『プリンシプル』があって、『ルール』ができる。
安西さんの新しい記事、たいへん興味深く拝読しました。
きっかけは、日経新聞のコメンテーター・中山淳史さんのコチラの記事でしたね。
誤解の無いように申し上げておきますと、じつはわたしは中山さんの記事の長年の大ファンです。日経新聞の切り抜きも、中山さんのものがとても多いです。(15年も自動車業界でバイヤーをやっておりましたので、特に! 笑)
さて、今回の記事を読んで率直に感じたことは……
ということです。
これは白洲次郎さんが1969年に発表された、あるエッセイの言葉です。
ここなんですよね……。
『プリンシプルのない日本』と題したこの記事では、
の大切さを説かれると同時に、
と断じていらっしゃるのです。
そう言ったのは、 ウィーンの建築雑誌『バウ(Bau)』の編集長ハンス・ホラインさんでしたね。これが安西さんが仰るところの、
という感覚に近いと感じました。
たとえば「『最高の家』を作ろう!」という掛け声をかける場合、いつ、どこに、どんな人が住むのかを考えて、それに最適な<設計図>を引きます。それをすっ飛ばして<最高の建て方>なんてルールを決めても意味はないでしょう。
<世界観>というか、時空を超えた<宇宙視点>をもつリーダーが必要なのです。
例えば、GAFAM や Tesla がやっていることは、どれも<新・天地創造>です。ところが日本では、かれらが『創世記』をカタチを変えて再現しているのだという報道が、かなり少ないと感じます。
日本に、マイクロソフトの Windows の画面が『キリスト教の祭壇』に見えている人が、どのくらいいるのでしょうか。
フェイスブックがなぜ、仮想通貨に当初『Libra(リーブラ)』という名前をつけようとしたのか、なぜ会社名を『Meta』に、そして仮想現実空間に『Metaverse』という名前をつけるのか。なぜ『Horizon Worlds』なのか。
アマゾンがなぜ、『Blue Origin』という名前をつけるのか。『Day 1』とは何か。
これらは全て、かつてディズニーが『Fantasia』で魅せてくれた<世界観>とよく似ています。
西洋では、わかる人にはわかる。それが、日本的な文脈ではわからない。
安西さんのこの言葉も、じつにローマ的ですね。
近代国家はすべて古代ローマの「法による支配」を礎にしています。古代ローマの叡智とはつまり、古代ギリシャ的な「行き過ぎた合理主義」は長続きしないということだったわけですから、
ということと、
ということは、前後関係を逆にしてはいけないんですよね。
わたし自身、欧米の方たちと何年も働く中で、彼らのブレない軸の確かさにいつも驚かされてきたものです。
故・緒方貞子さんは、
とおっしゃっていたわけですが、これと同じ感覚です。
大切なのは、<思考の順序>なのです。
中山さんは、「ルールをつくる力、物語を発信する力がカギ」と書かれていますが、要は<なんのため>を語ることです。何が一番大切なのか。それが<プリンシプル>です。そのために<ルール>をつくる。そういう順番です。
そう、世界に売り込むべきは、<ルール>ではありません。
誰もが共感できる<世界観>なのではないでしょうか。
ここでわたしは、欧州のEV政策が正しいなんて言いたいわけではありません。考えるべきは「なぜヨーロッパはEVシフトを決断せざるを得なかったのか」です。
ヨーロッパ人は、強硬な環境対策をやろうとした。フォルクスワーゲンは、ディーゼル・エンジンでそれを乗り切ろうとした。そして失敗した。「まさかあのフォルクスワーゲンが!」あの時、誰もがそう思ったはずです。
これが、ひとつの大きな契機になったのではないでしょうか。
責任は企業だけにあるのではない。行き過ぎた合理主義が、不正に走らせたのではないか。そう反省したリーダーが西欧にいたとしても、わたしは驚きません。かつて共に働いた欧州人たちは、部下の失敗を部下の責に帰することはしなかった。彼らはいつも、「部下の失敗は、上司の失敗。したがってわたしの判断ミスである」と語っていた。そして粛々と対策を打ち、事後処理をしていたからです。
これは、古代ローマの遺産だと感じました。
もうひとつ、忘れてはいけないことがあります。
日系メーカーは、いろんなことを、日本人だけでやりすぎたのです。
人間として、なにに<重き>を置くのか。
西洋のリーダーたち(政界でも財界でも)が地球規模のルールづくりを考えるとき、ただ単に「日本の牙城を崩してやろう」だなんて、そんなちっぽけな了見じゃあ動いていないと思います。
日本として、彼らよりいい提案ができるのならば、そうすればいい。
そのために<物語>をつくる。
<ルール>ではなく、より良い未来の<価値観>をしめせば良いだけのことです。
そのためには<日の丸>根性じゃあダメです。日本人 vs. 世界じゃないんです。
そこは<コスモポリタン>でなくては。
世界中の人たちに共感され、巻き込めるストーリーづくりが必要なのです。
パソコンも、スマートフォンも、日米半導体もそうでしたが──『アキレスと亀』のパラドックスとは、結局そういう話だったのではないかと思うのです。<自由意志>をもった亀が、明確なゴールの取り決めもなく、ハンディをもってまず先を歩む。アキレスに悟られないよう、少しずつ座標軸をズラす。相手が<真の狙い>を正確に見抜かない限り、亀はかならず優位に立てる。アキレスが気づく頃には、時すでに遅し、というわけです。
1880年に<フェニキア人>について書かれたこの記述に思わずハッとしたのは、わたしだけなのでしょうか。
さて、わたしが自動車業界を離れるかどうか悩んでいる時、何度もなんども読み返した本があります。
これを読んで、何度も泣きました。でも、これがあるから決断できた。
日本の、たいせつな先人の知恵です。
変わるべきは、日本人の<世界観>なのです。
過去に起きたことは変えられない。でも、意味は変えられる。
そう信じています。
なんてお恥ずかしながら、大したこと言える立場でもないのですが……
日々是精進、無知の知。
これからもわたしなりに、今できることから歩みを進めたいと思います。
◆参考図書
◆最終更新
2022年12月13日(火) 3:25 PM
※記事は、ときどき推敲します。一期一会をお楽しみいただければ幸いです。