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やってやろうじゃねえよ…映画『狂い咲きサンダーロード』を観る

俺が『狂い咲きサンダーロード』を初めて観たのはいつか? 明確にわかる。

周囲のエリート大学生とのあらゆる差に日々鬱屈とし、現実から目を背けるように朝からビールを飲んでばかりいた上京直後である。

みっともない生活を送って何も生み出さ(せ)ない俺。23歳にして劇場公開作品を完成させた石井聰亙。比較して自分の惨状を嘆き、嫉妬に狂っていた、のでした。

そんな『狂い咲きサンダーロード』がリバイバル上映されているとのこと。初観賞後には禍々しい心情にもなってしまった作品だが、あれから十数年が経った今なら呪いは解かれていよう。京都みなみ会館へ観に行った。


幻の街「サンダーロード」を舞台に、暴走族や政治結社に反抗する若者の戦いをバイクやロック音楽、バイオレンスを満載に描いた。暴走族「魔墓呂死」の特攻隊長・仁は、警察の取り締まりに対して平和的な路線を歩もうとしたリーダーの健に反発し、実力行使で反抗を試みる。やがて抗争の中で右腕と右足を切断され、バイクに乗れない体になってしまった仁だったが、それでもなお抗うことをあきらめず、バトルスーツに身を包んで最後の決戦に挑む。

映画情報サイトにあるあらすじを読むと、どこか無軌道なB級映画に思えてしまうが、本作で描かれる物語は強烈で普遍的なメッセージを持つ。

底流はバッドボーイズのグッドストーリー――彼らに寄せた言葉を使えば「マジでクソなハナシ」――というやつで、残酷な現実に押しつぶされそうな若者の、選択ミスと大きすぎる犠牲が描かれる。『明日に向かって撃て』、『さらば青春の光』、『トレインスポッティング』など、アメリカンニューシネマを起点として連綿と続く文脈に位置付けられるといって差し支えないだろう。

「反抗」にまつわる映画だ。

さて、そんな『狂い咲きサンダーロード』。本作は上に挙げた「名作」らと比べて、明らかに優れている美点がある。それは「ツッパリ」の持つ魅力、つまり、既存の秩序の圧力との関係で提示される人間の態度、社会あるいは世間に対する個人の屹立の仕方に対する肯定性の徹底的な描き込みだ。

映画は主人公の仁が、仲間十数人が暴走行為をやめようと相談している現場に数人で殴り込むシーンから始まる。仁は自身の身に危険が迫る中、保護してもらっていた「スーパー右翼」からも1人で抜け出す。ラストシーンにいたっては、ブレーキをかけることも、バイクから降りることもできない身体に対してもツッパって、あてなきサンダーロードへと旅立つ。

そんな仁に対置されるのが、軟派な男から右翼の幹部へと上り詰めることになる茂だ。物語の当初はモブキャラのような存在だった彼は、仁の誘いを受け、スーパー右翼隊長の教えを請け、次第に個人として屹立していき、最終的にラスボス的な存在として仁と命をかけて対峙する。

ラスト直前、2人は殺るか殺られるか、という瞬間を迎える。茂は初めて仁と対等に向き合うことになるが、ここに至る過程がまったくもって異なるというのが素晴らしい。全てを主体的に選択する仁と、全てを受動ありきで行動する茂。そして、結果的に茂は死を迎えることとなる。しかも、茂に凶弾を放つのは、茂が彼の欲望の全てを受け入れたスーパー右翼の隊長である。受動的選択が最悪の結果を招いたわけだ。

周囲の意見どうこうではなく、自身が思うままにツッパリ続ける仁の姿。『狂い咲きサンダーロード』はエンジンをレブリミットまで回しながら、そうしたツッパリの魅力を描く。傷を受けながらも最終的に天国へと旅立つ仁を通じて、「反抗」と「自主的な選択」を肯定するのが、『狂い咲きサンダーロード』といえる。

かつての俺はこの作品を観てもなお、周囲と自分を比較し続けていた。アホかと。あまつさえ、嫉妬していた。アホかと。おっさんと呼ばれる年齢になり、周囲と自分を比べることの不毛さと毒性を痛感する俺は、ようやく『狂い咲きサンダーロード』の持つ魅力に気づけたわけである。歳を取るのは悪くない、のかもしれない。やってやろうじゃねえよ。

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