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自己肯定感の本質を探る〜ハートでわかる知ってることばシリーズ〜
このカテゴリでは、物事や心の理解を深めていくことを目的に、よく見聞きする言葉を「知ってるよ」から「わかるよ」にするためのヒントをお届けしたいと思います。
他の記事でもそうですが、お話しすることはあくまでも「私が思うことや考えること」に過ぎず、すべての人の正解ではありません。もしかすると、若干ことばの意味がちがう…とか、本当にそうなの?と思われることがあるかもしれませんが、「やさしい心を育てる」という目的を持った表現活動とご理解くださいね。
また、あらゆる人の「正解」を知ることによって自分の世界が拡がっていくこともありますから、ぜひ、ひとつの視点を増やすことを目的にして楽しんでいただけるとうれしいです。
はじめに、こちらをご覧ください。
ところで、「知ってる」と「わかる」のちがいとは、一体なんなのでしょうか?
私なりの解釈では「知ってる」は外側から取り入れる「知識や情報」のこと、そして「わかる」は内側からわき出る「実感」のことを指していて、これらは性質がちがうと思っています。
知ってることばを「ハートで理解する」とは、より体験的な「わかる」にステップアップすることを指していて、この営みが、共感力をはじめとする「豊かなこころを育む」ことにつながると思っています。
情操教育についての考え方は、ホームページにも記載がありますので、もしよろしければご覧になってくださいね。
「知っていること」と「わかること」は性質がちがうと言いましたが、今の自分が必要とするものによって、どちらを取り入れるかが変わってくるように思います。
お勉強として知識をつけたい人は「頭でわかる」ことが必要だし、特に専門的な勉強をすることは求めていないけど、日常生活のなかでちょっと活かせるものが欲しいという人は「実用的にわかる」ことを望まれるのではないでしょうか。
後者の場合、例えば「自身の悩みをスッキリさせたい」とか「生き方の参考にしたい」など、つまり「こころベースで理解したい」という目的があるように思います。
ハートで理解するためには、大きく分けてふた通りの方法が考えられます。
・絵本や映画などの物語をとおして、感情体験から理解すること
・知識をもとにして自身の考えを深め、心に落とし込むこと
私がnoteで執筆しようと思ったのは、ふたつめの方法である「あらゆる思想や考えを共有して心で理解を深めるためのお手伝いをすること」を目的としています。
このような発信活動をSNSなどを通して多くのかたが行っている現状があり、そのぶん「外側の情報」を得る機会がおのずと増えているのではないでしょうか。きっと、「聞いたことがある」とか「知っている」言葉や考え方はたくさんあるはずです。また、それらを実用的に扱うためには、「わかっている」ことの量や質に注目することが必要だと考えています。
ひとつの言葉や考え方でも、きっと人それぞれに「伝えたいこと」や「大切だと思うこと」が違うはずです。こういった事情があり、あれもこれもと情報を仕入れているうちに「結局、誰の言うことが正しいのかな?」とか「自分に必要なものがよくわからない」と困惑してしまい、消化不良状態になってしまうのも無理はありません。
そもそもは「モヤモヤをスッキリさせたい」と思ってはじめたことでも、気づけばたくさんの糸がこんがらがってしまって、新たなモヤモヤを抱えてしまった…というような、ちょっぴり苦しい「お腹いっぱい」状態を経験することにもなりかねません。
このような理由から、たくさんの情報に囲まれやすい今だからこそ、なるべく「自身で情報を分解して消化吸収する方法」を知っておくことが大切だと思いました。
つまり、「聞いたことがある」や「知っている」を、「わかる」にするためのコツを掴むことが、「溢れんばかりの手がかりのなかから今の自分に必要な情報」を見つけ出し、適切に読み解くことを助けると思っています。
こちらの記事にも上記のような内容が掲載されていますので、興味のあるかたはご覧になってくださいね。(かなり長いのですが、情報の扱い方について端的にまとめているのは最終章の終盤あたりです)
