朝からポテチ@ヘルタント領民です。
この記事は「ドラゴンラージャ電子版復活ありがとう」アドベントカレンダー の2日目の記事です。

1日目は企画主催してくださった朝からポテチさんの企画紹介記事でした!簡潔でわかりやすく、愛を感じる記事でした!(マッチポンプ)

2日目は今回のドラゴンラージャ電子版復活に際した再読感想というか、むしろこの企画を立ち上げて交流したことそのものの振り返りと、企画やってよかったなぁっていう話をしようかと思います。2日目にして総括になります、25日にやれって感じですが!

ラージャとの出会い

ドラゴンラージャは、2005年に日本語訳が10巻発売され、2007年に残りの2巻全12巻が発売されました。
私(97年早生まれ)が、小学五年生の時(2007?)、
つまりちょうど読書対象になる頃、ドラゴンラージャが図書館に並び始めたようです。
あの頃の自分は、他人に比べて自分はとても頭が良いんだ、みたいなことを思ってました。
勉強ができる方だと周りから言われていて、自分もそう思ってたところがありました。
図書館でも、背伸びをしていて、人と違うものが読みたい年頃だったと思います。
そんな自分にはぴったりすぎる、教室で誰も読んでない本、それがドラゴンラージャでした。

まず文字が小さい、紙が分厚い!!!
理由も覚えていませんが、まず4巻から読んでました。
そこから、1、3、2、5…あたりを飛び飛びで読んでました。
3巻はなんだか裸になるような描写にちょっと恥ずかしさを感じてましたが、あの描写こそ、私が少し背伸びしてでも読もうとしていた理由のひとつだったかもしれません。
その後もあんまりよく分からないまま読んでました。

中学生でまた再会して、もっかい読んで、家に持って帰って。中学生の時ですら、「うわぁー懐かしー!これ読んでたな〜!」みたいなこと思ってました。今と全然変わらん。
その時には既に、ラージャが自分のアイデンティティとして根ざしている自覚がありました。自分の死生観、哲学の根底にはそれからずっとドラゴンラージャが根付いていて。
きっと、そんなふうに、出会ってからずっと思考の中にラージャがいた人が多かったんじゃないかなと。

そして大学1年生の夏、免許に通ってたとこの近くのデカブックオフで、思わず全巻みつけて、買いました。
その日の教習では、後ろの席に全巻入った2袋置いて。

大学1年、3年と、まじでずっと読んでました。
あと、大学1年生の英語の授業の時、隣だったやつがドラゴンラージャ通ってたんですよね……!
あの時、話せてすごく嬉しかったな……。
元気かな…。
あの英語の授業も、洋画を何本か観るみたいなラクタンで、とても印象深いです。
『ビューティフル・マインド』
『ノッティング・ヒルの恋人』
の2本を観たのはとても覚えてます。
確か、日本人俳優が東洋国のニホンジンとしてある種レッテルを貼られた役で出てるよね、ってテーマだったような。
どちらもたまに見返すほど、いい映画です。
閑話休題。

この運命の収束に祝福を

そして何よりすごいのは、私と同じような体験をした人が、同年代前後の人に少なくからずいるということ。
むしろ、私と近い世代の人以降しかこの体験を共有できない。
ドラゴンラージャという書籍に触れる機会があったのはあの頃だけだった、かもしれない。

まず、当然翻訳前にあの本は存在しないし、
公立の学校の図書館、地域の図書館、本屋に配置されていたけれど、果たして、以降何年くらい図書館に置いてあったのか。もう自分でふと見つけることも出来ないのではないか。

さらに、そんな示準化石のような限定的な時代を体験を共有したひと握りの人達の多くが、意識的に、はっきりと自身の死生観を自覚し、発言、さらには創作活動をしているこの事実。
確かに、そういった形質の成長を促す要素を含んだ内容の本だったよなぁ、と思う反面、そういう成長の仕方をするような人間だっだからこそ、あの時期にドラゴンラージャを手に取ったのだ、とも思えてきます。

そして、そういう私たちのような人達が、幼い頃から大事に抱えていた思想、思考、思い出を忘れることなく、今成人後、TwitterというSNSでペルソナを被り、自身の児童期の身の上の体験を発言している…。

さらには電子版復活などの報を観測できるまで界隈の横の拡がりを有機的に持っている……。

これはすごいことですよ。

この企画で出会えた同志たちと、日々ラージャ挨拶を気軽に交わせることの、このうえない歓び。

自分たちの5年、10年下の世代で同じような体験をした人達がもしいたら、この企画にどうかたどり着いてほしい。


この運命の収束に祝福を。

みんなで読もうドラゴンラージャ

ここまででおおよそ伝えたいことは話切りました。
ここからは、今回TLで目にした単語や内容から、本編を少しずつつまみつまみ読み返していった感想を残します。
きっと後にも先にもこんなことできないのでね。
独りじゃないんだなぁと、インターネットで形成されるパラソーシャルにも暖かみを感じた筆者でした。

