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トルコから来た幼馴染み。心のつながりは、国も時間も超える。

幼い頃から田舎で生まれ育った私は、当時外国人を見るのは小学校のALTの先生くらいだった。


月に数回たった1コマの授業程度だったので、外国人とは接したことがないに等しかった。



そんな私は、小学校2〜3年生の頃同じクラスに転校してきたMという女の子と仲良くなった。


Mは、お父さんがトルコ人でお母さんが日本人のハーフ。

住んでいた家が真隣(お母さんの実家で、おばあちゃんがアパートを経営していた)だったのだ。


しかもMのお母さんの妹さん(叔母さん)が、私の父と同級生。



Mはトルコのイズミル出身(エーゲ海沿いの街)。


生まれも育ちもトルコだが、お母さんの希望で日本の教育も受けさせたいと、MとMのお兄ちゃんの2人が短期間の間だけ私と同じ小学校に通うことになったのだった。



Mは、いつも素敵なピアスをつけていた。

日本の小学生でピアスホールが開いている子はおらず、私はMと話す度にピアスに見とれていた。



小学校のみんなははじめ、ハーフのMのことが珍しく注目の的だった。

ハーフと言われなければ完全に外国人だと思う彫りの深いルックスで、小学生にして既に美人さんだった。



トルコ育ちのMは、当たり前だがほとんど日本語を話せない。

読み書きに苦戦していたので授業にはなかなかついていけず、しかし彼女の努力によって日々上達していくので本当にすごいと思った。


だって、言葉の壁がある上に文化のまったく異なるクラスメイトと毎日過ごすわけだもの。


内気な私がMなら、友だちを作って話すだけでも死活問題だ。


その言葉の壁と文化の違いにより、Mはなかなか馴染めずにいた。



日本人で「私はこうだ」と思いっきり主張する子はなかなかいない。

みんな足並みを揃えて同じように、協調性を重んじる日本の文化。



そこにMがぽーんと入ると、みんなからは「Mちゃんはわがままだ」という印象になるのだ。



私は、Mのことを全くワガママだと思わなかった。


寧ろ気が合い、私はクラスで一番仲がよかった。



言葉の壁なんかもまったく気にならなかった。



頑張って手紙を書いて私にくれたり、あまり話せないながらもゆっくり話してくれるので理解は難しくなかった。



毎日Mの宿題に付き合い、日本語を教えながら楽しく過ごした。



「言葉」よりも、「心」の方が大事だと、この頃から私は気付いていたんだと思う。


Mの目を見て話し心が通じていれば、言葉がわからないなんて何も問題じゃない。


逆に、当時相当な人見知りだった私は、”言葉に頼らないコミュニケーション”だったからこそ、私の方も心を開いていけたのだと思う。



それに、Mが話してくれる海外の話がとっても面白くて楽しくて、色んなことを教えてもらった。


トルコの大きな家には庭にプールがあっていつでも泳げること。

休みの日は、エーゲ海に泳ぎに行くこと。

お父さんがとても優しい人だということなど。


私にとってはとても想像できない未知の世界の話で、Mの話を聞く度にワクワクした。



図書室の地図でトルコの場所を調べ、日本からこんなに離れているんだ!!と本当に驚いた。


こんな遠くから来てくれたMと仲良くなれて本当に嬉しかった。



家が隣同士だったので、放課後も休日も私たちはお互いの家を行き来してとにかく一緒に遊んだ。


土曜日のお昼は、いつもMのおばあちゃんが作ってくれる手作りのうどんをごちそうになった。


「なっちゃん、Mと仲良くしてくれて本当にありがとうね」


と、お上品なおばあちゃんはいつも私に言ってくれた。



家では、Mとお兄ちゃんの激しいケンカをしょっちゅう見て驚いた。


日本人のケンカとは迫力が違う。



相当激しい闘いで、取っ組み合いながらお互いひたすらトルコ語で文句を言い合うので、まるで映画の1シーンを見ているような気分だった。

その内お母さんも乱入して3人の闘いになり、お母さんの強い一言でケンカが終焉していた。


そういう文化の違いも面白いなと思っていたし、Mが来てから私の日常に新しい世界が広がっていたのだった。



しばらくしてMはトルコに帰ることになり、私たちは別れを惜しんだ。


毎日のように遊んでいたMとお別れするのは本当に寂しかったが、時が来たのだ。


離れた後、何度か手紙のやり取りをするようになった。