要点を整理すると、「自分の内側を探るために知識を取り入れる」という目的をもち、あらゆる情報のなかから必要なものをつかみ取ったうえで、「腑に落とす感覚」を繰り返し体験することが、「物事や心をハートで理解すること」につながると思っています。
今回の「自己肯定感」のように、都度とりあげる言葉だけではなく、情報の取り入れ方ついてもなにかヒントになるようなことをお伝えしたいと思っていますので、このような視点でお読みくださるとうれしいです。
私やあなたにとっての「自己肯定感」
ではいよいよ、今回のメインテーマである「自己肯定感」について、読み解いていこうと思います。
今や当たり前のように、あらゆる媒体で語られている言葉ですが、これを読んでくださっているかたは「自己肯定感」について、どのような受け取り方をされているでしょうか。
人によって様々なイメージがあると思いますし、あくまでも実用的に「自己肯定感」を捉えるとですが、このようなことを言っているかたが多くいる印象です。
・自己肯定感が高いと成功できる
・自己肯定感が低いと大切にされない
・自己肯定感をアップさせるためには○○が必要です
要するに「自己肯定感は高いほうがいい」から、「低い人は上げたほうがいい」という意味で受け取られやすいように思っています。
後ほど、この部分についてあれこれ考えたことをお話しするのですが、その前に、「自己肯定感」とは一体なんなのかを整理したいと思います。調べると答えが出てきますが、きっと、はやい話が「自己」を「肯定する」(感覚)ということではないかと想像できます。
では、自己を肯定するとは、どういうことなのでしょう。「自己」は自分自身のことですが、「肯定するってなに?」と問われたら、おそらく人によって「ちがう回答」が返ってくることが考えられます。つまり、この部分に、あらゆる人の思想や考えが絡んでくるように思います。
そのため繰り返しになりますが、ここでお話しする「正解」はあくまでも私にとっての正解に過ぎませんが、ここからは私なりの「自己を肯定すること」についてお話したいと思います。
「自己を肯定すること」というテーマを出発地点にすると、あらゆる方向に分岐できるのですが、今回は「自分を大切にする」という進路で出発したいと思います。
なぜ、「自分を大切にする」ことを話の主軸に置いたのかと言うと、自己肯定感について語っている人の多くは、ここを伝えたいかたが多くいると思ったからです。
先ほどの例を振りかえります。
・自己肯定感が高いと成功できる
・自己肯定感が低いと大切にされない
・自己肯定感をアップさせるためには○○が必要です
これらは、要するに「自己肯定感を高めて自分(の人生)を大切にしましょう」という、共通メッセージが込められているのではないでしょうか。
「自分を大切にする」というテーマもかなり大きいため、あらゆる角度からお話しできそうですが、あくまでも「自己肯定感」という中心軸から大きくはみ出さないように気をつけつつ、考えを深めていきたいと思います。
「自分を大切にする感覚」の外側にある「自己肯定感」とは
自己肯定感に注目する理由、つまり、自己肯定感を高めるための動機にあたるものとして「自分を大切にすること」があげられるというお話でしたが、さらにこの目的を見ていくと「しあわせに生きている感覚を得たい」というゴール地点があるように思います。
成功したり認められることも、他者から大切に扱われることも、「しあわせな感覚」が欲しいからだとするならば、では、なぜ「しあわせの感覚が欲しいのか?」というお話になってきます。そもそも、しあわせって、なんなのでしょうか。
あらゆる可能性が考えられますが、私なりの解釈では「ヒトが本能的に求めているもの」である「しあわせな感覚」と切っても切れない欲求があるという視点で、すべてではないにしても、多くの人は「安心感」を求めているのではないかという仮説を立てています。
詳細はこちらにも記載していますので、気になるかたはご覧くださいね。
この仮説をもとにすると、次のようなことが言えると思っています。
・(他者から認められて物心ともに安定し、安心したいから)自己肯定感を高めて成功したい
・自己肯定感が低いと大切にされない(と思っているから、安心感を得るために自己肯定感を高めたい)
・(安心感や幸福感が欲しい人に向けて)自己肯定感をアップさせるためには○○が必要ですと謳い、サービスを提供する
