「家族だから」が奇妙な呪文に聞こえる。ギリシャ人パートナーとの「家族」に対する価値観の違い。
私は日本人で、生まれも育ちも日本。
今のパートナーはギリシャ人で、生まれも育ちもギリシャ。
私も彼も同じ田舎育ち(私は四国出身)だが、家族構成と環境があからさまに違うのだ。
彼の家族は、絵に描いたような典型的な「伝統的なギリシャ人」。
自立する前は、お父さん、お母さん、弟、母方のおばあちゃんと暮らしていた。
車で行ける範囲内に近い親戚が住んでいて、関係も近い。
お父さんやお母さんのいとこも含めると、一体どれほどの人数になるのか想像がつかないほどだ。
普段からしょっちゅう色んな親戚の人が話題にのぼるので、全員覚えるなんて不可能なレベル。
一方私はというと、生まれた時は父、母、父方の祖父母、父の姉(叔母)、ひいおじいちゃんという家族構成だった。
11歳の時に父が他界してから関係が悪化し、親戚との争いもあり、母は思い切って建てた家に私と妹を連れて出てきた。
母方の祖母が他界した後、今度は母方の家族と関係が悪化し(フラットな目線で見ても、決して母が悪ではない)、事実上縁が切れているような状態。
祖父の一言で関係の終焉を悟り、彼のお葬式には初孫である私だけが参列しなかった。
よって、私が今心から「家族」と呼べる人は、世界中で母と妹のたった2人だけだ。
こんな180°真逆の家族環境で生まれ育った私たちが一緒に生活していると、お互いの当たり前が当たり前じゃないという、価値観がズレにズレまくっている。
これだけの環境の差があれば、日本人同士でもなかなかわかり合えない部分もあると思うが、これに加えてギリシャと日本ほど地球の裏側で育った同士。
これで
「私たちってほんとうに相性がイイネ!」
となる確率の方が遥かに低いのは当たり前だろう。
ちょっぴり複雑な家庭で育った私にとって、”家族”(ここでは母と妹以外をさす)は手離しで甘えられる対象ではなかった。
なんだか無意識に距離をとっていたし、家族のことを「全身全霊で安心感を感じる場所」と思ったことは、おそらく生まれてこの方一度もない。
特に父方の家族からは、愛情が希薄でドライなことを子どもながらに感じ取っていたので、「おじいちゃんおばあちゃんに甘える」を知らずに育った。
これでもか!という程の愛情深い母が私の母で本当に良かったと、大人になって心の底から感謝している。
この母でなければ、私はきっと「愛された記憶」とは一生無縁だっただろう。
仲が良い私たち3人だが、私は家族とベタベタするタイプではない。
家族であろうと、必要以上になんでもかんでも干渉されたくないし、一言で言うなら「放っておいてほしい」のだ。
過保護な母のもとで育ったので余計にその想いが強いのかもしれないが、妹は昔から母になんでもかんでも報告するしベッタリなので、これは性格が大半を占めていると思う。
私は聞かれたら普通に答えるスタンスで、自分からなんでも報告するタイプでないことだけは確かだ。
なんてことないようなLINEもくるし週1くらいで電話するしとても仲は良いが、ちょうどいい距離を保っている。
方やパートナーの家族は、「団結力」がものすごい。
付き合って一番驚いたのは、ほぼ毎日家族と連絡を取ることだ。
ほぼ毎日ビデオコールでお父さんかお母さんと話しているし、弟に至っては毎日だ。
付き合った当初、「一体何をそんなに話すことがあるんだろう」と摩訶不思議に思ったものだ。
しかも、失礼だが全然会話が盛り上がっていないので尚更奇妙でしかなかった。
彼によると、
「別に何もなくても、お互い元気かどうか確認するんだよ。
いつまで長生きできるかわからないじゃない、あとでいっぱい話しておけばよかったと後悔したくないし。」
だそうだ。
この考え方はとても素晴らしいと思う。
人はいつどうなるかもわからないのだから、そういう気持ちで心を通わせる家族がいることは本当に素晴らしいし、彼なりに実行しているのだ。
