短距離スイマーの孤独
飛び込み台に立った時、次郎は真下のプールの水が溢れ出して覆って流されてゆく幻を見て慄きのあまり目を瞑った。ここは全国高校水泳選手権自由形100mの決勝の舞台。トーナメントを勝ち抜いてきた8人が最後の決戦に挑む。だが飛び込み台に立つ次郎はこの晴れの舞台から逃げ出したいと思っていた。
彼は元々水が大嫌いで泳ぐどころか水に入るのさえ嫌がる子供だった。小学校低学年の頃の水泳の授業の時、いぢめっこがそんな彼を揶揄ってプールに突き落とした。次郎はいぢめっこから逃げようととにかく懸命に体をバタバタさせてプールの向こう側まで逃げた。彼のその逃走はいぢめっこさえびびるほど速かった。この場面をたまたま見ていた体育教師はいぢめっこをボコボコに、後に大問題になるほど、殴り、そして次郎に向かってお前は才能があると褒めちぎった。
それが次郎と水泳の長い付き合いの始まりだった。教師に無理矢理水泳を習わされた次郎はたちまちのうちに県大会で優勝してしまった。中学では全国大会準決勝。そして高校三年になった今彼は初めてこの全国大会の決勝の舞台に立っている。でも次郎は一度も水泳を好きになった事はなかった。それどころかプールに入る事自体苦痛であった。息の詰まる水の中の無音の孤独は繊細な彼にはとても耐えられるものではなかった。学校と親に無理矢理水泳を始めさせられてから、彼は水に関する全てのものにアレルギーを感じ、魚介類や海産物など水に生息するすべての生物が食べられなくなった。それどころか透明な水まで飲めなくなった。しかし風呂や雨の日のようにどうしても水とかかわらなければいけない時もある。そんな時は入浴の際は紫のバスクリンを風呂の底が見えなくまで入れまくり、雨の日に登校する時は防水服で頭からガッチリ固めと全速力で学校まで駆けた。その次郎の泣きながらの全速力ダッシュは走る姿をたまたま見た陸上の顧問は水泳部の顧問に冬だけでいいから次郎をうちに貸してくれと言ったくらい速かった。
だが次郎の泳ぎはその水嫌いと反比例するかのようにますます速くなっていった。彼は水から一刻も早く顔を上げたい一心で泳ぎまくった。次郎はある程度成績を出した頃、顧問に向かって速く泳ぐためには無駄な練習を避けたいと意見した。これは彼が出来るだけ水から逃げたい一心で発した事だった。顧問は自分に逆らう次郎にプライドが傷つけられたが、しかし他の部員に比べて練習をしていない彼が驚異的に成績を上げているのを考えて我慢して彼の意見を受け入れた。
しかしこうしていくら水を避けても肝心の水泳を辞めることが出来なかった。親や学校の圧に負けまくって次郎は水泳を辞めたいと言い出せず忌み嫌いながらもこの苦行を続けるしかなかった。とにかく水から上がりたいそんな思いだけで彼は自身の最高記録を更新し続けていた。
次郎はこの水への生理的嫌悪感を治そうと、自分でネットなどを見て調べまくった。しかし彼のケースに該当する水嫌悪の症例と治療法は見つからなかった。当たり前だが水嫌いの水泳選手などいるはずもなかったのである。時々いっそボロ負けでビリッケツになれば全てが救われるんだと考える事はあるが、自分のために家まで買った両親と『学校始まって以来のスター!悲願の全国優勝に王手!』と垂れ幕まで下げて自分を盛り上げている学校の前でとてもそんな事は出来なかった。
苦しみを抱えながら地区予選に挑んだ次郎であったが、地区はブッチギリの優勝で、県大会も同じであった。彼はいつの頃からか大会で泳ぎ切った時よく号泣するようになっていた。それは孤独と精神的まで押しつぶす水圧からやっと解放された喜びからくる涙であったが、新聞やネットの見出しでは『大号泣!育ててくれた両親に捧ぐ涙のクロール!』とお涙頂戴式に書かれていた。
そうした周りの盛り上がりの中で次郎は絶望の淵にいた。このまま全国優勝なんてしたら体育大からのスカウトだの、オリンピックだので一生水泳に拘束されてしまう。こんなもの本当は味噌がクソになるほど嫌なのに。結局僕は水泳から逃れなれないのかと次郎は一人で泣いた。
決勝大会の前日の夜、次郎は開催地の泊まっていた旅館を抜け出して町を彷徨った。彼は大会の会場の体育館の近くの公園に座り込んだ。もう終わりだと独りごちた。明日になれば僕は果てしない喝采を浴びるだろう。そしてその騒音でしかない喝采を浴びながら泳ぎ続けなくてはいけないのだ。地獄だ。どうしようもない地獄だ。ああ!涙さえ出てくる。