要するに、自己肯定感を欲している人というのは、その先にある「大切に扱われている感覚」だったり、それによってもたらされる「安心感や幸福感」を得たいと思っているのではないか?と思っています。
繰り返しになりますが、この感覚はヒトが本能的に求める「愛着」ともつながりが深く、だから多くの人が「自己肯定感」という言葉に心惹かれるのではないでしょうか。つまり、私なりの解釈では、自己肯定感という「ワード」は、安心感と言う名のしあわせを表現している「着衣のようなもの」と言えるのではないかと思っています。
だから、とてもキャッチーであるし、同時に、ヒトのこころを「無条件にときめかせる言葉」だと思っています。このような解釈をした時の自己肯定感の位置づけは、「欲しくてほしくてたまらないもの」と言えるのではないでしょうか。
「自己肯定感が、欲しくてほしくてたまらない」
実はこの部分に、個人的なモヤっと感があったりします。「あれ…自己肯定感って、なんだっけ?」と思わずにはいられません。
もちろんこれは私の感覚に過ぎないため、「えっ?別に違和感なんてないよ?」と思われるかたも当然いらっしゃると思います。あらゆる思想や考えを持つかたがいるため、決してモヤっと感を押し付けたいわけではないのですが、もしかすると、この先に「ちょっぴりホッとできるお話」が含まれているかもしれませんので、よろしければ続きもご覧くださいね。
「自己肯定感を追い求める自己」を肯定することについて
まどろっこしい見出しになってしまったので、はじめにスッキリと種明かしをしたいと思います。要するに、私の感じる「モヤっと感」は次のようなことです。
「自己肯定感を追い求める」のは、果たして本当の意味で「自己を肯定している」と言えるのだろうか?
つまり、「あるがままの自分を肯定している状態」というのは、たとえ「自分を肯定できない自分がいたとしても、いいよね!」と思えていそうだなと考えたのです。「『自分を肯定できない自分』を肯定する」ということです。
どうしてもややこしい表現になってしまうため、わかりやすくするために例え話をしたいと思います。はじめにお伝えすると、あくまでも「私個人としての」モヤっと感を紐解くために、ひとつのテーマを出してあれこれ言いたいだけなので、人様の信じているものを否定する意図はございません。ご安心くださいね。
「自己肯定感をアップさせて、気になる彼を振り向かせよう!」
例えば、このようなセミナー広告に心を惹かれて、申し込みたいと思ったとします。モヤっと感を紐解くためにも、この時、どのポイントに心がときめいたのかをを探っていきたいと思います。すべでてはないと思いますが、おそらく次のようなことが考えられます。
「気になる彼を振り向かせるためには、自己肯定感が低い自分のままではこっちを見てもらえないから、がんばって自己肯定感を高めて、彼との関係を上手くいかせたい」
気になるのは、主にこの部分です。
「自己肯定感が低い自分のままではこっちを見てもらえない」
つまり、「『あるがままの今の自分では彼に好意を持たれないのではないか?』と不安になっていて、だから自己肯定感を高めて不安を解消したいし、彼との関係を上手く運んでいきたいと思っている」と、うかがえます。
この仮説が真実とは限らないのですが、もし本当だとするならば、どうしても「自己肯定感を自分にくっつけようとしている」ように思えてしまいます。しかし、個人的には、自己肯定感の本質は「身にまとうもの」とは言い難いように感じているのです。これが、モヤっと感の正体です。
このままお話を進めるとあらゆる誤解を生んでしまいそうなので、先の内容を穏便に受け取っていただくために、詳細を説明させてくださいね。
もし、本当にこのようなセミナーを開催されているかたがいるのなら、きっと、「自己肯定感をアップさせよう!」という広告でお客さんに興味をもってもらい、そして、セミナーを受けたあとは「自己肯定感を備えて建設的に日常で活かしてもらいたい」という、やさしい目的があるのだと推察します。
「セミナーを受けられたかたが自分を肯定することができて、その結果、意中の彼とうまくいくことが叶った(彼との関係が叶わなくても「自分を肯定する」ことができるようになるもしくは、そのヒントを得ることができた)」という結果を出すための試みは、多くの人の助けになることと思います。
