熊本からの来訪者たち:『三四郎』と『ガールズバンドクライ』
「熊本」という偶然?の一致
このページはある一致からスタートする。ガールズバンドクライともうひとつの作品をつなぐ一致から。
そのもうひとつの作品とは、タイトルにもある通り『三四郎』。夏目漱石が1908年に発表した小説だ。
この『三四郎』という作品の主人公三四郎は、熊本から東京に出てくる。熊本は『ガールズバンドクライ』の主人公、井芹仁菜の故郷でもある。また三四郎は、熊本から東京の大学に通うために上京してくる。それは、仁菜が熊本から予備校に通うために川崎(本人は最初、東京だと思いこんで川崎にやってくる)に引っ越してくるのと重なる。
これら2つの作品は、「上京」というモチーフを共有していて、それだけでなく主人公がどちらも「熊本」から出てくる(※)。
「上京」というモチーフに関しては、他にも共通している作品はいくらでもあるだろう。けれどもそこに、その主人公が「熊本」を出てやってくる、という事が付け加わると、話は変わってきそうだ。付け加えるとこの二つの物語、どちらも「列車のなかで主人公が眼をさます」ところからはじまる。
小川三四郎と井芹仁菜。熊本から上京してくる二人の主人公。この一致は偶然だろうか。
と問いつつも、この一致が意図されたものなのかはここでは考えない。ここで行うのは、この一致を手掛かりにして、そこからどんな考察が出てくるのか、それ自体を探ってみることだ。言い換えると、この100年以上を隔てた二人の人物をつなぐこの点から出発して、どんなアウトプットがなされるのかを探ってみること。
偶然に見つけてしまったディティールの共通点から、二つの作品を、なにかの理由付けによって結びつけられるか考えてみようという、ちょっとしたお遊びだと言えばそれまでかもしれない。
象徴としての「動物」
さて、この二人が、熊本からの上京という点を共有しているとして、他にも一致点はないのか考えてみた。そうして目についたのは、この二人には、どちらも象徴的な動物と結びつけられる場面があるということだ。
もちろん、その「動物」の重要度には違いがある。三四郎におけるその結びつきは、ひょっとすると物語の主題と結びついているかもしれないくらい重要だ。たいして仁菜のほうはほんのワンシーンで語られるだけ。その差はたしかにあるのだけれども、どうせ偶然と思える一致から文章を起こしたのだから、さらに偶然のおもむく方向に言葉を押し進めても、許されるだろうと思うことにして、書いていく。
このとき、結びつけられる動物の違いが、熊本から出てきたことでは共通していた二人を、まったく対照的なキャラクターとして示すだろう。
その動物たちがまずあらわれるのは三四郎においては第5章の終わりから第6章のはじめにかけて、仁菜においては第6話。この動物たちがどちらも同じ章あるいは同じ話数で登場していたら、さらに「おぉ」となるところだけど、そうはいかなかった。まあ話の全体からみて、だいたい同じ位置に彼らが登場するというところで「お」と思っておくことにする。つまり、物語の半分にさしかかる地点のすこし手前のあたり、ということ(ちなみに『三四郎』は全13章で、『ガルクラ』も全13話。まあこれは1クールのアニメはたいてい12~13話で完結するから、というだけなのだけど)。
「迷羊」としての三四郎
まず三四郎について見ていくが、その前に三四郎自身について説明しておく。彼は熊本の高校を卒業して、東京の大学に通うことになった若者だ。彼にとって東京は真新しいものばかりの場所で、そこで彼はいろいろな人たちと出会う。大学の友人与次郎、与次郎が尊敬する広田先生、先輩の野々宮、それに美禰子(みねこ)といった人たちとの交流がはじまる。と、こう説明するとなんだかフツーに思えるのだけれど、この三四郎という主人公、なかなかヘンな奴なのだ。
三四郎は徹頭徹尾、受動的だ。
三四郎は田舎の純朴な世界から、東京という新しい世界にやってきて、それまで知らなかったものと接触する。けれどもそこでの彼の反応は、それら未知のものに驚きはしても惹きつけらることはなく、かといって無関心というわけでもなく、ただその事物についてぼんやりと思いを巡らせる、といった感じなのだ。東京で触れるものに驚きはしても、それらの新しい体験は、三四郎のなかで確固とした考えや行動といったものにはつながらない。
そんななかで、彼は美禰子にたいしてだけ、ほんのすこし積極的な反応を示す。けれども、結局彼女は別の誰かと結婚してしまう。