その時後頭部に冷たいものが当たった。次郎は何事かと振り向いたのだが、そこにはマネージャーの花子がいた。花子はブスばかりの女子生徒の中では可愛い方で次郎も彼女に好意を抱いていた。だが小学校からの泳ぎの苦しみに悩まされていた彼は女性と交際どころではなく、今もって女性には慣れていなかった。
「よっ、勝手に旅館から抜け出して悪いんだぁ。今頃みんな探してるよ。ってか私も抜け出してんだけどさ」
いつものような明るい調子だった。このマネージャーとは部活に入った、いや入らされた日も一緒でそれからの縁だ。しかし先に書いたように次郎は女性とはろくに話した事はなかったので彼女とは距離をとっていた。
「はは変なとこ見つかっちゃったね。僕もう少しここにいるからみんなには安心してって言っておいて」
「別に探しに来たわけじゃないのになんでそんな言伝頼むかねぇ。帰るんだったら君も一緒に連れて帰るよ」
二人きりなのに。いや、だからか急に接近してくるマネージャーの態度に次郎は臆して身を引いた。
「ねぇもしかしてビビッってる?」
「べ、別にビビってなんかいないよ。只今は一人になりたいだけだよ」
六割本気の、三割嘘で後の1割は自分でもよくわからない言葉で彼はこう言った。こうしてズカズカと他人に入って来られては困る。ましてや女の子なんてろくに喋ってないんだし。
「もしかして明日の決勝大会で緊張して落ち着かなかったりする?眠れないとか……」
マネージャーは親しげに次郎に語りかけてきた。次郎は意外に彼女の侵入に動揺しなかった。むしろ彼女に心を開き始めていた。
「まぁ、その通りだよ。実は大会の前は、っていうかプールに入る前はいつもこんな状態なんだ」
「へぇ〜、意外だね。小学校の頃から活躍していた人がそんなに緊張するなんてさ」
マネージャーの言葉を聞いて次郎は水泳をやらされたきっかけを思い出して苦笑した。あんな事がなければこんな事やってなかったはずなのに。毎日毎日こんなに苦しまないのに。彼は彼女にこれ以上過去を突っ込まれないように話題を逸らした。
「そういえば君、高校卒業したら大学行かずにアメリカ行くんだって?みんなが話しているの聞いてびっくりしたよ。君の成績だったら国立ぐらい余裕じゃないか」
マネージャーは次郎の問いを聞いて彼をまっすぐ見た。そして答えた。
「私ずっとハリウッドの特殊メイクアーティストになりたいって思っていたんだけど、親が公務員だから私にも国立行って公務員になれってうるさくてさ、私も親の言う通り公務員になるためにずっと勉強してたんだ。だけど毎日トップアスリートになるためにおんなじ事ずっとやっているあなたを見て今までの自分を反省したんだよ。こんなんじゃダメだってこの短い人生を決められたルートに従って生きるなんて牛や馬と一緒だ。やっぱり自分の思うがままに生きなきゃってさ。このまま周りに流されるなんでダメ。自分の意志で立って歩いて行かなきゃってさ」
飛び込み台の次郎は昨夜のマネージャーのこの言葉を思い出した。その彼女は今プールの向こうで水泳部の部員たちや自分を応援に来た学校の連中とともに自分を見ている。
やがてスタートの笛が鳴り次郎はプールに飛び込んだ。その時再び昨夜の彼女の言葉が浮かんだ。『決められたルートに従って生きるなんて牛や馬と一緒だ』『このまま周りに流されるなんでダメ。自分の意志で立って歩いて行かなきゃってさ』そうだ。決められたルートに従って水に流されて生きるなんてダメなんだ!僕は自分の足で立って生きていくんだ!次郎は誰よりも早くプールの向こう岸についた。しかし彼はUターンをせずそのままプールを上がってしまったのだ。この次郎の思わぬ行動に会場内でどよめきが起きた。彼は晴れ晴れとした顔で涙を流しながら客席のマネージャーの元へと歩き出した。ああ!君のおかげで僕は今はじめて自分の意志で立つことができたんだ。もう水に流されたりなんかしない!
「バカヤロウ!」と学校関係者から次郎に罵声が飛んだ。だが今の彼にはそんな罵声は関係なかった。次郎は今生まれてはじめて自分の意志で歩き出したのだ。彼はまるで生まれたての赤ん坊のような泣き腫らした顔で自分を導いてくれたマネージャーを見た。
「死ね!このクソバカ!学校に大恥かかせてんじゃねえよ!みんなお前のためにどんだけ頑張ったと思ってんだよ!」
会場に一際大きく響く彼女の罵声を聞いて次郎の涙は果てしない絶望の号泣へと変わっていった。