よふかしのうた/と自分語り
日常に退屈した青少年が、初めて体験する夜の世界の、そこはかとない好奇に魅せられて、ずっと続けばいいのにと願った時に、吸血鬼と名乗る少女が現れる。恋愛感情を向けた吸血鬼から吸血行為へ至る時に、人間は吸血鬼へと生物の形を変えるのだとの告げられ、恒久的な夜の住人になるために吸血鬼になることが自身の目標へと据えることから物語は進み出す。
これが簡単な粗筋だ。小五月蝿い自分語りと併せて、ただ語りたいのがこのブログの主な趣旨だ。駄文に違いないが、練習がてら。
よふかしは楽しい。…まずは前提条件として。
被保護環境下では忌避される(おおよそそのよう教育される)夜ふかしという行為に、まるでいけないことへ手を伸ばしているような背徳感と高揚感、太陽の下では味わうことのない非日常への興奮と不安。そんな、閉塞感への打破による好奇に満ちている。おそらく海外旅行などで味わうことができる感情と類似しているのだろう、原体験として普遍的に共有できる対象に、夜ふかしがある。
「夜ふかし」という共通項を下地に、恋愛関係という要素へただ伸ばすのではなく、異質を挿入させることが広がりを持たせる。主人公が「恋愛感情が分からない」というストッパーが働くことだ。好意を寄せられた異性へ、分からなさを素直に回答してしまったことが周囲の反感を買い、逃避の結果へ集約してしまうバックグラウンドが紹介される。「異性への好意=恋愛感情」は共通項たりえず、友情との差別化、恋愛という感情性の特定へ、むしろ疑問を向けるところから風呂敷を広げていくのだ。
恋愛感情とはなにかなどと野暮な命題を掲げているな、というのが、もしかしたら自然な反応なのかもしれない(そのため、いつまでもヒロインと主人公が結びつかない、週刊少年サンデー掲載作品特有の焦ったさがある)。しかしながら、吸血による吸血鬼化が果たせなければ恋愛感情を抱いていないと判断可能な設定から、通常の恋愛感情で顕れるような感情の曖昧さでは回避できない。2巻収録話である『第9夜:なんのつもりだ七草ナズナ』にて、性欲による出口も封じられている。恋愛感情足りえるものはなにか。恋愛感情を抱きたい自身と、恋愛感情を向ける異性(=吸血鬼)と、恋愛という感情そのものの、三者間をどれだけ深堀できるのかに、あくまで焦点を向けるのだ。
恋愛とはなにか、という感情の袋小路へ迷い込んだ最中、繁華街で賑わう街並みでの、自然と、或いは淫らに交わう異性の組み合わせに困惑する。三大欲求や動機の正当性などと理論に考察を働かせる主人公へ、ヒロインは嘯く。
その様を見て、一つの可能性に逡巡する。
しかしながら、自身が陥っているのは人間/吸血鬼という特別な関係性であり、理由なき連帯感への逃げ道さえ封じてしまう。
白々しい御都合主義へ主人公の感情を導けば平凡に集約することも容易だろうが、そうした「ウソ」で妥協を許さない。友情ではない、性欲ではない、ただの特別ではない、様々な封じ手を講じた上で、喜びや悲しみ、怒りや恐れ、驚きや期待、信頼と嫌悪(ブルチックの感情の輪、参照元:10巻 p120)のひとつひとつを手に取り味わい、ときには犯されながらも、確認していく。蓄積していく。
ヒロインは主人公に向ける。
呼応するように、主人公は心情の独白を繋げる。
アニメでは煌びやかなネオン色に彩られながらも、儚くも美しく描かれていたのが印象的だった。
…そんな吸血鬼ラブコメディなのだ(雑)
購読のきっかけはYouTubeに流れた広告だった。まだアニメ化前の3巻まで刊行されていた2020年秋頃に週刊少年サンデーアカウントから広告された、ヨルシカの逃亡を扱い、日本国内各地をモチーフにしたPR動画だ。夜の摩訶不思議さと音源の心地良さが合わさって、高揚感で充される内容が含まれてた。
