「分類」できない愛情を抱いて鳴く ~家長むぎ「夜なく蝉たち」感想~
はじめに
この記事はにじさんじ所属Vtuber家長むぎさんが自身のnoteで公開、PDFファイルでDL可能にしていた小説「夜なく蝉たち」の感想ですが、2024年9月現在こちらの小説は削除(非公開?)となっております。
以下は公開された当時にDLしたファイルから、私が書いては消して…していたメモを継ぎ足し、今あらためてまとめたものです。
現在元の小説は家長むぎさんが再公開されない限りは削除前にPDFファイルでDLした方しか読めない状況です。以上を踏まえた上でご自身の責任のもとで閲覧ください。
また、当記事を読んだことからの家長さん本人に再公開を求めるような発言、家長さん御本人および家長さんのファンやANY COLOR株式会社にファイルの要求をすることはご遠慮ください。また、私も自分が所有するPDFファイルを共有することはご要望があっても致しかねます。
家長さん及びANY COLOR株式会社、家長さんのファンの皆さんにご迷惑がかかる行為はお控えください。
「夜なく蝉たち」、まずはタイトルが素敵だと思う。私の中では蝉と言う生き物は、嫌になるほど暑くてくらくらするほど眩しい光の中で鳴くイメージだったので、「夜なく」というのは少し不思議になる。それから「夜になく蝉」ではなく「夜なく」なのが語感が良いし、「夜なく蝉」に「たち」がついてるのも良い。「たち」なのだ。一匹ではなく複数いる。けれど複数いるはずなのにどこかひとりぼっちで寂しい気持ちになるタイトルだ。この作品にぴったりで、読み終わってから一人ぼっちたちの話なのだとわかる。
読み終わって一番に思ったことは「これは何小説というジャンルになるのか?」だ。ボーイズラブ?ブロマンス?恋はあっただろうか。「すき」という気持ちは確かにあるけれどそれは恋なのだろうか。友愛にも思えるし、恋にも思えるし、そのどちらでも無いようにも思える。
人間は名前をつけて分類することが好きな生き物だと思う。名前をつけて、ジャンル分けしたがる。あなたは男性あなたは女性、あなたは友人、あなたは恋人、りんごは赤、空の色は青、この小説はフィクション、こっちはエッセイ、あれは時代小説、これは恋、それは友情…
その方が楽だからだ。名前をつけて、分類して、整理して…そうして自分の分かる範囲内で納めたほうが分かりやすい。その事を否定するつもりはないし、そうした方が分かりやすく円滑に物事が進むことだって多い。実際私にも分類分けしたことで得られる恩恵がたくさん日常に存在する。たくさんの人が暮らしやすいように、スマートに生きられるよう、苦しまないよう、さまざまな場面でわたしたち人間は色んなことを分類分けをしていく。
むぎちゃんのこの小説は?名前をつけることが悪だとは思わないが、この作品は名前をつけて分類はしないでほしいなと思った。作中でも彼らは彼らの関係に名前をつけたがらないし、「名前のつけられないことの方が世界には多い」と彼らは語っている。彼らの関係も、この小説も、名前をつけてきちっと分類するにはもったいない気がする。曖昧で、ぼやぼやしているけれど急にピントが合うように何かが一瞬だけ鮮やかに映りこむ、その瞬間が美しい。そんな気持ちになれるから、名付けなくていいのだと思う。
作中、倫が姉に「拠り所がないことは損だ」と言われ考えるシーンがある。姉は裕福な家の立派な旦那さんと結婚し、幸せによる自信と同時に他者への優しさが感じられる人だ。絵に描いたような、模範的で常識的で理想的な「幸せ」だ。きっと優しくて面倒見のいい人で、弟へも愛と心配でいっぱいなんだろう。彼女は恋人を作ること、家庭を持つことが拠り所だと信じている。自分がそうだから。でも倫はそうではない。彼は拠り所を作ることの意味と、それによってもたらされる幸福という名の「恩恵」に対して興味がない。他者が恋人を拠り所にすることは否定しないし馬鹿にしない、けれどそれを受け入れることはない。
そしてそれはもう一人の主人公、蛍もだ。彼は母親がたくさんの「拠り所」を作っては蝶のように軽やかに違う「拠り所」に移ることを何度も見ている。そしてそのたび「拠り所」を失い新たな「拠り所」を見つける母親を見ていた。けれど母親にとって彼は「拠り所」になれなかったし、これからもなれない。それは彼が彼女の恋人ではなく息子だからだ。彼は恋人という名の「拠り所」の脆さと無くした時のむなしさを否が応でも小さい頃から感じ取っていたのだろう。
だから彼らは恋人を作ることのメリットを感じられないし、恋人を作ることで今の心地よい関係が揺らぐことを嫌がり、恋愛をデメリットのように感じている気がする。名前のない関係を愛し、名前のない今の関係に安心している。特に蛍は自分が「拠り所」になることも、特定の相手を勝手に自分の「拠り所」にしてしまうことも恐れているように感じる。彼からは自分が誰かの特別になってしまうことへの恐怖を感じる。
