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ロマン派vs古典派 ~師匠と弟子の大激突


芸大の危機

 今、最近経営状態の悪化が話題になっているいわゆる芸大の一室で教授会による会議が開かれていた。彼らはこのしかめ面しさが全面に出た部屋の中で、政府からの予算が突然減り、ピアノまで売却しなければならなくほど経営が悪化した芸大をどう立ち直らせるかを論じあっていた。教授たちは小一時間以上唾を飛ばして激論したが、誰からもこれといっていい打開策はなかなか出てこなかった。今まで静観して議論の成り行きを見守っていた学長は、キリのいいタイミングで教授たちに話しかけた。

「皆さんご意見ありがとうございます。もともと芸大をこのような状況に陥れてしまったのは私にも責任の一端があります。学長として私がもっと政府に強く働きかけていればこんな事態は避けられたのかもしれません。まことに慙愧に耐えません。私もこの事態を打開しようとずっと考えていました。そして私もはや背に腹は代えられないと思ったのです」

 この学長の発言に教授たちは不安気なをして学長を見た。背に腹は代えられないとは一体。それほど我々の反発を恐れる事を考えているのか。まさか我らが芸大の経営規模の大胆な、それこそお前の穴だらけのアート作品よろしく、その汚い脂肪だらけの穴だらけのふんどし写真集を出すぐらいの、経営規模の縮小でも考えているのか。そんなことしたらもう芸大は終わりだぞ。という事は日本の芸術も終わりじゃないか。教授たちは学長の次の言葉を待った。学長は教授たちが見守る中震える声で喋り出した。

「皆さん、私は、私はあの、あの、ブックオフのCMに出てるあのちゃんじゃなくてですね。あの人気指揮者の大振拓人君を教授として招聘する事を考えたのです」

 この学長の発言に議場はざわめいた。それもそのはずである。芸大の教授には長年芸術界で君臨したものしかなれず、ベテラン芸術家だったら絶対に手に入れたい地位である。その教授にまさか二十代の男を教授に迎えるとは何事か。教授の一人が学長に問うた。

「その大振ってのはまだ二十代だって話じゃないですか。あの、学長は芸術家の中で我が芸大の教授になりたい人間がどれほどいるかわかっていますか?私の親友の彫刻家なんかうちの家の玄関で三日間土下座してお願いだから俺を教授にしてくれって頼み込むほどなんてすよ。そんな教授の地位をあんな若者に与える事がどうしてこの芸大を救う事になるんですか?」

 この教授の意見に他の教授たちは深く頷いた。学長はその教授たちの顔をじっと見て話を始めた。

「皆さんがこの私の考えに反感を持たれる事は私も重々承知しています。なにせ大振君はまだ二十代で、我々からすると若輩もいい所です。ですが彼は現在我が芸大出身者でおそらく一番の有名人でもあるのです。なので彼を教授にすれば世間に我が芸大が抱えている問題を広く知らしめる事が出来るのです。それと、これが一番重要なんですが、大振君は政府要人と強い繋がりがあり、そのおかげで彼の音楽活動には億二桁も流れているようです。関係者からひょっとしたら我々の予算が減らされたのは大振君のせいではないかという声もある事を聞かされました。それで私は考えたんです。大振君を我が芸大に呼べば再び昔のように、いや昔よりはるかに多くの予算が入るのではないかと。大振君が教授になればきっと政府は彼のために芸大に膨大な予算を割くはず。そうなれば芸大の経営も安泰ですよ。実はですね。この件に関しては皆さんに話す前にすでに大振君に相談しているんですよ。彼はもう超乗り気でやると即答してくれました。やっぱり大振君も母校愛の強い人間で、芸大は僕の目の黒いうちは絶対に潰させない。僕が教授になったらフォルテシモパワーで国家予算がすっからかんになるほど芸大の予算を引き出してやりますとまで言ってくれたんです。だから皆さん、大振拓人君に全てをかけてみませんか?彼を三顧の礼を持って教授に迎え入れて昔の華やかなりし芸大を復活させようじゃないですか!」

 学長はこうドヤ顔で締めた。やっぱり芸術家なはパトロンが必要なのだ。そのパトロンを掴むのにはそれなりの能力が必要だ。自分も口手八丁で大嘘ばかり吐きまくっていろんな所から仕事をもらい、今こうして学長にまでなった。いくらアートだの言ったって金がなきゃ何も始まらない。大振はその能力をふんだんに持っている。だから政府から億二桁の金額を余裕で引き出せるのだ。どうだ、この能無しのジジイども!お前らは俺を客寄せパンダとバカにしくさっていたが、実際に芸大を救おうとしているのはこの俺だぞ!

 教授たちは学長の発言に対して一斉に沈黙した。議場には扇風機の音だけが鳴っていた。とその時会議室の隅から突然拍手の音が鳴り響いた。みなその拍手の方を見た。拍手をしていた男は皆の視線が自分に集まっているのを見て静かに手を下ろした。

「学長、あなたの御高説最後まで拝聴しました。大振拓人君を教授に招聘して彼が引き出す莫大な予算で我が芸大を救いたい。あなたはそうおっしゃるのですな?」

「そ、そうです!先生!勿論先生方が私の考えに納得がいかないのは重々承知しています。ですが芸大は今存亡の危機にあります。この危機を救ってくれるのは大振拓人しかいないのです!」

 男が椅子を引いて立ち上がった。すると周りが一斉に慄いた。この小柄な男はそれぐらいの威圧感があったのだ。

「残念ながら私は反対ですな。まぁ、私は今はただの名誉教授でこの会議にだって参考人として呼ばれたに過ぎないのですが、あえて言わせてもらいますよ。学長さんあなた、そうやって目先の金に眩んで大切なものを忘れてはいけませんよ。未来の芸術家たる学生たちが芸大でなにを学ぶのか考えて下さい。そして我々教官が彼ら未来の芸術家に何を教えるのか考えて下さい。芸術ですよ。崇高で偉大なる、時代を超えて永遠に輝く光である芸術ですよ。あなたは大振拓人君がその芸術を教えられる、いやそもそも彼がまともな芸術家であるとお考えですか?大振君は指揮なんかまともにしないでフォルテシモと喚いているアイドルみたいな男ではないですか?私は退官する年に一年間彼を指導したのですが、全くお話にならない程酷いものでした。基礎を学ばないどころか、基礎をフォルテシモじゃないとか言って軽蔑するのですからな。あのような男に芸術に無知な人間が騙され予算まで奪われているのは恥以外の何者でもありません。学長さん。私はね、この我が国の芸術大学の最高峰が金などに屈してはいかんと思うのです」

 この威圧感バリバリの男の発言を聞いた教授たちは彼に一斉に賛同の意を示した。学長は教授たちが男を顔に崇敬の字が浮かぶぐらい目を輝かせて仰いでいるのを見て、やっぱりコイツを会議に参加させるんじゃなかったと悔やんだ。音楽部から参加させてくれと頼まれたので仕方なく名誉教授のこの男を参考人として参加させたのだが、それがこんな結果になるなんて!教授を退官しても学内の影響力は絶大だった。やっぱりこの小柵降男の影響力を舐めてはいけなかった。

クラシック界のドン小柵降男

 さて今名前が出たこの小柵振男であるが、この指揮者の小柵振男こそ現代日本のクラシック界で最大の権力を持つ男である。彼は滝蓮太郎や山田耕作のパトロンだった男を親族に持ち、そのブランドの力を駆使して日本のクラシック界の頂点に上り詰めた。小柵は教授を退官したものの、指揮者としてはいまだ現役であり、音楽界ではクラシック界の法王とさえいわれている。

 彼の弟子たちもまたクラシック界の権力者であり、日本のクラシック界は完全にこの小柵振男のの支配下にあった。小柵は自分の権力を盤石なものにするために派閥みたいなものを作り、それを小柵サークルと称した。彼のサークルに入らない音楽家には演奏の機会さえ奪った、その権威は演奏家だけでなく作曲家にさえ及んだ。彼はなんと作曲家にも小柵グループに入るよう強制したのだ。

 さらに自分の権力を高めようとした小柵は昔の貴族のように自分の名字をかばねとして分け与えることまでした。勿論現代の日本の法律では姓制度などとっくに廃止されているが、それでも小柵は自分の前では皆に小柵と名乗るように強制した。小柵が本気で自分の小柵という姓を源平藤橘や豊臣に続くかばねにしたいのだと考えている関係者もいるほどだ。

