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雪国 〜日本文学の名作に寄せてうどんを語る

 トンネルを抜けたらそこは雪国だった。汽車に乗っていた大町は汽車の窓の白く輝く鮮やかな雪景色にしばし眺めた。それは全く純白の雪景色だった。しばらくすると汽車は駅で止まり運転手の交代のために停車することになった。その汽車の二等席に座っていた大町は窓に向かって舌を出して昨年ここに来た時のことを思い出した。この舌があれを覚えている。舌から歯槽膿漏万歳の豪快な激臭と共に立ち上ってくるのは宿で舌を這わせたあの夜の記憶である。舌の記憶に浸っていた大町の隣では一人の若い女が頬がげっそり痩けた男のために駅の蕎麦屋からかけそばを持ってきていた。大町はそばを手に取る男と黒々しいそばを見て思わず顔を背けた。あんな黒いものを食べては助かるまい。あの女も無自覚にそばなんぞ食わせているのだ。このあたりには舌を震わせるほどうまいあれがあるのに。

 停車時間が終わると汽車は煙突から煙を吹き出す大きな音を立て再び走り出した。先ほどの頬がげっそり痩けた男は食べかけのそばを女に返して眠り込んだ。女は残って冷えかけたそばを近くの誰かに押し付けた。

 大町はそんな光景を悲しい思い眺めた。彼女にそんなことは間違っていると糾してやりたくなった。冬の季節にそばなんぞ食うものではない。冬を乗り越えるにはあれしかない。彼は初めてあれを食べた日のことを思い出した。この先の店の店員の女にいきなり目の前に出されたあれ。それは今までそばばかり食べていた彼にとって信じがたいものであった。

 やがて汽車は目的の駅に着いた。大町は汽車からホームに降りて遠くの山を眺めてあれの上に降りかかっているものを思い出し、帰ってきたのだなと感慨を覚えた。

 すると先程のそばの女も痩せた男を連れて降りてきた。どうやら二人もここで降りるようだ。大町はそばの女の憂い顔に悲しみを覚えた。この子にあれを教えてあげたら救えるのかもしれないが。

 大町はそのまま駅を出て目的地へと向かった。降り積もる雪を踏み締める音はどこかあれの上に降りかかっているものを思わせる。彼は再び舌を晒して思った。この舌があれの味を覚えているのだ。この舌が。

 それから大町は釣り針に引っかかった魚のように舌に引きずられてあれの店に着いた。彼は店の暖簾を潜ると出くわした女の店員に向かって舌をペロペロしながらこう言った。

「この舌があれを覚えているよ」

 店内の客は店内に入ってきていきなり舌をペロペロし出した男に口をあんぐりさせた。店員は大町を店の脇に引っ張って叱った。

「こんなところで舌を出してあれなんて言わないで下さい。お客さんが変な目で見るわ。あれはお泊まりの宿に届けますから二度とお店には来ないで」

「つれないね。君は僕にあれを一人で食べろというのかい?」

「他のお客さんに迷惑だから!」

 女の店員は思いっきり、漂い過ぎる臭気を塞ぐように鼻を摘みながら吐き捨てるように言った。

 大町はおとなしく店員に従って宿からうどんを注文するからと言伝を残してうどん屋から去った。彼は店員の対応が奇妙に思えた。目的はあれで彼女など眼中にないのに客の大勢いる店内で下をぺろぺろさせたからってあんな冷たい対応をすることはないのに。いつもの宿に入った大町は玄関に出迎えに来た宿の主人に向かって早速店に連絡してあれを注文するように伝えた。それから仲居に案内されて二階の部屋まで歩き、部屋で荷物を置いたのだが、そこに主人がやって来て店から今客で手が離せないからあれはもういましばらくかかると連絡があった事を伝えられた。

 しばらくあれが来ないと聞かされて大町は不貞腐れたようにその場に寝転んだ。この都会っ子の親の財産で全国食べ歩きの放蕩三昧の日々を送っている魯山人気取りの男はあれの食べれぬ苛立ちのあまりほつれていた畳をむしり取った。この晴れ渡った雪景色を見ながらあれを食べたらさぞ美味しかろうと期待していたのに口惜しい事である。やがて不貞寝にも飽きた大町は外の景色でも見て回ろうと体を起こして部屋を出た。

 廊下は火鉢もないから当然冷える。大町は羽織っていた風が入ってこぬようコートの襟を両手で掴んだ。そうして一階に降りて玄関に出た時、そこで汽車で見かけたあの女と病気の男の二人連れに出くわしたのである。一瞬見た女の蕎麦のような暗く濁った目を見て大町は後ずさった。全くなんて暗い目だと彼は思った。その女に抱えられている男は目どころか身体中が蕎麦色に濁っていた。女は迎えに出たのであろう主人と会話をしていたが自分を見つめる大町の視線が気になったらしく、その蕎麦色に濁った目でこう尋ねた。

