映画版の東ゆうはすこしばかりキャラが違う


はじめに

 東ゆうは狂気を孕んだキャラクターだとされる。けれども実は、映画版の東ゆうは、他の媒体の彼女と比べると、より「優しい」キャラクターとして描かれているように思える。

 この違いは、映画の東ゆうの内面が語られないことから生じてくる。小説およびノベライズ版は、ゆうの内面描写によって、彼女のキャラクターを方向づける。たいして、映画はその媒体の制約上、そういった内面描写が省略される。

 そのため映画では、見る側は彼女の表情や言葉の調子、前後の文脈といった手がかりから、彼女の内面を推測しなければならない。この推測によって、映画の東ゆうはすこし違った人物として浮かび上がってくるのだ。

 このページは、映画版とノベライズ版における描写のこの種の「違い」に注目する。ノベライズ版は、プロットと人物の台詞がほぼ同一なので、それだけにちょっとした違いが際立つ。この「違い」に着目することで、東ゆうのキャラクターを別の形でとらえなおすことが、このページの目的だ。

東ゆうの表情があらわす負い目

 映像のゆうと文章のゆうの「違い」があらわれている点として、ここでは二つの場面を挙げる。これらの二つの場面を通して、映画のゆうは、より負い目を感じている人物として描写されているように思われる。

その1:ボランティア活動

 はじめに、ゆうが美嘉の誘いでボランティア活動に参加している場面での会話を見る。ここでゆうは、ボランティア活動にくるみと蘭子も誘い、四人一緒に行動した証拠を残そうと躍起になっている。しかし、彼女たちは二人ずつ別のグループに別れなければならなくなる。そのためゆうは落胆する。

 引用を見る前に、この落胆が、負い目と混ざり合っていることを指摘しておく。その負い目は、蘭子とくるみを無理に連れ出してきたのに、彼女たちとは別々のグループになってしまったことに起因する。ゆうはこの分断のせいで、彼女たちも自分と同じように活動を楽しめなかったと思い込んでいる。だからくるみから「裏切り者」と茶化されたとき、ゆうは目をそらし逃げる。この反応は、彼女の負い目を物語っている。

 この「裏切り者」と言われたときの負い目の描写自体は、映画版でもノベライズ版でも一貫している。

 映画版とノベライズ版の違いが生じてくるのは、次の引用の場面だ。

 浮かない顔をしているゆうを見かねて、美嘉は蘭子とくるみを昼食に誘う。蘭子とくるみのやりとりにゆうはふと笑い、それがきっかけになって雰囲気は和らぐ。その後、美嘉が二人を連れて来た理由をゆうに語る。

「みんなと一緒のほうが、東ちゃんが喜ぶと思ったから」
 美嘉がベンチから立ちあがって行ってしまったのは、蘭子たちを見つけたからだったのか。ムッとしたり、焦ったり、感情が忙しかったのは私だけみたいだ。なんだか恥ずかしい。

『アニメ映画 トラペジウム』原作・高山一実, 文・百瀬しのぶ, 角川つばさ文庫, p.66(太字は引用者)

 注目したいのは太字の部分だ。この太字の部分に限って言えば、この心情描写は、映画版のゆうの心情とは必ずしも結びつかないように見える。というのも、この場面で映画版の彼女の表情は、どこか物思わしげに見えるからだ。このときの微妙な反応は、「恥ずかしい」という反応としては不自然な印象をうける。

 ここでゆうは、またしても「負い目」を感じたのではないだろうか。つまり、今度彼女は、美嘉が「喜ぶ」と思ったことと、自分の「真意」とのズレに引け目を感じているのだ。そしてその引け目の根っこにあるのは、自分が彼女たちを利用していることにたいする「負い目」だろう。

その2:「友だち」と言えなかったとき

 この「負い目」はふたたび美嘉とのやりとりのなかで、さらに明確に表現されているように思われる。次の引用は、翁琉城でのテレビ取材のあとの一幕だ。美嘉は、取材のさい、ゆうが自分たちを「友だち」ではなく「ボランティア仲間」だと言ったことに腹を立て、ゆうに突っかかる。