 これだけの権力を持ちながら小柵は教授時代何の役職にもつかなかった。それは勿論役職に関心がなかったわけではなく、芸大を裏で完全に支配するためであった。彼は院政の如く自分の弟子や息のかかったものを役職に推薦し彼らを使って芸大を支配し続けてきたのである。

 この芸術界の大反動男の小柵の影響力が演奏家や作曲家にとどまっているならまだマシだった。しかし小柵は無駄に多才であり、音楽評論を始めとして美術評論、文学評論、哲学、陶芸、料理、茶道、盆栽など評論や趣味の分野にまで手を伸ばした結果、なんと小柵の影響力は芸術の全てに及んでしまった。小柵はあらゆる賞の審査員になり、とうとう自分の名を冠した小柵芸術賞なるものを立ち上げあらゆる分野で彼の弟子や彼の気に入ったものたちに賞をやりまくって手なずけた。もう完全に小柵は日本の芸術そのものを支配するようになっていた。昨今日本の芸術の衰退が叫ばれているが、その責任は全て小柵の責任であるともいうものも多い。

 その日本の芸術の実質的な支配者である小柵振男だが、本来の指揮者としての能力も芸術界の権力を牛耳るだけあって只者ではないという噂だった。情報通によると小柵は巨匠トスカーニを崇拝し彼のような感情を排した古典的な指揮をしていたそうだ。いや、彼はトスカーニよりも遥かに古典的だったという。主観を排し楽譜を絶対視する姿勢は弟子たちから超古典主義と呼ばれ、その演奏会を聴いたものは一様にまるで楽譜がそのまま音を鳴らしているようだと評されていたという。彼は主にバッハから後期ロマン派時代のシェーンベルクまでのドイツ音楽をレパートリーにしていたそうだが、その指揮を観たものによると小柵は何を指揮してもその場に微動だにせず、ただ小さく指揮棒を振っていたそうだ。

 そんな小柵が大振拓人のようなフォルテシモな指揮を嫌うのは当然すぎるくらい当然であった。勿論彼が大振を嫌ったのは指揮だけではなく彼の細胞に至るまで全てである。

 小柵は教え子だった頃から何かと自分にたてつき、一度など面と向かって貴様は三葉虫の時代に帰れとまで罵ってきた大振を激しく憎んでいた。小柵は自分を三葉虫呼ばわりした大振が許せずあらゆる方法で徹底的に潰そうとした。まずかれは大振を指揮者としてデビューさせまいと各音楽関係者に圧力をかけたが、これは大振があまりに人気があったため失敗に終わった。それならばと小柵はありとあらゆる嫌がらせをした。弟子たちに命じて大振の指揮棒や燕尾服を隠させ大恥をかかせようとしたり、演奏会の時大振の楽屋のドアの前に自分の著作を山積みにして彼を楽屋から出れないようにしたり、さらに小柵は大振に関するあらゆる誹謗中傷をばら撒いて彼を貶めようとまでした。

 しかし大振はそれにへこたれず却って奮起して至る所で己がフォルテシモを輝かせた。これを見た小柵も大振の人気を認めざるを得ず、大振を潰すよりも大振をこのまま生かした方がクラシック業界にも得になる事にも気づいた。それでクラシック業界のドンとして現実的な判断をし大振をクラシックの客寄せパンダとして徹底的に利用しようと考えた。彼はクラシック界の客寄せパンダ、客寄せコアラ、客寄せウーパールーパーなんだからとよく嘯いていた。それは彼の負け惜しみなのか、いや大振を利用している優越感ゆえの発言なのか。それはどちらもだろう。そういうわけで小柵は大振の妨害を諦め、彼の人気を利用する事に考えを改めたのだが、しかしそれでも彼は大振を絶対に認めなかった。だから日本のクラシック界で一番、いや音楽界全体でも一番稼ぐ男と言われ商業的な見地からいえばダントツのトップである大振になんの賞も与えなかった。小柵は大振を利用するだけ利用して人気が落ちたらポイ捨てする気だったのだ。

 その大権力者の小柵振男のこの大振拓人の教授招聘案に対する冷厳なまでの拒否っぷりを見て学長は今までの自分の、大振に土下座までしてその靴をなめようとして拒否されたほどの、自分の努力が無になった事に絶望して激しく取り乱した。

「じゃあアンタ方はどうやってこの芸大を救うんだ!大振は最後の希望だったんだぞ!彼はこちらがビビるぐらい乗り気だったし、俺もそれを見てようやく芸大は救われると喜んでいたんだ!こんな事を彼に言えば深く失望してかえって逆恨みしてあんな芸大は終わりだと政府に我々の予算を差っ引く交渉をするかもしれないじゃないか。アンタ方はそれでもいいのか?この我々の、いや未来の芸術家の学びやであるこの芸大が潰れてもいいのか!」

 この学長の涙交じりの発言を聞いてさすがの教授は一斉に俯いた。流石の彼らもこの学長の言葉は胸にこたえたようだ。だが小柵だけはそんな学長をせせら笑い、そして口を開いた。

「我らが学舎が朽ち果て、廃屋に成り果てる様を見て没落貴族的な感傷に浸るのもまた一興かと思いますがね」

「先生!こんな時につまらん冗談をいうのはやめてくれ!」

「君、先走ってはダメだ。人の話は最後まで聞きなさい。たしかに君の言う通り何の打開策も講ぜずにいたら我らが芸大はいずれ潰れてしまうでしょう。私もそれは耐えられません。だから一つ打開策を考えてみたのです。皆さんに今からその打開策を申し上げますが、よろしいかな?」

 この小柵の問いに学長も他の教授も一斉に耳をそばだてた。

指揮一本勝負

「この芸大の中にある日本最高の演奏会場である藝術ホールで私と大振君の指揮一本勝負をするのです。ちなみにこのホールは私が施工の監修に携わっています。演目は……そうだな。大振君も得意だと吹聴しているベートーヴェンの第五番の『運命』でいいかな?楽団は芸大の卒業生たちを彼らの所属するオーケストラからかき集めましょうか。まぁ私が声をかけたらすぐに飛んでくるでしょう。私も大振君もその楽団を指揮する事にします。ベートーヴェンについては私は勿論、彼のようなバカアイドル指揮者もそらで振れるだろうから当然リハーサルなしのぶっつけ本番でいきます。審査員は私もメンバーの一人である芸術院の音楽関係者にでも任せますか。観客には大振君が好きな政府要人、特に大振君によろめいていて彼のために夫に働きかけている彼らの奥方たちを呼んであげなさい。私は個人的に知り合いの文化庁の連中を誘いますから。実は私のサークルメンバーの何人かは文化庁に勤めてましてね」

「な、何故大振と勝負なんかするのです。それがどうして芸大を救う事になるんですか?」

「君、さっきも言ったじゃないですか。人の話は最後まで聞けと。私はね、その勝負で政府要人と奥方に見せてあげるのですよ。あなた方が崇拝して予算という名の拝金までしているこの大振拓人という男がまるっきりの偽物で億二桁の予算など与えるにまるでふさわしからぬ人間であるとね。彼らは藝術ホールで指揮者ではなくただの指揮棒を持った木偶の坊、いやただの丸太にすぎない事を目の当たりにするでしょう。そうしたら政府要人やその奥方たちは大振なんぞに億二桁もの予算を上げていた事を恥じ、我が芸大にその分の予算を注ぎ込むでしょう。それだけでなく彼らのようなバカ政治家もそれに輪をかけてバカな奥方連中も私の指揮を見て芸術に目覚めてより予算をさらに増額する事を考えるかもしれない。いや私の指揮を見た政治家どもは本物の芸術が何かをしり芸大に率先して金を出すでしょう。私は敗北した大振君に何のペナルティも課しませんよ。ただ彼に自分の指揮が完全な紛い物である事をその身で知ってもらいたいのです。そうなったら彼も改心して私に再び教えをこうてくる事もあるかも知れませんからな」

 小柵は話を終えると周りを見渡して反応を見た。学長をはじめ教授たちの誰もがこのあまりに突飛な提案に驚いていた。まさか日本の芸術界を牛耳る小柵振男が自ら今をときめく人気指揮者の大振拓人に勝負を申し込むとは。オーケストラは全員小柵の子飼いだろう。審査員の芸術院の連中だって全員小柵グループだろう。勝負はやる前から決まっている。大振だって受けるはずがない。学長は恐る恐る小柵に言った。

