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総理大臣坂本龍馬

 坂本龍馬は過大評価されていると同時に過小評価されている人物である。坂本龍馬は元々明治維新の際に大いに貢献し、それは西郷隆盛や木戸孝允(桂小五郎)の認めるところであるが、龍馬の名が大衆に広く知られるようになったのはやはり司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』が出てからだろう。司馬の描いた幕末の快男児の龍馬像は熱狂的に受け入れられ、それまで大衆にあまり知られていなかった坂本龍馬は西郷隆盛や勝海舟を超える人気を博したのである。

 だがそれが坂本龍馬の評価の歪みの元であった。司馬の描いた龍馬像はいつしか史実そのものとして語られ、龍馬の功績は甚だしく誇張されて語られるようになった。しかし司馬が亡くなった後、いわゆる司馬史観と呼ばれる司馬の歴史観が批判されると、彼の描いた坂本龍馬像も同じように批判されるようになった。司馬の描いた坂本龍馬は史実とは似ても似つかぬ創作に過ぎないというものだ。批判の中には坂本龍馬など実際には何もしていない。司馬の描いた坂本龍馬は全く出鱈目だというものさえあった。

 現在坂本龍馬の評価は大きく揺らいでいる。しかしそれは司馬遼太郎が良くも悪くも持っていた影響力のせいだけではなく、他ならぬ坂本龍馬自身のせいではないかとも思う。坂本龍馬が中岡慎太郎と共に暗殺された時、彼は自身の仕事を何も成していなかった。龍馬は来るべき維新のために長州や薩摩の頼みを受けてあちこち飛び回っていたのだ。そうして大政奉還が決まり、やっと維新が見え始めた時、坂本龍馬は中岡慎太郎と共に死んだ。

 龍馬が持っと長く生きていたらとは誰もが考えることであろう。板垣退助は龍馬が長生きしたら岩崎弥太郎や五代才助のようになっただろうとの言葉を残している。だが私はそうは思わない。幕末の頃に日本初の商社である海援隊を組織し、大胆不敵にも船中八策を提案した男が事業家で治るわけがない。大隈重信が総理大臣になれるのなら当然ながら龍馬にだってそのチャンスはあっただろう。


 明治〇〇年、坂本龍馬は土佐藩初の総理大臣となった。彼は初の内閣のために身分を問わず優れた人間を大臣に指名した。その中には勿論中岡慎太郎もいる。龍馬と慎太郎はとある風俗店で殺されかけたが、自分たちのコスプレをしていた人が身代わりになったので助かった。

 誠実な龍馬と慎太郎は今もその事を思い出して自分たちの身代わりになって死んでくれた人の墓参りを欠かさない。総理大臣となった龍馬は今燃えるように赤いを指さして慎太郎に言った。

「慎さん、見ろよ。あれが日本の夜明けぜよ。この日本を背負って立つのはアンタしかおらんぜよ」

「龍馬さん、俺はアンタのためならなんでもするぜよ」

「じゃあ、この日本を任せた。俺は今から海援隊で大海原に旅立つぜよ!」

 龍馬はそう言うとくるりと背中を向けて早替わりのようにモーニングを脱いで昔のつぎはぎだらけの袴姿になった。そして太陽よりも眩しく慎太郎に微笑みかけてこう高らかに言った。

「俺は海援隊で世界一周して金銀財宝山ほど積んで帰って来るぜよ。それまで日本を頼むぜよ」

 爽やか笑いながら海援隊の船に乗り込む総理大臣坂本龍馬に向かって慎太郎は叫んだ。

「このあほんだら!せっかく総理大臣になったのにだったの半日で投げ出すのかよ!いざとなってビビったのか?この臆病ものめ!」


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