電子版の良さ

まず、今回の再読が今までと大きく違うのは、やはり、電子版の購入体験。
文字の大きさもフォントも変えられるし、
ページの色も変えられる。
横画面で見開き全体もみられる。

さらに、ラージャで大好きだった巻末の用語集は、
まさかのリンクが貼られてて、該当ページに跳ぶことも可能。
(こっそりだけど、挿絵もキレイにスクショできる)

あと、紙だと、持ち運ぶにはなかなか分厚くて、
外の天気が悪いと濡れたり折れたら嫌だった。
それが、全巻持ち歩けていつでも読めるって!最高じゃん!
毎朝メモライズしてから出勤できるじゃん!
ひゃっほう!!!

あとマーカー!色違いで引きまくれたり、メモも残しまくれる。

そしてなんといっても、検索ができる!電子版再読、界隈の人たちの再読進捗を見かけ次第、そこだけつまんで読むようにしてるんだけど、
何巻かさえ分かってれば単語検索(乳袋、ドラゴンブレス、など)で該当ページに跳べるのがほんとに素晴らしくて、素晴らしい。

ラージャ好きなとこ

ドラゴンラージャの好きなとこ、いっぱいありますね。なんといっても、主人公フチの言い回しでしょうか。なんかこう江戸っぽいというか、洋画っぽいというか、なんかキザなんですよね。
これは原著の持つ魅力なのか、
翻訳フィルターによって産まれた産物なのか。

フォロワー氏曰、どうやら作者のイ・ヨンド氏がわりと翻訳小説(英語小説)育ちだから、なんか言い回しが欧米系のフィクションっぽいのは元々原書の韓国語でも言われてるらしい、なるほど〜〜〜!

自分もそこそこドラゴンラージャのこと知ってる方の人だと思ってましたが、やはりガチ勢の知識にアクセスできるのはほんと今の時代ならではですね、嬉しい。

あと、人生で初めて触れた夢あるあるは、ドラゴンラージャでしたね。
随所にフチがその日に体験したことや考えが深層心理に刻まれて、それが変な繋がり方して妙に納得できるような形で突然描写される“夢“、あるじゃないですか。

人生において“夢“を客観的に理解、認識したの、あの描写によるものがデカいですね。
夢ってみんなこんな感じなんだ!って。

あとは『金色のガッシュ!!』内での、清麿がファウード編後にアンサートーカーのチカラを失うクソ夢回ですね。
アホのビンタをおみまいよ!

ヘルタント村はRPGのラスボス手前の村

これもフォロワー氏の発言でほほ〜っと思ったところですね。
ラスボスとの因果から、朝日に向かって旅立ち、大陸の命運を左右する冒険に巻き込まれ、あらゆる種族と対話し、夕日を背負って帰ってくる、
17歳の少年の、魔法の秋の話。
ラージャのオンラインゲーム、かつてはあったそうですが。
RPGでやりたいなぁ。

#ドラゴンラージャイメソン

ドラゴンラージャ界隈のイメソン
イメソン!?
イメソンあるらしいですよ
#ドラゴンラージャイメソン

なんか手嶌葵多いのはゲド戦記のテルーの唄からですかね。
私もあれは映画で観たし、魔法とドラゴン、呪いの文脈で同じくらい好き。原作ちゃんと読みたいんだよな。

私もなんか思いついたらあげようかな。

その他参考
新編弓張月(ポプラ社から、金田さん挿絵の伝記)

『救いをこの手に』
フォロワー氏が紹介していたなろう小説。
これまた哲学の匂いがしますね。

ドラゴンラージャなろう小説説

これまたフォロワー氏の気づきから得た話題。

フチの成長物語という意味ではまさにそうで、
なろう系にも近い駆け出しなんですよね。今思うと。

OPGという魔法アイテムで得たチカラの使い方や、それが無い時の無力さ、それ頼りの非力さはフチが何度も痛感してた。
だからこそ主人公フチの成長は、誰を倒したとかじゃなく、他者、他種族との関わりと対話を経た、故郷に住まう厄災への感情の整理の物語なんですよね。

そう、ラージャはドラゴンや敵を相手に闘ったりする剣と魔法の異世界大陸ファンタジーだけど、
ドラゴンラージャの本質はそこじゃないんですよね。
(ろくろポーズ)

イルリルとフリーレン

2023年秋、「葬送のフリーレン」アニメ化により、長命種エルフ視点の物語が注目を集めてますね。
私もアニメから知った人間ですが、ドラゴンラージャからエルフを学んだ人間としては、フリーレンは“ほぼ完全に人間ナイズドされてしまった“エルフ、という捉え方が出来ると思います。
(長命種ではあるがほぼ関わる種族が人間のため、人間の時間感覚に合わせて行動し、そのズレを感じるホメオスタシスすらも次第に人間化している)

