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『欲の涙』⑦
【?】
想定外--。この言葉が頭のなかでこだまする。
今は中野区某所にいる。隠れアジトは谷川が手配してあった。「あの場」から去る時に乗った車の行き先は、あらかじめ決まっていたのだ。
去り際、車内で、
--当てずっぽうな場所に行くなよ、分かんだろ?谷ちゃんよ
--隠れ家に行くよ。カイくん、すまないけれど運転中は無言で頼む、と谷川。あのドタバタ劇から脱するルートを前もって決めていたのだろう。
--この車のナンバー取り外さないと。「わ」のナンバープレートを上に載せたから。目撃者とか出てきたら厄介だな・・・
谷川は運転中、一人呟いていた。やや息を切らしている様子。それなのに、表情は涼しい。取り乱さない。
さきの中島と相対していた時とは打って変わって、冷静沈着だ。しっかりと、プラン《計画》を練っていたのだろう。半面、だ。衝動から何をしでかすか分からない--。接していて恐怖を感じることはないが「狂気」に近づくたびに動揺せざるを得ない。
【到着】
***
そのアジトは何ら変哲もない、ただのマンションだ。オレの事務所より断然、住み心地が良さそう。谷川への嫉妬だよな。ここが隠れ家だなんて、本当に住んでいるところは、ココ以上にぜいたくなんじゃねえかって、考えるとな。
オンボロなのかもしれないけれどな、実際に住んでいるところは。というのも贅沢は厳禁だから。そのルールは谷川本人が痛いほど分かっているハズだ。
オレらの稼業は、その時々によって、収入の増減が激しい--高額案件一件だけで1年分の収入を得られるケースもあれば、かなりの数の案件をこなすが、報酬金は少なかったり。
色々ってコト。
まとまったズクを手にした時に、散財するクセのあるヤツの息は、概して短い。目立ったり、首が回らなくなったりと、人の数だけ「消える」理由があるんだ。
それなら質素な生活を送る習慣を身につけるのが無難、というか、護身術なんだよ。そんな考えが、頭の中で行ったり来たり。交錯していた。
「そういえばアイツがヘタを打って消えた理由は・・・」と、この稼業から去っていったヤツらと理由を思い返していた。焦げた記憶の中に眠っている、ノスタルジーが胸を締めつける。
「あの時こうしておけば」--この後悔はつねにある。逆に「こうしてうまくいった」という類の記憶は、意識の奥の奥に潜んでいる。
フシギなもんだよ。悪い過去ほど鮮明なんてよ。
と、焦げた記憶を復元させていた。その時、だ。
ふと思い出した--。谷川が「誰に」似ているのかに気づいたのは。
駆け出しの頃の話。12年前にさかのぼる。お世話になった先輩がいた。その人にこの業界の「掟」を叩き込まれた。
ネットワークの広い人でさ。色いろな方面に人たちにツブシの利く人だった。ところが、それが仇となったのもあったのだろうか、「ツテ」の人たちも消されるという事態になった。
あの人に、だ。似ているのは。街から消えた、あの人に、谷川は酷似している。それがあって、オレは声をかけたのだろう。
「あの人」は街から消えた。正確には、去らざるを得なかった。「来る者拒み、去る者追わず」--。去っていった人の足跡をたどったとしても、トラブルに巻き込まれる。
情があっても、損切りのタイミングをわきまえないと、自分が痛手を受けるのがオチだ。
***
外に出られない。今見つかったら、どうなるのか--自分の身が危険にさらされるのは、一目瞭然。襲ってくるのが、プッシャーの中島か、憎堂一家の伊藤、坂本か。
それとも全員か。
それとも新しい「誰か」か。
一寸先は危険しかない。
お使い、というか、パシリの義村に買い物は任せてある。谷川はソイツを乱雑に扱う。