「仰る事はわかりました。だけど大振君が先生の申し出を受け入れてくれるか。何故ならあまりにも……」

「いいえ!大振君は私との勝負を受けるはずです。でなければ彼は臆病ものです。学長さん大振君にあったら今から私が言うことをそっくりそのまま伝えてください。『大振君、君はこの勝負から逃げたらどうなるかわかっているのかね?逃げたら君は一生私から尻尾を巻いて逃げた臆病者だと蔑まれて生きるのだよ。それでもいいのかね?君に指揮者としてのプライドはないのかね?』。私は大振君という人間をよく知っている。彼はバカなくせに無駄にプライドが高く勝負事から逃げることが絶対に出来ない人間だ。今言った私の言葉を伝えれば彼は必ず勝負に応じてくるでしょう。こちらが驚くほどに」


「なんだと!あの三葉虫ジジイめ!まだ化石になっていなかっただけでは足りず、無礼にも日本最高峰、いや人類最高峰のフォルテシモ指揮者のこの大振拓人に喧嘩を売りに来たのか!本来なら奴如き虫ケラなど手で払ってやるのだが、今回ばかりは俺の堪忍袋の尾が切れた!許せん!お望み通りこの指揮棒で貴様を海底の底の底まで叩き落として三葉虫の化石に戻してやるわ!貴様を海底の重力でいい感じの化石にしてやるから皺を伸ばして待ってろ!」

 学長は小柵の言った通り、いやそれを遥かに超えた前のめりっぷりに驚いた。彼は早りまくる大振を心配してこの勝負が圧倒的に大振が不利な事を伝えたが、大振は全く耳を貸さず三葉虫をぶちのめしてやるとフォルテシモに吠えまくった。

 小柵にかまけてすっかり忘れていたが、やはり我らがカリスマフォルテシモ指揮者大振拓人のことを紹介せねばなるまい。ただこの紹介はあくまで彼を知らぬ小数点以下の少数の人々のためのものなので、99.99999999パーセントの人は無視して構わない。この我らがカリスマ指揮者大振拓人はわずか二十代にして日本のクラシックの頂点に立った男である。先に賞は一つももらっていないと書いたが、それでも実質的に大振が現在日本のクラシック界のトップである。彼はロマン主義そのままに波打つ長髪を乱れさせて情熱的な指揮をする。彼は指揮中に披露する苦悩のジェスチャー、激しいバレエ、脅威の四回転ジャンプで聴衆を魅了するが、その彼の指揮の中で最も聴衆を驚嘆させるのは演奏のクライマックスで叫ばれるフォルテシモの絶叫である。その熱いロマン主義の熱情の大絶叫は聴取の胸を貫き、そしてよろめかす。一番の得意レパートリーはベートーヴェンとチャイコフスキーである。特に前者の『運命』と後者の『悲愴』には名演が多く、それら楽曲をレコーディングしたCDはクラシックではあり得ないぐらいバカ売れしている。関係者の中には大振がいずれ世界を制するという声もある。私もそうなるだろうと考えている。ああ!世界がフォルテシモに満ち溢れたその時が待ちきれない。というわけで話をさっさと次に進めよう。

 大振は小柵にいぢめられた過去の日々を思い出して怒りに震えた。芸大時代からこの天才カリスマ世界の芸術の未来であるフォルテシモなカリスマの俺をいぢめ抜いた大悪人。それはまるでモーツァルトをいぢめ抜いたサリエリのようだ。小柵は指揮者としての才能はなきに等しく年中バッハのかつらをつけているような退屈極まるフォルテシモのかけらもない指揮しか出来ぬ男。許せぬ!奴だけは許せぬ!俺が芸大の教授になった暁には芸大から、いや地球全体から奴の痕跡を全て抹消してやる!大振は再び学長に向かって言った。

「学長さん、この天才カリスマフォルテシモの大振拓人が教授になった暁には芸大から奴の名は間違いなく消えるでしょう。その記念すべきセレモニーの前奏曲として芸大に小柵のジジイと一緒に記者会見をする場を設けさせてください。僕のコンサートはいつも記者会見から始まるのです。記者会見に奴をつまみ出してマスコミの前でその三葉虫っぷりを晒しまくってやる!」

 大振は久しく忘れていた闘志本能が蘇るのを感じていた。俺は今まで恋だの愛だのに現を抜かし戦う事をすっかり忘れていた。何がトリスタンとイゾルデだ!何がドヴォルザークだ!何がイリーナだ!そんなものがこの大振拓人に必要か!確かに森羅万象を指揮棒で表現しなければならぬ指揮者にとって恋は重要なものだ。しかし指揮者にとって、いや人間にとって一番必要なのは闘争本能だ。牙を抜かれた指揮者などもはや木偶の坊ならぬただの木の棒に過ぎぬ。藝術ホールであの三葉虫の小柵をけちょんけちょんにボッコボコに叩きのめして化石に戻してやる!大振は学長に向かって力強く宣言した。

「見ていて下さい!この大振拓人が見事小柵降男を叩きのめして地上から、いや天上からも追い払ってみせますから!」

突然の引退宣言

 大振の希望はあっさりと受け入れられた。小柵は学長から大振の希望に全て同意した。よかろう芸大で記者会見もやるし、彼が勝ち教授となった暁には潔く音楽界から身を引こう。ただと彼は不敵すぎるにも程がある笑みを浮かべて一言こう付け加えた。「仮にもしそのような事があればね」

 そんなわけで今芸大の講堂で大振拓人と小柵降男の両人の記者会見が行われようとしていた。マスコミはこの二人が師弟関係にある事と、その師弟が互いに忌み嫌い合っている事を突き止めた。あの大振の師匠とはいかなる人物なのか。何故二人は互いに反目し合うようになったのか。そして何故指揮一本勝負が行われようとしているのか。マスコミ連中は小柵の輝かしい経歴を見て震え上がった。よく考えてみたら大振が日本人との共演コンサートで共演相手と共に記者会見を行った事はない。海外の有名演奏家とは毎回一緒に記者会見を行うのに、日本人の場合はいつも単独記者会見であった。これは大振は日頃から日本人など共演者に当たらぬ。ただの騒がしい羽虫だとフォルテシモに見下していたからである。その傲慢大王の大振が今から日本人共演者と初の記者会見を行う。この小柵という男、クラシック界の法王と呼ばれるだけの権力を持っていながら何故今をときめくカリスマ指揮者の大振と勝負する事になったのか。大振を叩きのめす腕を今でも持っているのか。彼らは空席の会見席を見てこの因縁の対決の主である大振と小柵の両人を固唾を飲んで待った。

 それは会場の外の芸大の音大生やSNSの大振ファンも同じであった。音大生たちは、特に女子は憧れの先輩である大振を一目見ようと蜜にたかる蟻みたいに講堂の周りに集まり、SNSのファンは画面に映る大振拓人のネームプレートがついた会見席を観てやがてそこに座る彼の姿を妄想しフォルテシモにいけない事を考えていた。

 会見時間が一分を切った丁度その時会場の隅から我らが大振拓人とその対決相手の小柵降男が現れた。カメラは一斉に両人を、いやほとんど大振拓人だけを撮った。背の高い大振はいつものように燕尾服姿で指揮棒を持って颯爽と席まで歩いた。その後ろを地味なスーツを着たチビの小柵降男がまるで従者の如く傅く様について来た。その小柵を知らぬアホなマスコミの記者や会場の外の一般大衆は大振の勝負相手があまりに貧相なジジイなのに思わず声を上げて笑った。特に大振ファンが思いっきり小柵を嘲笑った。拓人が日本人と初めて記者会見するから誰かと思って観てみたらお前かよ!おじいちぁ~ゃん、ボケないでね〜。拓人はあんたなんかが太刀打ちできる相手じゃないんだから。大体おじいちゃん、指揮棒の振り方ちゃんと覚えているの?

