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【エッセイ】無能
もし動物と対立させて「人間」と呼ばれるなにかに固有のものがあるとすれば、それは無能力であることだ
「人間」は、動物のようには自然に対することができない。だからさまざまな道具を創り出すことによって、その交渉を模倣した
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道具はどれも人間の無能力の痕跡であり、証だ
たしかに道具はなにかを可能にしてくれる
けれどもそれは、これまでの私たちがなにをできなかったかを、いかに無能であったかをも暗に語っているのだ
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とはいえそれは、その道具がつくりだされるまで、誰も思いも寄らなかったような無能力だ
たとえば車輪の発明によって、人はどれだけ自分たちがのろまだったのかを思い知る
その「のろまさ」にしても、車輪と対応したのろまさで、車輪がなければ生まれない「のろまさ」だったろう
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もちろん、最初にある不足があって、それを満足させるためになにかが創り出される。けれども、その創造によって生み出される不足のほうが解消される不足よりずっと多い。質にしても量にしても。
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不足を解消させるためになにかを創り出すという、創造についての考え方自体が、時代に縛られたものかもしれず、ある創造によってなにか新しい展望が開ける、という希望もまた、一種の時代的偏見かもしれない。
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創造は、人間の未来に新しいなにかを付け足しつつ、引き算もしている
なにもないところからなにかを「引く」ことによって、無から無を引くことによって、新しい可能性は生み出される
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人間はみずからの可能性を際限なく拡大していく一方で、それとまったく並行して、みずからの無能力も拡大させていく
それまではなかった不可能を、世界には登録されていなかった無能力を、「人間」に刻みつけていくのだ
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創造は「不可能を可能にする」。この言葉の意味をどうとらえるべきだろう。その創造におかげで、なによりもまず、その不可能の不可能性が可能になったのだ。つまり、人間の新しい無能力が。
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なにもできない、という無力感は、創造によって引き起こされた一種の中毒症状なことがある。みずからのなかにあらわれた新しい無能力、それもまた「創造」の産物だ。
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その無力感を感じとるとき、その人はたしかに、「創造」と呼ばれるなにかの一端に触れている。それはその「創造」というもののもっとも暗く、奥まった部分でさえありうるだろう。いつか、この暗い部分こそが、「創造」の主要なはたらきだとされる時代が来るかもしれない。きっとそのような時代は、つねに、目の前まで来ている。
読んでくれて、ありがとう。