受賞挨拶
某有名ホテルで今日本で一番有名な文学賞の授賞式が行われていた。今年の受賞作品は十勝紀夫の『家を買う』が選ばれた。この小説は作者の経験を題材にしたもので、あるサラリーマンの郊外の田舎で中古の平屋を買った時に起こった出来事を悲喜交々のエピソードを交えて描いたものである。十勝は作家として活動を始めてから十年以上になるがその地味な作風のせいかなかなか賞に恵まれず注目されなかった。そんな彼が今回受賞したのは、恵まれない中質の高い作品を描き続けたという事と、あともう一つ、これはあくまで噂であるが、他に受賞に値する作品がなかったからだという事であるらしい。
壇上で選考委員の長老作家から賞状を受け取る十勝紀夫の立派な姿は授賞式に招かれた人々に強い印象を与えた。会場の奥では招かれた作家たちが壇上の十勝の態度について語り合っていた。
「十勝のやつまるで別人みたいだな。顔なんか引き締まっていていかにも文豪だって顔しているよ」
「本当びっくりね。十勝クンいっつもシワだらけのジャケット着てて卑屈な笑みを浮かべているようなひとだったのに、もうそんな面影全くないよ。やっぱり認められると人って変わるね」
「まぁ、奴もやっと我々の仲間入りってとこだな」
長老作家の震えすぎる手から賞状を受け取り、言語不明瞭な労いの言葉をかけられた十勝は真摯な表情で長老作家に感謝の言葉を述べた。こうして賞状の授与が終わると先程の長老作家をはじめとした文学賞の主催者たちは後ろに引き、授賞式の司会者が十勝に向かって中央のマイクの前に立つよう促した。十勝はそれに無言で頷くと厳しい表情でマイクの前に立ち、そして参加者たちを見据えて第一声を発した。
「えー、この度文学賞を受賞した十勝紀夫です。長年文壇の隅で活動していた私にはこの晴れの舞台が眩しすぎで戸惑っています。まずは私に賞を与えてくださった選考委員の方々に感謝を申し上げます。そしてこの授賞式に参加してくださった方々にも感謝を申し上げます。私は多くの純文学を志す作家のようにいつかこの文学賞を受賞することを夢見ていました。この文学賞を取って作家として認められたい。そんな思いを胸に日々小説を書いていました。その憧れの文学賞を私のような地味な小説ばかり書いている作家に与えてくださったことは大変に光栄な事でありましす。ですが私はこうも思うのです。この文学賞は私という一小説家に与えられたものであって私の『家を買う』に与えられたものではないと。ハッキリと申し上げます。私の小説はこの文学賞には相応しいものではありません。恐らく選考委員の方々は長年細々と執筆活動をしていた私に深く同情してこの賞を授けてくださったのだと思うのです。私の他にもこうした長年の努力が認められて受賞した方もたくさんおられると思います。文学に対する献身は受賞に値すると認められたのでしょうか。少なくとも私はそう考えます。この文学賞は昭和の初めに開催されてから、今まで選りすぐりの小説に賞が与えてきました。だけどいつからか人は受賞した小説よりも作家について多くを語るようになってきたように思います。最近読んだある作家の紹介文では小説の話は二言三言で片付けられて後は作家の思想や政治性や執筆に対する心構えなどで埋め尽くされていました。こういう現象を見て私は思うのです。世界のあらゆる文学賞はもはや作品でなく小説家に与えられるものだということを。読書は実の所現代の文学には興味がなく、その文学を書いている純文学作家としてのありようを求めているのだという事に。現代の純文学の小説はひょっとしたらエンターテイメントの小説よりも忘れられるのが早いかもしれません。エンターテイメントの人気シリーズ物を昔からずっと熱心に読んでおられる方々はたくさんいるでしょう。しかしそれと同じ熱量で現代の作家による純文学の新作を読んでいる人はどれだけいるでしょうか。現代に書かれた純文学の作品が少し話題になったとしても二、三年のうちに忘れられ誰もその作品について触れなくなってしまうものではないでしょうか。今の純文学はそういうサイクルで成り立っているのです。所詮二、三年のトレンドなのです。作品ふ忘れ去られ、結局残るのは純文学の賞を受賞したという作家の記録と称号だけです。人はノーベル文学賞でもなんでもいいのですが、そういった賞を受賞した作家の名は知っていてもその作家の描いた小説など覚えてもいないし、また読んでもいないのです。それは別に人々が無教養なわけではなく、ハッキリ言って彼らがそれらの小説を必要としないからです。小説が出版された時、またその小説が何かの賞を受賞して話題になった時、人はその小説を読むこともあるでしょう。しかしやがて人はその小説を忘れて彼らの読み慣れた古典、あるいはすでに歴史的に評価の定まった作品に戻るのです。