また、この試みに興味をもってセミナーを受けるかたは、自己肯定感をアップさせたい自分を肯定して、望む結果に向かって行動されているのではないかと想像します。
このように、提供するほうも、受け取るほうも、「自分自身やお客さん(の人生)に対しての愛情」に焦点をあてているため、とてもすてきな試みであるように思います。
それなのに、どうして「自己肯定感を求めること」について引っかかりを感じてしまうのだろうか…とあれこれ考えた結果、「それを『あえて』行っているかどうか」という部分が気になるのだと判明しました。
つまり、もし次のような状態なら、きっと「モヤっと感」は生まれないということです。
1:「自己肯定感を追い求める自己」を自覚して、あえて自分を大切にするための行動を取っている状態
これは、自己を肯定したうえで「自分をしあわせにしたい」という気持ちからの行動と受け取れるため、自己肯定感の本質に近いように感じます。
ところが、上記を自覚していないと、次のようになる気がします。
2:「自己肯定感が低いという不安感」を埋めるために「自己肯定感」を自分にセットすることで、安心感を得ようとしている状態
これが、ちょっぴりザワザワしてしまう理由です。
また、サービスや情報を提供される側のかたにとっても、このようなお客さんがいることに気づかないまま、自己肯定感を高めることを勧めるのは、不安感のループを加速させてしまうことにもなりかねないと個人的に感じています。
なぜここに引っかかるかと言うと、不安感を埋めるために自己肯定感を求めるというのは、そもそもの「自己肯定感」という名の「あるがままの自己を肯定している感覚」から、どんどん遠ざかってしまうように思うからです。
「欲しい!」と奮闘するあまりに、自己肯定感が低いと感じている「あるがままの自分の存在」を置いてけぼりにしてしまうことにならないだろうかと。これでは、あるがままの自分が、寂しくて泣いてしまうような気がするのです。「自己肯定感よりも、こっちを見てほしい」という声が、内側から聞こえてきそうです。
あなたにとっての「自己肯定感を求める意図」は、なんですか。
もし、「自己肯定感が低い自分では良くないと思っているから、自己肯定感を求めている」というかたが今、これを読んでくださっているのならば、このようにお伝えしたいです。
「自己肯定感が低いあなたのままでも、大丈夫じゃないでしょうか」と。
気休めの言葉に感じられるかもしれませんが、これには、あれこれ考えた理由がちゃんとあります。あくまでも私の思想や考えに過ぎませんが、数ある情報のなかからたどり着いてくださったご縁のあるかたに、ちょっとばかしの「足し」になるお話がしたいと思っています。
気になるかたは、ぜひ続きもご覧になってくださいね。(ほんの「足し」に過ぎないため、これを読まないと自己肯定感が上がらないということはもちろんありませんから、ご安心ください)
高いとか低いという話ではない「自己肯定感」
先ほど「足しにすぎない」とお伝えしたのですが、どういうことか説明したいと思います。
少し前に、「自分を大切にする感覚」の外側にある「自己肯定感」とはの一説で、このようにお伝えしました。
※
つまり、自己肯定感を欲している人というのは、その先にある「大切に扱われている感覚」だったり、それによってもたらされる「安心感や幸福感」を感じたいと思っているのではないか?と思っています。
これが本当ならば、「自己肯定感」とは本来、外側にあるものではなく、内側からわいてくるものと言えるのではないでしょうか。「求めるもの」というよりも「味わう」感覚に近い気がします。
例えば、「安心感を得よう!」と試みても、こころでは「なんだか不安…」と思うときってありますよね。私もあります。このように、人はあらゆる矛盾を抱える生き物だということをこちらの記事でも説明しているので、興味のあるかたは覗いてみてください。
これを「自己肯定感」ということばに置き換えると、「自分を肯定したい」という欲求そのものよりも、「あるがままの自分に対する安心感を味わう」ことのほうが、自己肯定感の本質に近いと考えています。
