ノーベル文学賞に懸けた作家たち
芸術の中で一番偉いものは文学である。それは芸術のなかで唯一文学だけがノーベル賞に入っていることからも明らかである。音楽も美術もノーベル賞にはない。ただ文学だけが、文学のみがノーベル賞に入っている。それが文学を芸術の中で最も偉大たらしめている理由なのである。だからその賞を受賞した作家は作曲家や美術家よりも遥かに偉大なのである。例えばノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロはバッハやベートーヴェンのような偉大なる作曲家、或いはダ・ヴィンチやゴッホのような偉大なる美術家よりも遥かに偉大なのである。なぜなら音楽や美術はノーベル賞を持たないからだ。つまりノーベル賞を取れば作家は芸術家の中の芸術家となれるのだ。こんなことを言うと必ず賞なんかで芸術の価値は図れないとか、お前は賞の有無だけで芸術の価値を語るのかと批判が出てくる。しかし私はその批判に対してこう答えたい。賞こそ芸術を広め、そして高めるものなのである。試しに道行く人に知っている芸術家の名を上げろと質問してみるがいい。きっと彼らの上げた芸術家の上位は作家たちで占められるだろう。ノーベル賞の有無でこれほど知名度に差が出るのだ。音楽家も美術家も何故文学ばかりがこれほど注目されるのかと腐る前にノーベル賞に音楽・美術部門を作れと碌にアクションを起こさなかった怠慢を反省すればいい。
一流作家たちはその芸術界最大の栄誉であるノーベル文学賞を取ろうと日々執筆しているが、当然それだけでは文学賞は取れないので、毎年、いやノーベル賞の審査員の近所に住んでいる、或いは賞を取るために他国からわざわざ近所に引っ越してきた作家は月一で、或いは週一で彼らを訪ねている。これも作家として自らの名を残そうとする痛ましいまでの努力である。ノーベル文学賞はあらゆる芸術の中でも最高の栄誉。これを取れば自分の名は未来永劫残る。その栄光を求めて作家たちは涙ぐましい努力を重ねているのである。
芸術もまた現実の一部である。であるがゆえに綺麗ごとだけで全てが収まるわけではない。その美しい世界を作っているものは時として醜悪な面を晒してしまう。特に芸術界の最大の栄誉であるノーベル文学賞を取るために作家たちは醜さを丸出しにして文字通りなんでもするのである。
ある大国出身の作家はなんと賞の発表前に自分がノーベル賞文学賞を取ったと嘘の広告を載せたという。その作家はそうすることで自分の国の資本の力を使ってノーベル文学賞の審査員を脅したのである。私にノーベル賞をくれないなら僕の知り合いの政治家使って君たちを首にしちゃうからねと。だが芸術界の元老院であるノーベル文学賞の審査員はその脅しに屈しなかった。その年の文学賞は彼には与えられず、ヨーロッパの小国の出身の作家に与えられたのだ。発表日でそれを知った作家はその屈辱に耐えられなかったのか、悲憤のあまりショック死してしまったという。
あるヨーロッパのどこのどいつかわからない作家は一般の読者には判読すらできないほどの難解な小説を書いていた。作家は自分の小説はノーベル文学賞に値するものだと思っていた。だが毎年落ち続けてこのままではいかんと思った。それで彼はノーベル文学賞の審査員を接待しようと考えた。しかし彼は国際的な名誉はあるが貧乏なので何も与えるものがなかった。それで彼は考えた。ある日彼はノーベル文学賞の審査委員の所に女装して現れた。彼は審査員にハニートラップを仕掛けようとしたのだが、審査員はすぐに彼が男だと見抜いた。結局作家はその場で通報されて作家の将来ごと監獄に入れられてしまったのだった。
ある南米の作家はマジックリアリズムという文字通りマジックで書いた写実的な小説を書いていたが、彼も当然ノーベル文学賞が欲しかった。だから彼はマジックで僕にノーベル賞をくださいと歎願したのであった。だがその思いは審査員には届かなかった。二週間後に審査員から彼の下に届いた返信にはこう書かれてあった。『人にものを頼むのにマジックで手紙よこす奴がいるか。せめて万年筆で書け』
ある東洋の国の作家もやっぱりノーベル文学賞が欲しかった。彼はノルウェイの森で座り込んで審査員にノーベル賞をくれるまでここをどきませんからと座り込みを始めたのだった。彼はそれからずっと飲まず食わずで座り込みを続けているが、残念ながらノーベル賞はまだもらっていない。
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