 しかし多少ものの知っている記者は小柵の存在にただならぬものを感じた。このいかにも背中にメダルと賞状を背負い込んで腰痛に苦しんでいるような老人はやはり相当の実力者ではないかと感じた。とらそこに突然大きな拍手が鳴り響いた。拍手をしたのは小柵の配下の文化庁の広報部の者たちである。彼らは記者としてマスコミに混じって会見場にいた。

 大振と小柵の両人が席につき司会が会見の始まりを告げると早速記者たちが手を挙げた。司会は最初に挙手したものを指名した。

「〇〇新聞の丸三つです。お二方への質問なのですが、今回の指揮勝負は一体どういう経緯で行われる事になったのでしょうか?」

 大振はこの質問に小柵との因縁と、三葉虫以下の存在の小柵をクラシック界から追放して、自分がロマンとフォルテシモに満ち溢れた新たなクラシック界を築き上げたいという思いを涙ながらに語ろうとしたが、どう言おうか考えているうちに小柵が勝手に喋りはじめてしまった。大振は小柵を黙らせようとそのほっそい首を絞めようとしたが、締めたら殺人になるしもはや締め殺して止めても遅い事に気づいてやめた。そんな大振の気遣いをよそに小柵のジジイはこんな事を喋っていた。

「これは当芸大を盛り上げようというセレモニーの一環なのです。皆さんもご存知の通り我が芸大は今非常に経営状態がよくない。それで私どもは皆さんに芸大に注目していただくために、我が芸大の卒業生で当代一の人気指揮者である大振拓人君のお力をお借りして、彼と指揮対決をするという企画を立てました。私はもはやとっくに芸大を退官した身であり、ただのしがない老人でしかありません。私もいくら一時期指導した事があったとはいえ、今更人気指揮者の大振君に師匠面して芸大を助けるために私と勝負してくれと頼むのは気が引けました。どうせ人気指揮者の彼は我が芸大などどうでもよいよ思っているかもしれないと思い一時は彼をあきらめようとしましたが、やはり芸大のためにあえて恥を忍んで大振君にお願いしようと思い勇気をもって彼に頼み込んだのです。我が芸大を、君の学び舎である芸大を救ってくれと。大振君ももうすぐ後期高齢者になるこの老いぼれが、今を時めく人気指揮者である自分に勝負を申し込むなんて馬鹿げたことだと思ったでしょう。にも拘わらず大振君は私の頼みを聞いてくれこうして私と勝負してくれることになったのです。大振君に盛大な拍手を!」

 会場から割れんばかりの拍手が鳴った。大振はこの小柵の言葉を聞いて唖然とした。この男はよくもいけしゃあしゃあと嘘を並べられるな!貴様この勝負から逃げたら一生俺を臆病者だと嘲ってやると言い腐っただろうが!それがどの口で勝負を引き受けてくれた大振君に感謝するなどと言ってるんだ!一体貴様の舌は何枚あるんだ!大振は完全に小柵にやられたと思った。こいつ以外に記者会見慣れしている。記者会見でこいつの出鼻をくじいてやろうとしたが、逆に俺がくじかれてしまいそうだ。記者は続けて大振に向かって何故勝負を受けることを決めたのかと聞いたが、大振は真相を話しても信じてはくれまいと察して仕方なしに小柵の言う通りだと言わざるを得なかった。

 大振はまるで野獣のように自分への質問を嗅ぎまわったが、しかし司会者はいつもの記者たちを差し置いて何故か見慣れぬ連中ばかり指名した。その記者たちは揃って大振を無視して小柵ばかり質問し、その質問の前に必ず小柵を異常なまでに褒めたたえた。ある記者等タワレコやHMVに一枚もおいていない小柵のCDや大型書店にしか置いていない小柵の音楽、文芸、美術、建築、陶芸、料理、茶道、盆栽等の本をカメラに向かって掲げ宣伝まで始めたのだ。

 この見慣れぬ記者たちの質問に小柵は、「大振君に比べたら私の指揮など全く見栄えはしませんが、真に音楽を理解できる人々に届くような指揮をしたい」とやたら殊勝な表情で答えたり、「これが自分の最後の指揮になるかもしれない。私は死ぬまで指揮を続けるつもりですが、人はいつ死ぬかわからぬもの。特に私のような老人は特にそれを感じるのです」と深刻ぶった表情で語った。記者たちはそれを聞いてカメラに向かって小柵のCDや本を掲げて先生素晴らしいです!と口々に叫んだ。もう記者会見は完全に小柵の独演会と化してしまった。

 この小柵と見慣れぬ記者どものやり取りを見て大振はこの記者会見が完全に小柵の支配下に置かれたことに気づいた。大振はこの屈辱にはらわたが煮えくり返った。小柵め!貴様のような三葉虫がこのカリスマ指揮者の大振をコケにするとは!許せん!だが他のマスコミたちも何故か小柵の戯言に感動して質問を忘れて小柵の発言にうんうんと頷いているではないか。会場の外やネットでさえも「おじいちゃん。結構深いこと言ってるね」とか小柵をほめだした。大振はこのすっかり小柵に傾いたムードを一刻も早く断ち切らねばならぬと思った。でなければこの晴れの舞台の記者会見で埋没してしまう。新聞記者の中に取材よりも記者会見に命を懸ける人間がいるように、自分もまた記者会見にすべてを賭けている。記者会見はこのカリスマ指揮者大振拓人にとっては来るべきコンサートの前奏曲。一流の芸術家は開演前のカーテンさえも輝かせねばならぬ。大振は突然立ち上がって叫んだ。

「皆さん、突然ですが僕の話を聞いてくださいっ!僕はこの勝負に負けたら……僕は、僕は……引退します!」

 この大振の突然の引退予告宣言に会場は阿鼻叫喚となった。なんだって?いまなんと言ったんだ?隣の小柵さえ大振の発言が信じられず目を剥いて彼を見た。マスコミはもはや司会を無視して我先にと大振に今言ったことは本気なのかと質問投げた。大振は自分に集まる視線を感じこれぞ俺の記者会見と興奮し両腕を広げて高らかに宣言した。

「本気中の本気ですとも!僕は今までずっとそう思って指揮を続けてきました。自分がもし負けるようなことがあれば即引退するといつも自分に言い聞かせて指揮を続けてきたのです。だから今回僕が負けたら潔くすべての音楽活動から引退します!僕は常に勝つことを目指して指揮活動を続けてきたのですから!僕のようなフォルテシモなカリスマ指揮者が敗北するなどという事はあってはならない事なのです。たとえそれが自分の師匠であってもです。僕は負けたら即引退します!この決意は世界がフォルテシモに崩壊しても絶対に変わりません!藝大ホールでの勝負楽しみにしていてください。僕はそこで最高の『運命』を披露して見せますから!」

前夜祭での誓い

 マスコミはこれを聞いて早速特報でこのニュースを流した。『大振拓人衝撃の引退予告宣言!勝負に負けたら即引退する!』こんな見出しが新聞に刷られ、テレビのニュースで流され、ネットの記事にもなった。世界中がこのニュースに発狂し大振のホームページに突撃したため、日本全体のネットが止まってしまった。記者会見場では記者たちが立ち去る大振をマイクで囲った。小柵はこの騒ぎを呆然として見ていたが、やがて我に返ってこう呟いた。

「まぁ、引退するならすればいい。その代わり君のラストステージは大恥中の大恥で終わるだろうがね」


 大振は帰宅途中の車の中で恍惚となっていた。その長い足で運転手の首を左右に振りながら先ほどの記者会見の自分の衝撃的な引退予告宣言を思い出していた。ああ!なんと完璧であっただろうか。これで勝負の注目は俺に集まった。こうして退路を断って自分を引き締めておけば決して負けることはない。負けたら引退すると言ったのは百パーセント本気だ。俺はいつもそうやって指揮をしてきた。だが、俺は決して誰にも負けんのだ。なぜなら俺は現代最高のカリスマ指揮者だからだ。

 止まってから三時間後ようやく復活したネットはまるでウィルスのように大振引退予告の言葉で埋め尽くされた。ファンたちの一部は大振が引退したら死ぬしかないと悲嘆したが、しかしより冷静なファンは悲嘆するファンに対して大振の引退はあくまで勝負に負けたらの話であって勝ったら引退はしないと慰めた。しかしそれに対してもしかして負けてしまったらどうするのか。小柵は深い人だしとの反論も現れた。だが、ある六十代のハードコアな大振ファンはそんな悩める大振ファンすべてに対してこうメッセージを送ったのだ。

『私は何があっても拓人が勝つと信じる!拓人は絶対にその指揮棒で私の最期を見取ってくれるんだから!』

 この六十代のメッセージに深く感動した大振ファンはそれを引用しあらゆる所にばらまいた。それはまるで、というか完全にスパムメールであった。スマホやPCのメールフォルダを開ければ真っ先にこのメッセージが出た。しかし不思議なことに誰もいたるところで見られたこの奇怪なメッセージをスパムとして報告しなかった。

