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映画『哀れなるものたち』がフェミニズム作品として昇華されていくことへの違和感をメモしておく
ベネチア国際映画祭金獅子賞、ゴールデングローブ作品賞を受賞するなど、すこぶる前評判の高かった『哀れなるものたち』。
かねて日本での上映を楽しみにしていた俺は公開初日の朝8時30分、汚れきったトー横を通り過ぎ、何人もの水商売らしい男女とすれ違いながら、TOHOシネマズ新宿へ向かう。
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きたこれ。やっと観られた。
麗しいことこのうえない(!)エマ・ストーン演じる妊婦のベラは、橋の上から身投げをするが、天才外科医ゴッドウィンによって蘇生させられる。自身の胎児の脳を移植されたベラは、少しずつ言葉を覚えて成長していった。ゴッドウィンの教え子マックスは自由奔放な彼女に惹かれ、二人は結婚することになる。
しかし、ベラは「世界を自分の目で見てみたい」という欲望から、放蕩者の弁護士ダンカンとともにヨーロッパ横断の旅へ。世界を貪欲に吸収していくベラはやがて知性に目覚め、自由と平等を見つけようとするが――。
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『哀れなるものたち』が抱える軽薄さ
観賞前に抱いていた俺の期待は泡沫の、いや、胃酸発生装置を使った際に口から吐き出される残滓物の如くパッと消えた。
なぜか。
取り扱うテーマについての軽薄さがどうしても引っかかるのだ。
原作の構造を大胆に変更した映画『哀れなるものたち』では、自由が制限される生育環境、彼女をコントロールしようとする男性たちなど、歴史的に女性が受けてきた/受けている男性中心社会による抑圧をベラの体を通して描く。恥しらずに奔放に生き、さまざまな経験を積みながら決定権を持つ女性として「自己形成していくファンタジー」というのが物語の骨格で、骨格を動かす主要な筋肉は「セクシュアリティの解放」となっている。
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序盤、モノクロ画面と不協和音で構成され続けるスクリーンは、ベラが初めてセックスすることで、華美なカラー画面へ切り替わり、その決定的な瞬間、途端に(露骨に)劇伴も歓待めいたものへ急変する。この一連のシークエンスは女性が受け続けてきた抑圧を打ち破り、主体性を獲得するきっかけとなるメタファーと捉えられるかもしれない。
しかし、「セクシュアリティの解放」が「女性の主体性ある自己形成」につながる極めて重要なトリガーになるという描写そのものがあまりにも浅薄ではないのか、と俺は思う。いまって2024年…だよね…?
かつてセクシュアリティの解放が進んだとき、女性にとって抑圧からの解放をもたらすものとして期待されたものの、やがて、男支配の社会構造が変わらないままでの性の解放について、当事者からも疑問が出てくるようになったことはよく知られた話。
スーザン・ソンタグはいまから50年前にこんな文章を残している。
セクシュアリティの規範を変えないままでの女の解放は、無意味な目標だ。セックスは、それ自体では、女にとって解放的ではない。より多くのセックスであっても、だ。
また、フェミニズムの分野では、セクシュアリゼーション享受という尺度が広まっており、
「男性に性的に注目されるのが楽しい」「男性が自分の性的魅力に魅了されていると、男性を意のままにできているような気がして権力感が持てる」いう女性は、相手からの評価を気にしすぎたり、相手との関係保持のために女性役割を演じたりしすぎるために、自分自身の性的満足感を高めることができていない可能性があることが指摘されているという。「女性の性的(なものを通じた)エンパワーメントの一つだ」と主張するけれども、本人たちがいうほど「性的(なものを通じた)エンパワーメント」が達成できているわけではないのではないか、という研究もあるそうだ。
つまり、フェミニズムにおいて、セクシュアリティの解放が重要なことは自明であり、しかし同時にそれが必ずしも女性を本来的抑圧から解放させられるとはかぎらないというわけだ。
にもかかわらず、セックスを隠匿的に表現した原作とは異なるかたちをとってまで、あからさまにセックスシーンを重要なものとして、そして過剰な回数描くのか。「セックスシーンが映像的にショッキングだから」と理由以外に思い浮かびようがない。
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他にも映像的演出ありきで作劇された、要は、軽薄だと感じてしまう事の運びは多い。
ご都合主義なファンタジー
マジカルニグロを用いて劇的に見せた貧困への気づきも過激な映像を撮りたかっただけではないか。ファドが流れる(この一連の場面は大好き)リスボンの街を自由に歩き回っていくなかで、貧民が目に入らないことなんてあり得るのか。