海外の文通、そう、ペンパルってやつだ。


遠く離れたトルコにエアメールを送るのはとても緊張したが、私が書いた手紙が海を超えてMの元に届くって凄いなと感動したものだ。



しかしそれも長くは続かず、連絡が途絶える。



それから長い年月が経った。


大人になってFacebookを使い始めた頃、なんと突然Mのお兄ちゃんから友だち申請が届いたのだった。

このお兄ちゃんは私の妹としょっちゅう遊んでくれていて、もちろん私もいつもMの家で話していた。



彼は大人になってから、日本に住んでいた。



うわー懐かしいなと思っていたらお兄ちゃんは、

「今度、Mと僕でおばあちゃんに会いに行くよ!なっちゃんにも会いたいんだけど会える?」


とメッセージをくれた。



なんと!!!

もちろん私も会いたい!!!



私たちは小学校の時以来、なんと約15年ぶりに再会することが出来たのだ。


Mたちのおばあちゃん、お兄ちゃん、M、私、妹、母みんなで再会。



いつも遊びに行っていたお家にお邪魔することに。



幼かった私たちが、お互い20代になって、ハグをして再会を喜んだ。


あの時の感動は忘れられない。



もともと美人だったMは更に美しくなっていて、お兄ちゃんも彫りの深いイケメンだった。


Mは普段日本語を使う機会がないのではじめ忘れていたが、話している内に思い出してきてさすがだと思った。


みんなで当時の思い出話に花を咲かせ、本当に素敵なひとときだった。



MともSNSを交換し、その後からたまにやり取りを続けている。


Mが結婚した時に結婚式の写真を送ってくれたが、どこのモデルさんかと思うほど美しい花嫁さんだった。




時代が変わり、ビデオコールでM、旦那さん、息子くんとも話した。


ワーホリに行った後で英語でコミュニケーションを取れるようになり(彼女は英語も話す)、ああここに繋げてくれるようになっていたんだと、改めてギフトに感謝した。


ある年にはお互いの誕生日に国際便でプレゼントを贈りあったりもした。


「幼馴染みと、時と国を超えてつながる」って本当に貴重なご縁だ。




今現在、私はギリシャ人のパートナーと一緒にいる。


Mが生まれ育ったイズミルは、ギリシャからエーゲ海を超えてすぐの街だ。


パートナーにMのことを話すと、「イズミルって、昔はギリシャだった場所だよ」と教えてくれた。


イズミル(Izmir)は昔、ギリシャの土地でした。イズミルは古代ギリシャ時代に「スミルナ」という名前で知られており、古代のギリシャ都市国家の一つでした。スミルナは紀元前3000年ごろから存在しており、古代ギリシャとローマ時代に重要な港町として栄えました。

しかし、イズミルの歴史は複雑で、長い間、様々な文明に支配されてきました。最も重要な転換点は、1922年にトルコ独立戦争の一環として、ギリシャ軍がイズミルを占領した後、トルコ共和国が成立し、ギリシャ人とトルコ人の大規模な交換が行われたことです。この交換により、イズミルのギリシャ人コミュニティはトルコ内陸部やギリシャに移住し、イズミルはトルコの一部となりました。

そのため、イズミルはもともとギリシャの歴史的な地名でしたが、現在はトルコの都市として知られています。

〈chatGPTより〉



地球ってこんなに広いはずなのに、幼馴染とパートナーの故郷がこんなに近いなんて本当に不思議。


私の前世はエーゲ海付近で暮らしていたのかも知れない。


ギリシャに初めて行った時、初めてな感じがしなかったんだよなぁ。



ギリシャとトルコは政治的歴史的に仲が悪く、例えて言うなら日本と韓国にちょっぴり似ているかもしれない。


実際、ギリシャはトルコから国を守るために兵役がある。


歴史を知ることは大切なことだが、私が培ってきた心と心の繋がりには一切関係がない。



Mとパートナーも、ビデオコールで話した。


日本よりも、ギリシャに近いトルコに幼馴染がいるってとても不思議な感覚だったが、お互いを紹介できて本当に幸せだった。


幼い頃の私を知っている幼馴染が義実家の近くにいること。



意外にトルコを訪れたことがないので、いつか絶対にMに会いに行くつもりだ。

人のご縁って、本当に奇跡だなと実感しながらこれを記した。

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Natsumi🇬🇧
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