前評判なんてそっちのけで本屋で全巻購入した。当時は(2022年9月現在も一定その傾向はあるだろうが)Creepy Nutsの同名曲と間違われることもあった。
2020年頃にはアセクシャルと自称する女性に好意を寄せていた。仔細な内容は個人事情に触れるためあくまで記号的に語るが、当時の僕にはビビットに刺さる内容であった。自身と重ねる読み方も多分に意識していたが、それは恋愛という領域のみを対象にしたものではなかったのだと思う。恋愛感情とはなんなのだろうか。恋愛感情を抱かず、また性的な行為性を忌避する彼女の要望に応えた上で、普通/一般的などと同化することなく、なにが結びつけうるものたりえるのかを探っていた。考えあぐねた上で、家族性、嬉しいと思えた時や、悩んだ時に側にいれる、いたいと思えるだけの関係性に、側にいてもいい理由足り得させてほしい、それを交際(付き合う)と仮称して続けさせてほしいと一方的に正当性を手繰り寄せた。僕がそれでいいのであれば、と彼女も半信半疑ながらも一応の同意を示した。本心ではあるのだけと、輪郭にしか触れていない痒みがあった。言いたいことを言えていないんだろうなという危機感はあった。その証左なのか、あまり周囲に理解を示されるものではなかったし、これでいいんだろうかと疑心暗鬼へ無防備に身を晒すこととなる。結局は自身の不安を拡大することとなり、自暴自棄へのアクセル足りえる要素となった。結果はいわずもがな。
彼女への好意は本物だったと思う。別に他人への賞賛、承認は必要とはしてなかったと思う。だけれども、自身も半信半疑の中、欠陥品のアウトプットを彼女にぶつけてしまったように、思う。恋愛感情/恋愛関係へあまり理論詰めで凝り固まっても、自分自身、納得してはくれないのだろう。他の誰かに理解されなくとも、その対象者には理解されうるものたりえなけれはいけなかっただろうし、自分の感覚だけを物差しに積み上げなければいけなかったのだろう。なんだか、いろんなものにウソをついていたように思う。理解させるための呪縛を自分に許した。だから間違えた。
最近読んだエッセイに下段の一文が挿入されていた。
当時になって答えを示せよなんて言われても分からないし、もしかしたら当時の僕に戻れたとしても、同じように碌でもない回答に収まっていたかもしれない。それでも、パッカーンってなれる感覚を掴むだけの努力を惜しんだんだろうなぁと後悔してる。そんなどうしようもない後日談が頭を這って巣食い続けている。
妥協するなよ、逃げんなよ、と縛りの効いたルールで闘い続けるには骨がいる。理論仕立てに馴染めない自分を認めなければいけないし、世間(他人)様への反論に跳ね除けられるだけのタフさをものにしなければ行けない。言語化した段階で少しずつ色褪せてしまうようで嫌煙したい気持ちはあれど、感覚を積み上げ伸ばすにはどうすればいいのだろう。ネガティブな感情の発露にのみ長けていて、なかなかポジティブなそれを示せない自分の臆病さに苛立ちを覚えながらも。ポンコツにしか機能しない自分を信じないと物差しの目盛りが測れないなんて、人生の歩み方を間違えた気がしてならない。気持ちの良さってどこから生まれるんだっけか?なんてことを30歳手前で立ち止まっている。たぶん少しずつ嘘に順応していくのが大人の上手い処世術なんだろうけれども。
いつのまにか作品と自身を重ねる領域が恋愛から考え方まで波及していってしまった。まだ人生針路が定まっていない以上、まとめ方に苦慮することは予測できていたが、いやはや。しかしながら、こうも簡単に感化されるあたり、理想からも遠く離れた1人遊びに興じているだけなのかもしれない。
主人公に答え合わせされる前に、自分なりにケジメはつけたいと思う昨今です。
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