「動物」は、このような彼の在り方をあらわすために登場するように思われる。その動物とは「羊」だ。
次の引用はその動物がはじめて登場する箇所。この場面に至るまでのあいだに、三四郎は美禰子を含めた友人や先生たちと出かけている。彼らとは別行動をとり、美禰子と二人きりになったのがこの場面。最初に言及される広田先生や野々宮さんは、その一緒に出かけたメンバーをさす。
ここで二人して迷っている今の状態を、美禰子が「迷える子(ストレイ シープ)」と形容していることは明らかだ。このとき、この羊(シープ)はたしかに、象徴的な意味を帯びている。
その意味が、読み手に明らかになるのはずっと後になってからだ。ストレイ・シープは、物語の最後にもう一度登場する。今度は三四郎の口から。
この最後の時点で、美禰子は三四郎とは別の男と結婚し、三四郎は失恋している。実は美禰子は絵のモデルをやっていて、完成したその絵を展示した展示会が催されている。物語は、三四郎が美禰子をモデルにした絵「森の女」を前にしたところで終わる。その最後の場面。与次郎は三四郎の友人だ。
ここでの迷羊は二つの意味を持っている。ひとつは、目の前にある「森の女」という美禰子の絵の題名としての「迷羊」。それは美禰子という自分の振った女に向けた内心の呼びかけでもあるだろう(美禰子がどのように「迷羊」なのかという点には、ここでは深く立ち入らない)。ふたつめには、三四郎の在り方それ自体をあらわすものとしての「迷羊」。
この「迷羊」こそが、三四郎についてのもっとも端的な言葉と言える。彼が徹頭徹尾受動的だということはすでに言った。彼はどんなものにも流されるようにしてしか反応できない。そして唯一積極的に働きかけようとした美禰子は、彼の手を逃れていく。彼は迷いこんだ羊として出来事を経験する。そして最後にそのような自分(と美禰子)を見出して、『三四郎』は終わる。その流されるままの態度が「迷羊」なのだ。
「闘牛」としての仁菜
たいして、井芹仁菜の場合はどうだろうか。
彼女の場合は先にも言った通り三四郎にとっての「迷羊」ほど大きな意味合いは含まれていない。とはいえ、その動物が彼女のキャラクターに密接に結びついたものであることはたしかだ。
仁菜についても三四郎と同じく手短に説明しておこう。彼女が熊本から上京してくるのは、大学受験にむけて予備校に通うためだ。物語のはじまる前に、彼女は高校を退学している。退学の原因は主に二つある。ひとつは高校でのいじめ。もうひとつは父との確執だ。いじめが明るみになったさい、カリスマ教育者として有名だった父(井芹宗男)は、学校側と取引をしてもみ消しを図った。いじめと同じかそれ以上に、父のやり方に腹を立てたこともまた仁菜の退学の理由だ。
このように仁菜は、いじめと父への反抗から高校を辞め、自分が「まちがっていない」ことを証明するために上京してくる。そしてそこで、自分が退学を決意する契機となった歌の作曲者、桃香と出会い、ひょんなことからバンド活動に身を投じていくことになる。
繰り返しになるが、「動物」が登場するのはガルクラ第6話だ。これ以前に仁菜は、ギターの桃香とドラムのすばるとともに、自分はボーカルとして、「新川崎(仮)」というスリーピースバンドを結成している。第5話で仁菜は、もともと桃香が所属していたバンドである「ダイヤモンドダスト」の新しいメンバーが、高校で自分を裏切った元友人ヒナであることを知る。対抗心に燃え、今のダイダスの在り方に疑問を抱く仁菜とは対照的に、桃香は煮え切らない態度をとり、それが仁菜には気に入らない。そんな二人のいさかいののなかで、「動物」が顔を出す。桃香と別れ、すばるとともに吉野家で牛丼を食べているときのこと。
ここでは、すばるが仁菜の突っかかり方を、「闘牛場の牛」にたとえる。上で述べた父との確執からもわかるとおり、仁菜は「嘘」を許さない少女だ。そして彼女の「嘘」にたいする感度が、この直前のやりとりのなかで、桃香の態度になんらかの「嘘」を読み取っている。そこでは、仁菜に「目標」を問われた桃香が、仁菜の「大学受験」を盾に話題を逸らす。すばるから改めて「目標」を問われても、桃香は「目標はない」と応じる。仁菜が突っかかるのは、こういった桃香の態度に、自分自身に「嘘」をついて逃げる気配を感じとっているからだ。「嘘」を読み取って、なりふり構わず追及していく姿は、たしかに「闘牛」的なそれだろう。