ドラゴンラージャでは、その過程を0から観測できるので、フリーレン勢でこの記事に辿り着いた方には、ほんとにオススメです。
土の壁 は何でできでるんだって話とか、
正四角形はあくまで無数の混沌のひとつでしかない、とかね

しかし、ドラゴンラージャが仮にアニメ化したとしたら、フチがずっとモノローグしてることになるんでしょうか。一人称視点のアニメって聞いたことないかも。
やはり小説特有の物語なんでしょうかね。

ドラゴンラージャ哲学、通ってきた人の人生観に影響与えすぎ問題

ドラゴンラージャといえば、クラスタ内で語られるのはやはり、筆者の持つ哲学感を反映した様々な思考でしょう。
韓国では教科書に載ったり、出題にもなっていたようです。国語の問題で自分の知ってる小説が掲載されてる時の高揚感、ぜひラージャで体験してみたかった。

私は単数ではない

言わずと知れた、ドラゴンラージャでも帯になるほどの名台詞ですが、この言葉から派生して、
なぜ自殺をしてはいけないのかのロジックを、私なりに考たことがあります。
結論からいうと、私の命は私だけのものではく、自殺とは他殺であるから、という理由になります。

私という人間は他者/外の世界への干渉(作品を好きになることも)との関係、から成り立ち、他者からの観測によりこの存在を足り得る。単純な友人関係や職場、家族、インターネットによる仮装人格と名前、さらには住所、戸籍登録もそう。

そして同じように、私は誰かにとっての他者であり、外の世界であり、私が観測することで存在を担保される誰かがいる。
私たちは蜂の巣のハニカム構造のように、互いに複数の誰かと面を成して互いの存在を確立させている。
私は単数ではないのだ。

そして、そこから導き出される論理のひとつが、「自殺とは他殺である」だと思っている。

つまり、自分の命はひとつしかないから大切にしよう、だとかいう道徳論ではなく、他者の命を殺めてはいけない道義と同様、自分が死ぬことは他者の一面を殺すことと同義なので、それはいけないという理論である。

親密な他者が亡くなった時の喪失感、「胸にぽっかり穴が空いたみたい」、という感情は、まさに自分を形作っていた一面を失ったことによる哀しみなのだと、幼心に私は知っていた。ドラゴンラージャから教わったのであった。

こんな感じです。死生観に関しては、
死んでみよう!(相手に死を要求するならこちらも死ぬ覚悟をしなければならない。クソッタレのヘルタント男児式)、ですとから
死は約束された休息である、
ですとかも、私の中でかなり深く深くに根ざした価値観になっています。

同じような人達はちらほらいて、note内でドラゴンラージャのタグをつけた記事を載せてる人もいました。嬉しいですね。

哲学じゃないけど、読み返した中で好きな場面も
4巻の陛下謁見、自分が仕事で上の人に報告する時の緊張感を重ねて読んでみたら、新鮮だった。

思ってることも、ここまでは話さない、
これを言えば伝わるけど、言うと不利になるようなことは言わない、だから口を噤む、……
みたいなところをずばずば言うんだもんね、
死んだ気分にもなるよな。

8巻のジャイファンの昔話、うーんおもしろい

意味がありそうな寓話だけど、
そこに伝えたい主題があるわけではないという
カルジッタ
ピンナック・ボエ


おわりに: フチ=ネトバルは“ドラゴンラージャラージャ“ではないか

最後に。
フチ=ネトバル氏は、バイサスの史実に残る英雄ではなかったけど、きっと、カールたちとイルリル、そしてドラゴンとドラゴンラージャとを繋いでくれた“ドラゴンラージャラージャ“(もしくはドラゴンラージャプリースト)だったとは言えないでしょうか。

さらに言えば、私たちをドラゴンラージャという物語に繋げてくれたのも、フチの視点を通してですし、こうしめ私と、ドラゴンラージャを通して出会った他者との世界を繋ぎ、私が単数ではないことを証明し、多くの人と多面を共有して今日の私が“矜恃とドラゴンの神、ドラゴンラージャ“という信仰を崇拝し、敬い、その力をお借りして今日も生きているんだなって、思いました。
ドラゴンに神はいないといいますが、触れたもの全てに物語を産み、人間にしてしまうのが人間ですから、ドラゴンラージャを通じて人間と触れてしまったドラゴン達も、神の信仰の元に体系的に加えられてしまう日も近いのかもしれませんね。(事情通)

それでは最後に、お別れの言葉を。

あの頃感じた忘がたい体験は大切にしつつ、今回の企画で得られる体験が、あの頃の追体験以上の濃い交流になることを。

心惹かれる道は真っ直ぐな道。


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