【エッセイ】解体と弛緩
どこかが痛むとき、その痛みを私たちは邪魔に思う。けれども邪魔なのはむしろ私たちのほうではないか。私たちがいなければ、痛みは痛みにならなかったはずなのだから。
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体と私が、痛みを介して、お互いに自分の障害となる。痛みのむこうとこちら側。
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私たちがその都度言いたがっていることと、私たちが私たち自身から聞きたがっていることは、どこかズレている
このズレを極小にできるのとが文章の上手下手ということなのだろうけれど、それを極小にすることに、なんの気兼ねもないということはないだろう
文章が上手い人というのは、きっとそのいかがわしさ、嘘とは微妙に異なっていて、それだけにいっそう苦しいいかがわしさを、抱えこんでいるのだろう
たぶん嘘つきではない。本当を言っているわけでもない
その狭間で、どちらの資格も得ることがない
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そのいかがわしさを消したがるかのように、あるいは、その輪郭をもっと確かめたがるかのように
そのあるかもしれない苦しみが、その苦しみの原因によって癒やされるとでもいうかのように
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空想に親しみすぎて、かえって想像力が衰えるということもある
たったひとつの、あるいは二、三の空想ばかりにこだわってしまったせいで、というのがまずひとつ
それから、あらゆる空想に目移りしすぎてしまったせい、というのも
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もしかすると空想は想像力の飛翔ではなく着陸なのか
空想を解体すること、空想から空想へ移っていくことにこそ、想像力は必要とされるのか
予想もしなかった空想へと向かうとき、あるいは、それがやってくるとき、想像力は想像力そのものとして発揮されているのかもしれない
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空想が弛緩していくときに、想像力は仕事をしている。その弛緩も、そこからの移行も、想像力によるのだ。空想すること、それを続かせていくことは、もうひとつの現実を続けることにすぎない。
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痛みとは私の体が私を追い出したがっているところで生じるのかもしれないし、逆に私が私の体を捨てたがっているところで生じるのかもしれない。
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想像力という言葉に、有為なものから無為なものに至るまで、あまりにもたくさんのものが一緒くたにされすぎた。たくさんの意味を背負わされすぎて、その語はもう無意味になりかけている。すくなくとも、どんな解釈も誤解を招かずにいられないくらいに潰れかけている。
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想像力は破壊を招く
思い浮かんだものはすぐにぼやけ、崩れかかり、持ちこたえるために私たちは言葉や思い出を使って脈絡をつなぐ
そうやって破壊の予感に弾かれたかのようにして、思い浮かんだものは続いていく
それらの材料を使って、思い浮かんだものを持ちこたえることは、想像力にたいする抵抗であって、想像することではないのかもしれない
読んでくれて、ありがとう。