そういう密なコミュニケーションに慣れている義母は私たちが付き合った当時、毎日のようにビデオコールを私にしてきた。
冗談抜きで、毎日。
しかも、彼が仕事に行っている間にかけてくる。
どうやったって逃げられない。
挨拶くらいはギリシャ語でどうにかなるが、問題は彼女がスーパーマシンガンだということだ。
何を言っているのかさっぱりわからないのに、発言が止まらない。
私はそのうち「景色を見せて話題を変える」という技を編み出し、毎回切るタイミングを待ちわびていた。
彼女は未だに、英語も日本語も話さずギリシャ語オンリーのマシンガンだ。
↑彼女については別記事あり。
距離を縮めようとしてくれているその気持ちはとても嬉しかったが、残念ながら私はあなたの理想の性格ではない。
ギリシャ人はオープンであっけらかんとしていて、とにかくなんでもシェアする人が多い。
家族の距離もかなり近いので、そういう風にしたいという想いがひしひしと伝わってくるのだ。
私も日本人としては相当オープンで社交的な方だと思うが、本物のギリシャ人の”家族としてのそれ”とはだいぶ種類が違うのである。
それが極度のプレッシャーに感じ、本当に関わりたくない時期もあった(義母ネタには本当に事欠かない)。
彼には彼の、私には私のバックグラウンドがある。
私が彼らに対して違和感を感じているのはおそらく、「家族だから」という理由ですべてが動いている気がすること。
彼も義弟も、家族を本当に大切にする。
親戚に合わない人がいても「家族だから」で放っておけないようだ。
もはや呪文のように彼ら家族から聞いた「家族だから」。
私にとってはとても奇妙で、洗脳に近いコントロールのように思えて仕方がないのだ。
もし仮に私が「家族」でなければ、この人たちの扱いは変わるのか??
私の人生の中で、血縁の家族に助けられた記憶がほぼない。
私たちが困っている時こそ彼らは自分守りに必死で、薄情だった。
なんなら、血縁の家族を頼りにできたことがない。
むしろ私たちは、血縁関係がまったくない人たちからのサポートがあってここまでなんとかやってこられた。
ありがたいことに、「困ったな」と思う時にこそ、物心両面で助けてくれる心優しくあたたかい人たちに恵まれた。
血縁だろうがここぞという時に裏切ったりするし、赤の他人様がいざという時にスーパーマンだし。
人生の大半そんな体験をしてきた私は、関係がどうであれ「その人」をしっかり見て付き合う。
よって、「家族だから」という理由が皆無で、要は個々の人間性だと本気で思っている。
家族だろうがそうじゃなかろうが、困った時に手を差し伸べてくれた恩は忘れない。
私にとっては心と心が通い合う関係こそが本物で、肩書きや関係性など一切関係ない。
彼らを見てよく感じるのは、「家族だから」といって何でもしていいわけじゃないし、むしろそれを理由で済ませてしまうことが甘えだと思ったりする。
逆にその理由で何かとまかり通ることの方が、私にとっては恐怖だ。
家族と言っても個々の性格もあれば相性もある。
どんなときも「一人の人間として」反応するのが当たり前だし、それを理由に距離を詰められるのが苦痛だったりする。
人はそれぞれ、ちょうどいいパーソナルスペースがあるのだから。
私も家族は仲良しがいいし、それに超したことはないと思う派だ。
しかし、ヨーロッパの家族観と私たち日本人の家族観は、どうやったって相容れないところがある。
どうやら私は、あの年中運動会とか体育祭のような「一致団結感!」を感じて苦手意識が消えないんだろうと思うのだ。
ま、当初に比べてマシになったし、「これ以上はちょっと」ということは華麗にスルーできる術も身につけたと思う。
ただ、パートナーとの関係を考える上でどうしても無視できないのはこの家族観の違いだ、ということを改めて思い文章にした。
とりとめのない文章になってしまったが、どうしても埋まらない溝が存在している。