「どうしたのです。私たちに何かようですか?」

 大町は蕎麦色の目で問われて返答に窮してしまった。しかし彼は彼女のその濁った目を見て処置が必要だと考えて彼女に問うた。

「ちなみにお隣の方はあなたのなんなのですか?ご兄弟とか親戚であればあなたとご一緒にお食事に招待しますが」

 女は訝しげな顔でその蕎麦色の目を見開いて大町を凝視した。

「そのお食事というのはどういうものなのですか?」

「ふむ、その食事とはあなたのお隣にいるお兄様の病気を簡単に治せるものなのですよ。まぁ、その料理の名前は食事を出すときにお教えしますが。どうですか?」

 女と大町から兄と呼ばれた男は大町の食事の誘いに顔を見合わせた。しかし女が何か勘付いたのかすぐに大町に向き直って答えた。

「お食事の誘い謹んでお受けいたします。お兄様よろしくて?」

 この女の言葉に兄と呼ばれた男も二人のそばにいた主人も驚きの顔を見せた。しかし女はその二人を気にもとめずよろしくお願いしますと大町に向かって深く頷いた。

 女の返事を聞いた大町は早速主人に向かってあれをあと二つ追加注文するよう言いつけた。そしてまだびっくりしている主人を放っ散らかして二人を自分の部屋に招待したのである。

 部屋に入るなり女はまぁあったかいと声を上げた。

「まさか二階がこんなに暖かいとは思いませんでしたわ。いつもは一階に泊まっていて火鉢でも暖まらなかったのに」

「ほう、一階はそんなに寒いのかね」

「ええ、日が当たりませんからね」

 そのとき突然お兄様が咳き込み始めた。大町はお嬢さんのお兄様に何かあっては大変だとわざわざお兄様の手を取って火鉢の元に案内した。

「ああ、わざわざそんなことまでしていただかなくてもキヨちゃ……あっ、お兄様が私がお連れしますのに」

「客人を丁重に扱うのが紳士の嗜みですよ。特にあなたのような麗人のお連れの方は」

 こう大町が女に言った時、お兄様は異様に険しい顔で大町を見た。大町はそれを見てご家族に怪しまれては行かんと先走り気味の自分の言動を反省し、さっお兄様温まってとその冷たい手を火鉢に突っ込もうとしたのである。

 三人とも火鉢に温まると女は大町にどこから来たのかと尋ねた。その質問に大町は笑みを浮かべて自分が東京の素封家の息子であり働かなくても一生分の金に不充しない事と、独身であり只今嫁を絶賛募集中である事と、今は全国食べ歩きの旅の最中であることを語った。

「私はこの食べ歩きの旅の供を探しているんです。そう一生の供をね」

 この大町のタバコを咥えながらの話に女は全く無反応で窓を見ながらあれはまだ来ないのですかねぇと呟いた。その時お兄様がまた咳き込み始めた。女は何カッコつけてタバコ吸っとんのやと厳し過ぎる表情で大町を睨みつけた。大町はその視線にびびって慌ててタバコを消した。

 部屋には気まずい沈黙が流れた。しかし女がまずいと思ったのか、大町に向かって微笑んであれとはどんなもなものかと聞いた。大町はそれに対して秘密めかした顔でそれは後のお楽しみさと答えた。女はそれを聞いて隣のお兄様に向かってもう少しで食べられますよと声をかけた。大町はその女を見てあれと一緒にあなたも食べて差し上げますよとほくそ笑んだ。

 それから半時間ほど経った頃、主人がやってきて店からあれが出来たと連絡が来たことを伝えた。そを聞いた大町は上機嫌になり女と彼女のお兄様に向かって「さぁ、お待ちかねのあれが来ますよ!」と言った。

 間も無くして店の人間があれを持って宿にやって来て部屋へと上がってきた。大町は階段を登ってくる足音を聞いて店員は店の女に違いないと確信た。大町は開けられた戸に跪いている女を見てやはりと思った。大町は「久しぶりだね」と店員の女に言葉をかけたが女は聞かぬふりをしてあれ一式をちゃぶ台に乗せてさっさと出て行ってしまった。

「これがあれなのさ」と大町はあれの上に乗せてあった布を取った。するとその下から三人分の白いうどんか乗った皿と熱いつゆの入ったどんぶりが出てきた。その脇には山盛りの天かすが乗った皿と擦った生姜が乗った小皿と醤油の瓶が置かれていた。

