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「自分」という破砕事
息が苦しいとか、痛みが耐えられないとかいうとき、
ふと、そういった感覚にある体を、他人事のように俯瞰している感覚に駆られることがある
これが、「自分」という意識のはじまりなのではないかしらと思う
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自分というのは、なにかに集中するところに潜んでいるというよりも、その注意力が散漫になっていくところにあるんじゃないかという気がしてくる
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恥ずかしすぎて消えてしまいたいだとか、
嬉しすぎてどうになかってしまいそう、
おかしすぎて笑い転げてしまいそうだとか、
そういったときにも、ふと気づけばそんな感覚を俯瞰している自分がいる
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ふとした油断というか、ふとした弾みのズレに自分が潜んでいるというなら、「自分」というのは、ある連続性を断ち切るものだということだろうか
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「自分」とかアイデンティティといったものは一見、自分の連続性を保証してくれているように見える
けれども実は、それらは常に、それを忘れている時間を断ち切ることによって、自分がひとつづきであることを主張する
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自分というのは、連続であるようにに見えて、実は他の連続を邪魔することによって、連続しているかのようにふるまう。
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これは、ある連続した言葉とか文章が、他の可能だった連続を追い出すことで、みずからのフィクションを確立してしまうのと、どこか似ているように思える。
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「自分」は痛みを感じていること、苦しみを感じていることのなかの、ちょっとした気のゆるみから生じた
仮にそうなら、「自分」のはじまりとは、ある別の状態からの「離脱」としてまずあるのかもしれない
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その離脱のあとでやっと、ある経験の二重化、もっと言えば多重化がやってくる
物語とか、フィクションというのはここで生れる
「自分」も実を言うと、その多重さのなかのひとつにすぎないのだろう
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その多重化した経験のなかから、どれを選ぶか。どう断ち切るか
すこしばかり飛躍すると、それが芸術という営みのもっとも原初的な部分と言える
だから芸術とは、なによりもまず気のゆるみであり、一時の油断としてのなにかからの離脱だろう
むりやり着地するなら(ということはさらに飛躍するなら)、たしかに「自分」も芸術の一種ではある
読んでくれて、ありがとう。