「オイ。カイくんの銘柄覚えただろ?間違えんなよ」と、主従関係が明確だった。
「いや、さすがに義村クンに悪いよ、谷ちゃん。気を遣ってくれてありがとうな」と義村を擁護する意図で言った言葉も、谷川は退ける。
「義村、いい気になんなよ。カイくんは特別なんだからな。分かんだろ?意味がよ。お前には伝えたハズだぞ」
「す、すみません!」と恐れおののく義村を、オレは「助かっているから、大丈夫。気にしないで」となだめた。
谷ちゃんらしいといえばらしいし、意外といえば意外。コイツには複数の顔があることを忘れちゃいけない。にしても、オレが「特別」なのには、何の理由があるのだろう。息が合うからなのか、よく分からないまま、言葉尻を取らずに、流しておいた。
切り込みたい本題--。
「なんで憎堂一家の敵対組織、儀仁組を破門することになったんだよ、谷ちゃん」と、口に出す一歩手前の状態にあった。
どのタイミングで切り出すかだけ。機が熟するのを待つのみか、ココで訊くか。機は熟しているのいるのでは?なんて、セルフで押し問答をしていた。
応えてくれるかは五分五分。--知らぬが仏って言うだろ?アレは言い得て妙でさ、知った以上、オレと谷川の仲にヒビが入りかねない。
とはいえ、しこりのように胸の中に、この疑問符が沈澱しているのは事実。ましてや、昨日に中島が「破門」と、ナゾを深める言葉を発したばかりだ。
淡々と話し、鋭い目つきの奥には何が・・・と思っていても、程よい距離感が大事なのかもしれない。
ここにいるのは、一時しのぎにほかならない。話の展開で、明らかになる可能性も存分にあるだろう?谷川との旅は長くなりそうだ。
その旅路に答が転がっているかもしれない。
訊くのがアホくさく思えたよ、一気にさ。どうしようもないと思えて、タバコの煙と一緒に、その質問は吐き捨てた。
外に目をやる。もう夕方だ。相当、疲れたんだろうな。なにかアクションを起こす気にもなりやしない。昨日のワンシーンが頭の中で再生される。何度も何度も残像が。
--「想定外」とは?と、疑問が拭えない。
坂本をはじめ、憎堂一家の長、三上はどんな絵図を描いていたのか、絵図のなかで、オレの「役割」は、あらかじめ決まっていたのか、長野がどう噛んでいるのか--迫れば迫るほど、全体像が蜃気楼のように、浮かんでは、消えてゆき、また、おぼろげで輪郭のない、虚像の姿が現れる。
そんな具合にマンションの天井を眺めながら、タバコをふかしていたら突然の電話だ。テレグラム通話。相手は不明。
このタイミングで電話を寄越すのは、北条か憎堂一家の誰か--誰だろうとオレをツブすハラだろうが--に違いないだろう。織り込み済みだ。今さらビビっても仕方がない。
【電撃】
それこそ「想定外」の出来ごとが起こった。--憎堂一家の組長、三上だ。前に話したことがある。独自の声音で即座に三上だと解った。
背筋が凍りついた。
ヤバい。
最悪の事態だ。
「中山くんさ、なかなか都合悪いんだよね」
「三上さんですよね?」
「そそ」と言い、まくしたてるように、
「長野はもともとコッチの顧客なのよ。電話で話してもラチが明かないから事務所に来てね。早ければ早いほどってのは、中山くんなら分かるよね」と、憎堂一家の組長、三上はため息を吐くように、言い捨てた。
「ツーッ」と切れた音が、谷ちゃんの耳に届いたようだ。こちらに視点を向けた。そのタイミングで、俺から伝えると決めた。
「谷ちゃん、ワリぃ。出かけてくる」と、もったいぶらずに用件だけ伝えた。
「気をつけて。身分証預かるよ」と、最後になるかもしれない会話を交わした。もう察しているのだろうが、深く首を突っ込まないのが流儀だ。
外は、熱で暑くなっているコンクリートを、高温の雨が打ちつけている。
どうせ止むだろう。たかを括って、三上と話しに、歌舞伎町へと向かった。
了