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2002年の宮崎あおいと蒼井優よ…映画『害虫』を観る

いまや日本を代表する俳優となった宮崎あおいと蒼井優。彼女らがうら若き頃に共演した『害虫』を女の人に誘われて目黒シネマへ観に行った。

過酷な現実に反抗する少女の、揺れ動く心情を描出した青春ドラマ。中学1年生の少女・北サチ子は、小学校時代の担任・緒方との恋愛や、二人だけで暮らしている母稔子の自殺未遂など複雑で混乱した現実にいまにも押し潰されそうになる。学校に行くこともなく、街でダラダラと時間を潰す毎日。サチ子はそこで、万引きで小銭を稼ぐ少年タカオ、精神薄弱の中年男キュウゾウらと出会う。

いたるところで評判は聞いていたものの、「いやいやお洒落な雰囲気系映画じゃねえの?」と安易に判断していて未見だった。が、いやはや、想像はあっさり裏切られた。こういう、自分の興味のないことに対しては、平気で“取るに足らないくだらないもの”扱いするのはとてもよくない。猛省。

さて、そういうわけで、『害虫』は良い映画だったというのが俺の結論だ。なぜか。人間関係のえも言われぬ難しさに対する表現の巧みさにあるといえる。なんだ、ホン・サンスとかエリック・ロメールとか。そういう監督群の作品に連なる魅力を感じた。

人間関係のえも言われぬ難しさを描くにあたって、キャラクター造形の下敷きは--先生との手紙で“悪徳”に関する解釈を引いて明示されるように--マルキ・ド・サドの書いた“悪のジュリエット”=サチ子(宮崎あおい)と“善のジュスティーヌ”=夏子(蒼井優)に置かれている。美徳を信じたがゆえに身を滅ぼす妹ジュスティーヌと対をなす姉ジュリエットが露骨に踏襲されている。

よくある物語の展開はといえば、主人公が何かを強く望んで、障害がさまざまあるなかで、それを乗り越えたり乗り越えなかったりする過程を描くが、『害虫』は、あくまでサチ子がどう生きているかだけが描かれる。故に物語のトーンは静謐だ。

ストーリーのなかで大きな事件が起きることはない。ただ、彼女らを取り巻く状況は次第に悪化していく。誰にも(母親の愛人を除いて)悪意がなく、むしろ善意がキャラクターの行動動機になっているにもかかわらず、だ。善意の働きかけがどんどんすれ違いを生んでいく。あるある、わかる。

先生とサチ子の手紙のやり取り(スクリーンに文字のみで表示される)の扱いも、「人間関係のすれ違い」を描くのに大きく寄与している。というのも、手紙はサチ子に届いてほしいタイミングから、いつも遅れて届くのだ。サチ子がレイプ未遂にあったシーンの直後に「サチ子は同世代のボーイフレンドと付き合った方がいいんじゃないか」とくるし、火炎瓶を夏子の家に投げつけた後に悪徳さについて問う手紙が届く。決定的な瞬間には、いつも先生の言葉は届かない。ラストを待たずとも2人はすれ違い続けていた。

絵面もクールだった。レイプ未遂の被害に遭う直前の不気味なシーンや、彼氏との気まずい下校シーン、火炎瓶を友人宅に投げ入れた後の後退りシーン……。それぞれの外連味にあふれた演出よ……。

なかでも、仲良くなった男が失踪した直後に挟まれる--ここだけを見ればアイドル映画的ともいえる構図で--、机に突っ伏して横を向いたサチ子がビー玉の入ったキャニスターを倒す場面は出色の出来。

好意を寄せる男の子がいなくなった悲しみをいまにも泣きそうな目で表現し、人生の立ち行かなさに辛苦する気持ちを構図で表現し、親に対する反発を(母の居る1階まで響き聞こえるように)床に落としたビー玉の響きで表現する。わずか10数秒のワンシーンで。この情報密度。惚れ惚れする。

また、ラスト直前に喫茶店で風俗スカウトと会話を交わすシーンでは、自動車の進行方向からサチ子の運命が決定づけられていることも示唆されている。憎い。

無論、少女期の宮崎あおいと蒼井優は瑞々しく美しい。彼女らをスクリーンで見られるだけでも、一見の価値があるだろう。昔すぎないが少し前、といった日本の風景も見応えがある。そんなところか。

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