見出し画像

白い本

  フランスのヌーヴォー・ロマンの代表的な作家クロード・シモンの遺作について日本の某思想家があの白い本と表現したことがある。先日亡くなった最後の前衛小説家ジークフリート・ゴットへルフの遺作はその某思想家の言葉通りの白い本だった。ページを捲るとそこに煌めくほどの白いページがそこに現れる。その白きページの眩しさに思わず目が眩みそうになってしまう、どこまでも白い本だった。今ヨーロッパを代表する文芸評論家たちは各々の前に置かれた彼の遺作を前にして激しい討議を重ねていた。

「これはただの紙の無駄遣いに過ぎない。いくら前衛小説家ゴットへルフといえどこんなものを出版することに意味があったのか」
「違うね。キーファー君。君は何も分かってはいない。これは現代の前衛の究極なのだ。彼は我々に道を示したのだよ。これが前衛の、いや現代文学の行き着く道であることを。この空白は小説が書かれる以前であり、また小説が書き尽くされた後の世界である。いわば一種の宇宙だ。宇宙には始まりも終わりも存在している。そこで生命体も、惑星も、銀河も、そして宇宙自体も誕生し、死んでゆく。その宇宙の森羅万象の姿を彼はこの白い本で示したのだ」
「ふざけたことをいうなブルクハルト!君はこんな紙だけで何も印字されていない本にどうしてそこまで妄想を繰り広げられるんだ!おふざけはやめたまえ!」
「キーファー、君は前衛というものが本当に分かっているのか?君は十年前に書いたじゃないか『前衛こそ人間の自由を取り戻すただ一つの方法だ。故に前衛は決して前衛というものに縛られてはならぬ。想像力をすべて解き放ってこそ前衛。ただ言葉を並べただけのものでも、その並べ方が美しければ美となるだろう』こんな勇ましいことを書いた君がそんな保守的なことを言うとは時の経過とは本当に恐ろしいものだな」
「お二人共。まあそんなに熱くならんでもよいだろう。確かにキーファーがこの遺作を否定する気持ちはわかる。私自身もこれを積極的に評価する気にはなれない。しかしブルクハルトの言っていることもわかるのだ。ここで私自身の考えを述べると、これは我々評論家や読者に対するゴットへルフ氏の挑戦状だと思うのだ。彼は最後に我々に対して挑戦状を叩きつけたのだ。この何も書かれていない白い本から我々がどのような物語を生み出すかを。宇宙は何もない空間から生まれた。しかし元々何もない空間というものは存在するのだろうか。科学でも我々は何もない空間というものを発見できていないはずだ。一見何もない空間と見えるものでも何かしらの物体があるのだ。ということはこの印字されていない白い本にも何かしらの物語が存在するはずなのだ。そういう事をジークフリート・ゴットへルフ氏は言わんとしていると私は考える。で、アリオスト。君はゴットへルフ氏の子息であり、この本を出版した人間だ。君は父であるゴットへルフ氏から何かを聞いていなかったかね?それともゴットへルフ氏の挙動から何かを推察できないかね?」
 アリオストは文芸評論家の長老であり、ドイツ文学の守護神とも言われているバッハベルにこう聞かれて急に俯き固く口を閉じて黙り込んでしまった。彼には黙らざるを得ない理由があった。ジークフリート・ゴットへルフが亡くなる三ヶ月前に彼は病床の父から急に呼び出された。彼が病室の父に面会するといきなり原稿用紙を渡された。それは父が手書きで書いた原稿であった。彼は流し読みして驚愕した。そこには父と、そして自分のプライベートなことが関係者の実名入りであからさまに暴露されていたのであった。父は動揺する彼に絶対に出版するんだぞ。もう出版社とは契約を結んであるから出さなかったら膨大な違約金が発生するからな。と彼に念を押した。アリオストは原稿を持ち帰り、出版社に渡す前にせめて自分のところだけを削除しなければと夜通し添削作業を行った。しかしいざ添削してみたらまともに小説として体をなしていない状態になってしまった。そのうちにジークフリートは死に、金儲けしようと躍起になった出版社はアリオストに早く原稿を渡せとせっついた。しかしこの原稿を渡したら間違いなく自分の将来は終わりだ。彼はどうしたら自分が救われるのか考えた末、タイトルが記された原稿用紙だけを渡すことにした。彼はそこに父の筆跡を真似て後はすべて三百ページ分すべて空白にして本にしろと但し書きをつけてやった。そうして出版されたのが今討論なっているジークフリート・ゴットへルフ氏の遺作である。アリオストは立ち上がり拳を振りながら涙すら流して皆に言った。

「父はこれが自分の最高傑作になると言っていました。この宇宙を表現した白い本から皆が新たなる物語を想像すればよい、それはやがて前衛の光となるだろうと。父のその願いは今叶おうとしています。父さん、あなたは最後まで偉大であった!浮気もせず、息子の私の部屋も覗かず、子供が純粋に好きで、ああ!父はなんと偉大であったでしょう!私はそんな立派な父が最後にこんな大傑作を書けたことを神の思し召しだと思います。きっと神は父の普段の行いを見ていてくれたのでしょう。父よ!ああ父よ!偉大なる前衛小説家ジークフリート・ゴットへルフよ!」

 その場にいた文芸評論家は一斉に泣き出した。そして彼らは各々の目の前にあるジークフリート・ゴットへルフ氏の遺作を眺めて感慨に耽るのだった。


いいなと思ったら応援しよう!