リバースエンジニアリング的芸術受容
ある日、吊り革を握りふと斜め上を見やると、車内広告の映像が目に入った。化粧品のCMで、360°どこから見ても美人になるというのが主旨だったように思う。普段であればとくに興味もわかずにすぐに忘れてしまうところだが、妙に気になってしまった。
その広告には、ペンローズの三角形がグラフィックのモチーフとして使われていた。
360°どこからみても美人!というコンセプトに対してペンローズの三角形が当てられているのは面白い。なぜなら、ペンローズの三角形は"ひとつの"視点こそが重要な図形であるからだ。どこから見ても、ではなく、特定の視点を想定してはじめて生まれる錯視図形なのである。
私はそうやって人の揚げ足をとることに生きがいを感じるような下賤な人間だが、そんな根性とは真逆の特性を持った人々がいる。そう、研究者だ。
つい最近、著名な生命学者である近藤滋さんが著した『エッシャー完全解読 なぜ不可能が可能に見えるのか』と題された本を読んだ。
エッシャーといえば誰もが知る騙し絵の第一人者である。日本での人気も絶大であるから、私自身も幼少期から学生になるまで何度かその作品に触れる機会があった。
エッシャーの作品とは関係ないが、小学生の頃、よく悪魔のフォーク(ブリヴェット)を描いてみては周りの人に見せびらかしていた記憶がある。その不可能な物体の魅力に囚われていた。あるいは、高校生の頃にはエッシャーによる平面の正則分割に憧れていた。工芸の透かし彫りの授業で、模様を正則分割されたイルカのようなモチーフにしたりした(正確にはうまく分割を作れずそれっぽい作品に甘んじた)。
著者の近藤滋さんは、Wikipediaによれば世界ではじめて生物の縞模様がチューリング・パターンであることを実証したという、生命科学の第一人者だそうだ。その時点で、たいていの人は「なんかスゴそう」くらいには思うかもしれないが、この本を読めば「スゴい」どころではないとすぐに気づくだろう。
本書は、近藤さんがライフワークの一環として、だまし絵の巨匠エッシャーの作品制作過程に“科学的分析”を持ち込んだ記録である。
出版社のサイトから抜粋した内容によれば、
といった感じだ。
確かにその通りなのだが、実際に本書を読んでみると、いわゆる「だまし絵解読」の域をはるかに超えた、まさに「リバースエンジニアリング的受容の体現」と言いたくなるような内容だった。読者もまた、作家の頭の中を追体験できるという、ちょっとしたミステリーを解くような面白さが味わえるのである。
チューリング・パターンとだまし絵との接点
そもそも、生命科学者がなぜエッシャーのだまし絵に惹かれるのか。それはチューリング・パターンの研究にも通じる「形が生まれる仕組み」を解明したいという欲求にあるのかもしれない。
チューリングパターンの研究は自然や動物の現れに対して、その背後にある数理モデルを解き明かそうという試みである。そのプロセスには必然的に「どのように形が作られるのか」という問いが含まれる。形とは何か、パターンとは何か――そうした問いを追究する科学者であれば、エッシャーが描く不思議な図形や連続パターンの謎に惹かれるのはごく自然の成り行きだろう。
ここで、ひとつの疑問が浮かぶ。エッシャー自身は画家・版画家であり、計算機科学や数理モデルの専門家ではない。にもかかわらず、どうしてあのような複雑怪奇でありながら厳密な遠近感の破綻がない(ように見える)だまし絵を生み出せたのか。
近藤さんが本書でやっていることは、言わば「エッシャーの創作プロセスを分解し、その根っこに潜む数理や空間感覚を逆探知する」行為なのである。これが本当に面白い。読者は、しばしば「結局エッシャーって天才だから作れたんでしょ」と簡単に片づけてしまいがちな図形やパターンのからくりを、「こうやって途中段階を追体験すれば、確かに不可能図形が成立し得るのか!」と理解できてしまうのだ。
受容美学と「制作プロセスを辿る」アプローチの新鮮さ
私は本書を読んでいて、ふと1970年代ドイツで勃興した「コンスタンツ学派の受容美学」を思い出した。いわゆるハンス・ロベルト・ヤウスやヴォルフガング・イーザーが中心となり、「作品の意味は読者・鑑賞者とのあいだで生成される」という発想を打ち立てた学派である。ヤウスは「読者の期待の地平(Horizont)」という概念を示し、作品を読む(見る)行為は、読者の既存の期待や理解をどのように変革するかがポイントになると説いた。イーザーは「テクストの空白を読者が埋めることで意味が作られる」と論じ、どちらも「受け手の能動性」が作品の理解には不可欠だと主張した。
ところが、本書のように「作品の制作過程そのものを追う」という受容の仕方は、従来の受容美学でもあまり正面から取り上げられてはいなかったと思う(もしかしたらあるのかもしれないので勉強したいところ)。
エッシャーの作品の完成形だけを見て、それに対して読者がどのようなイマジネーションを働かせるか、という話は想像しやすい。ところが近藤さんの場合は、エッシャーが試行錯誤していった線や図形を再現し、そこに潜む論理(や場合によっては非論理)まで含めて読者に提示してくれる。その結果、私たちは“完成品”として鑑賞されるエッシャーの作品だけではなく、「エッシャーが生みの苦しみを味わっていた段階」をも擬似的に見てしまうのだ。ある種、「作者の頭の中に飛び込む」という受容形態と言っていいだろう。