「闘牛」という動物は「嘘」にたいし厳しく激しい態度をとる仁菜を象徴する。実際、父が講じた「嘘」を許せずに、家を出てくるその猛進ぶりも、「嘘」にたいする彼女の激しさを物語っている。それが桃香に向けられるとき、仁菜の振る舞いは「闘牛」になぞらえられる。
このように、三四郎においては「羊」が、仁菜においては「牛」があらわれて、それぞれのキャラクター性と結びつく。「羊」は三四郎の受動的な寄る辺なさを、「牛」は仁菜の「嘘」にたいする能動的な態度を象徴する。「熊本」を出てきた二人だが、その性格はまるきり正反対のようだ。「羊」と「牛」がまったく対照的な人物像を浮かび上がらせていることを強調して、次の項に移りたい。さらに偶然の一致がないか探してみよう。
「帰郷」と「帰還」
ほかに共通したなにかはないかと考えてみて、思いあたったもの、それは「帰郷」と「帰還」というイベントを二人とも経験することだった。正確に言えば、それは帰郷して、今暮らしている場所(東京or川崎)に戻ってくるというイベントだ。
ただこれに関しては、偶然の一致とは言い切れない。<上京>というモチーフが用いられている以上、「帰郷」というイベントが発生するのは、物語の構造上の要請として、よくあることだと言えるからだ。
といって、「<上京>というモチーフがある以上当然必ず帰らなければならない」という決まりはない。たまたま二人がまったく別の出来事の連なりのなかで同じ行動をとった、というだけなのだから、偶然の一致だといえばそうなのかもしれない。なんだかよくわからないことを言っている。要は、この一致は偶然とは言い切れない、けれども必然というには結びつきが弱い、といった感じのことを言いたいのだと思う。
結局のところ、こういった一致が必然かそうでないのか、偶然かそうでないのかは、最終的には、作り手がそれを意図していたかどうかにあるのかもしれない。けれども、もしなにか答えが返ってきたとしても、この文章自体の説得力なり何なりが増すわけじゃないと思う。なぜかと言うと、この文章が、「『ガルクラ』が『三四郎』を踏まえている」という主張をしているわけではないからだ。二つの作品の交わる点を、いわば探検しているだけなのだ。もちろん、なにかを発見できればと期待はしているけれども。
話を戻す。この「帰郷」と「帰還」のなかで、どちらにおいても大きなイベントが起こることは共通している。三四郎の帰郷では、直接語られてはいないものの、彼の結婚についてのやりとりが交わされたことが推察できる。また仁菜の帰郷においても、そこではすれ違った父との対決を通じて、自分の道の選択を迫られる。そのようなイベントを経て、二人は東京or川崎に戻ってくる。
「帰郷」して、故郷から「帰還」して、その出来事は二人にどんなふうに影響して、二人についてどんなことが示されるのか。ここではひとまず、この出来事が、「動物」と同じように、三四郎と仁菜の対照を浮かび上がらせるということを、予告しておく。
故郷を喪失した三四郎
先の「動物」と同じように、まずは三四郎から見ていこう。
彼の「帰郷」と「帰還」は、帰郷して何が起こったのかがまるごと省略される。彼の帰郷は、第12章と第13章のあいだの、ものすごく広い行間のなかに埋め込まれている。
けれどもそこで三四郎がなにを感じたのかは十分考察できる。実はここでも「迷羊」が関係してくる。三四郎の、流されるしかない寄る辺なさ、その意味が、「帰郷」という語られないイベントを通じて、もっと深刻さを帯びて浮かび上がってくる。
第12章の最後、三四郎は美禰子に会い、結婚することを確かめる。その後家に帰ると、母からの電報が届いている。
この文章で第12章は終わる。次の第13章では、美禰子をモデルにした絵を展示する会が語られる。第12章から、やや時間が経っている。そして結末近くで、三四郎が帰郷していたことが明かされる。「動物」の項での引用と多少重なり合ってしまうのだけれど、大事な部分なので許してほしい。
ここでの三四郎の「帰京」は、東京への「帰還」を意味する。ひとつ上の引用からもわかる通り、三四郎の母は、三四郎の帰郷を催促していた。そしてその背後には、母はずっと、三四郎に故郷のある女性との縁談をほのめかしつづけていたという事情がある。このことからして、彼の帰郷の際、縁談についてのやりとりがあったことは確実だろう。失恋を経て、実家に戻ったさい、その縁談はどうなったのだろう?
