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【物語】洞窟の人魚

歌が聞こえたから、目を覚ました。

目の前はごつごつした岩だった。
痛む頭をさすりながら、周囲を見渡す。

足元を照らす光があった。
体を起こして上を見る。
手が届かないほど遠くに、空を切り取ったような穴が開いていた。
あそこから落ちてきたのか。
私は、落ちる寸前のことを思い出した。

夏休み。暑くて仕方がなかった。
それなのに、クーラーが壊れた。

「修理している間、遊びに行っておいで。」

お母さんにそう言われて、海に遊びに来た。
そして私は、こっそり立ち入り禁止区域の洞窟を目指した。

いつもなら、この洞窟はお母さんと一緒だから入れない。
しかし、ずっと気になっていた洞窟なのだ。
少しだけ覗いてみよう。
それだけのつもりだった。


海沿いにある小さな洞窟に到着した。
まるで秘密基地のような佇まい。

私は、周囲に大人がいないことを確認してそっと侵入した。
ちょっとだけだ。
ちょっとだけ。

洞窟の空気は、肌に張り付くような湿り気を帯びていた。
ひんやりして涼しい。
深呼吸すると、海とはちがう水のにおいがする。

別世界への入口だった。

「あー!」
声を出してみた。

〈あー、ぁー、〉

ぐわんぐわんと自分の声が響く。
もっと奥に入ったら、どんな風に響くだろう。

夢中で、奥に奥に、と進んだ。
そして、ぬるぬると滑る岩に足を滑らせた。

その先はあっという間。

冷たい岩にあちこちをぶつけて、
転がりながら滑り落ちてしまった。

岩肌にあちこち擦りむいた。
ジンジン痛む。
きっと、ぶつけたところも紫色の痣になってるはずだ。
今は暗い洞窟内で、アザなんか見えないけど。

倒れた体を起こす体力はなかった。

ここは立ち入り禁止区域だ。
こんな場所、偶然でもない限り人は来ない。
まずい。

そうだ。

私は、スマホを取り出した。
画面は割れているが電源は入った。
期待して画面を見たが、
右上の表示は「圏外」。

スマホを握っていた手から、力が抜けた。
がちゃん、と音を立ててスマホが落ちた。
音が反響する。

倒れていても、むき出しの肌に岩が刺さってチクチクと痛む。
落ちた時に擦りむいた小さな傷や、ぶつけたところに洞窟内の水が染みて痛い。

でも、立ち上がる勇気はなかった。

助けが呼べない。
こんな所で一人、どうしろというのか。

涙がこぼれた。
そのまま、気絶するように眠った。





夢の中で、歌が聞こえた。
暖かく、柔らかく、静かな歌だ。

目を開けても、歌は洞窟に響いていた。
痛む体に鞭を打って起き上がる。

人がいるのだろうか。
それとも、助けを望んでいる私の幻聴だろうか。

歌が聞こえるのは、落ちてきた穴がある方向とは真逆。
体を引きずりながら、音が聞こえる方に歩く。

光から遠ざかるのが、ほんの少し怖かった。
それでも、歌があんまり綺麗だった。
だから、私は吸い寄せられるように足を進めた。

だんだん、歌が近づいてくる。
美しく、透明な女性の声が、しっかり耳に届いてきた。

高い音でさえ、木漏れ日のように温かく、やわらかい。

声に導かれるように進む。
ふいに洞窟が明るくなった。
洞窟の中に開けた場所があったのだ。

天井には、点のように小さな光が差し込んでいる。
そして、光に照らされた先には、蒼く蒼く澄み渡る地底湖。

その地底湖の真ん中に、人魚がいた。

人魚は、光を浴びながら地底湖の真ん中にある石に腰掛けていた。
湖の蒼と海の青を混ぜたような、奇跡の鰭。
波のように揺らめかせる、銀色の髪。
鰭と同じ色の貝殻と海草で作られた衣は、ドレスのようにふわりと美しい人魚を包んでいた。