これは、ロラン・バルトが『作者の死』で主張した「読者の自由」を強調する姿勢とは真逆に見えるかもしれない。作者の意図や過程を知ること自体が、読者の読みを狭めるとも言い得るからだ。だが、本書を通じて感じられるのは、むしろ逆の印象である。制作過程の詳細を知ることによって、「これほど綿密に構築された世界を、エッシャーはどうやって考えたのか?」という問いに対して、自分なりの解釈を深める手掛かりがぐんと増える。それは“作者の制約”に縛られるというよりは、作者が拓いてきた道を一度体験してみることで、鑑賞者としてさらに自由に発想できるようになる感覚に近い。
本書が示唆するのはリバースエンジニアリング的芸術受容だ。
リバースエンジニアリング的芸術受容が生みだす読者の能動性
では、リバースエンジニアリング的芸術受容とは具体的にどういうものだろうか。一般にリバースエンジニアリングとは、製品やシステムを分解し、その内部構造や動作原理を分析して、もう一度再構築してみる作業を指す。近藤さんはまさにエッシャーの作品を「分解」し、エッシャーがどのような段階を踏んで線や形をつないでいったのか、その痕跡を一つひとつ追っていく。
ここでおもしろいのは、その分解プロセスを“視覚化”してくれるところだ。どうやってだまし絵の中の線を引き、どこで面をつなぐか、あるいはどこで辻褄をあわせるのか。言葉だけで説明されると理解が難しそうなポイントも、本書では丁寧な図版が多用されており、読者は“自分の目”で確かめながら読み進められる。まるで謎解きの当事者になるような感覚があり、そこが最大の読みどころだ。
こうした“追体験”という能動的なプロセスは、先の受容美学の文脈から見てもたいへん興味深い。イーザーが言った「テクストの空白を読者が埋める」という概念は、もともとは文学テクストの話が主軸だが、本書における「分解→再構築」のプロセスでも同じことが言える。完成品には見えない“空白”を、著者(科学者)とともに読者が埋めていく。その結果、読者の中に、これまでとは違うエッシャー像が形成されるのだ。
「科学者のまなざし」と「芸術鑑賞」
もうひとつ、本書の大きな特徴として、「科学者のまなざし」がふんだんに取り入れられている点を挙げたい。私たちが日常的に行う「芸術鑑賞」は、たとえば美しい風景画を見て感動するとか、抽象画を見てイメージをふくらませるといった、“情緒”や“直観”に依拠する部分が大きいだろう。もちろんそれはそれで大切な要素だが、近藤さんのアプローチには、数学的思考や検証のステップが組み込まれている。
具体的には、「なぜこの線とこの線が繋がると錯視が起こるのか」「この構図で一見すると立体が破綻していないように見えるのは、どんな目の錯覚を利用しているのか」といった疑問に対して、科学者の立場から分析を試みる。読者としては、そうしたプロセスを“整理された形”で触れられるのはありがたい。エッシャーは直感的に「こう描いたら面白いぞ」と考えたかもしれないが、それを科学的に再分析してみると、意外な法則や共通項が見えてくる。それが本書には随所に散りばめられていて、新鮮に驚かされる瞬間がたびたびあるのだ。
言い換えれば、本書を読んだ後には、エッシャーの絵を観る目がガラリと変わる。しかもそれは「作者の意図に合わせてやってみる」というパッシブな作業ではない。著者の思考プロセスを借りながら、しかし最終的には「エッシャーはこう考えたかもしれないし、そうでないかもしれない。が、ここで生じているトリックはこういうふうに説明できる」という、いわば“科学的な芸術理解”を構築していく感覚が得られる。
本書の意義
本書の章立てや構成も巧妙で、著者自身がエッシャーになりきるように分析を進め、それを読者にも追体験させる作りになっている。読者としては、未知の世界へ誘われる興奮とともに、「ああ、ここでエッシャーはこんなふうに悩んで、こういう試行をしたのか」とリアルタイムで追体験させられる。
これは言うなれば、「過去の偉大な創造者と同じ道を歩む」感覚だ。もちろん、エッシャーと同じ絵が描けるようになるわけではないが、発想術を垣間見ることができる。芸術を受容するというよりは、芸術を“再創造”しているような体験だ。
コンスタンツ学派にせよ、ウンベルト・エーコの『開かれた作品』にせよ、「作品には多義性が内在している」「受け手が能動的に関与することで新たな意味が開かれる」ということは広く論じられてきた。しかし、本書のように「制作プロセスを解体・共有する」ことで、その“新たな意味の開き”がここまでドラマチックに展開される例は、それほど多くないのではないか。そこが本書の大きな意義だと思う。
まとめ
ここまで書き連ねてきたところで、一抹、反省の思いが浮かんだ。
私は建築設計の仕事をしているので、過去の事例を見たり名作と呼ばれる作品の写真や図面をチェックすることが多々ある。
しかし、本書のようにその制作過程まで辿ることはない。自分の価値観に基づいてそれらの作品を解釈するにすぎなかった。
建築を作る過程は非常に複雑で、完成された建物からだけでは決して全ての創造性を汲み取ることはできない。
リバースエンジニアリング的に過去の作品を解体して読み解くこと。
それを通して自分の作品の創造性を確かなものにしていきたいと思った。