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「感じること」が怖いなら。「不快を感じたら離れていい、取り除いていい」をゆるす。

いい天気だからか、外にいたい気分
広場にいたら、保育園のおさんぽがやってきた。

なんとなーく眺めていたけど
その中のひとりの先生の言葉が
どーしてもどーしても嫌で。
聞いていると辛くなる。

これはもうだめだ、とそこを離れた。



こういう時、以前ならこどものことが
とっても心配になった。

ああいう言葉を毎日浴びているのだろうな
どんな気持ちだろう
育ちにも影響するだろうなって。



でも最近
「すべては最善」ってなんか腑に落ちたんだ。

けろっとしている子もいるし
耳を素通りしてる子もいる
中には傷つく子もいるかもしれないけれど
その子にもちゃんとその傷を良い経験にしていく
力が備わってる。

みんなみんな、大丈夫。

そう信じられるようになったんだ。



きれいなものを見て、心を落ち着かせる
緑と光がきれい
水の音もきれい



でも
こどもの力を信じていることと
私が今、その先生の言葉を聞いて
不快を感じていること

それとこれとは話が別だ。



「あの子たちは大丈夫。
 でも私は好みではないので
 不快なのでこの場を去ります」

そう心の中でつぶやきながら、移動する。



「私の中に不快を入れない」

それってとっても大事なことだ。



不快だと感じたら、取り除いてあげる。
私の中を、クリアにしておく。

だから、不快を見つけられるように
「感じる」を大切にする。

感じるを鈍らせて、鈍感になって
知らぬ間に
私の中が不快でいっぱいにならないように。



日本ではとかく我慢が美化されているから
嫌な事があったときに
その場を離れることは
怠慢だとか、我慢が足りないとかって
言われてしまいがち。

我慢しないといけないって思ってたら
不快には気付きたくないよね。
だって、不快だもの。

どうせ持ってないといけないのなら
不快を感じずに持ってたい。



でもそれって、危ないよ。

不快って
「それってちがうよ」とか
「それって身体によくないよ」のサインだもの。

我慢して、無視して
身体に不快を溜め続けたら
どこかで上手く行かなくなる。
身体を壊したり、関係を壊したり
何かが壊れる結果になる。



水路の両脇にアジアンタム
アジアンタムはきれいな水がたっぷりないと
枯れちゃうって母が昔よく言ってた
(そしてよく枯らしてた 笑)



「不快を感じたら、離れていい」をゆるせば
不快を感じることは、怖くなくなる。

「あ、やだな」ってちょっと感じたところで
終わりにできるから。

最初にちょっと感じたところなら
その場を離れやすいし
不快も取り除きやすい。

「不快、感じたくないな」って
感度を鈍らせると
新たな不快にも気付きにくくて
気付いた時には大変なことに、なんてことも。



ハトさんも水浴び。寒くないの?



これってね
断捨離とお掃除の課題を続けていて
だんだん分かってきたこと。



毎朝床の水拭きをしてるのだけどね
毎日拭いてると、もうだいたいきれいなのよ。

きのう落ちた髪の毛とか、ほこりとか
パンくずくらいで
そんなのさっとなでるくらいで
すぐにぴかぴかになる。

毎日拭いてると
幅木の上とか棚のすきまとか
普段ならあんまり手を入れないところにも
「あ」と目が止まってささっと拭いちゃう。
一瞬でそこもきれいになる。

ますます「きれい」が広がっていく。



部屋中がきれいになって
空気がクリアになって
どんどん居心地がよくなっていく。

身体も楽になっていく。

私の中も、クリアになっていく。



「あ」と思いながらも目をそらして
時間が経ってしまうことってある。
でも、こびりついてしまった汚れを落とすのは
時間の分だけ大変なのだ。

大変だって分かってるから
腰だって重い。
始めるまでの気持ちだって重い。



だから、だからね。

やっぱり「ちょっとのうち」に
取り除いちゃうのが一番なんだ。



「不快を取り除く」
「不快から離れる」

これをゆるして続けていくと
部屋だけじゃない
世界どこでも居心地がよくなっていく

地味だけどかんたん
かんたんだけど魔法のよう。



「いやだったら、離れていいよ」

それをゆるしておけば
不快を感じることは、怖くない。

感じることが怖くなくなれば
「感じる」がたくさんになっても怖くない
感度を、感性を、もっともっと開けるようになる。



そうすると
きれいなものにもたくさん気付けるようになるんだ。

やってみてね ☺︎


黄色い葉っぱ、水面の光
「感じる」を閉じていたら、きれいだなんて気付けない





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