 それからしばらくしてとうとう藝大ホールで行われる大振拓人と小柵降男の指揮者一本勝負のチケットが発売された。このコンサートは本来芸大のイベントだから一般発売はされないものだったが、大振ファンがあんまりにも騒ぐのでしょうがなく座席を増やして一般席を設けたのであった。チケットは秒速で、いや無時間で売り切れた。あまりに席が少ないのと、これが大振の最期の指揮になるかもしれぬという不安がファンをチケット購入に走らせたからである。当選したものはチケットをネットにあげて自慢し、負けたものはその当選者に突撃して住所晒されたくなかったらチケットをよこせと脅しつけた。これは大振のコンサート恒例のイベントみたいなものであるが、今回は騒ぎがあまりにも度を超していた。ファンは焦燥に駆られていたのだ。大振が引退するかもしれぬ。そのラストステージを生で目に焼き付けなければ死んでも死に切れぬ。そんな思いがファンを暴走させ狂乱へと向かわせたのだった。


 さてその大振と小柵の一本勝負の前日の夜。芸大の食堂を貸し切って一本勝負の関係者による前夜祭が開かれた。大振は勿論燕尾服で会場に現れ、その大振を記者会見よりも遥かに地味なスーツを着た小柵が迎えた。しかし大振は小柵をガン無視しそのまま会場へと向かった。それを見かねた教授の一人が大振を呼び止めて小柵さんを無視するとは何事かと彼を叱った。それを聞いた大振はわざとらしく周りを見渡してからこう言った。

「ああ!小柵先生いらしたんですか。あんまり先生が小さくなっているものだから見えなくて申し訳ありません。てっきり空耳かと思ってしまいました。だけど先生どうしてそんなに小さくなってしまったのですか?学生の頃の先生はこのアポロンのような僕と同じぐらい背が高かったのに」

 これは大振のフォルテシモな嫌味であった。彼は先ほどの記者会見の恨みつらみを晴らすために思いっきり小男の小柵をいぢってやったのだ。それに加えて学生時代からこいつにいぢめられた事の恨みも晴らすために「ああ!おいたわしい!あの頑強で僕のように背の高かった先生が今やこんなどチビになり果てるとは!」とさらなるいぢりを付け加えてやった。それである程度気が済んだ彼は華麗なるステップで会場へと入っていった。会場には明日の指揮一本勝負に招待されている政府要人やその他政治家や財界のトップなどが奥方を連れて談笑していたが、大振が入ってきた途端その奥方たちが一斉に目を剥いて大振に駆け寄った。

「ああ!大振様お久しぶりざますわ!もう私このまま大振さんが来なかったら旦那を連れて帰るつもりでしたわ。だって私、大振様に会いたくてここに来たんですもの。ところで大振様、明日の勝負に負けたら引退なさるって本当ですの?」

 肩と胸元を丸出しにしたドレスを着た首相夫人が涙ながらに大振に問うた。それに対して大振はフォルテシモに決然とした表情でこう答えた。

「残念ながら本当です。僕には負けるなんてことは許されないのです。僕のフォルテシモは勝ち続けることで一層輝くのです。もし負けたらこのフォルテシモは一瞬にして死んでしまう。そうなったら指揮者としての僕は終わりです。負けたフォルテシモなんてフォルテシモじゃない」

 この大振の言葉を聞いて揃って肩と胸元を丸出しにしたドレスを着た奥方たちは一斉に泣き出した。

「私たち耐えられませんわ!ねえ私たちが旦那たちに頼んで予算を億一桁増やしても指揮はつづけられないざますの?ねえ大振様、どうしても私たちの願いを聞き届けてくださらないの?」

「ダメです。負けたら指揮者としての僕はその場で死んでしまうのです」

 この奥方たちの嘆きを聞いて大振は思わず目頭を押さえた。もし負けることがあれば僕はこの純真に毎年国庫から億二桁の金を上納してくれる素晴らしいババレディーとお別れをしなくてはいけない。その時奥方たちが涙ながらにこう叫んだ。

「ああ!そうなったらあなたのチャイコフスキーをどこで聴けばいいの?CDなんかで聴いてもあの会場で聴ける生々しいフォルテシモの息遣いが聞こえなかったら意味がないわ!あなた以外のチャイコフスキーなんてもっと意味がないわ!」

「ならばいっそのことチャイコフスキーなんか聴くのはやめてしまいなさい」

 突然誰かがこう語りかけて来たので大振と奥方連中は一斉に声の方を見た。するとそこに不敵な笑みを浮かべた小柵が立っていたのだった。小柵は自信満々にこう続けた。

「奥様たちは知らないでしょうが、クラシック界ではチャイコフスキーなんてのはただの通俗作曲家といわれているのですよ。クラシックの本場であるドイツでチャイコフスキーが好きですなんていっていったら、奥様たちはクラシックをまるで知らないと思いっきりバカにされるでしょう。きっとあなたはいい趣味をしていますねと嘲笑され、それきりどこの社交界にも呼ばれなくなるでしょう。バカにされたくなければ今からでも遅くはない。本物のクラシックを学ぶことです。私がバッハからハイドン、次にそしてモーツァルトからベートーヴェンを経てワーグナー。最後にブラームスからマーラーを経てシェーンベルクに至るまでの偉大なるドイツ音楽の歴史をみっちり教えて上げましょう。引退する大振君の代わりには到底なれませんが、これからはこの小柵が後をついで本物のクラシックを奥様たちに届けてあげましょう」

 この小柵の発言に奥方連中は当然激怒した。なにいきなり出てきて偉そうに語りだしてんのよ!どうして私たちがあなたにクラシックの講釈をされなきゃいけないわけ?私たちが手取り足取り濃厚なボディタッチも含めてクラシックのイロハを学ぶのは大振様だけ。彼女たちは大振に向かって言った。

「大振様、こんな奴に負けて引退したら私たちもう死んでしまいますわ。勝って。勝ってその指揮棒であなたの濃厚なチャイコフスキーをたっぷり私たちの中に注いで!」

 大振は奥方たちの励ましの言葉を聞いてカッと目を見開いて小柵を見た。

「麗しきご麗人方、励ましの言葉をありがとうございます。僕はあなたたちの言葉に勝利の二文字で答えましょう。小柵先生、明日はあなたの引退式になるでしょう。僕の『運命』で先生をあの世まで送って差し上げますよ!」

指揮一本勝負開催

 そして対決の日がやってきた。指揮一本勝負が行われる芸大の構内はもはや満員電車か満員のエレベーターのような状態になっていた。こんな事は芸大始まって以来初めての事であった。あたりには明らかに学生ではないだろうババ……の皆さんたちキツすぎる化粧と香水の匂いを振り撒いて集まり口々に大振の名を叫んでいた。警備員が本日に限っては大学関係者以外全て立ち入りになっていると注意されてもババ……の皆さんは聞かず、逆に私たちを拓人から引き裂くの?と警備員を吊し上げて本当に近くにあった電灯に吊るしまった。芸大生たちはその禁則破りのババ……の皆さんの間を申し訳なさそうな顔で声をかけて通っていたが、ある学生が運悪くババ……の皆さんにぶつかってしまった。ババ……の皆さんはこの子痴漢したのよ!と警察を呼んでさらなる騒動を巻き起こしてしまった。もう地獄であった。

 そんな外の騒ぎの中、一本勝負の会場である藝術ホールの中は不思議なくらい静まっていた。外からは微かに聞こえる喧騒は一層この場の静けさを引き立てる。我らが大振拓人は目を閉じてひたすら開始の呼びかけを待った。この一本勝負は小柵が先攻で大振が後攻になる。これは小柵が提案してきた事だ。なんでも目立ちたがり屋の大振はこれに自分が先攻だと言い張ったが、君はお客なんだからと学長をはじめ芸大の教授たちに宥められたので仕方なく従った。だがこれで楽団の演奏を観察出来る。どうせ小柵特製のつまらなさMAXの楽団であろうが、演奏を見ることでそのつまらなさMAXの楽団をフォルテシモに引き立てる術を見つける事は出来る。大振は指揮棒を強く握りしめた。

 会場である藝術ホールの周りは完全に阿鼻叫喚となっていた。今回の一本勝負に招待された政府や財界の要人とその奥方たちと共に小柵配下の文化庁の役人たち、それと申し訳程度に備えられた一般席の当選者たち。これらの人々が続々と会場に入場し始めたが、チケットを買えなかった哀れな大振ファンは彼らに向かって一斉に卵やトマトやその他口に出来ないものまで投げつけた。この光景はまさに現代日本の格差社会の縮図であった。

 周りが突如騒がしくなったのに気づいて大振はすくっと立ち上がった。もうそろそろ時間だ。大振は鏡に写る自分のまるでライオンのような誇り高きその髪に覆われたアポロンの如き精悍な顔を見つめた。鏡に向かって「俺は負けぬ」と呟いたその時、丁度楽屋のドアがノックされた。大振は後ろを振り返ってもう時間かと聞いた。するとドアの後ろに控えていた男がへいこらしながらこう尋ねてきた。