そのため、「自己肯定感」という言葉とともに、セットで頻繁に使われている「高い」とか「低い」という概念が、果たして本当に存在しているのだろうか?と、思わずにはいられません。高さにこだわってしまうことによって、「あるがままの自分を見ること」にモヤをかけてしまうのなら、その概念は必要ないように思います。
だから、勝手にこのようにしたいと思います。
自己肯定感は「ある」もの
「存在している」ということなのです。それだけでいいのではないでしょうか。
細かく言うと、「ある」というのは「見ようとしているか?」という意味で捉えているのですが、つまり、あるがままの自己を「見ようとしている」のならば、自己肯定感は「ある」のだと思っています。
だから私は、自己肯定感が低いことを気にすることは一切ないと思っています。それよりも、大切なのは「あるがままの自己を見ることにためらう自分」に気づくことではないでしょうか。こちらを気にするほうが、本当の意味で、自分にとって「やさしいこと」のように感じます。
ところが、これはまさに綺麗ごとと言えるもので、わたしにも経験があるためなんとなくの想像ができるのですが、あるがままの自己を「見がたい事情」が、そこにはあるのだと思います。あるがままの自分を知ろうとすることそのものはやさしい営みですが、実際は、時に痛みを感じることもあるからです。
だからこそ、一緒に心にやさしくふれあえる他者の存在があってほしいと思っています。また、それをするために、心の専門家がいるのだと思います。
(本当は、専門家に限らず「身近な人同士」で気持ちを共有できるといいなと感じていますし、それを目標に心に対する理解を深める活動しているのですが…詳細はホームページに記載がありますので、よろしければご覧ください)
ところが、いきなり他者に自分のやわらかい心を見せられるかといえば、それは容易いことではないのも想像できます。だから、まずは、この事実だけでも、心のどこかにそっと置いておいてもらえるといいのではないかと思っています。
「自己肯定感が低いわたしでも、大丈夫だよ」
「無理やり、あげようとしなくても大丈夫だよ」
時が来たら、「あるがままの私」を見てあげることも、検討されてくださいね。(私はカウンセラーと相談者の両方を経験したので、別の機会に「カウンセリングサービスの受け方」のポイントなども発信できればと思っています)
ここから先のお話に、あるがままの私を見るためのヒントが含まれているかもしれません。気になるかたは、続きもお付き合いくださいね。
すっぽんぽんのわたしになって気づくこと
自己肯定感の本質とは、身にまとうものではなく、すでに「ある」ものを見ようとすることだとお伝えしてきました。
何度か、「自己肯定感を求めるのは、自分を大切に扱うための着衣を求めていること」というお話をしてきたのですが、そもそも「着衣」というからには、本体である「私自身」があって成り立つものと言えるでしょう。
つまり、自己肯定感とは、「もうこれ以上ぬげません」という「すっぽんぽんのわたし」を見つめることだと思っています。
「もっと○○になりたい」
ありのままこそが自己肯定感の本質と熱弁してきたとは言え、このように思うことは何もいけないことではありませんし、むしろ、向上心という健全な欲求があるから人は成長を遂げていくのだと思っています。また、自分を表現するために「お洋服」や「アクセサリー」を選んで身に着けることは、とってもすてきなことですよね。
そのうえで、身に着けるものは、あくまでも「自身を『より』美しく魅せるもの」であることを心のまんなかに置いておきたいと思っています。言い換えると、自分自身の存在そのものが「(キラキラした)お洋服」になってしまうのは、なんだかしっくりこないということです。
つまり、あるがままのわたしとは、知らず知らずのうちに身にまとってきた着衣や装飾品を、一つひとつ置いていった先に見えてくるものと言えるかもしれません。
なにも着飾っていないわたしが「あるがままのわたし」であり、この「わたし」をあるがまま見ようとすることが「自己肯定感がある」状態だと捉えています。
高いとか低いとか、良いとかわるいとかのジャッジをどこかにそっと置いて、ただ、まっさらなわたしを、感じる瞬間。
「ああ…わたしだね」
もし、自己肯定感を追い求めてしんどい想いをされているかたがいましたら、まずはこのゼロ地点に舞い戻ることをお勧めしたいと思っています。
「そうは言っても、もっと○○になりたい」
