【エッセイ】比喩に潜んだ「弱さ」
比喩とかたとえとか、とにかくそういったものには、必ずどこかに「弱さ」がある
どこかと問うてみてもはっきりとはしないが、
そうやって結びつけられたふたつのもののあいだとか、
そうやって結びつける理由になった類似だとかあるいは経緯だとか、
そうやってそれらを結びつけようとした心だとか、とにかくどこかに、「弱さ」が潜んでいる
たとえ話は、ある意味その弱さを隠すことであり、そうやって隠すことによって、その弱さをつくりだすことだ
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たとえ話を聞かされたときに、それが上手ければ上手いほど、私たちは腑に落ちて、なるほど、となってしまうけれど、その腑に落ちた感覚にまるで反発するように、私たちのどこかが「嘘だ!」と叫んでいる。むしろ、あの腑に落ちたという感覚の快さは、そんなふうな納得と反発が衝突した結果かもしれない。
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たとえ話を持ち出すほど、「弱さ」が負い目のように覆いかぶさってくる
それを創りあげた本人でも、それがどこに潜んでいるのかわからない。感じてさえいないこともままある
けれどもそうやって創造されたもののどこかから、その「弱さ」が、まるで身を潜めた猛獣みたいに、創り手をうかがっている
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たとえ話によって、こんがらがっていた事態が突然わかりやすくなることがあるということを、そのたとえ話を聞いた側ではなく、それを創った人間の側からながめてみる
その人自身、そのたとえ話に納得がいっているだろうか? その人の納得や満足はきっと、聞き手が「それを創った自分が思っている以上に腑に落ちている」ことによって、もたらされる
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たとえや比喩、それ自体を創り出したその瞬間にその人が感じているのは、満足や達成感よりもむしろ不安だろう。その「弱さ」に独りで対していることについての。
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あなたの比喩は、あなたの思いもしないあなた自身の弱さを、つねに言い当てようとし続けている。言い当てているわけではない。けれども、だからこそなおさら不安を煽る。
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すぐれた比喩は私たちの想像力を解体させる。その想像力を、まったく新しい形に組み直す。ある意味で、受け取った人間は破壊される。しかもそのあとに何が来るのか知れない。その比喩から発してくる予感があって、その予感のまわりに、想像力のかけらたちが群がる。
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私たちは傷つけられ、その傷があまりに深いために、その傷のほうがそこから先、私たち自身であるかのように振る舞いだす
私たちのほうが、あたかも、その傷にとっての傷であるかのようだ
こうやって、傷の傷の傷となにかが続いていくのだとして、そのはじまりには、なにか無傷のものがあったのだろうか?
傷という言葉は、そんな無傷があったかのように、周囲の言葉を振る舞わせる
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そうして、傷という言葉それ自体は、そんな周囲の振る舞いを望んでるわけでもなければ、望んでいないわけでもない。
≠
比喩のなかの言葉たちも、傷という言葉と同じように、その周囲にどんな振る舞いも期待していないし、そもそも期待の有無がそれ自体ない
比喩は、そのような言葉の側面があからさまに利用され、そしてあらわれている場だ
ひとつの比喩へと集められた言葉たちは、自分たちの無力さをさらすことで、その集まりを比喩へと昇華する
きっとその自分たちには、それを創った人間のなかの弱さも、暗に巻き込まれている
比喩は、それに関わったすべてを、まるで心中のように無力にせずにはおかない
読んでくれて、ありがとう。