 いつもはおとなしい美嘉が、振りかえって言った。
「どうせさ。私たちはただのボランティア仲間なんだよね」
 伏し目がちだが、強い口調だった。
「へ?」
 いったい何が言いたいのか、わからない。
「さっき東ちゃん、古賀さんに言ってたよ。私たちは、ボランティアでしかつながっていないみたいな言い方だった」
「ちがうちがう、それは、そう言ったほうがわかりやすいってだけで――」
[…]
「私たちはもともと友だちだったんだから。それ、ちゃんと言ってほしかったな」
 美嘉は私をしっかりと見て、言った。
「まぁいいじゃないの。東さんも悪気があったわけじゃないんでしょう」
 蘭子が間に入ってくれた。蘭子はさばさばした性格で、こういうときに助かる。それにくらべて美嘉はなんてめんどうくさいんだろう。昔からこんな子だったっけ……。
 私はひそかにため息をついた。

同上, p.92-93

 ここでも注目したいのは、太字の部分と映画版の描写の乖離だ。ノベライズ版のゆうは美嘉に苛立ち、ため息をついたと語られる。映画でのゆうの反応を見てみよう。映画のゆうは、美嘉の言葉にたいして、明確な返答をできない。そして彼女はここで微妙な表情になる。この表情のおびたかげりは、ノベライズ版のゆうの苛立ちとは結びつかないように思える。

 これもまた、彼女の「負い目」のあらわれとみなせるのではないだろうか。つまり、「友だち」だという美嘉の主張に応えることができなかったことに、ゆうは引け目を覚えている。

 だとすると、取材の場面でとっさに出た言葉が「友だち」ではなかったということも、示唆に富んでくる。つまり、そのときとっさに「友だち」と言えなかったのは、ゆうの中に、彼女たちを利用しているという意識があって、そのことに気が咎めていたからだと考えられるのだ。

 ここまで、映画とそのノベライズ版における東ゆうの描写の差異に注目してきた。映画と文章の違いは、内面が描かれるかどうかにある。映画は内面を描けないという媒体の性質上、そこに描き込まれるものを通して、人物がどう思っているかを推測するしかない。ここでは、特に違いの際立っている二つの場面を挙げ、ノベライズ版とは別のゆうの可能性について考えてみた。

 結果として浮かび上がってくるのは、映画のゆうが、(ノベライズ版とは違って)常に、他の三人を自分の目的のために利用しているという意識に、苛まれつづけていることだ。

負い目を清算したくて

 この「負い目」を手がかりにすることで、東ゆうの他の行為についても、ノベライズ版とは違った解釈の余地が生まれる。ここで考えてみたいのは、東西南北の破局の場面、とくにそのときのゆうの心情だ。彼女のあの激しい取り乱した様子にも、「狂気」とはちがった理由が見出せるかもしれない。

 そこには負い目を清算したいという切実な思いがあったように思われる。

ゆう「そんなの、おかしいよ。きれいな服を着てかわいい髪型をして、スタジオでいっぱい光を浴びて……それがどれだけ幸せなことかわかってる?」
[…]
蘭子「それを楽しいって思えるのは、東さんがアイドルを好きだからよ」
ゆう「そんなことない! 慣れていけばきっと楽しくなっていく。アイドルって大勢の人たちを笑顔にできるんだよ? こんな素敵な職業ないよ!」
[…]
美嘉「……ち、近くの……」
ゆう「え?」
美嘉「近くの人を……笑顔にできない人が?」
ゆう「は?」
[…]
美嘉「いまの東ちゃんは……変だよ……。怖いよ……」

同上, p.150-51(台詞前の人物名は引用者が加えました)

 ゆうが負い目を感じつづけていたという解釈からこの場面を見てみよう。ここでのゆうは「アイドルが楽しくない」という蘭子の発言に激しい動揺を見せる一方で、彼女たちを説得しようともしている。彼女は、アイドルを続けていくための理由と動機を蘭子たちに訴える。そして、「こんな素敵な職業ない」と言うときの、言い聞かせようとする身振りもまた、ゆうの必死さをうかがわせる。

 なぜこんなにもゆうは必死なのか。ここまで考えてきた「負い目」が理解の鍵になるように思える。つまり、彼女は自分の罪を清算したいために、ここまで必死になっていると考えられるのだ。

