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【めも①】触媒、イメージ、繰り返し

思わず読み入ってしまう文章のなかには、ついその題名さえ忘れてしまうようなものがある。
ふと息をついて、何を言っていたのか、この文章は何なのかと、思い出したように題名に帰ろうとする。
きっとその文章は、題名を忘れさせるほど私たちの内部に入り込んでいたのだ。あるいは私たちの内部がそこで語っていたのだ。
そのとき、文章は触媒だった。私たちと私たちの内部とのあいだの。

触媒は、それ自体意識されないことによって、触媒となる。

ある文章が触媒になるというのは、文章が後景に追いやられてしまうというのとは、ちょっと違うんじゃないか。
むしろそういうときにこそ、文章は文章としてあるのだ。
文章が、そこにこめられたただの意味を、脱していくこと。
その言葉があなたの胸を打つのは、意味が十全に伝わったというより、その意味の壁を乗りこえて、あなたの内を響かせたものがあったということなのだ。
それが何かは、よく考えてみないとわからない。よく考えてみてもわからない。だから難しい。読むことも書くことも。

処女作を読んでもらいたいためだけに、書き続ける作家がいるかもしれない。
ただ処女作を忘れられないためだけに、それを少しでも確かに人々の記憶にとどめて未来に残すために、ひたすら書き続けるのだ。
けれどもそんな風変わりな作家がいるとして、私たちは人としてそれを責めたりなんてできるだろうか。
私たちは私たちで、自らの原初を守るために、生き続けてなどいないとは言えない。

その原初を覚えていないのにどうして守るなんて言えるのか? と思うかもしれない。だが、覚えていないからこそいっそう私たちはそれを守っているということもありうる。

同じ小説を読んだ二人の人間の頭のなかに浮かんだイメージについて想像しよう。二人ともその小説に心動かされた。二人とも同じ箇所について同じ意見を持っていて、同じだけ感動したと言い合う。二人はお互いに通じ合った、一致した考えをもっていることを確かめ合う。
けれども、その同じ文章から生まれた二人の頭の中のイメージまでも一致しているとは、とても考えられない。一人の登場人物の姿が、二人の頭の中で同じだなんてことあるだろうか? ないだろう。それと同じだ。頭の中のイメージは決して一致しない。それでも、私たちは感動を共有しあう。しあっていると感じる。

テクノロジーだとか、新しい生活様式だとか、新しい職業だとか、そういった言葉で包まれたその下にある、何百万年も変わらないヒトの形を見通そうとする。それが、いわば「人間」なのだろうか? だけどそういった部分を見ようとするとき、そこに浮かび上がってくるものも、それに対する自分の気持ちも、まるで動物を、自分とはまったく馴染みのない動物を、眺めているかのようなのだ。


読んでくれて、ありがとう。

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