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【日記】自分で自分を許せない自分を顧みて

最近、またキャリアカウンセリングを受けてきた。
 
お金の話、他者との関わりの話、前を向いて生きるのに必要なこと。
 
今回も幸せに生きるのに必要なことを明るく楽しく教わってきた。
 
そこで教えてもらった新しい考え方は追々整理整頓していくとして――。
 
今日はカウンセリングを受けている時に感じたことを徒然つづっていこうと思う。



私は自分で自分を許せない。
 
何事につけても自責がやめられない。
 
 
例えば、対面している相手の機嫌が悪かったとしよう。
 
声のトーンは低い。
笑顔もなく、むっつり黙りこくっている。
 
それを目の当たりにすると、わたしの中では「ああ、私が至らないから機嫌が悪いんだ」ということになってしまう。
 
別に相手に「お前のせいだ!」と言われたわけでもないのに、である。
 
これは「見捨てられ不安」が強いせいだからということに最近気づいて、自己改革を進めている。
 
 


 
 
例えば、いま働いていないとしよう。
 
あくせく働かなくても十分なお金もある。
 
幸運なことに、衣食住満ち足りている。
 
法も犯していないし、誰も傷つけていなければ、誰にも迷惑をかけていない。
 
実に幸福なことである。
 
世の喧騒からも遠ざかり、気ままな日々を過ごしている。
 
そして、私は「世間」から糾弾を受けてしまう。


「ああ、私は世間の人達と同じ生き方をしていない」

「努力をしていない。汗水たらしていない」

「いけない。これはいけないことなんだ」

「世間と同じにならなくちゃ!!」

「世間の人達と同じように生きなくちゃだめなんだ!」
 


よくよく考えれば、この理屈は道理が通らない。
 
私は法を犯していない。誰も傷つけていないし、迷惑もかけていない。
 
世の喧騒からも遠ざかっていると述べた通り、「世間」は私の存在など気にしていない。察知されているかも怪しい。
 
だから、「世間」は私のことを責めていないし、実際に責められた経験もない。
 
なのに、私は「世間」に責められていると錯覚してしまう。
 
この「世間」とは一体何なのか。


 
これは「私の頭の中」の「世間」だ。


 
私の脳内には、「~しなければならない」「~すべきである」という社会でまかり通っている考え方や習俗があって、それを「世間」と呼んでいるのだ。
 
これは本物の「世間」ではない。
 
これは「私」の「私」に対する叱責だ。


 
ズルをするな。
 
正直であれ。
 
卑怯なことはするな。
 
勤勉であれ。
 
苦労こそ至高である。


 
そういった「~しなければならない」「~すべきである」が総出で私を責め苛んでくるのである。
 
根が深い行為だ。
 



でも、昨日カウンセリングに参加していて、ふと思った。
 
この自責は何のためにやっているのだろう、と。
 
何かいけないことをしでかして、反省のために自責するのであれば、その自責はきっと次の行動を良くすることに繋がるのだろう。
 
けれども、誰にも責められていないことを延々と自責し続ける理由は、どこにあるのだろう。
 
考えて、考えて気づいた。
 
どこにもない。
 
自分は世界で唯一無二の存在なのに。
 
自分というものはかけがえのないものなのに。
 
そんな自分に対して、最大の理解者であるはずの自分が大声で糾弾する必要性なんてどこにもない。
 
なのに、どうして私は自責を続けてしまうんだろう。
 
それは、きっと心のどこかで許しを求めているから。


 
いまの自分の状態が悪いとは思っていない。
 
恐らくそれなりに気に入っているのだと思う。
 
けれども、大見得を切って良いものだと言える自信はない。
 
だから、きっと自分を責めて責めて責め続けて、最終的には「そのままでいいよ」「悪くないよ」という「許し」を得ようとしているのではないだろうか。

 
「誰か」から「許し」の声がかかることを夢見て―――。


 
きっとそうなのだと思う。
 
けれども、自分を責め続けることは苦しい。
 
最大の理解者であるはずの自分からダメ出しを受け続けるのは、血反吐を吐きそうなほど苦しい。
 
「許し」だって、本当に得られるかどうか分からない。
 
だから、そんな自分で自分を傷つけるようなループから抜け出して、自分自身に胸を張れるようになりたい。
 
人生を振り返って、「ああ、悪くなかったな」と誇れるようになりたい。
 
どうしたら、自責を止められるだろう。
 
どうすれば、頭の中の「世間」は消えてなくなるだろう。
 
私の模索は、今日も続く―――。



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