「今から作るから見ておくのだよ」と言って大町はうどんを箸で掴んでどんぶりの中に入れた。続いてその上から天かすをまるで雪山のように大量に振りかけ、その雪山の麓に生姜を大さじ一杯分乗せ、さらにその上から醤油を五回まわしの黒蛇のごとく振りかけたのである。女と彼女のお兄様はこの大町の行動を唖然として眺めた。しかし大町はそんな二人の視線など気に留めずただ目の前のうどんにむしゃぶりついていた。大町は秒の速でうどんを平らげると二人の、いや主に女の方を危険なほど凝視して言った。

「これがあなた方の病をたちまちのうちに治す天かす生姜醤油全部入りうどんなのだ。さぁ食べなさい」

 二人は大町が今目の前で作り食べたうどんらしき代物をみて吐気を催しそうになった。白い天かすからつゆに滲み出た油、つゆに広がって白カビのようになった生姜、どす黒い重油のように透明なつゆを汚した醤油。とても食えたものではなかった。

「さぁ、どうしたのかね。あなた方も天かす生姜醤油全部入りうどんを作って食べなさい。あの浦上玉堂だってこれほど美しくしかも美味しくて健康になれる芸術品など作れないのだから。さぁ」

 女とお兄様は顔を見合わせてしばし考えた。言われてみれば確かに美しいように感じた。健康になれるような気にもなってきた。こんなゲテモノうどんなどとても食えたものではない、しかし先程向かいの歯槽膿漏の男は捲れ切った歯茎を剥き出しにしてうまそうに食べていた。もしかしたらと女の方が勇気を出してどんぶりに天かすと生姜を入れ、さらにその上から醤油を五回まわしでかけたのである。女の作った天かす生姜醤油全部入りうどんは大町の歯槽膿漏で爛れ切ったそれではなく、まさに浦上玉堂の山水画のような美しさであった。その美しさに今まで黙っていたお兄様が初めて声を上げた。

「駒子すげえなぁ!」

「キヨちゃ……いやお兄様のも今すぐ作って差し上げますわ!」

 駒子と呼ばれた女はお兄様のために天かす生姜醤油全部入りうどんを作りそれぞれのどんぶりを自分たちの目の前に並べたのであった。

「さっ、お兄様勇気を持って食べますわよ」

「わかってる!俺なんかこのうどん食べたら元気になる気がしたよ」

 二人の兄妹は恋人のように仲睦まじく同時にうどんを啜り出した。二人は啜ってすぐに顔上げて潤んだ目で顔を見合わせた。

「なんてこと!雪ような天かすはまるで天女の衣のようにうどんを包んで舌を蕩けさせていく。そして苦味の効いた生姜が口の中を刺激して汚れを除去して心を清らかにしていくの!最後にこの五回まわしの黒蛇のような醤油よ!この醤油が私に力を与えてくれる!うそっ!なんか私元気になったみたい!キヨちゃんもそう思わない?」

「俺も元気になってきた!身体中の汚れが取れてなんか逞しくなってきたような気がする!俺今夜からすっかり元気になれそうだ!」

「キヨちゃん、じゃあ」

「うん、結婚しよう!なんなら今すぐ祝言挙げてここで初夜過ごそう!」

「キヨちゃん!」

 大町は目の前の二人が突然熱い抱擁を始めたのでびっくりして後ずさった。

「あの……お二人はご兄妹だったのではなかったのですか?私は二人がご兄妹だと伺ったから天かす生姜醤油全部入りうどんを差し上げたのですが……」

 二人の恋人たちは目の前の歯槽膿漏のオヤジをキツく睨みつけた。

「ご兄妹だなんてアンタずっと私をいやらしい目で見ていたでしょ!私にこれ食わせた後何するつもりだったのかしら!今すぐこっから出て行ってちょうだい!でないと訴えてやるから!」

 大町はすっかり元気になった二人に追われて宿から飛び出した。宿から出てしばらく歩いたら誰かが街の映画館が燃えていると叫んでかけていた。大町も何事かと思って後をついて行った。すると二階建ての映画館は炎で覆われ、人の話によると中にいた人間は全て助かったようだが二階の立ち食い蕎麦屋は全焼してしまったという。大町はこの惨事に呆然と立ち尽くしていたが、その彼の頭に熱い汁そばが降りかかってきた。その生々しくも熱い蕎麦は彼の頭に纏わりつき、暑さで彼を苦しめた。周りは雪で埋め尽くされて白一色である。大町は突然降りかかってきた蕎麦の呪いを振り払う事が出来ずひたすらもがいていた。


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