もっと、目が大きければいいのにな。もっと、鼻筋が通っていたらいいのにな。もっと足が長ければ格好いいのにな。
もっと、前向きになれたらいいのにな。もっと、やさしくなりたいのにな。もっと大切にされる自分でありたいのにな。
このように、「もっと…」と思うことはたくさんあります。
自己肯定感が持てずに、自分自身に不満を感じてしまうこともあるでしょう。しかしそれすらも、「あるがままの私を見ているからこそ」感じられる想いだと言える気がします。つまり、自己肯定感を持てない今でさえ、自己肯定感が「ある」ということではないでしょうか。
厳密に言えば、「もっと…」と思っている時点では、まだ肯定するところにいないのでは?と言われてしまいそうですが、私としては「肯定したいから悩む」と捉えていますので、すでに肯定していると解釈したいのです。なぜなら、そのほうがホッとしませんか。
「なんだ、このままでよかったんだ」
「このままでいいのかもしれない…というか、私は私でしかない」
正しいことにこだわることよりも、この感覚を得ることのほうが大切だと感じます。
「わたしはわたしなんだね」という「すっぽんぽんのわたし」が、好みのお洋服を身にまとい、きれいにお化粧してもいいのです。好きなものに一生懸命になればいいのです。自己肯定感アップセミナーに行きたいなら行くといいし、お上品に振舞う価値を感じるならば、マナー講座を受けてもいいのです。
もしかすると、いざ「これ以上ぬげません」状態になってみると、意外と「この調子でワイルドに生きたい」という願望がひょっこり顔を出すかもしれません。もっともっと!とこだわることに興味がわかなくなることだってあり得ます。「これが、わたし…?」と驚く瞬間があるかもしれません。意外な一面とは、「わたしを思い出す感覚」に近いような気がするのです。
「まっさらなわたしが、好きなものを選んでいる」という感覚を味わうことが、安心感につつみこまれる感覚そのものと言えるかもしれません。
「自分を大切にする」ことの手段は、ひとつではないはずです。
好きなものを追いかけて、すっぽんぽんのわたしが見えなくなってしまうのは、好きなものを追いかけたい自分の気持ちを尊重しているからこそ起こることではないでしょうか。だから、「自分を大切にしている」と言えるでしょう。
そのうえで、すっぽんぽんのわたしにピッタリなものを身に着けるもしくは、身につけようとすることは、より「しっくりくるもの」を選びやすいという点で、おのずと「自分を大切にしている」ことになっていそうです。
このようなことからも、「自分を大切にすること」や「自己肯定感が『ある』こと」について、あらゆる条件をつけることはナンセンスだと思っています。以前、「やさしさ」についても同様にお伝えしたことがあるのですが、「大切にしたい」と思った時点で「自己肯定感を持ちたい」と思った時点で、それらは存在していると言えるのではないでしょうか。
とは言え、実際のところは「自分を大切にしたい事情」があったり「自己肯定感を持ちたい事情」があるからこそ、それらを求めることになるのだと思います。頭ごなしに「すっぽんぽんの素晴らしさ」について語られても困ってしまうし、結局は「綺麗ごと」だと思われてしまうのも無理はありません。
だからこそ、あらゆる「事情」があるのならば、自己肯定感うんぬんよりも、事情そのものにフォーカスすることが必要になってくるのではないでしょうか。
つまり、こういうことです。
「自己肯定感」そのものを追い求めるよりも、各々の「事情」である「困っていること」や「希望」に目を向けて、必要なものを選び取っていくことが、望んでいることに一歩近づく方法だと思います。
欲しいものは、自己肯定感があれば手に入れられるのでしょうか。欲しいものが手に入らないのは、自己肯定感が低いからと言い切れるのでしょうか。ちょっとそれは、わからないのではないかと思います。
そのため、自己肯定感という言葉に一喜一憂するよりも、具体的なことに着手するほうが実りが多いような気がするのです。
「そのままの私で大丈夫だとしても、何に困っているのかな?」
「そのままの私で大丈夫だとしても、どうしていきたいのかな?」
このように、「内側のわたし」に問いかけてみるといいのではないでしょうか。
本当に欲しいものは、一体、なに?
