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死と生にまつわる瞑想みたいやね…映画『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』を観る
「スクリーンでその姿を観たい/観ずにはいられない」と思わせるのは、ごく限られた俳優のみが備える特別な才能。俺はそう思っている。
現代、その才能を遺憾なく発揮し、全世界の映画人から愛されている最右翼……そりゃ、ティルダ・スウィントンだろう。少なくとも俺はそう思っている。彼女の存在感にはいつも瞠目させられ、定期的にスクリーンでその姿を観たいと感じさせられる。
そんなティルダ・スウィントンが、ペドロ・アルモドバル初の英語長編映画『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』に主演すると知り……。
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新宿ピカデリーで観てきた。
映画はほとんど全編を通して、安楽死を望むマーサ(ティルダ・スウィントン)、そして、彼女から「最期を迎える際に隣の部屋にいてほしい」と伝えられた旧知の作家イングリッド(ジュリアン・ムーア)との会話劇で展開される。
すると、つい死の主体的選択をめぐる映画だと想像する……が、そうではない。
マーサがその是非を問う会話を強烈に拒みつづけるように、安楽死、尊厳死の是非について本作では問われない。むしろ、物語の中心は友愛、親愛を通じた生の在りように目が向けさせられるつくりになっている。
そんなことを書く。
前提。安楽死を望むマーサ、困惑しながらも彼女に寄り添おうとするイングリッド。かつては友人だったがしばらく疎遠になっていた二人の周縁はーー数十年音信不通だった間に(死生観については)真逆の価値観を持つようになった関係性を表すがごとくーー補色をなす赤と緑の対照的な色彩で描かれる。
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とはいえ、物質的な特権階級に属する彼女らには共通点もある。ーー過去に同じ男性を愛したこととーーいささか「趣味が良すぎる」文化的な素養だ。
マーサのアパートのソファの上には、ルイーズ・ブルジョワのテキスタイル作品(の複製)があり、その下で、彼女たちはドーラ・キャリントンの数奇な人生について語り合い、
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マーサが死ぬために借りたモダニズム建築の豪奢な邸宅では、カラヴァッジョの『果物籠』そっくりなフルーツ盛りがテーブルに並べられ、エドワード・ホッパーの『People in the Sun』について話した後の二人はサンラウンジで絵画の世界の人物かのようにくつろぐ。
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マーサが、元夫が亡くなったと伝え聞いた過去を回想する場面でフラッシュバックするシークエンスは、あからさまにアンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』(1948年)が下敷きにされている。実際にどういった事件、事故があったかをマーサは目にしていないにもかかわらず、美術作品をベースにして再現イメージを生み出しているわけだ。
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諸々のディティールから、彼女たちの文化的生活がどのように形成されてきたか、彼女たちが互いにどのように連関してきたのか、そして彼女たちが自己満足のためにどのようにそのような世界性を振りかざしているのかが表される。
エスタブリッシュメントなキャラクターである二人。つい鼻白みたくなりもするが、映画で彼女たちの生を空疎なものと結論づけるような態度はとられない。
一方、イングリッドがいまだに連絡を取り合っている彼女たちの元恋人デイミアン(ジョン・タトゥーロ)はーー明確にではないもののーー対照的な存在として対置されていた。物語終盤、ランチを共にするシーンでの会話が象徴的だ。「How bad can it get? 」という嘲笑待ちもしか思えないタイトルの講義を終えたデイミアンが通り一辺倒に語る地球消滅の問題が話題の中心となる。そのなかでデイミアンは環境破壊の時代における“詩”の価値を疑うのに対し、イングリッドは「悲劇の中に生きる方法はたくさんある」と詩的に主張する。
上映開始から長らくマーサとイングリッドを見続けてきた観客は、どうしたってデイミアンの抽象的な話題が空虚に思えるだろう。俺たちにとって重要なのは、マーサの死をめぐるイングリッドの揺れ動く気持ちなのに……! と。して、映画を観ながら詩の価値を肯定する態様に自然に誘導させられている。
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劇中に散りばめられた文学的な台詞も、本作の象徴的な特徴である。劇中で三度繰り返されるジョイスの詩『死者たち』はもちろん、戦地記者として数々の戦争を経験したマーサはーーボスニアの内戦が特別だったと語るようにーー勝てない戦いがあることを知っており、そんな彼女が、自身に迫り来る死についてこぼす、「勝てば英雄だし、負ければ......そう、闘い方が足りなかっただけかもしれない」いった台詞など、詩的な言い回しがあちこちにある。
そして、それらの台詞は、微表情を一切出さない落ち着いた調子で、少し意識を高めた口調で語られる。現代の映画としては珍しく、観客にあえて“書かれた”台詞であると感じさせられる演出だ。これもまた詩(や文学や演劇)としての美的表現であり、さまざまな点から詩的なトーンが漂っている。
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そうしたトーンで迎えるーー原作から追加されていたーーラストの一連は、本作の主題を最も明確に示したシーンだろう。どういうことか。以下、結末部に触れる。
長らく母と決別していたマーサの娘は、母の死を知り、最期を迎えた邸宅を訪れ、強張った表情で母の残り香を追い、母についての誤解を理解する……。
その後、物語として明確な啓示はなく、あらゆるものに雪が降りそそぐ景色だけが残される。引きのショットで捉えられるラストショットは、なんとも美しい。ジェイムズ・ジョイスの詩の通り、“すべての死者、そして生者の上に雪は降る”のだ。
これまでも“性と生と死”について多く語ってきたアルモドバルが、自身にも近づきつつある死についての美学を描いた映画が『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』と俺は受け止めた。そして、その美学が、誰もが迎える“死”にのみ向けられていないことが肝要で、死についての美学は、どのような生を選択するのかにも矢印が向けられている。
前作『パラレル・マザーズ』もそうだったが、後期アルモドバル作品にはよく人の死が描かれる印象がある。そして、それらの映画に通底するのは、“人は亡くなったら終わり”ではないという観念だ。だからこそ、原作にはなかった場面をラストに付け加えたのだろう(それが説教くさいと感じる人もいるかもしれない)。
なんにせよ、本作を展開させるエンジンが死にまつわる話であるのは違いないが、死と生の対称性、その周辺を取り巻く友愛、親愛が瞑想のように描かれているのが、本作の見どころだろう。俺はえらく興味深く楽しんだ。そんなところ。
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