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『欲の涙』17
「神よ、願わくば私に、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ」
例の喫茶店--。
夕方〜夜とは異なる、独自の風が店内に吹く。日によって、吹く風は変わる。
今日の風?
昼間の穏やかな空気感に、不似合いな緊張感のある風が吹いている。見えない糸が張りめぐらされているようにもみえる。
この仕事を続けていると培われるのが「カン」。伝わって来るんだ。カンで察知したってことさ。どんなカンなのか、いつカンが冴えるのか、その辺は説明できない。
同時に、店内をピリつかせているのは自分では、と疑い始めた。神経質になっているのは事実。長野への怒りと三上の恐怖がオレをとらえてた。
ふたたび、店内全体を見渡す。
平日のわりには店内には人が多い。
明らかに水商売をしている娘、明らかにホストな男、明らかにスカウトマンもいる--この街の夜の経済を回している人たちが、一箇所にまとまっている。
あとは取り立てか貸し付けで少しガラの悪い風体の人がいる。「昼・表」でできない仕事に就くヤツらは1箇所に集まるのかもしれない。
「辞められたらこっちの取り分なくなるよ、まだ在籍してくれよ〜」と男がキャバか泡嬢に言う。
「出稼ぎって…急ですよ。断ります!」と泡嬢。
「なんとか今月はNo.1になりたいんだ」とホスト。
「ジャンプ何度目だ?保証人呼べよ」と取り立て。
昼のうちに話し終えれば夜の動きが決まる。
今は準備の時間だ。
夜の経済--時に人を破滅に追い込む。破滅への手引きが得意なヤツらは、表で仕事をしない。目立たず影の中に潜んでいる。
***
オレは店主にCは見張り役できているから、30分ほど店内に立ち尽くすが、許してほしいとあらかじめ伝えた。
店主はサラッと流した。
こんなことはレアでなく、よくあることだから気にしないように、と内心では思っていたのだろう。
Cには店内の入口のところで、長野を見張るよう伝えたところ、寡黙にうなずいた。珍しい。
長野とオレとで席に着いた。
後ろめたいことは何一つない、と強気な態度だ。
オレは話の主導権を握らせるつもりはない。
痛いところを突く--粗探しに努めることにした。
「飲みものは?」と尋ねると、今は何も飲む気になれないとの返事。オレは目を覚ましたかった。アイスコーヒーを注文し、冴えた頭で質問しようと心がけた。
ダラダラ回りくどく話せない。長野に直球で問いかけることにした。
「なぜ話をしようともちかけたのか、理由はわかりますよね?」
「カオリの殺害を依頼した理由。でしょう?」と開き直り気味な表情と声調で応えた。
続けて「カオリは妻の不倫相手との間の娘ですので。公になろうものなら、私は来年の選挙で負けてしまいます」と話を進めていた。
手を出さないよう、自分をコントロールするだけで精いっぱいだ。聞き出すためにガマンだ。今井のことも気になる。
これから三上の事務所で長野は確実に詰められる。おそらく、その恐怖体験から、歌舞伎町に来ることは二度となくなるだろう。
「そうなんですね」と軽く受け流し、こちらの言い分を。
「憎堂一家が絡んでいる事案であれば断っていましたよ、それを隠すなんて。なにが目的だったんです?」
「特になくて。本当に失踪したことに困ったからなんですよ。ただ、三上さんにはお見通し。どういうネットワークを使われたのか分かりませんが、中山さんへの『捜索』依頼は、すぐにバレました。それから、分が悪くなってしまった。秘書を動かしていた理由です」と、苦しまぎれな様子。
三上にの話筋と、長野のそれとを突き合わせる。おそらく、次の展開。
口を割ったのはホストモンだ。それがホストの運営主、北条に行き渡った。次に、売人の中島が「ハコ」に乗り込まれるかもしれない、と焦った。そこで相談したのが、憎堂一家の伊藤。