・自己肯定感が高いと成功できる
・自己肯定感が低いと大切にされない
・自己肯定感をアップさせるためには○○が必要です
今、これを見て、どのように感じましたか?
「自己肯定感」が、あなたの人生にどれだけの影響を及ぼすかについて、考えるきっかけになればうれしいです。私が「足しにはなるかもしれない」と、お伝えした意図はここにあります。
もしかしたら、いろいろ踏まえたうえで「自己肯定感って、やっぱり大事だよね」と思われるかたがいるかもしれません。私もそう思います。綺麗ごとを抜きにした実際のところは、自己肯定感を持てている状態のほうが、ほしいものにダイレクトに近づきやすい現実があるように思うからです。でも、「急がば回れ」とは、こういった時に使うのではないでしょうか。
きっと、「自己を肯定する感覚」には段階があるはずです。もしかすると、私が今回お伝えしたかったのは、自己肯定感を味わうために必要な「自己受容」の捉え方だったのかもしれません。
「どんなわたしでも大丈夫だよ」と感じるためには、自分自身に対してあれこれ条件をつけないほうがいいと考えていますし、「自己肯定感が低いわたしでも大丈夫」と思えることが、自己肯定感の本質に近い状態であると言えるでしょう。そのうえで、抱えている事情だったり、こうなっていきたいという希望を見てあげるといいのではないか?ということでしたね。
これらを踏まえて、先ほどの「自己肯定感」についての例文を、私なりの解釈でシンプルにしたいと思います。
・自分にとっての「成功」とは?何のために必要なの?それを得るためには、一体、なにをすればいいのかな?
・自分にとって「大切にされる」とは、どういうこと?どうしてそれを求めてるの?その後、自分はどうしたいと思ってるのかな?
・どうして、自己肯定感をアップさせたいと思ったの?私は一体、何が欲しかったのかな?
つまり、「わたしはわたしなんだ」という事実を見たうえで、わたしの心を駆り立てるもの、つまり、自己肯定感を「なにか」に置き換えているのだとしたら、その「なにか」に対する理解を深める方が建設的であると思っています。
そもそも追いかける必要がなかった「自己肯定感」を追い求めて疲れてしまうよりも、すっぽんぽんのわたしを労うひとときを味わうことや、そのうえで、好みを追いかけるほうが楽しくなりそうですね。
まるで、お風呂にゆっくりとつかってホッと一息つく時間を楽しむように。たっぷりとリフレッシュした後に、意気揚々とショッピングに出かけるように。
今回は、「自己肯定感」について深めていきましたが、いかがでしたか。
繰り返しになりますが、もちろん、今回お伝えした内容がすべてではありませんし、他にも「自己肯定感」について、あらゆる角度から読み解くことができるように思っています。
冒頭でもお伝えしましたが、ありとあらゆる情報のなかから「自分にぴったりなもの」を選び取るのは至難の業…という時代になってきたように思うので、だからこそ、「自分の内側に目を向ける」機会を「あえて」つくることが必要になってきていると感じます。
「外側に答えを求めるのは、内側の答えを見つけるための『参考』にするため」
他者の思想や考えを、自分の内側を知るための「足しにする」こと。いるものといらないものを、分けてあげること。消化吸収するちからを備えておくこと。そして、持っておきたいものを持っておけるスペースを確保すること。これらのちからを育むことは「しあわせの感覚」を大切に守りながら生活するための、助けになってくれるはずです。
(「洞察力」や「包容力」がカギを握っているため、詳細は別の機会に執筆します)
ここまでお読みくださったあなたと、あなたの「まっさらなわたし」が、ハートで交流する機会をつくれていたらうれしく思います。