「あの、今日のお弁当なににしましょうか?うちのオススメは五目弁当なんですよ。皆さんに大変ご好評で毎回注文する方もいらっしゃいます。お客様も試しにどうですか?」

「たわけ!さっさと出て失せろ!」

 弁当屋が逃げ去ると大振はまた鏡で自分の美しすぎる顔を見た。全く俺はなんと美しいのだ。この男らしさがすべて彫り込まれたこの顔をミケランジェロがみたらどう思うだろう。俺がミケランジェロやダ・ヴィンチと同じ時代に生まれていたら今ごろヨーロッパ中に俺をモデルにした裸体像が立っていたに違いない。大振りは輝かしい自分の筋肉を鏡に写そうと燕尾服を脱ぎ出した。そして上半身裸で鏡に向かって我が筋肉を見せびらかしている時いきなりドアが開いた。

「大振さん、もう時間なんで早くきてください!ああ!上半身ぬいで何やってんですかここはボディビルのコンテスト会場じゃないんですよ!」

「たわけ!そんな事百も承知だわ!」


 ステージの会場にライトが照らされた時、会場は一斉にざわめいた。やがて司会が現れてまずは今回の指揮一本勝負の主役である大振拓人と小柵降男が現れた。大振はこの日のために拵えた最高級の燕尾服を身に着け、小柵も今日はパリッとした背丈によくあった燕尾服を着て登場した。するとホール中からとんでもない歓声が起こった。ああ!もう名の知れた政府要人の妻たちがあられもなく大振に声援を送っているではないか。中には胸をはだけて大振にセックスアピールしまくっているものすらいた。壁にピン止めされた虫のように惨めに二階席の隅っこの壁際に座らされた一般国民大振ファンも特等席で大振を食べようとしている上級国民夫人から大振を取り戻そうと懸命に声を張り上げた。その嬌声に混じって文化庁の官僚たちも小柵さぁ~んと気持ち悪すぎる裏声を上げて小柵に歓声を送ったが、あまりに不快なので上級、下級の大振ファンにキモいから黙れと罵られた。

 やがて学長による指揮一本勝負の開催の挨拶が行われた。学長は真下にいる首相をはじめとした政財界の長たちを前にして上がって何度も噛み全く挨拶になっていなかった。これには大振も小柵もさすがに呆れた。大事なセレモニーなのにろくな挨拶も出来んとはこれでよく学長が務まると二人は思い集まった聴衆全員もまたそう思った。しかしその弛緩したムードはぞろぞろとステージに上がってきた黒服の連中を見た瞬間一瞬にして消えた。この連中が今回の指揮一本勝負の審査員を務める芸術院のメンバーである。大振は彼らの顔をカッと睨みつけた。審査員たちは大振には全く目もくれず小柵に地に着くほど深くお辞儀をし、代表して音楽評論家の某が挨拶をしたが、その挨拶はひたすら小柵を褒めちぎるものだった。大振はこれを聞いてこの小柵の子飼いの連中を屈服させぬ限り俺の勝利はないと思った。当然こいつらは小柵を勝たせようとするだろう。だが、そうは俺のフォルテシモがさせぬ。俺のフォルテシモはすべての人間の心を動かす。あのバカメリカの実業家カーネギーなんかより俺の指揮の方がずっと人を動かしているのだ。

 そしてとうとう主役の二人による挨拶が行われた。まずは今回の指揮一本勝負の提案者である小柵降男である。

「皆様、ようこそいらしてくださいました。私が今回の指揮一本勝負の開催を提案した小柵降男です。挨拶を始める前にまず、私との勝負を受けてくれた大振拓人君に感謝の言葉を述べたいと思います。皆様もこの芸大が非常な危機に襲われていることは重々承知してくださっていると思います。私はすでに教授を退官し後は死ぬのを待つだけの老人ですが、この芸大の危機にいてもたってもいられなくなってこの危機を救おうとあえて一兵卒として馳せ参じたのです。私は芸大を救うにはどうすればよいか文字通り死ぬ気で考えました。そして思いついたのがこの指揮一本勝負のなのです。今ここにいる人気指揮者の大振拓人君と私が勝負して我らが芸大にもう一度注目してもらおうと思ったのです。この企画を成功させるには当然ですが絶対に大振君の承諾が必要でした。私は大振君に涙ながらに頼み込んだのです。『大振君お願いだ!今私たちが過ごした過ごしたこの学び舎が廃校に追い込まれようとしている。廃校の危機を打開するには絶対に君の力が必要なんだ。救ってくれ!この年老いた私だけでは芸大は救えない。君の力が必要なんだ!』大振君は私の言葉に涙を流してくれました。そしてなんと負けたら引退して自分の財産を全て芸大に寄付するとまで言ってくれたのです!」

 この小柵の発言に誰よりも衝撃を受けたのは大振であった。俺が全財産を寄付だって?この男は何を言っているのだ。俺がいつそんな事を言った!貴様出鱈目を言いおって!しかし会場はこの小柵の嘘八百の言葉を信じ切って大振を褒めちぎった。「ああ!なんと公共精神のある音楽家か!」「さすが大振!」「大振さん、あなたはマザー・テレサより遥かに偉大だ!」と会場のいたる所から次々と大振を褒めたたえる声が聞こえた。大振ファンさえもこの小柵の出鱈目を信じ切って感動していた。

 大振は今ここで小柵の出鱈目を正しても自分の名声がガタ落ちするだけだと察した。なんだ、あなた嘘ついていたのね。冗談にもほどがあるわよ。あなたのような寄付を冗談のネタにするような人には億二桁の予算なんてあげられないわ。こうなったらあえて奴の嘘に乗るしかない。大振は自分が呼ばれるとさっと会場を見渡して挨拶を始めた。

「今回小柵先生との勝負を受けさせていただいた大振拓人です。先ほどの小柵先生の発言、すべて真実です。先日の記者会見の席で僕は負けたら引退すると言いました。その時からすでに僕は自分の全財産をこの芸大に寄付すると決めていたのです。この勝負に負けたら僕の音楽家人生は終わりです。だから僕はその贐として自分の音楽家人生の始まりの地であるこの芸大に全財産を寄付しようと決意しました。この決意は何があっても変わりません。しかしです。もし僕が小柵先生に勝利をし自分が音楽家としてこれからも生きられるなら、僕は自分を育ててくれたこの芸大に恥ずかしくないようにこれからも音楽家人生を歩んでゆくつもりです!」

 この大振の挨拶に会場は自身洪水雨あられの大喝采で応えた。大振はその喝采に恍惚となり両腕を広げてさらなる喝采を求めた。ああ!もっとフォルテシモに拍手と歓声を!大振はステージ歩いてひたすらフォルテシモな喝采を求めた。自分の真下にいる政府要人、財界のトップたちの奥方が涙を流して彼に喝采を送っている。そして二階奥の壁に張り付いたような自分のファンも絶叫して自分の名を呼んでいた。大振はこの溢れんばかりの喝采に恍惚となってとうとうステージに仰向けになった。小柵はこのひたすら歓喜に咽んで身をよじっている大振を見てしてやったりと笑った。これで君は終わりだ。まさか君がここまでバカだったとは思わなかったよ。お望み通り君の音楽家人生を、この私も施工に関わった、いや屋根に乗っかってる柵のデザインをしただけなんだけど、の藝大ホールで終わらせてあげよう。さあもう歓喜の時間は終わりだ。これからは嘆きの時間が君を待っているのだから。

 小柵はにっこり笑って仰向けでまだ身をよじっている大振に手を差し伸べた。大振は申し訳ないとその手を握って立ち上がった。すると二人に向かって先ほどよりも一層激しい大喝采が起きた。

大振の勝ちだ!