 ゆうにとって「負い目」の清算のための道はひとつしかない。すなわち、アイドルである自分たちを、他の三人が最終的に肯定してくれること。そこにたどりつくことではじめて、自分の「嘘」が嘘ではなくなる。皆でアイドルとしての幸せを手にするところまで行けば、彼女は自分の負い目と嘘を清算できる。

 彼女の動揺ぶりは、その清算の道が断たれてしまうことへの恐れのあらわれだ。それは彼女なりに他の三人を大切に思っていることの裏返しなのだ。

 とはいえ、この自分の感情の動きに彼女自身は気づいていないのかもしれない。というのも、ここでのゆうの美嘉にたいする冷たい態度には、そういった負い目はうかがわれないからだ。自分の「清算」を守ろうとするあまり、冷静さを欠いてしまっているのだとすれば、このときのゆうの態度はいっそう皮肉とも痛ましいと言えるかもしれない。

 いずれにしても、「負い目」という補助線を引くことで、この破局の場面はただの「狂気」とはちがった重大さを帯びる。すなわち、ゆうにとって自分の罪の清算がかかった、重大な局面としてあらわれてくるのだ。

おわりに 二人の東ゆう

 媒体が違えば、表現できるものが違ってくる。もちろん、できないものも。小説は内面を書くことができるし、映像は表情のニュアンスを描くことができる。ここでは、媒体によって表現できるもの、できないものの「違い」に注目し、東ゆうというキャラクターについて考察した。

 結果として明らかになったのは、その媒体の性質の違い(小説と映像の違い)に応じるようにして、ノベライズ版と映画版の東ゆうも、違うキャラクターとして表現されている可能性がある、ということだ。ノベライズ版のゆうと比べて、映画版のゆうは自分の「嘘」にたいしてより強い負い目を感じているように見える。ノベライズ版に「書かれていること」と、映画版に「描かれていること」の差異が、そのことを示唆している。

 もちろん、ここで示した映画版のゆうのキャラクター像はあくまで可能性のひとつだ。最初に言ったように、映画版のゆうの内面は基本的に明かされない。だから映像と文脈から推測するしかない。ここで行った考察はこういった推測にもとづいている。確定的なことは言えない。繰り返すけれども、あくまで可能性なのだ。

 とはいえ、媒体の表現の違いが、東ゆうを別のキャラクターにしてしまっていることはまちがいない。ノベライズ版のゆうと映画版のゆうは別の人間だ。そしてどちらがより正しい東ゆうというわけでもない。文字や映像といった媒体に先立つ「オリジナル」は存在しないからだ。だからどちらがより「オリジナル」に近いかという議論自体が成り立たない(※1)。文字によって表現された時点で、あるいは映像によって表現された時点で、二人のゆうはそれぞれ別の世界の住人なのだ(※2)。


(※1)もちろん、原作の『トラペジウム』の東ゆうにどれだけ近いか、という考察は可能だろう。けれどもそのような考察における「オリジナル」としての東ゆうは、ここで言っているような「オリジナル」とは違う。なぜなら、原作の東ゆうも、文字という媒体によって表現されたキャラクターだからだ。ここで言っている「オリジナル」とは、そのような文字や、映像といった媒体より先にある、と想定されるキャラクターだ。文字や映像になる以前の「人格」と言い換えてもいいかもしれない。

(※2)そう言いつつも、私たちは東ゆうという一個のキャラクターに惹きつけられる。そもそも、映画版とノベライズ版を比較するという試み自体、二人の東ゆうが同じ人物だという発想を前提にしないと起こらないはずなのだ。たしかに、媒体に先立つ「オリジナル」としての東ゆうが存在するわけではない。なのに私たちはどうしたってこういった「オリジナル」の存在を想定してしまう。こうやって「想定」が起こってしまうこと自体、興味深いし、無視はできないのだけれど、この考察は分量的にも、このページの能力的にも負担が大きすぎる。

このページでは、媒体の性質の違いという観点から、ひとつの作品の映画版とノベライズ版について考えました。これは同じ作品の、媒体間の比較ということになるかと思います。下にリンクを置くページは、ひとつの作品内で、別の媒体が用いられることの意味を考えたものです。具体的に言えば、二次元とCGという媒体の違いが、物語においてどんな意味を持っているのかを考察しています。

 『トラペジウム』についての他の考察はこちら。

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