【エッセイ】「諦める」ことと「忘れる」こと
なにかしらを「諦める」、「諦めた」というとき、そこにある状態は奇妙だ。その対象に向かう自分の感情や願望を断ち切ろうとするようでいて、そうやって断ち切ることそれ自体によって、新しい繋がりが生まれるからだ。
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なにかを「完全に」諦めることはできない。別の言い方をすれば、「諦める」という言葉は、それ自体が常に矛盾している。
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矛盾した状態を意味しているのではない。その言葉が連想させる運動、それ自体が矛盾している。
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結局のところ、ひとつの絆ができあがってしまった以上、私たちはそれを断ち切ることなんてできず、加工していくことしかできない
「諦める」という言葉は、その加工の度合いがあまりに急激すぎるときに、用いられる語のひとつだ
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忘れてしまうことも、ひとつの絆なのだと思う
「諦める」とは別の仕方のつながりなのだろうと思う
けれども、「諦める」が意志とか、一貫性とか、論理的な納得を含まなければいけないのにたいして、
「忘れる」はそういったものを含んでいないし、含むこともできる
つまり、「忘れる」とは、そこにどんなつながりがあるのか、まったく予想もつかないような、予想不可能な絆を結ぶこと、すくなくともその可能性を仕込んでおくことなのだ
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だから、私たちはなにかを完全に「忘れる」こともできはしない。
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「諦める」と「忘れる」の違いを一言で言いあらわすなら、それは意思があるかないか、だろう。
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「諦める」がそれ自身であるために不可分である意思。けれども、その不可分の「意思」さえなければ、「諦める」は自分自身の望む「諦める」に、なれたはずだと信じている。
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だからある意味、「諦める」は「忘れる」に憧れているのかもしれない。けれども、「忘れる」も自分が苦しんでいるのと同じ絆を苦しんでいることに、「諦める」は気づくことができない。その状態こそが、「諦める」の体臭のようなものであり、そこには、「諦める」の意味の予兆のようなものがある。
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「諦める」も「忘れる」も、ついには、その言葉の意味がめざすところとは一致しない
むしろ、それらの言葉が発されるたびに、めざす先との距離が開いていくぐらいだ
自分がなにかを「諦めた」「忘れた」と、その言明を重ねれば重ねるほど、そのめざす先から遠ざかっていく
そうやって距離として積み重なっていったものがいつしか、
そのめざす先のかわりになる
読んでくれて、ありがとう。
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