 いよいよ大振拓人と小柵降男の対決のゴングが鳴った。クラシックでそれぞれの方法で頂点を極めた男たちのガチンコ対決であった。会場のいたものはまず先攻で指揮する小柵降男がどのような指揮をするのかに注目した。会場にいたもののほとんどは小柵の指揮を観た事がなかったし、CDも聞いた事がなかった。それは小柵に無理矢理ここに連れてこられた文化庁の役人もそうであった。なぜなら小柵は指揮者を名乗りながら滅多に演奏会をしなかったからである。彼の音楽家人生は演奏よりも楽壇の政治闘争に多くの時間を費やした。大学の派閥を裏から牛耳り、文部省や文化庁の役人たちを小柵サークルに取り込むのに忙しく演奏会などにかまけている暇はなかったのである。恐らく彼の演奏会の回数はあちこちから引っ張りだこの大振よりも少ないであろう。その数少ない演奏会も新聞やテレビに注目されるような大規模はものではなく、新聞の片隅に乗るような小規模なものであった。そんな小柵であったが、その演奏は音楽通から大絶賛されていた。『小柵先生のトッカータとフーガは素晴らしい!バッハよりもバッハらしい見事な古典的な演奏だ』『小柵先生の演奏は滅多に聴くことは出来ないがその古典主義的な演奏は間違いなく世界レベル』『○○教会で演奏された小柵先生の『マタイ受難曲』はあのリヒターさえ超えるものだった。この演奏がCD化されず世界男人々が聴くことが出来ないのが惜しい』と彼らは揃ってこう書いていた。

 その謎の指揮者である小柵が今こうして公の場で初めてその指揮を披露しようとしていた。音楽界の支配者、芸術界のドン、あらゆる名誉を総なめにした男の演奏はいったいどんなものなのか。今、会場全体が緊張感を持って小柵の登場を待った。

 まず芸大卒業生によるオーケストラが現れた。それを見た聴衆たちの何人かが声を上げた。このオーケストラのメンバーは全員有名楽団の中でも折り紙付きの実力を持つ者たちばかりだったからである。その演奏家たちが着席してからしばらくたって先攻の小柵が現れた。するとオーケストラの面々が一斉に立ち上がって彼を出迎えた。再びステージに現れた小柵は先ほどの挨拶の時とは比べ物にならないほどの威厳を持って登場した。オーケストラの面々はその小柵に向かって深く頭を垂れた。小柵は苦しゅうないといった表情でオーケストラに頭を上げるように促した。これを見て聴衆は慄いた。聴衆の中のインテリのクラシックファンはこの小柵を見て思った。果たして大振はこの男に勝てるのか。この小柵という男、きっととんでもない演奏をするに違いない。猿文芸評論家が書いたエッセイによるとこの小柵という男、バッハのスペシャリストでバッハよりもバッハらしい超古典的な演奏をするようだ。こうして間近でその姿を見るとそれは間違いないように思える。そんな演奏をここでされたらフォルテシモの大振など全く歯が立たないだろう。崇高な音楽の流れた後に、大振のフォルテシモのパフォーマンスを見せられたところで笑いしかおきないはずだ。

 小柵は指揮台に上ると静かに指揮棒を掲げた。その姿はまるでプロテスタントの牧師のようであった。この男が奏でるベートーヴェンの『運命』はどんなものなのだろうか。まるでこの苦悩の作曲家が晩年に弦楽四重奏やピアノソナタのように崇高なまでに澄み切った『運命』なのだろうか。今小柵の指揮棒が振り下ろされた。

 だがそれは全くの期待外れだった。小柵の指揮するオーケストラは真面目な音楽ファンの期待した崇高なまでに澄み切ったベートーヴェンなどではなくただ楽譜通りに演奏されたあくびが出るほど退屈なものに過ぎなかったのである。小柵はベートーヴェンの指定通りの演奏をひたすらなぞり、ただただ機械的に指揮棒を振っていた。小柵の演奏を聴いていた奥様連中は退屈のあまりあくびまでしていた。大振ファンはあまりのつまらなさにあきれ果てて寝てしまった。人の目があるから絶対に寝てはいけない政府要人や財界のトップでさえあまりの退屈さにうとうとし始めた。あの有名な第一楽章でこの様なのだから第二楽章などもっと退屈であった。小柵の何処までも楽譜に忠実な退屈極まる演奏はとうとう完全な睡眠導入音楽と化してしまった。

 ステージの外で小柵とオーケストラの演奏を見ていた大振はこのかつての師匠のあまりの無様な姿にあきれ果て引退宣言までしたことが恥ずかしくなった。ばかばかしいこんな老いぼれとの勝負に指揮者としてのキャリアを賭けていたとは。もはやこのような老人介護のお遊びなど見る必要なと彼はステージから楽屋へと戻った。俺のなすべきことはあの老人介護ショーに付き合わされた憐れな聴衆に真のベートーヴェンを聴かせてやるだけだ。俺のフォルテシモな『運命』を聴けば聴衆はあの深い極まる老人介護ショーなど忘れてしまうだろう。この戦い百パーセント俺の勝ちだ。あの小柵の配下の審査員たちだってまさか政府要人の前であの老人ボケの小柵を勝たせるはずがない。

 結局小柵による運命は一度の盛り上がりも見せず淡々と終わった。最後までまともに聴いた聴衆は完全にあきれ顔だった。あれだけの実力のある演奏家をそろえながらこのようなつまらない演奏しか出来ぬとは。一方途中で寝ていた聴衆はもう終わったのかと周りに向かって聞きまくった。申し訳程度の拍手さえ起らぬ会場の中突然一人の男が立ち上がって大きな拍手をした。

『素晴らしい演奏でしたよ小柵さん!』

 その拍手の主は小柵に向かってこう褒めたたえた。文化庁の役人はその男の拍手を聞いて慌てて拍手を始めた。政府要人もそれに続き、最後に奥様連中や大振ファンが拍手をした。しかし最初に拍手をした男以外ハッキリ言って礼儀程度で拍手をしたのだった。

 この小柵のあまりに無様な演奏を聴いて誰もがこう思っただろう。

 この戦い、大振の勝ちだ!

絶対音感

 そしてとうとう我らが主人公大振拓人の出番が来た。大振はまるでベートーヴェンその人のように現れた。奥様連中と大振ファンはすぐさま彼に歓声を浴びせた。もう聴衆の誰もが大振の勝利を確信し、もう小柵など忘れて純粋に大振の演奏を味わおうと思っていた。

「失礼だけどさっきの演奏は酷く退屈だったねえ。僕は聴くよりもずっと目を開けている方が遥かに苦痛だったよ。クラシックってあんなに退屈なものなのかい?」

「あなた、違うに決まってるでしょ?あれはお経よ。本物のクラシックは今から私たちの大振様が演奏してくれますわ」

「ほうそうかい。楽しみだね。ホラ君がいつも言ってるフォルテシモってやつ彼は今日もやるのかい?」

「やるに決まってるじゃない。フォルテシモは大振様のトレードマークなのよ。もう、呆れたわ!あなたクラシックをまるで知らないんだから」

 とある政府要人とその奥方との間でこんな会話が交わされていた。指揮一本勝負はもう終わった。あとは大振拓人がロマン主義そのままに振りまくる強烈にフォルテシモな『運命』を味わい尽くせばいい。皆大振のフォルテシモなまでの轟音のベートーヴェンが鳴るのを固唾をのんで待った。だが、あの拍手をした男だけはそうは思っていなかった。男は大振の勝利を確信しきった表情を見てこう呟いた。

「大振はさっきの小柵さんの演奏を聴いたはずだ。なのに今の奴は哀れにも勝利を確信しきっている。あのすさまじい演奏を聴いてもなおそんな態度がとれるとは。よっぽど自身があるか、あれを持っていないかのどちらかだろう。後者だったら間違いなく大振は負ける。この戦い、大振の負けだ!