三四郎がその縁談を拒んだのか、受け入れたのか、それ自体はどちらともとれると思うし、その答えは重要ではない。というのも、どう返答したのだとしても、三四郎というキャラクターは依然として救われていないからだ。どういうことか?
注目すべきなのは、三四郎が「迷羊」という言葉をつぶやくのが、この「帰郷」が語られた直後だということだ。この「帰郷」と「迷羊」の位置関係に注目しよう。これは彼が、「帰郷」と「帰還」を経てなお「迷羊」であることを意味する。
つまり、三四郎は故郷にさえも自分の居場所を見出していないのだ。
だとすると、「迷羊」という彼の在り方は、かなり深刻な様を呈している。東京においてだけではない。故郷でも彼は自分の定まるべき場所がわからなかった。三四郎は、東京に代表される新世界にも、自分の故郷に代表される旧世界にも、そして、女性との関係というもうひとつの世界においても、居場所を見出せないという意味で、「迷羊」だ。
彼のなかでは、<田舎>⇔<都会>といった対立さえ、成立していない。彼はついに、どこまでも徹底的に、世界の狭間に取り残されるらしい。
故郷を選び取る仁菜
仁菜の場合は、「帰郷」と「帰還」は第10話で起こる。彼女の場合は、三四郎とは対照的に、帰郷を通じて、彼女は自分の居場所と自分の在り方を決定することになる。
第10話までに、仁菜は、バンド活動に専念するために予備校をやめる決心をし、そのことを手紙で実家の父宗男に伝えている。それを受け取った父は母と一緒に仁菜のもとにやってくる。対話を拒否する仁菜は逃げ回り、父はやむなく熊本に戻るが、その際、仁菜のアパートの鍵を換え、彼女がアパートを使えないようにしていく。結果として閉め出された仁菜は、バンドのベースであるルパに説得され、熊本行きの新幹線のチケットを受け取り、実家におもむくことになる。
この帰郷のさいの父との対話については、詳述はしないが、仁菜は父との対話を通して、決意を新たにする。仁菜の「帰還」は、第1話の冒頭、彼女がはじめて上京してきた場面をひとつずつなぞるようにして、提示されていく。そして彼女は、これもまた第1話のラストと同じように、桃香とともにバンドをするきっかけの場となった川崎アゼリア前の広場に立ち、次のように言う。
そうして、第1話でのはじめてのライブを思い返すようにして、思い出の曲「空の箱」を口ずさんでいるところに、彼女を待っていたバンドの他のメンバーたちが姿をあらわす。彼女たちが待っていてくれたことに涙ぐみ、駆け寄ろうとしつつ、仁菜は言う。
「帰ってきた」、「ただいま」。これらの言葉は、仁菜が「帰郷」とそこからの「帰還」というイベントを経て、新たな居場所を見つけ出したことをはっきりと裏付けている。それは川崎という町でもあり、トゲナシトゲアリというバンドそれ自体でもあるのだろう。
ここには三四郎にはなかったものが見出せる。三四郎と違い仁菜は、自分の意志で故郷を選び取っている。「ただいま」という言葉を発することによって、彼女は自分の居場所はここだ、と決断したことを示す。
こんなふうに、仁菜は、「帰郷」と「帰還」を通して、自分のアイデンティティを確認し、いわば自分を選び、決断する。これは、帰郷してなお「迷羊」だった三四郎とは明確に異なっている。ここでは「帰郷」して戻ってくる(「帰還」)という二人の経験するイベントの一致に注目したわけだけど、ここで明らかになるのはまたも、二人の対照だ。
社会と自分のあいだの「ズレ」 偶然?の一致とは別の結びつき
