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25メートルの熱狂
小学校の頃、クロールで後に日本代表になった男に何度か勝ったことがある。とはいってもそれはあくまで25メートルでだ。その男の両親も有名な選手だったらしくて彼は幼い頃から英才教育を受けていて、当時からスポーツ界で注目されていた。そんな男に25メートルとはいえ一度ではなく何度も勝ったんだから僕は鼻高々だった。ひょっと俺って天才だなんて自惚れたりした。
この経験は当時の僕に大きな影響を与えた。未来の日本代表に勝ったんだから当然である。僕は中学高校と水泳部に入りひたすら水泳にのめり込んだ。
だが才能の芽なんてまるで出なかった。小学校の25メートルの奇跡は所詮奇跡でしかなかった。僕がいつまでも燻っているうちに奴は全国大会で優勝しまくり、かつて何度か追い越したはずのその背中は全く見えなくなってしまった。
僕はこの男と親友というわけではなかったが、それなりに交流はあり、電話番号なんかも交換していた。奴はまぐれとはいえ自分に勝った僕の存在を気にかけていたようでよくアドバイスなんかくれたりした。とはいってもそのアドバイスは僕には専門的すぎてまるで役に立たなかったが。水泳をやめると決めた時、最初に打ち明けたのは奴だった。奴はやめると打ち明けた僕を慰めてくれた。僕は奴の慰めを聞いているうちに涙が止まらなくなり思いっきり号泣してしまった。それは僕の青春の終わりだった。まぐれの25メートルの勝利から始まった熱狂はもう終わったのだ。あの25メートルの勝利で味わった熱狂がここまで僕を導いてきた。だがそれももう終わりだ。その後僕は水泳から足を洗い普通に就職して、そして結婚した。
今僕はその男に電話で呼び出され昼間の他に客のいない喫茶店のテーブルで真向かいに座っている。
「まさか来るとは思わなかったよ」と奴は言った。
で、と発した後僕は躊躇いがちに続けて言った。
「なんで俺なんか呼び出したんだ。今俺なんかと会っている場合じゃないだろ?」
「確かにな。お前に電話をかけたのはほんの気まぐれだよ。久しぶりに地元に帰ってきたらふとお前の顔が思い浮かんできた。それでなんとなく電話をかけたんだが、まさかお前が昔の電話番号そのまんま使ってるとも、こうして来てくれるとも思っていなかったよ」
僕は先日テレビで久しぶりに聞いたこの男の名と同時に映ったその顔を見て酷く驚いた。驚きと同時になんともいえない思いで頭が重くなった。
「それで、これからどうすんだよ。このまま逃げても逃げ切れるもんじゃないぜ」
「そうだな。いずれ自首しなきゃいかんだろうな。よかったら今ここで通報したっていいんだぜ」
「するわけがない。大体俺には家族がいるんだぜ。トラブルに巻き込むわけにはいかないよ」
「お前昔っから変わってるよな。大して友達でもなかった俺の呼び出しに応じてるくせにそんなこと言うんだから」
「それはやっぱり」と言いかけたが、すぐに口を閉じた。照れくさくなったからだ。今目の前にいる着古したブランド物で身を固めたいかにも落伍者という言葉が相応しいこの男は自分の青春そのものだった。コイツに勝ったあの25メートルの熱狂が自分を導いてきたのだ。その導き手が惨めな姿を見るのは何よりも辛かった。自分への裏切りとさえ感じた。
「お前は俺を憐れんでいるんだろうな。日本代表ななったはいいものの、結局オリンピックにも出れず、犯罪者にまで落ちぶれてさ。もしかしたらざまあみろとさえ思っているのかもしれない。昔あれほどチヤホヤされていた人間がこんなザマになってさ」