まるでコンサートホールで独唱する歌手のように、
人魚は白く美しい腕を掲げて歌っていた。

私が思わず1歩踏み出した。
からり、と石が音を立てた。

その瞬間、歌声が不自然に途絶えた。
私に気づいて、人魚が驚いているようだ。

人魚と目が合う。

なぜか、声をかけてはいけない気がした。

黙っていると、人魚は眉を下げて申し訳なさそうな顔をした。
思わず、首を振った。
何にも悪いことなんかしていない。
人魚が謝ることなんてない。

意図が伝わったのか。
人魚は真珠のような白い歯をちらりと見せて私に微笑んでくれた。

そして、人魚はゆっくり私の方を向いた。
胸に手を当てて、すうっと息を吸い込む音がした。

冷たい洞窟の空気を乱さぬように、静かな低い声で人魚が歌い始めた。

何かを思い出すときのように。
秘めた思いをそっと告げるように。
ささやくような歌声が、洞窟に染み込んでいく。

歌声が、だんだん明るく、強くなった。

抑えていた想いがあふれてしまった。
そんな声。

柔らかな歌声だ。

決して弱くも儚くもない。
優しさという名の強さを抱えた歌声だ。

温かい歌声が、洞窟の中に流れていった。

声が小さくなって、消えていった。
音が消えた。



人魚が強いまなざしで私を見た。




私は息をのむ。
人魚が大きく息を吸う。


そして、
一瞬の空白をかき消すように、
訴えるような高音が響いた。

人魚は、歌いながら私の方に右手を差し出した。
そして、その手をぐっと握りしめた。

立ち上がって。
諦めないで。
頑張って。
頑張れ。

暗く冷たい洞窟を満たすように、人魚の声が反響する。
やがて、人魚の歌声は洞窟の岩に吸い込まれていった。

最後の一音が消えるその瞬間まで、
私はそこに立っていた。




静まり返った洞窟の中。
思い出したように、全身が痛み出した。
痛い。いたい。ここで静かに、この歌声を聞いていたい。

でも。

私は人魚を見た。
人魚は、ずっとこちらを見つめていた。

真っ直ぐな人魚の歌を聞いて、なんだか痛みが引いた気がする。
私は、深く深くお辞儀をした。

そして、来た道を引き返した。


光の穴に向かって進む。
見つけた私が落ちてきた穴。

「ここが帰り道だよ」というように、光が道を示していた。

後ろから人魚の歌が聞こえる。

応援してくれてるんだ。

光に向かって這い上がる。
鋭い岩肌に足を引っかけて、
痛みをこらえて手を伸ばす。

慎重に、ゆっくりゆっくり手を伸ばす。

足が滑った。
ザっと岩に当たって、鋭い痛みが走る。
擦りむいた。

それでも手を伸ばす。
一歩進む。


光が近づいてきた。
海のにおいがする。
人魚の声が小さくなってきた。
太陽が眩しい。それでも、出口から目をそらさない。


光の中に顔を出した。
潮のにおいが私を包む。
そして、大声で私を呼ぶ母の声がする。

母に助けを求めるために、私は息を吸った。

もう人魚の声は聞こえなくなっていた。

しかし、人魚の声は今も私の胸の中で響いている。









ーーーーあの子は、地上に戻ったかしら。

ちゃぽん、ちゃぽん、
地底湖に水が滴り落ちる。

天井から落ちる雫は、
洞窟の上から差し込む光を反射して、
きらきら輝きながら地底湖に波紋を描いた。

ーーーー静かになったから、きっと脱出できたのだろう。

水の滴る音だけが響く地底湖。

ああ、「オンガク」が聞きたいなあ。

わたしは人間の友からもらった宝物を、
座っている岩の隙間から取り出した。

透き通る美しい四角い板の中に、宝物が入っていた。

半分は白。
半分は、貝殻の裏側のような虹色。
丸くて平たい、わたしの宝物。

ここには、「オンガク」が入っている。
本当は、「プレーヤー」があると音が聞こえる。

10年ほど前、一度だけ「プレーヤー」を持ってきた友人に聞かせてもらった。

今は、「プレーヤー」がないから「オンガク」が聞こえない。
でも、わたしはあの時聞いた音を確かに覚えている。

人魚は、人間の言葉が理解できても発音することはできない。

言葉がわかっても、会話することができない。
けれど、歌だけは人間に似た声を出せた。

人間の言葉ではなかった。
けれど、確かに友と一緒に歌った。

この洞窟いっぱいに響くくらい、わたしたちは何度も歌った。

わたしは、楽しかった時を思い出して鰭をぱたぱたと動かした。
ちゃぽちゃぽ、と嬉しそうに地底湖が笑う。

もう来なくなってしまった友に似た、あの子を思い最後にもう一度歌った。

人魚の宝物。
真っ白な表面にはマーカーペンでこう書かれていた。

曲名「You Raise Me Up」

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