卑屈になっちゃう理由をかんがえてみた。
本当は「よくやった」と誉められたかった。
本当は大切にされている実感が欲しかった。
でも、
子どものころの私はそう感じることができずに、
「そうしてはもらえない」と諦め
どうせ無理という絶望感が拭えず、
今でも卑屈になりやすい。
と、前の記事で書きました。
でも、実際は愛されていた(今も)し、
認められてるし、
なんなら信頼されてるし、
って、頭ではわかっています。
もう大人だし。
だからこうして振り返って整理してるんだし。
だけど辛い思いが拭いきれずに
もがいてるわけです。
あたしが気づかなかっただけで
実はちゃんと褒められてるあたしが
「どうせ無理」って卑屈になってめんどくさい子をやってきたのには理由があったはず。
その理由が叶えられてたとしたら、
あたしはめんどくさい子になる必要はなかったし、
そもそも
めんどくさい子になりたかったわけじゃあなかったはずです。
だから、理由を紐解けば
「本当はどうなりたかったか」がわかるし、
今のあたしなら過去の解釈を上書きができます。
そして、
この経験をしたあたしだからできることを見つけられるし、そんなあたしだから表現できることがあるはずです。
ということで、
今日は理由に注目してみましょう。
なぜあたしはめんどくさい振る舞いをするに至ったのか。
それはもう
「あたしをみて!!!」
以外の何物でもないでしょう。
弟じゃなくあたしを見てほしい。
しっかりしているように見えたかもしれないけど、ホントは不安でしかたない。心細くてさみしい。
お姉ちゃんでもできないこともし困ることもある。
あたしはいったいなんのためにここにいるの?
誰もあたしをわかってくれない。
あたしはいつもひとりぼっち。
そんなふうに感じてました。
お姉ちゃんじゃなくて、
しっかりものじゃなくて、
頼りになるんでも面倒見がいいんでもない
なんの条件づけもない「あたし」を
ただ見てほしかった。
あたしが思っていることを
ただ受け止めてほしかった。
大好きなおかあさんに。
大好きだから。
大好きだから認めてほしい。
大好きだから愛されたい。
こどもが親に持っている条件はただただ「大好き」だけだと思うんです。
だから、叶わなくても何度でも何度でも
「あたしを見て!!」って思う。
そして、いつか、傷つきすぎてあきらめる。
そう。
大好きな人に振り向いてもらえないのが悲しくて悲しくて、もう傷つきたくないから心を閉ざして諦める。そうしないと自分の心を守れなかったんですよね。少なくともあたしはそうでした。
大好きだから卑屈になった。
子どもなら致し方ない反応だと思います。
大人だってそうなる時あるもの。
だから、あたしは、
あの頃のあたしを抱きしめて
めんどくさいことした全てを許してあげたいです。
守ってあげられなくてごめんねって。
その上で。
じゃあ、卑屈にならないとしたら…
今大人になったあたしができることは…
長くなったの次の記事にしましょうか。