「残念ながらそんなことねえよ。正直に言ってお前のニュース知るまでお前のことなんかこれっぽっちも考えてなかった。家のローンやら息子の学費やらカミさんとのバトルでそれどころじゃねえんだよ。とても昔の思い出に浸っている暇なんかねえんだよ。俺は今の現実を生きていくだけで精一杯なんだ」
奴は僕のいささか愚痴じみた話を聞いて軽く笑った。
「あ、そろそろ店出ないか」
「おい、お前まだ俺に付き合わせる気か?」
「久しぶりに地元に帰ってきたんだ。もう少し付き合ってくれよ」
勘定は全部僕が払った。出来るだけ奴を人の目に触れさせたくなかったからだ。僕が喫茶店から出ると奴は不意に僕に言った。
「あの店員の姉ちゃん俺見てもなんの反応もなかったな。テレビじゃ俺のニュース流れてないのか?」
奴のニュースは第一報が報道された時は多少話題になったが、その後しばらくしたらどこも取り上げなくなった。世の中には奴程度よりもっと大きなニュースがある。それは当たり前のことだ。だが僕はそれをハッキリと奴に言えずさぁなと曖昧に相槌を打って誤魔化した。
喫茶店を出てしばらく街中を歩いた。真昼間の街を公然と歩いていたら知ってる誰かにばったり出くわしたりしそうなものだが、不思議なくらい街中には人がいなかった。
「そう言えば今日日曜日だっけ。みんなどっかに出かけてるのかな。そうだお前、奥さんになんて言って出てきたんだ?」
「いや、カミさんはガキと一緒に実家に帰省中だよ」
僕がこう言うと奴は僕の顔をじっと見てそして笑った。
「まぁ、色々あるわな」
そうして学校の連中の近況とか地元の話題とかそんな他愛のない事を話してた時、奴は突然立ち止まって僕に言った。
「そういえばあの市民プールってまだやってんの?」
「ああ、あそこか。立て直されてスポーツセンターになっちゃったけど、プールもあるよ」
僕がこう答えると奴はそうかと言ってしばらくしてこう言った。
「おい、今からそこのプール行かないか?」
「行かないかって俺たち水泳着持ってないだろ?」
「バカだなお前は。そこのスポーツセンターで買えばいいじゃないか。今度は俺も金出すから行こうぜ」
全くバカな事を言うもんだと思った。自分の置かれている状況がわかっているのかと説教してやりたくなった。でも僕は腹が立ちながらもあっさりと同意して今奴と一緒にスポーツセンターの中に入っている。
「とにかく水泳着買ってくるからトイレあたりで待ってろよ。買ってきたらコールかけるから」
まるで共犯者みたいだった。知らずのうちに犯罪の片棒を担いでいるみたいだった。だけどそれでも妙に浮き立つものがあった。まるで小学校の頃に帰ったみたいだ。そんなつまらない感傷さえ感じた。
水泳着を買って振り向いたら奴はそこで立っていた。僕は奴に駆け寄って呆れ半分の顔で奴に海水パンツと帽子を渡した。
「残念ながらゴーグルは買ってないよ。どうせ長くプールに入るわけじゃないしな。目は痛むだろうが我慢しろよ。で、しばらく水で遊んだらすぐ出ていこう。ここは人が集まるしバレたらとんでもない事になる」
「ああ、ありがとな」
と、奴は僕に礼を言い、そして少し間を置いてからこう言った。
「別に俺だってこんな所に長いはしないさ。すぐに出ていくさ。あのさ、俺と一つ賭けをしないか?」
「賭け?」
「そう賭けだ。25メートルの一本勝負で、俺が勝ったら、このまま俺を見逃す。お前が勝ったらこっからすぐに自首する。どうだ?」
「それって俺になんのメリットもなくないか」
「たしかにそうだな。でも俺に勝てる最後のチャンスだぜ」
「バカな」と吐き捨てた時、ふと度々夢にさえ出てきたあの25メートルの熱狂が頭に思い浮かんできた。校内の水泳大会で絶対に抜けないと思っていた奴を追い抜いて勝った時の熱狂。あの時自分かスポ根漫画の主人公にでもなった気がしたんだ。自分にも才能があると勘違いして無駄に泳ぎ尽くした十代。無駄だったしひたすら愚かであったが、思えばあの頃が自分の人生の中で最も充実していたんだ。