この文章は、最初に「熊本」からの上京という偶然?の一致から出発して、そこから小川三四郎と井芹仁菜という二人のキャラクターの考察に入っていったのだった。他に一致点がないか探してみた結果、「動物」と「帰郷⇒帰還」という二つのモチーフの一致が見つかって、それらをもとにこの二人を比較してきた。
こうして見てくると、同じだったのは最初の「列車に乗って『熊本』から上京してくる」、というアクションだけのようにも見える。そこから先にある一致する部分を探って明らかになってきたのは、その一致点たちがことごとく、二人の全く異なった人物像を指し示しているということだ。
流されて、何者にもなれない三四郎と、「嘘」に立ち向かい、自分自身を選び取る仁菜。二人は別の人間だ。結局この探索が、この当たり前の事実を裏付けるだけで終わってしまうのだとしたら、それはちょっと物足りない気がする。
もうすこしだけ探索を続けてみよう。ここでは、三四郎と仁菜の性格の違い、その根本を考えたい。それによって、この離れ離れになってしまった二人を、「熊本」から来た、という偶然?の一致とは別の仕方で、結びつけてみたい。
この二人の違いはどこにあるのか。ここまでの考察を経たうえで、それを一言で言いあらわすなら、それは社会と自分のあいだにある「ズレ」を認識しているかどうか、だと思う。
三四郎はその「ズレ」に気づかない。突き詰めて言うなら、そもそもそのような「ズレ」にたいする感性、それを判断する感性自体が備わっていない。三四郎の受動性は、ただの受動的な態度とは違う。感性が備わっていないなら、「ズレ」にたいして受動的か能動的か、その選択自体ができないからだ。この欠如のために、彼は「迷羊」となる。
たいして、その「ズレ」に気づいている、それどころかそれを感じすぎてしまうほどの強烈な感性を備えているのが、仁菜だ。彼女はそれを見過すことができない。その「ズレ」を隠蔽するような「嘘」を無視できない。だから時には「闘牛」のような振る舞いに出る。そして「嘘」をつかないために、自分自身の在り方を貫いていくことができる。
「ズレ」を受け止めることさえできないか、その「ズレ」に気づき、能動的に立ち向かっていこうとするか。三四郎と仁菜の違いはここにある(この「ズレ」への感覚を違和感と言い換えてもいい)。「熊本」から来たこの二人はそれぞれに、社会と自分のあいだにある「ズレ」にたいする、まるきり別の反応の仕方を表しているのだ。
ここで「この『ズレ』についての考えは、二人のあいだにある100年以上の時間の隔たりを無視している。違いは二人の生きる社会の側からも考えないといけない。そちらはどうなんだ」と問われると、わからないと答えるしかない。その分析は、このページの能力を超えてしまう。
とはいえいずれにしても、こう言うことはできるんじゃないか。つまり、社会と私たちのあいだにあるこういった「ズレ」は、形はどんなものであっても、常にありつづける、と。
この二人のあいだで一致しているかもしれないし一致していないかもしれない「ズレ」。これを偶然?の一致をたどってきて出力されたアウトプットとしていいのか、それもわからない。けれども、すくなくともこの「ズレ」という観点の下でなら、三四郎と仁菜という、「熊本」からの来訪者たちを結びつけられそうに思える。偶然状の一致とは別の仕方で、社会と自分の「ズレ」にたいする反応の二つのタイプとして。だからひとまず、これを偶然?の一致からはじまったこの文章のアウトプットだということにして、この文章は区切りをつけることにする。
ここで扱ったガルクラ第10話について、別の着眼点からの考察が以下にあります。よければのぞいていってください。