 我らがカリスマ指揮者はオーケストラに一礼しそのくしゃくしゃの髪を振り乱して指揮台の上に立った。そして指揮棒を天上に掲げ勢いよく飛びあがった。さあ、今ベートーヴェンの『運命』の扉が開かれる!オーケストラよ!今厳かに運命の鐘を鳴らせ!この藝術ホールいっぱいに響かせろ!大振は床に指揮棒を叩きつけて音楽を打ち鳴らした。

 しかしであった。オーケストラは音楽とは程遠い雑音を鳴らしたのである。大振はこの予想だにしなかった事態に驚いた。な、なんだこれは俺はこんな音を鳴らすように要求していないぞ。い、いや違う確かにこの音は俺が要求した音だ。だけどなぜこうまで違うのだ。客席もまた混乱していた。せめて小柵よりもマシな演奏を聴けると思っていたのに騒音を聴かされるとは思っても見なかった。大振は指揮棒を振りながら激しく混乱していた。彼はその混乱をごまかすためにとっておきの苦悩の四回転ジャンプを披露したが、客席には乾いた笑いしか起きなかった。大振の長年のパトロンであった奥様連中も大振ファンもこのベートーヴェンとは似ても似つかぬ雑音にやめてぇ~!と絶叫をしだした。

 この大振の混乱ぶりをステージの袖から見ていた小柵はほくそ笑みながらこう言った。

「大振君、私は君の最大の弱点を学生時代からとっくに見抜いていたのだよ!それが何なのか君にはわかるまい。君にはさっきの私の演奏が酷く退屈に思えたかもしれない。だがそう思った時点で君は私に敗北していたのだよ!いや、私に先攻を取られた時点で君はすでに敗北していたのだ!」

 その通り、と少年バトル漫画のようなテレパシーで拍手の男が小柵の説明を引き継いだ。

「大振には絶対音感がない。そのことを小柵さんは知っていたのだ。だから小柵さんはさっきの演奏で絶対音感を忠実になぞるように演奏したのだ。聴衆はたしかに小柵さんの演奏に酷く退屈した。だが彼らは知らず知らずのうちにその奏でられた絶対音感に馴染まされていたのだ。それが全ての音の基準となるように!大振は小柵さんの演奏からそれを読み取ることがまるで出来なかった。もはや大振には勝利どころか音楽家としての未来などない!」

 騒音だらけの空間の中で大振はひたすら苦悩に喘いでいた。なんてことだ。この俺がこんな騒音を出しまくってしまうとは。これでは完全に負けてしまうではないか。いや、それどころではない。このままだったら俺は音楽家として最悪の形で終わってしまう。最後の演奏で騒音を出しまくって引退した大バカ者と後世に語り継がれてしまう。だけどどうしたらいいのだ。俺はどうしたらいいんだ!何故音がいつものように聴こえないのだ。俺はベートーヴェンそのものになってしまったとでもいうのか!絶対音感?いや何故こんな言葉が浮かんでくるのか。俺は昔ピアノ教師の時じいさんだかばあさんだかに絶対音感を鍛えませんとねと言われたことがある。だがその時俺は音の基準を決めるのはこの俺だと言ってはねつけたのだ。いや音だけじゃない。俺はすべての価値を判断し決定してきたのだ。森羅万象そのすべては俺の手中にある。ずっとそう考えて生きてきた。それは正しいのだ。絶対を決めるのは歴史ではなく俺なのだから。世界の全ては俺が作り、俺が動かし、俺が決めるのだ。小柵の奴はさっき絶対音感を使って演奏したのか?いや考えるまでもない。したに違いない。奴は俺と違って天才ではない。だから既成の基準を使って聴衆を催眠術のように自分へと導いたのだ。ああ!ろくでなしめ!世界の基準を決めるのは俺なのに!どうして聴衆はやすやすと既成の基準に乗ってしまうのだ!

みんな、俺にフォルテシモを分けてくれ!

『運命』の苦悩の第二楽章も騒音まみれで終わった。今の大振に挽回の余地などなかった。実はもともと大振なんていけ好かないアイドルみたいな指揮者が大嫌いだった政府要人たちや財界のトップは大振に夢中の妻に半笑いで「今日の大振君は調子が悪いみたいだね」と話しかけた。先ほどまで大振を自慢していた妻たちはこの雑音をまき散らして指揮棒でパントマイムみたいなことをしたり、スライディングで祈りのパフォーマンスをする大振を見てこんな人間に夢中になっていた自分が恥ずかしく思えてきた。一方大振ファンはステージでパントマイムや苦悩の祈りを演じて懸命に自分の演奏を聴いてもらおうとする大振をみて涙した。ああ!拓人こんな惨めなあなたを観たくなかった。ねえ、いつものあのフォルテシモなあなたはどうしたの?どうして今日はこんなにひどい騒音しか出せないの?やめてよ拓人これ以上こんあ騒音気化されたら私あなたを本気で嫌いになっちゃいそうだよ。このままだとあなたは負けちゃうよ。そうしたらあなたは引退しなくちゃいけないのよ。それでもいいの拓人。

 第三楽章になっても大振は騒音から脱出できなかった。小柵によって領域展開ならぬ騒音展開をされた彼はずっと騒音の中を漂うしかなかった。この騒音展開は絶対音感のない大振にとってもはや脱出不可能なものであった。大振はそれでもあらゆる方法で脱出を試みた。ベートーヴェンが運命の扉を叩くがごとく指揮棒で聴衆の前でコンコンとノックしたり、来るべき第四楽章の希望へと進むために準備運動をしたり、救済を求めて天を仰いだりしたが、一向に騒音の雨は収まらなかった。俺の運命はこのまま騒音のままで終わるのか。大振はその場に崩れ落ちてしまった。もうすべて終わりだ。もう俺には運命の演奏は出来ない。ああ!畜生俺はここで終わりなのか!


 ずっと一人でやってきた。子供の頃からずっと一人で生きてきた。親が貧乏銭はたいて買ってくれたベヒシュタイン。子供はそのピアノを一日中弾いていた。友達なんて誰もいなかった。必要となんてしなかった。友達などいない。なぜなら対等になれる人間なんて世界中に誰一人いなかったから。指揮者になったのは世界を変えるためだった。森羅万象すべてを指揮して世界をフォルテシモにしようと思っていた。だけど今の俺は情けないほど無力だ。俺はこのまま絶対音感という既成の基準に取り込まれてしまうのか。本当にこのまま俺は負けてしまうのか。

 今猛烈に誰かの助けが欲しい。この騒音展開の牢獄から誰かに救い出してもらいだして欲しい。よく考えれば心のどこかでいつも誰かに助けを求めていた。だけど天才のプライドがいつも邪魔をしていたんだ。フォルテシモな天才には下僕の助けはいらない。そう思って。だけど今僕は猛烈に誰かの助けが欲しい。一人ではこの騒音展開から抜け出せないんだ。そうみんなの力が必要なんだ!君たち一人一人は僕に比べたら才能なしのチリみたいなフォルテシモでも、みんなの力が集まれば巨大なフォルテシモが出来上がるんだ。さあみんな!空に手をかざしてくれ!みんなのフォルテシモでこの騒音展開をぶち壊すんだ!

 カリスマ指揮者大振拓人は突然立ち上がり指揮棒で天井を指して絶叫した。

「フォルテシモぉ~!」

会場にこの大振の救済のフォルテシモが響き渡った瞬間、会場にいたすべての女性たちが悲鳴を上げた。ああ!あの大振拓人が私たちに救いを求めている。救わなきゃ!彼を救わなきゃ!しかし彼の救済のフォルテシモに応じたのは会場の女性たちだけではなかった。会場の外の、あるいは大振の危機を察した全国の女性たちも一斉に会場に駆け付けたのである。彼女たちのほとんどすべてが楽器を持っていた。彼女たちはオーケストラを追い出してそのままステージに陣取ってしまった。この大振ファンのとんでもない行動に会場は騒然となった。ああ拓人!あなたの指揮棒で早く私たちを指揮して!もう演奏したくてたまらないわ!

 大振は自らのファンが急造にも程がある程の急造で作ったオーケストラで『運命』の第四楽章の演奏を始めた。それはなんと素晴らしい演奏だっただろう。先ほどまでの騒音展開はすでになく、大振ファンが占拠しまくった会場には大振のロマン派満載の熱いフォルテシモなベートーヴェンの『運命』が鳴り響いていた。ああ!大振は今絶対音感を遥かに越えた新たなるフォルテシモ音感を築き上げようとしていた。大振はこのどこまでも忠実なファンに感謝し今日に限ってはフォルテシモを無制限でやった。さらに大振は先ほどの汚名を挽回するためにこのファンたちの大振オーケストラと共に『運命』を自分が納得するまで延々と繰り返し演奏した。


 こうして芸大救済の一大イベントとして開催された指揮一本勝負は予想だにしなかった大振ファンの乱入と占拠で完全に崩壊してしまった。政府関係者や財界のトップはすでに逃げ、ただ大振ファンの奥様連中だけが残った。小柵降男は勝利を目前としてのこの大惨事にただ唖然とするしかなかった。自分が施工に関わった藝術ホールは今完全に大振拓人とそのファンによって占拠され自分は完全にふさがれたドアの前でむなしく立ち尽くすしかなかった。今その彼の耳に大振とそのファンの演奏による何度目かの『運命』の演奏が始まった。彼は演奏よりもフォルテシモと叫んでいる大振に我慢がならずドアに向かってこう叫んだ。

「この絶対音感なし野郎が!いい加減そのフォルテシモやめろ!」


 その後大振は今年も億二桁の予算を貰ったが、芸大への愛校心が人一倍ある彼はそのうちの四分の一を芸大に寄付したのであった。

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