「しょうがねえな。賭けに付き合ってやるよ。全く無駄でしかないけどな」
更衣室で奴の痩せ切った上半身を見てあまりの違和感に思わず何度も見てしまった。奴は僕の視線に気づいて「最近あんまりいいもん食ってなくてな」と言って笑った。
プール場にそれなりに人はいたが、プールに入っている人はほとんどいなかった。人は場内のベンチにすわったり、プールから離れた場所にあるジャグジーに入ったりしていた。
「へぇ〜、あのボロいプールがここまで変わるとはね。補助金様々だね」
「さっさとプール入ろうぜ。いつまでも喋くっていたらみんなの視線がこっちに集まってくる」
「たしかに。まっ、ザッと泳いで終わらすさ」
僕らは軽く準備体操をしてプールに入った。水泳をやめてから競泳プールなんて全く入ったことはない。プールなんて夏休みにガキと遊園地のプールに行くぐらいだった。
「もういいか」と奴が声をかけてきた。僕はその奴の顔を見て小学校の水泳大会の頃のような緊張感を覚えた。
「いいよ」
久しぶりのクロールだった。あまりに泳いでないせいで息継ぎのやり方さえ忘れてしまうほどだった。でもそれでもなんとか昔の記憶を辿って懸命に泳いだ。全く酷い有様だった。きっと今の僕の泳ぎは小学校時代にさえ及ばないだろう。とにかくそれでもなんとかゴールにまで辿り着き隣を向いてとっくに着いているはずの奴を探した。するとなんと奴はゴール着いているどころかプールの中央で棒立ちしていた。ゴールに着いている僕を見た奴は合図して再び泳ぎ出した。だが、しばらくしてまた立ってしまった。
僕はようやくゴールした奴を連れてプールから出て近くのベンチに座った。
「おい、大丈夫か?まさかわざと負けたんじゃないだろうな」
「バカか、わざとであるもんか。これが今の俺の実力だよ。水泳を引退していろいろあってとうとう水泳恐怖症になってな、それでこの有様さ。全くこんなとこ死んだ両親に見せらんないよ。あの人たちに手塩にかけて育てた自分の息子のこんな無様な姿になってるなんてな」
「それでどうするんだ。やっぱり自首するのか?」
話すだけでも辛かった。このあまりにつまらない勝負の結末とそれに輪をかけて打ち明けられる奴の打ち上げ話に、自分の人生のかけがえのないものが、あの25メートルの熱狂が全てぶち壊されたような気がした。
「まぁ、するさ。賭けに負けちまったんだから。思えば俺が勝負ごとに勝っていたのは一瞬だけだった。あとは全て負けたし結局何も手に入れられなかったんだ。日本代表に選ばれたのが頂点で後はひたすら下り坂だった。女も金も名誉も全て俺のものにならなかった。さっき喫茶店でお前目の前の生活のことで手いっぱいで昔のことなんか思い出す余裕なんてないようなこと言ってたよな。今の俺はその逆さ。今の俺には俺を支えるものなんて何にもないんだよ。だからひたすら昔を思って生きていくしかないんだ。昔の栄光に縋って、昔の日本代表の実績と名前を散々利用して利用されてひたすら惨めだよ。でも俺にはもうそれしか自分の生きる証を見つけられないんだよ。もうどうしようもないんだ。今のお前だったら25メートルどころか50メートルでも、100メートルでも、1キロメートルでも俺に勝てるだろう。だけど今の俺は25メートルの先さえ見失っちまったんだ」
奴は酷く落ち着いた口調でこう話した。僕は奴に何も声をかけることが出来なかった。ふとどこかでサイレンが鳴ったような気がした。だけど僕にはそれがパトカーか救急車のものわからなかった。