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不登校をめぐって、社会にウヨウヨしているオバケの声

私は母親として、子どもが不登校になった二年間の渦中にいるときも、その後も、不登校についていろいろなことを感じてきたし、考えてきた。

不登校をめぐって、まだ私の中にくすぶっている何かが間違いなくあって、たまにその何かにボフッと点火する音が聞こえる

先日もそうだった。

ある人が不登校支援について、
「不登校の"かわいそうな"子どもたちを社会は助けなければいけない」
と語っているのを聞いた時に、心がザラッとして、ボフッと点火する音が聞こえた。

SNSで流れてくる記事で
「不登校は、親が変わればすぐに直る!」
みたいなタイトルの記事を見かけたとき、同じように心がザラッとして、ボフッと点火する音が聞こえた。

そもそもこのザラッとするのは、なぜなのだろうか?
私はなぜこれらの言葉にザラッとするのだろうか?

社会で聞かれていない声がそこにある

なぜザラッとするのか?という問いをずっと持ち続けて数年過ごしていた中で、今朝、ワールドワークLABOのnote記事を読んだ。

特に、この記事の中のさっちゃんのこの語りが心に刺さった。

一方で、「不登校はわがままだ」「学校に行かせるのは(母)親の責任だ」と実際に周囲から言われたり、空気のように感じたり(※)、私自身の中にも同じような声があって、無理やり学校に行かせようとしたこともありました。

(略)

「(もちろん子どもが大変だけど)私が大変だ!」と抑圧してきた自分の気持ちを初めて口に出すことができました。

大変なのは子どもなのだから、自分の大変さなんて言ってはいけないと思い込んでいたんですね。
でも辛い気持ちはある。

だから無意識に、「私が辛さを我慢しているんだから、あなたも我慢しなさい」と自分と子ども、双方の感情を抑圧していたことに気がつきました。

自分の辛さを出して肯定することができたおかげで、初めて子どもの辛さも肯定できました。

(略)

さらにDayaは、私の葛藤と社会の問題とがつながっていることを紐解いてくれました。つまり、今の学校では現場へのしわ寄せが大きく、先生や子どもに過重な負担がかかるという問題や、仕事と育児を両立する責任や子育ての責任が(母)親に集中するという問題です。

そのおかげで私は、「私が悪いのかな」なんて思わなくていいんだ、と心から思えました。

私は、子どもが「学校に行かない」という選択をした時に、過呼吸の症状が頻繁に出ている子どもの姿を目のあたりにしていた。

これ以上無理をさせるのではなく、この子の命を守ることを選択しようと思ったこともあり、少しさっちゃんのケースとは違う部分もあるけども、共感するところがたくさんあった。

特に、
「(もちろん子どもが大変だけど)私が大変だ!」と抑圧してきた自分の気持ち
のところは、本当にそうだよなぁとしみじみ感じた。

そう、自分の気持ちを抑圧してしまう。ないことにしてしまう。

不登校の二年間の間、「学校に行かない」ということに紐づく、多種多様な大変さ・苦悩がこんなにも家庭に訪れることを私は知らなかった

実際に体験してみて、初めて知ることになって、本当に大変だった。

ものすごく心身が削られていたなぁと今、振り返って思う。

よく世間で語られている勉強の進み具合とか、友だちとの繋がりが持ちにくくなるとか、それだけのことではなかった。

我が家の場合は、一番つらかったのは、子どもが抱える心のしんどさのケアを、毎日毎日求められていた感じがあったことだ。
子どもがずっと四六時中家にいて、私はリモートワークをしていた。
だから家にいると、ケアをしてくれと子どもから追いかけられている感じがずっとずっとしていて、つらかった。

きっと、家庭によって子どもによって違う、と思うけどやっぱりそれぞれの大変さがあると思うが、この親としての大変さはとても語りにくい実感がある。

あまり社会の中で聞かれていない声だと思う。

家庭の中でケア責任を負いがちな母親だからこそ、背負ってしまう苦悩なのではないだろうか。

社会でウヨウヨしているオバケの声

社会では、その母親が背負いがちな苦悩や語りにくさにはあまり想像を働かせてもらえない

その一方で、母親を責めるような声の方はとても大きくて社会でウヨウヨしている

まるで社会をただようオバケのような声だ。

「子どもが不登校になるのは、母親がきちんと子育てをできていないからではないか?」
「子どもに愛情をかけられていないのではないか?」
「不登校に追いやったのは母親の子どもへの関わり方のせいではないか?」
などなど。

だから、より一層語りにくい状況へと追いやられる。

冒頭に書いた
・「かわいそうな子どもたち」という声
・「不登校は、親が変わればすぐに直る!」という記事
などを目にするたびに、
本当はそんなことない!って私は信じているはずなのに、何度も何度も耳にするたび、目にするたびに、実は母親である私が悪いのではないか?と段々と思えてくる瞬間がある

私たちは知らず知らずのうちに、この社会でウヨウヨしているオバケの声に、ものすごく影響を受けてしまう

本当に怖いなぁと思う。
本来の私が信じていることが、いつの間にか社会でウヨウヨただようオバケの声に侵食されていく感覚。

でも、気づけると全然違うと思うし、希望が見えてきて、自分らしい、その親子らしい選択をしていけると思う。

オバケの声に気づくためにできること

私自身、ザラッとした気持ちがまったく無くなるには、まだもう少し時間がかかるかもしれないけど、この社会でウヨウヨしているオバケの声に気づけると、少し距離をおくことができる気がする。

・私のザラッとした気持ち
・責められているように感じている私の気持ち
・社会でウヨウヨしているオバケの声
・それらを生み出す日本の社会構造

これらを目の前に見えるように並べてみて、それぞれの声に耳を傾けて、フムフムと探究してみると、また違った新しい景色が見えてくるはず。

とはいえ、これを一人でやるのは大変だし、私一人や不登校の子どもを持つ母親だけがやることでもない。

社会で起きていることなのだから、誰もが当事者。
だから、社会に関わる一人ひとりが探究していけるといいなと思う。

それに、何か壮大なことをやるだけじゃなくていいと思う。

目の前にいる人の奥にあることに耳を傾けようとすること。
社会でウヨウヨとただようオバケの声に、ほんとに?って疑ってみること。
そんなことから始めることも大切だと思う。

たまたま不登校ということをテーマでこの記事では語ったけど、あらゆるテーマで探究していけると、社会はもっと優しくなるはずって信じている。

そのための方法・あり方として、ワールドワークはこの新しい景色を見ていける手応えがあって、とても可能性を感じて、希望だと思っている。

今年のワールドワークLABO合宿は10月。

こういう社会に起きているテーマを探究することに関心のある人、社会の変容を願っている人、どんな人にも開かれている場。

ぜひご一緒しましょう。


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