ソイツには取り柄がない。ポイントアップのために密告したんだろう、きっと。
と、自分で「答え探し」をしていた。考えが交錯するタイミングで、長野は開き直った。
「反社会勢力への利益供与でしょう?どうせ。私が議員であるうちはよほど大きな事件ではないかぎり、辞めさせることはできませんよ。それに三上さんだって警察に調べられても、簡単に口を割れるのか」と言い放った後、余裕のある表情で微笑んだ。
違う、司法は関係しない。
裏のルールを長野は理解していない。
「同情票っていうのもあります。身内の不幸があると、票が入りやすくなるのです」と、来年の衆院選挙を見据えた計画の一環で、思惑通り進んだかのように話す。
限界だ。
水を思い切りかけた。
次に思い切り、胸ぐらを掴もうとしたが、店長が制した。「まあ全体を見て、ね」と言い、続けて「長野さんかよ。最後見た時は…」と途中で打ち切って、レジに戻った。「長野さんか」。
意味深だ。あとで声をかけるか。周りの客も「あ、議員の長野!」と言わんばかりの反応をし始めた。分が悪いシチュエーション。さっさと店を出るか。
と、こちらは身軽に出る構えでいた。
ところが、これから三上のところでトコトン詰められることになる――。いざ現実に直面すると、長野の膝は震えていた。恐怖に毒されているようだった。さっきまでの自信はどこへいったのか。
急に顔が青ざめ、目から生気がなくなっていた。仕方がない、本当に恐ろしいのだから。
「これから三上さんですね…途中で死んだほうがマシでした」
「生き地獄を見とけ」と言い放った。
店を出るタイミングで店長に声をかけた。
「今日何時に仕事終わります?」
「夜11時かな」
「長野と三上の話の内容、教えてくださいよ」と、1万円多く会計時に手渡した。
「分かった」とだけ店長は言い残した。
坂本に電話を入れた。すぐ来るとのこと。店を先に出た。店内の客に写真でも撮られて拡散されたらこちらとて困る。
Cが長野を連れ出した。
坂本があの場にいたら殴っていただろう。
局面が変わったもんだから、長野とCはタクシーを拾って坂本の車へと向かってもらうことにした。想定外のことなんてしょっちゅうある。その都度、機敏に動けるかどうかが要だ。
オレは店の前で待っていた。
その矢先に、だ。
「その女」、ナツミはやってきた。
見下すような笑みを浮かべている。
「ジュンを見捨ててから何年経つの?」
「やめてくんねえかな、そういう言い方」と焦りから強く返した。
「私も詳しいこと知らないから訊いただけなのに。そうそう。アンタが地元を捨ててから、ジュンちゃんは相当詰められた。というか袋状態。知ってた?」
「もういいって」。親友なだけに知りたくなかった。長野への怒りとジュンちゃんへの申し訳なさが胸で渦を巻いていた。
「ドライなんだね〜。さすが見捨てただけあるわね」と、辛辣なナツミちゃん。続けて、
「ジュンは『過去を清算したわ』。アンタが逃げた、過去を。今じゃ、娘思いな父。で、アンタは?いつまで半端モンのままでいるの?」とタバコに火を点け冷たく、言い放った。
「最後まで燃えずに中途半端に逃げているだけじゃない?人に偉そうなこと言う前に、自分を鏡でみたらどうなの?」
畳みかけてきた。
核心を突いている。
冷や汗の出る場面で親友だったジュンちゃんとの過去をほじくり返し、オレを責める――裏返せばジュンちゃんを裏切った事実を突きつける――ことを言われても今は返せない。
と、自分の不甲斐なさを痛く感じていたところに、坂本から「もうすぐ」との連絡が。ナツミさんは察したのか、「まあ頑張って」と言いながら嘲笑していた。
オレが喫茶店に呼んだのは、長野から聞きだせることは聞こうと決めていたから。長くなる確率のほうが断然高い。一方で、すぐに帰す可能性もある。二者択一だ。
坂本がやってきた。
これからだ、と言い聞かせ現実か確かめるために、頬をつねった。
痛みが走る。現実での出来ごとか。