人は太宰治の作品を未だ古びぬリアルな青春小説の古典として読んでいます。対して現代の若手作家によって書かれた沢山ある若者を題材にした作品はどうでしょうか。それらの作品は太宰のそれのように未来に読み継がれる作品でしょうか。答えはNoと言わざるを得ません。それらの作品は先程から私が再三申し上げている通り所詮二、三年で忘れられてしまうものなのです。私は最近文学の永続性について次のように考えます。いくら現代の文学が二、三年しか読まれないものだとしてもそれは現代の文学が古典より劣っているわけではありません。古典より身近なものを題材にしているし、小説だって古典に並ぶほど力強いものだってあります。だけどそれでも二、三年で飽きられるのは、小説というものはすでに発展の余地はない、現代の小説家が試みようとしている技法やあらゆる切実なテーマもすでに古典や、あるいは歴史的評価を受けている作品に書かれたものでしかないと我々がどこかで感じているからではないでしょうか。これはクラシック音楽を例にとればハッキリわかります。クラシック音楽において今も聴かれるのはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンのような古典派や、ワーグナーやマーラーのようなロマン派でありますが、今の作曲家が同じような曲を書いたところで聴衆から冷笑を受けるだけでしょう。勿論今の作家はそれを深く自覚しています。だから彼らは今流行っている思想や現象に飛びついてそれらをテーマに小説を書くのですが、所詮付け焼き刃で本質的なものでないので、結局一時期の話題になってそれで終わってしまいます。時代を超えて読み継がれる文学には残念ながらキャパシティがあり、その部屋の中はほとんど古典と歴史的な評価を受けた作品で埋められています。現代の文学の大半はそこには入ることは出来ないでしょう。その小説が古典に匹敵する名作であってもです。何故ならその現代文学をわざわざ読むより読み慣れた古典を読んだ方がはるかに手軽だからです。もし現代文学がその部屋に入る事が出来たとしてもそれは神の気まぐれというべきものでしかありません。私は昔は素朴にも自分の文学への役割は文学の伝統を未来に語り継ぐことだと信じていました。だけどこうして文筆活動をしていて気づいたんです。人は私の小説なんか無視して直接古典を読んでいると。それは私の作品だって例外ではありません。私は重々承知しているのです。私の小説などよりはるかに古典の方が重要だと認識しているという事を。恐らく私はいずれ文学賞を受賞した作家として記録に残っているだけの存在となるでしょう。しかしそれでも私はこれからも小説を書いていくでしょう。私の行為はメッセージを入れたボトルを海に流すにも等しい行為です。かつてロシアの詩人マンデリシュタームは何かの評論でこの行為を詩人のあるべき姿だと書いていたのを記憶していますが、私にとってはそれはそんな崇高なものではなく、半ば諦めの気持ちからそうしているだけなのです。きっと私の小説は未来に届かないでしょう、だけどせめてもの希望を持ちながらボトルを海に流し続けるしかないのです」
この現代文学の現状を赤裸々に語った受賞挨拶は会場にいたものに動揺を引き起こした。この授賞式という舞台で堂々と行われた文学の現状の告発はスキャンダル間違いなしであった。まさか十勝紀夫のような多分一生ノーベル文学賞と縁のないだろう地味な作家がこのような強烈な文学の現状への問題提起をするなど誰もが思わなかった。十勝本人はそんな会場の反応を前にして表情ひとつ変えず毅然と立ち尽くしていた。だがその時会場の隅から壇上目掛けて一人の冴えなさすぎるジジイが駆けてきた。ジジイは壇上の十勝紀夫に向かってこう叫んだ。
「お前誰だよ!なんでお前が俺の受賞挨拶してるんだよ!俺が『家を買う』で文学賞受賞した十勝紀夫だぞ!みんなお前を俺だって勘違いしてるじゃねえか!さっさと出ていけよ!」
「いや、俺が十勝紀夫だ。なんとなくだけどそうだってわかったんだ。今から俺が十勝紀夫な」
「この〇〇野郎!さっさと出て行かないと警察呼ぶぞ!」
「呼ぶなら呼ぶがいいさ。警察とここにいる皆さんにどっちが本物の十勝紀夫か決めてもらおうじゃないか」
「この野郎!」
会場にいた人々はさっきまで挨拶していた精悍な顔の十勝紀夫と今出てきた冴えないジジイの十勝紀夫を見比べて二人の顔形が驚くほどよく似ている事に気づいた。人々はしばらく二人を見比べていたが、そのうちどっちが本物の十勝紀夫なのかよくわからなくなってしまった。
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