また、性行為の副作用としての妊娠はベラには無関係な世界のもののようだし、性感染症についても夫から指摘されるまではまるで関心がなさそうだ。月経について言及されることもない。
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そして、当然ながらベラは自身の振る舞いについて、恥を感じ入ることがないーーふつう3,4歳児でも「恥/罪」という概念は持ち合わせているのにーー。
恥/罪は文化的な社会に課されるものだが、『哀れなるものたち』で描かれるベラの世界にはそれがない。こうした点から、彼女が自己形成を達成したとて、それは私たちの生きる現実となんら地続きではないーーいや、現実の問題から目を背けたという意味ではより悪質なーー空虚な勝利に過ぎないように感じられる。
『哀れなるものたち』が寓話的なファンタジー作品だとはいえ、極めてご都合主的だ。そして恣意的な情報の取捨選択は、テーマを補強するための、というよりも、エマ・ストーンの演技を見せるため、視覚的にショッキングな映像を展開するための方法的無化にしか寄与していない。
『哀れなるものたち』の素晴らしさ
さりとて、ハッとさせられるシークエンス・演出・映像はいくつもあった。
パステルカラーや肉体を連想させる色、ーー”ヴァギナ・ブラウス ”や “コンドーム・コート”と評されるようなーーセクシュアルなデザインの服ばかりを着続けた後、やがて創造主との必然的な対面を果たそうとするようになり、初めてシックな「黒」を着始めるというビジュアル的展開は、見た目の麗しさーーだけでも出色なのにーー以上の効果を衣装が発揮している。
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古典小説をベースにした世界の映像化という点では、フランシス・フォード・コッポラ監督の長編『ブラム・ストーカーのドラキュラ』のような、いい意味でのケレン味もある。
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なかでも、蘇生シーンは古典的なフランケンシュタイン映画との精神的な繋がりが手に取るように感じられる場面だ。ビスタビジョンのもと、モノクロと(おそらく)エクタクロームを使用した独特な彩度のカラー画面との行き来、過剰で大音量のサウンドトラック、珍奇な器具の数々……。ヴィクトリア朝時代の絢爛さとスチームパンクな雰囲気を混じり合わせたプロダクションデザインは常に目を楽しませてくれる。
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ランティモス印の超広角画面や、鍵穴ショット、ズームイン・アウトの往来はやや過剰にも思えるが、ベラの肉体的・精神的成長を伝えるうえで重要な役割を担っていることも間違いない。2種の魚眼レンズで撮影される画面は、ベラの目にはこの世界がどれほど根本的に奇妙に映るかを示唆していて、奇天烈なショットやカメラの切り替えは、彼女のキャラクターが成長するにつれて、スムーズになっていく。
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幼児のようにギクシャク歩き回り、体を子供のような体勢に変形させ、大人の女性に成長するにつれ、欲望を探求する肉欲的な大胆不敵さも兼ね備えた凜とした姿へと変わる……。言わずもがな、エマ・ストーンの演技は映画史に名を深く刻む“怪物”級だ。
覆い隠されたもの
さて。あんまりだなと思った点、よかったなと思った点を一つのテーブルに並べて見比べる。そして、俺の中に残った(現時点での)答えは「テーマに対する軽薄さ」を「素晴らしい役者の演技、映像表現」によって覆い隠している、という印象になる。
女性の自由意志が当たり前に尊重される社会、さまざまな経験を通じた成長からなる自己形成は言わずもがな素晴らしいことだし、斬新的だとしても少しでもそうした方向に変わりつつある今の社会を俺は歓迎している。
が、『哀れなるものたち』のように露悪的に現実を無視したファンタジーとして描かれると、この作品をフェミニズムとして昇華してよいのか、うーむ、という気持ちが上回ってしまう。
◆◆◆
いや、むしろこの露悪性にこそ、この映画の肝が隠れているのか。ここからは完全に思いつきの蛇足で、都合良い見立てにすぎないが、もはや、第三幕のあまりにお粗末な勧善懲悪な展開にこそ、この映画の光を見てとられるような気もしてきた。軽薄な演出や、ご都合主義な展開、その果てに訪れるラストシーンのエマ・ストーンの不敵ともとれる微笑み。これにはヨルゴス・ランティモス監督らしい悪趣味さというか、世界や人間に対する嫌悪が込められていると受け止めることもできよう。だとしたら、一本してやられたな、と思う。
まとまっていないが、まあ、メモということで。