私が一番好きな場面は蛍の回想で母親と花火をするシーンだ。母とずっと手を繋いでいたいけれど花火をしたいから手を離すシーンがひどく寂しくて悲しくてとても好きだ。ずっと繋いでいたら、花火をしなかったら、何か変わっていたのだろうか。このシーンは母親が蛍をどうしても「拠り所」にできなかったことがはっきり分かる悲しくも美しい場面だ。
蛍は母は自分を嫌っていると言っているが、私にはそうではないように感じる。母は彼を愛しているし、ちゃんと愛そうとしている。でも彼女は家庭を拠り所にできなかった。「きちんとした」母親にはなれなかった。息子である蛍がいなければ彼女はずっと自由だから、蛍がいなければ良かったと思っているかもしれない。けれど息子のことを愛しているし、必死に愛そうとしているのが分かる。それでもできなかった。名前のない、分類できない愛がそこには確かにあるはずだ。自分の子供として蛍を愛してる、けれど母親にはなれないしなりたくない。そんな彼女の言葉に固められない愛情だ。
私は名前をつけるということはあやふやなことを固定する力があると思う。固定し、しっかりとさせ、変わらせない。あやふやなものを怖がる、嫌う人間は一定いるし、あやふやなままでいいと構えられる懐の大きくておおらかで強い人は少ない。だから前述したように名前をつけるという行為はとても便利で、一方ではとても強迫的だ。何とも言えない言葉にできなさそうな気持ちも「恋愛」「友情」「尊敬」や「嫉妬」「羨望」「憎悪」……と言った、切り取り線をつけてばらばらと切り分け、名前をつけて無理やり型に嵌め込んで分類していく瞬間が日常には溢れている。悪いことではないし恩恵は確かにあるのだけれど、一歩間違えれば理不尽で悲しいことになる気がする。
蛍が近くにいて、でもひとりぼっちでいて、と泣きながら倫につぶやくシーンは蛍が倫に「誰の拠り所にもなってほしくないし、誰の拠り所にもなりたくない」と叫んでいるように見えた。蛍はずっと恋して生きる母親を見て育ち、母はそのせいで母親としては自分を愛してくれなかった寂しさを抱えている。そして蛍はどこかその母の生き方を恐れているようだ。だから倫の誰の「拠り所」にもならない、誰にも必要以上に寄りかからない姿、一人で生きることのできる倫の強さと悲しさに美しさを感じている。そして、自分が彼の特別な存在になってしまうことで、倫の一人ぼっちの美しい生き方を崩してしまうことを恐れている。蛍からは倫の誰の拠り所にもならないし、誰を拠り所にもしない生き方への尊敬のような愛情と、そんな彼にそのままでいてほしいというエゴも感じる。
近くにいてほしい、一緒にいてほしい、でも一人でいてほしい、自分を特別にしないでほしい、幸せになってほしい、でもずっとひとりぼっちでいてほしい、ずっと一緒にいたい、でも未来まで一緒だと約束しないでほしい。名前のつけられない相反する気持ちがぐるりぐるりと回り続ける。
感情にはっきりとした名前をつけることは難しい。愛と憎は同時に存在したり、嬉しいと悲しいが混ざりあったり、苦しいと幸せが重なったりする時、その感情にうまく名前がつけられなくなる
もう一つ好きなシーンがある。倫と蛍が二人は恋人なのかとカフェの客に勘ぐられ「2人なら絵になって尊い」と言われたことに「最悪だね」「最悪でしょ」「絵にならないなら付き合ってはだめなのですか、と言いかけた」と笑い飛ばすシーンだ。ここでは二人は勝手に分類分けされ鑑賞の対象になることを嫌悪しているし、「絵になるから」という軽口をあからさまに嫌い少し憤る。彼らはずっと、姉や母たちから自分達を「同性愛者」と分類分けされることに嫌悪していた。彼らはお互いにお互いを好きだと思っているけれど、世間が決める「恋人」にも「パートナー」にもならないしなりたくない。そして「絵になる」という理由で勝手に自分達を消費されることにも嫌悪感を抱いている。
私は、倫と蛍はお互いを大切に思っているけれど、お互いに踏み込まない希薄さもある関係だと思う。
たぶん2人はこれからもこの関係を続けるしそれ以上にはならない気がする。お互い好きだと思う気持ちはあるが依存はしていない、お互いに必要以上踏み込まない。もしも何らかの理由で離れることになっても、悲しみながらもきちんと別れを告げ、身支度を整え出ていきそうな軽やかさもある。けれど一方で強い執着も感じる。強いような弱いような、軽やかでいて重い気もする、これも分類分けも名前付けもできない気持ちと関係性だ。
彼らは自分達の関係を分類分けせず、その代わりずっとひとりぼっち同士で生きていくのかもしれない。
蝉は求愛のため、鳴き続ける生き物だ。
夜鳴きゼミは本来鳴くべき昼でないのに、夏の夜の暑さと町の明るさから勘違いして鳴いてしまう。一匹鳴けば、呼応してつがいを探しているひとりぼっちたちが思い出したように鳴き出す。鳴いても鳴いても番は来ないけれど、けれど一緒に鳴いてくれるおなじひとりぼっちだけは近くにいる。ひとりぼっち同士で一緒にいることはできる。それはとても悲しくて寂しくて、だけど幸せなことなのかもしれない。